青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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勇気ある発言者が確実に増えつつある。
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    昨年は「陰謀論」として今まで半信半疑とされてきた権力による「陰謀の実体」が事実として白日のもとに晒された年と言って良く、それに伴い「陰謀論」という言葉自体も最早使うのも気後れするような「死語」となりつつある。何故ならそれらは「論争する余地や可能性」などではなく、認定された「事実」とされたからだ。

    しかもこれらの「事実認定」は、第三者によって究明された結果と言うより、むしろ「陰謀の当事者たち」自らがあらゆる場所のあらゆる機会に自分たちで勝手に曝け出した結果と言え、それは現在も続いている。有り得ないような話だが「もはや隠す必要はない」という判断なのか、それとも「隠しおおせなくなった」ということなのか、そうでなければ単に「イカれてしまった」としか思えない。

    何れにせよここに来て、過去何十年、いや何百年かけて営々と築き上げてきた「虚構の世界(=キレイ事)」は当事者たちの努力?によって呆気無く崩壊し、粉塵と化してしまった。(特にここ5年余りの変化は著しい。)

     

    これらは自ずと社会と人々の内部に「価値観の逆転現象」をもたらすことになる。解りやすく言えば「良いことが悪いことになり、良い人が悪い人になる」ということだ。そうなれば当然、今まで良いと信じて進んで来た人たちも(それが悪いとなれば)方向転換を余儀なくされる。

    だがその一方では、それでも尚(自己執着の余り)過去の幻影にしがみつき、価値観の逆転を認めようとせず、方向転換出来ずに終わる人たちもそれなりの数に達すると思われる。

    そうした中、社会に於いて今後しばらくは方向転換をする者としない者が交錯する状況が続くだろう。だが重要なのは「雌雄は既に決していて価値観の逆転が既に起きている」という事だ。

    社会に対する「勇気ある発言者が確実に増えつつある」という事が何よりの証拠で、その背景に「虚構の崩壊に伴う価値観の逆転」があるのは言うまでもない。

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:38 | comments(0) | - |
    「説得力=包容力(寛容さ)」のことです。
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      「説得」とは自説に対して他人が「受け入れる気持ち」になってくれることであって、健全な社会、確かな人間関係を構築していく上で大変重要な意味を持つ局面と考えられます。これはもちろん、威圧的な態度で大きな声を上げて強い口調で主張を繰り返せば良いというものでは有りません。(そんなことをすれば必ず先方の内心の反発を招く事になります。)

      また「説得」は商取引の様に「相応の(物理的な)対価を払って成立」するような場面にはおそらく無縁のものでしょう。(その場合は「取引に見合う対価」そのものが説得力と言えます。)

       

      「説得」とは元々「利害損得に対する認識」の異なる者同士の間に於いて「認識そのものの距離を縮める」作業と言って良いと思います。人と人との関係性は最終的には「理解(=認識)の共有」が望ましいのですが、互いの置かれた立場や環境の違い、更にはそれぞれに異なる文化的背景を持つことなどから、中々容易ではないはずです。しかしその解決に「力関係」を持ち込むことは全く正しく有りません。何故なら、そうした「論理的に未解決の問題」は必ず双方に強い不信感や不満感をもたらすものだからです。

       

      繰り返しますが「説得とは理解(=認識)の共有による論理的解決のための努力」なのですから、そのように理解出来ると何をどうすれば良いのか、何が必要なのかは自ずと見えてきます。

      利害損得の異なる相手と認識を共有したいのであれば、ひたすら「寛容」であるべきです。寛容とは広い心を以って相手を受け入れることですから、その時点で当然相手方の「利害損得」も受け入れることになります。

      つまり「説得」の基本は、こちらの主張を差し控えて相手方の「利害損得」をいち早く受け入れることに有ります。

       

      そこで「ではこちら側の主張はどうなってしまうのか」という疑問が生ずるのも、もっともだと思いますが、そもそも「利害損得」の問題は多くの場合、主張すべき主旨(=理念)そのものではなく、謂わば主題に到達する手前の障害物のような意味合いのものです。(例えば「戦争は反対だが軍需産業に従事している人々の生活はどうするのか」のような話です。)

      そこでどれだけ相手の諸事情に譲歩したとしても、それは「相手になるべく窮屈な思いをさせない」ための配慮であって、些(いささ)かもこちらの「理念」を曲げたことにはなりません。

       

      では反対に「寛容さ」を示そうとする事で、自分側が逆に「窮屈な思い」を強いられるのかと懸念を持たれる事も有るでしょうが、実はそれも正しく有りません。何故なら相手方に対してこちらがどれだけ「譲歩」出来るかという数値に絶対的な基準など無く、それは個々の「包容力(キャパシティ)」の問題だからです。その意味ではキャパシティの大きい人ほどあらゆる局面に於いて「余裕で譲歩」出来ることになり、それはつまり「説得」のために(譲歩に拠る)相応の損失を被ったとしても(人に依っては)「痛くも痒くもない」ことさえ有り得ることを意味します。

       

      豊かな包容力や人としての寛容さは当然ながら「一朝一夕」に身に付けられるものでは有りませんが、一般的には人間関係に於ける困難な状況や課題を真っ当に克服してきた数だけ、自然に身に付くものと考えて良いでしょう。そうした人としての進歩、向上の第一歩はまず、目の前の人間関係に対して「自分のリミットぎりぎりまで全力を尽くす」ことによってのみ踏み出す事が可能となるでしょう。(キャパシティが小さい内は余裕が持てないのも当然です。)

       

      「説得」とは人間関係全般のひとつの局面に過ぎません。そもそも人間関係の基本が「相手に先んじて相手を受け入れること」なのですから「説得力」も当然その延長線上に有るものです。それは特別な技術や業の話ではなく、「まず相手を受け入れるから相手にも受け入れられる」という物の道理に従って理解されるべきものです。

      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:15 | comments(0) | - |
      「陰謀論というレッテル貼り」自体が陰謀だった?
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        「カレイドスコープ」の以下の記事の中に「陰謀論(conspiracy theory)」という言葉自体が1967年にCIA(アメリカ中央情報局)によって、ケネディ大統領暗殺事件に対する真相究明の動きを封じるために考案された事が知られているという旨の記述が有ります。

        記事はこちら→ http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-5376.html

         

        また「世界の裏側ニュース」の2013年の記事には、すでにそれと同様の更に詳細な記述が見受けられますので「陰謀論=CIAの考案、意図的な使用」はほぼ事実と見て良いでしょう。

        記事はこちら→ https://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11626040630.html

         

        つまり「陰謀論、陰謀論者」というレッテルを為政者や時の権力者に不都合な情報や情報提供者に貼る事で、他の本当に荒唐無稽で如何わしく、価値の疑わしい情報と同等に扱い、その信憑性を著しく貶めるという極めて悪魔的な手法がここ50年余り用いられて来た訳であって、それが過去から現在に至る(権力側による反社会的な)「フェイクニュース(インチキ情報)」を側面から支え続けて来たことは言うまでも有りません。

         

        しかしそうした「陰謀呼ばわりするという陰謀」が白日の下に晒された今となっては、もはや惑わされる要素は何も有りません。(欧米では既に半数以上の人々が真実に気づき始めているとのことです。)ただマインドコントロールの結果「寄らば大樹の陰」的生き方に慣れ親しんだ(取り分け日本人のような)人々には、社会的に大きな変革を望むには今度は「自分自身の内面のヘタレ根性」が大きな障害となるでしょう。(自己防衛の意識の高い欧米の人々には余りそうした障害はなさそうです。)

         

        しかしちょっと考えれば判りそうなものです。「生みの苦しみを味わうぐらいなら生まない方が良い」という考え方自体が、完全な「自滅思考」であることぐらいは。また「誰かがやってくれるだろう」というズルい考えも今後は通用しません。何故なら益々世の中がピュアに近づいて行くであろうからです。

        これからは「誰が取り残されるのか」という結果が出る時代です。

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:28 | comments(0) | - |
        自らの行動に責任を負う時代
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          今日のタイトルだが、別に時代に関係なく(大人であれば)人間が自分の行動に「責任を負う」のは当然だ。ただそこで敢えて「時代云々」と言うのは、取り分け「対峙の時代」にあっては(それこそ執拗なまでに)その事を自分自身に言い聞かせて行かなければ容易に圧力に流されたり屈したりと、最終的に「身が持たなくなる」だろう事を懸念するからだ。そこではある意味「他人は他人、自分は自分」というクールさも必要となる。何故なら「他の人々は私自身の負っている責任を果たすことが(論理的に)出来ない」からだ。

          それは別段「他人の誠意や人間的価値を疑って掛かる」からではなく、人間は「置かれた立場ごとに見えるもの、感じるものが違う」からであって、その意味で(責任の在り方に関して)「他人と見解が異なる」のは、むしろ当然と思われる。(参考にするのは大いに結構だが、最終的に結論を出し行動するのは自分だ。)

           

          例えば昨今の「成人式で晴れ着が届かなかった事件」の後日談として、被害に遭った方々の一生に一度の思い出作りを無償でサポートしたい、という所謂「美談」がしきりと囁かれている。確かに被害者の方々の落胆と動揺は計り知れないものがあるだろう。

          しかし私の注目したいのは実はそこではなく、成人式のもともとの「出席率」の部分であって、それを示す目安となるような数字は(少なくともニュースでは)一切挙げられていない。

          ネットで探ってみるとこれがまたマチマチで年代や地域差も大きく、統計としてのはっきりした数字に行き当たらないが、近年ではどうやら50〜70%が一般的らしく、一部には全国平均56%という記述もある。何れにしても80〜90%ということではないらしい。(但し規模の小さい自治体では地域圧力が高く、実質欠席の選択肢が持ち辛いようだ。)

           

          この全国で40%前後の成人式不参加の理由は何だろうと考える時に、やはり女性の場合「高額な振り袖」という定番がネックとなるのは否定できないと思う。(もちろん仕事や受験、人付き合いなど理由は他にもあるが。)実際出席者は時代や地域に依らず女性の方が多く、晴れの場で競い合う意気込みが感じられるが、その一方で始めから「経済的事情」等でネガティブにならざるを得ない人がいたとしても不思議ではない。

          これは奇しくも小学校で度々問題視されている「二分の一成人式」に対する指摘と同じ構図であり、成人式なら欠席すれば済むことだが、小学校では授業の一環として「経済格差」を見せつけられることにもなり、事態は更に深刻と言える。(場合によっては欠席させても良いのではないか。)

           

          とまあ、こうした話もそれを聞く人の立場や物の考え方次第で、当然賛否が分かれるのも承知の上で、敢えてこちらの受け止め方を押し付けようとも思わないし、異なる考えに対して批判を向けようとも思わない。

          但し「自らの責任の及ぶ範囲」に関しては、常に信念に基づいて「しっかりと責任を果たさせて頂きたい」と願うばかりだ。何故なら、今更自分が信念を曲げて損はすれども「得をすることなど何ひとつ無い」からだ。

          お金、命、そんなもの余計にいらない。だって、余ったらめんどくさいだろう。

          それはともかく、今年はしっかり「対峙」していきましょう。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:13 | comments(0) | - |
          人はなぜ「偽物(にせもの)」にだまされるのか?
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            これは非常に簡単な話で、要は「本物を知らない」からです。もっと言うなら(不幸にも)生まれてこの方「本物」にお目に掛かった試しが無く、そればかりか(言われるままに)ずっと長らく「偽物を本物と信じて生きてきた」という人が圧倒的に多いからと思われます。

             

            昨年は「フェイクニュース」という言葉が流行しましたが、これも「偽物ニュース」という意味で、「実際には無かった事を有った事にする、もしくは有った事を無かった事にする」という意味になり、そのようなものが公然と流布されているとすればそれ自体大問題ですが、更にはもし、そのような「偽情報(=捏造を含む情報の恣意的操作)」が今に限らず「昔から行われていた」とすれば、私たちの教わり識るところの「歴史(日本史、世界史)」自体の信憑性にまで当然関わって来ます。(そうした固定観念はどこかで一度リセットした方が良さそうです。何故なら「偽情報が生み出す概念」のもとでは決して幸せにならないからです。)

             

            また「偽商品や偽取引」も横行しているようですが、昔から「ウマい話には裏が在る」「タダほど高いものはない」などと言われていますが、これも「本物の(=誠実な)商品」とはどのようなものかを知らない人に限って引っ掛かります。その意味ではもはや「純粋に誠実な商品」など世の中にほとんど存在せず、電化製品なども一定の使用状況で「壊れるように出来ている」はずで、ただ商品価格との折り合いが付くかどうかという話に過ぎません。(強いて言えば偽物だらけの中で「ましな物」と「ヒドイ物」の選択をしているような状況です。)

             

            しかし最も深刻な問題で大いに危惧するべきは「本物の人間に会ったことが無い」という人が、おそらく非常に多いという現状であろうかと思います。これは多くの人々にとって真に耳の痛い話でしか無いのですが、しかし事実は事実、真実は真実としてこの際はっきりさせた方が良いでしょう。

            人間にも「本物」と「偽物」が存在するということです。その基準はもちろん「人間性」であり、良心に基づく「利他の精神」によって裏付けされた「人格」の完成度によって判別可能なものです。こうした評価のもとでは「自己中心思想の持ち主=偽物の人間」ということになりますが、もちろん基本的人権を失うという意味ではなく「在るべき人間の姿と大きく異なる」ということです。何故なら(以前にも説明した通り)自己中心思想=自滅思想そのものだからです。

             

            このことの何が深刻かと言うと、例えば自己中心思想の強い親に育てられた子どもは言い換えれば「本物の親に会ったことがない」ことになり、自己保身の気持ちの強い先生に教わった子どもたちは「本物の先生に教わった試しがない」ことになります。こうして会う人会う人がみな「偽物」であった場合、子どもたちは必然的に「偽物を本物と誤認して、それを手本とした人間形成が行われてしまう」結果となり、知らず知らずの内に「自滅の輪」の中に組み入れられてしまいます。

            12歳に達すれば運命は自己責任とは言え、そこから自力で脱する事は容易では有りません。

             

            繰り返しになりますが、人が「偽物(の人間)」と見破れないのは「本物(の人間)」と接したことが無いからです。その違いは歴然としていますので(本物を知っていれば)決して見誤ることは有りません。

            但し、ある程度「自己中心思想」が強くなった状態では、仮に「本物(の人間)」に会えたとしても「違和感」が先立って(理屈を付けて)敬遠する傾向が生じます。そうした悪循環に抗うのもこれまた容易なことでは有りませんし、極めて不幸なことだと思います。

             

            何れにせよ私たちは社会に於いて(人に依らず物に依らず)出来得る限り「本物」を増やして人の知るところとする事によって、世の中の「当たり前」を再び「逆転」させる必要が有ります。(そもそも偽物が大手を振って跋扈する時代が異常なのです。)

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:07 | comments(0) | - |
            TPPの件と同じく今回も「外圧」か?
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              以下の「日刊ゲンダイ(1月9日)」の記事は、またまた肩透かしを食らった「日本政府の孤立ぶり」を表している。これは昨年の「外圧によって粉砕された(不当な)TPP交渉」を彷彿とさせる流れと言えそうだ。

              記事はこちら→ http://www.asyura2.com/18/senkyo238/msg/263.html

               

              この中で特に客観性が有って且つ説得力の有る記述を以下に引用する。

               

              (引用始め)

               

              ■国際包囲網で日本は孤立

              「4日の産経新聞によれば、米朝が12月に北京で極秘協議を行っていた。対話路線を唱えるティラーソン国務長官が水面下で周到にコトを進めていたのです。なぜ、河野外相はティラーソンのような問題解決に向けた行動ができないのか。この期に及んで圧力強化を遠吠えしている日本は、国際社会から見れば異常ですよ。安倍外交は、米日韓同盟で朝中ロに立ち向かうという冷戦時代の反共軍事同盟の発想に凝り固まっている。しかし、12月の同じ時期にカナダ政府が日本政府に対北圧力方針の見直しを迫っていたことも判明しました。これは重要なことで、今回の南北会談は、米韓中ロにカナダも含めた国際的な対話醸成努力の成果と見ることができる。つまり、親分である米国の威光をカサに、北に対する国際包囲網を作り上げているというのは、日本だけが思い描いている虚像なのです。実際は、対話による解決のための国際的包囲網が作られつつあり、包囲されているのは、対話を拒否している日本ということになります」(ジャーナリスト・高野孟氏)

               

              (引用終わり)

               

              こうした事の一つひとつが「北朝鮮の脅威」を殊更煽り、改憲、再軍備にひた走る「安倍政権」に痛烈なダメージをもたらす事は明白だし、さんざん過去記事でも書いた通りだ。

              とにかく(国際的に)みっともないし(日本人として)恥ずかしい限りに付き、即刻やめて頂きたいと思う。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:03 | comments(0) | - |
              お金の問題
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                お金に絡む問題が人々の精神的クォリティーを著しく劣化させるという、誰でも知っている動かし難い事実が有ります。(それが犯罪的レベルにまで達すれば犯罪的行為を犯す事となります。)

                また、お金に関わる(肯定的で魅力的な)話が人々の「論理的思考力」を著しく低下させているのも、おそらく本当でしょう。(経済学が難解至極?である事だけが人々の判断を誤らせる理由ではないでしょう。)

                 

                人間が「自身に都合の良い話だけを肯定したがり、直克信じたがる」という傾向は、殊更お金に絡む話ではいっそう顕著に表れる様ですが、そのこと自体が既に「論理的破綻」をきたしています。何故そう言えるかと言うと、お金の話は文字通り「死活問題」なわけですから、本来なら慎重の上にも慎重を重ねたとしてもおかしくないはずと思えるからです。

                 

                今年は年初から株価が大幅な伸びを示し、また仮想通貨の代表格であるビットコインの暴騰振りに注目が集まっています。確かにそれが「見た目の結果」には違い有りませんが、方や今一つその「論理的根拠」が定かでは有りません。(それぞれに諸説様々有りますが、少なくとも私には理解出来ていません。)

                こんな時、人間には2つの選択肢が在ると思われます。

                ひとつは「論拠が(自分の中で)明らかになってから判断する」というもの。

                もうひとつは「(論拠は二の次にして)時節に乗り遅れないよう素早く跳び付く」というもの。

                 

                何に限らず「商品リスク」は売り手が喧伝するものではなく、買い手が「調べる」ものだと思います。

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:36 | comments(0) | - |
                こんな時代に於ける「万全の備え」とは
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                  昨年(2017年)は社会の様々な事象について事有る毎に疑義を呈し、関わりを持つ人々に向けて改善を求め、自覚を促すための発信に重点を置いて来ましたが、2018年の年が開けてからは、もはや(基本的に)「その時期は過ぎた」ものとして、そうした社会に生きる上での「備え」に関する内容に重点がシフトして行くものと思われます。

                   

                  その理由は2つ有ります。

                  ひとつは「二分化」が固定的なものと成りつつ有り、当事者に対し具体例を以って警鐘を鳴らす事の意味が薄れつつあること。

                  今ひとつは来たるべき「対峙(=不服従)の時代」に耐え得る「万全の備え」が必要且つ喫緊の課題となるため。

                   

                  そう、流れや圧力に屈することなく「おかしいものはおかしい」として「対峙する(=真正面から向き合っていく)」ためには、そのための「内面的な備え」が必要不可欠であることは言うまでも有りません。しかし今、それをしなければ自分を取り巻く社会環境が益々悪くなる一方であって、放って置いて良くなる事は決して有りません。つまり「自分自身の備えの有無」は、私たち一人ひとりが個別に取り組むべき「死活問題」なのです。

                  例えば私を含むその場の10人の内、私ひとりが「備えを怠っていた」とすれば、他の9人は良くなり私ひとりが「くたばる」ということです。(「他人にあやかろう」というズルい考えは「霊的」に認められません。)

                   

                  ところで今の時代ほど「人間性」という言葉が軽んじられ、まるで「絵空事」のように扱われている時代は嘗てなかった様に思います。取り分けビジネスの世界では殆ど「死語」と化しているのではと思えるほどです。

                  その理由はもちろん「競争社会」「格差社会」では無用を通り越して「邪魔者」以外の何ものでもないからです。

                  つまり「人間社会」で在りながらフィルターでわざわざ「人間性」を除去し、その上で構築されているのが今の主要な社会システムということです。それが証拠に「AI(人口知能)化、ロボット化、人員削減」の話に嬉々として跳びついて行くでは有りませんか。(要は人間が「嫌い」なのです。)

                   

                  しかし一方で(憲法はもとより)「法律全般」が依然として歴史的、文化的、精神的伝統に基づいているものであることは否めません。と言うことは、そこでは当然「常識、良識、人格、品格、人間性、社会性(柔軟性、協調性)」などといった所謂旧来型の「人間的素養」が尺度として用いられ、それらの有無が問題となり、平たく言えば「(社会人として)人間的素養を著しく欠いた行為=犯罪」ということだと思います。

                   

                  思えばこのところ「一流の学歴、経歴、社会的地位や立場を有した人々」による犯罪や犯罪紛いの行為が跡を絶ちません。こうした事実は社会の中枢がすでに「非人間的で反社会的風潮に毒されている」ことを示しており、逆にこれで社会が「崩壊」しない方が不思議です。

                  いえ、実はすでに崩壊しているのです。その証拠として私たちは(信じ難い事に!)裁判所や検察、或いは警察が恣意的に「法の精神」に反し「非人間的で反社会的」な動きをするのを度々目撃しています。(そこでは苦しんでいる人々の訴えが放置され命が守られていません。)

                   

                  ここで重要な認識は、現在日本に於ける55%の人々が(自覚の無いまま)「崩壊に巻き込まれる側」に立っており、危機的状況にあるという事であって、残りの45%の人々が「崩壊に巻き込まれることなく(崩壊後の)再建を目指せる立ち位置にいる」という事だと思います。ただ、それを可能にするためにはその前にどうしても「対峙」というハードルを(私たち一人ひとりが)クリアしておかなければなりません。

                  そこでは一個の人間としての「人間力」が問われる事になりますが、もちろんそれは「学歴、経歴、社会的地位や立場」の事では有りません。(それを以って人間力と考える人の多くが崩壊に巻き込まれるでしょう。)

                   

                  「人間力」とは前述した「人間的素養の豊かさ」であって、集約すれば「人間性(=利他の精神)」であり、その証しとして、もしそれを失えば「常識、良識、人格、品格、社会性」など豊かで円滑な社会生活を送るための全てを失うこととなり、精神的にやせ衰えた貧弱で見苦しい人間に成り下がってしまうでしょう。(悲しいかな、現社会はそうした非人間的で反社会的な人間像の具体例に事欠きません。)

                   

                  要は「みんなで良くなろう、みんなで良くしよう」という心こそが、これからの時代を生き抜く「万全の備え」そのものになるということです。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:10 | comments(0) | - |
                  まさかこんな時代が本当に来るなんて
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                    今日のタイトルは敢えて「こんな時代」と言い放つ事で、悲哀を込めた「残念」の意を表しています。また「本当に」という言葉の裏には「知っていたし覚悟もしていたけれど」といったある種の「無念」さが垣間見えます。(「歓迎」の意であればたぶん「このような時代」と表現します。)

                    では「こんな時代」とは一体どんな時代であって、何が「残念無念」ということなのでしょうか。

                     

                    それは今後、私たちの社会に於いてどのような展開が予想されるのかという事に関わっています。

                    例えば私たちは「結果が未知数」であるからこそ、より良い結果を求めて「努力目標」を設定し、物事に本気で打ち込む気持ちになれる訳ですが、そこで(未来でありながらも)「結果は既に決まっている」ということにでもなれば、目標を持つ意味も行なう意味さえも立ちどころに失ってしまいます。

                    結果が如何に悪いものであったとしても「努力が至らなかったから」というのと「最初からその結果しか無かった」というのでは、全く意味が違います。そして従来私たち人間にとって「結果が未知数でなかった時代」など存在した試しは無く、少なくとも「やればやっただけの成果がある」と信じてこれまで励んで来れたという事だと思います。

                     

                    ところが少し以前から社会の様相は一変しました。その理由は「霊界」主導のもとに世の中に地球規模の大きな変革が起こりつつある事に拠りますが、それは霊的価値基準による明確な「仕分け」をも含みます。

                    その事については当ブログでも以前から「手遅れにならないように」との思いで事有る毎に警鐘を鳴らし続けて来た訳ですが、永遠にその状態が続けられるはずも無く、やがてタイムアップとなるのは必定で「実際そうなってしまった」ものと考えて良いでしょう。(社会に於ける基本思想の「二分化」がそれを裏付けています。)

                     

                    「二分化」が固定化されてしまうと、それはまるで人と人との間に物理的に設けられた深い溝のようなものとなるでしょう。

                    私たちは利他の精神のもとに、目の前で困っていたり苦しんでいたりする人がいれば手を差し伸べ、抱き起こし、肩を貸して共に歩むことがいつでも可能とする中で社会と自分との関わりを考え、問い続けて来ましたが、もし「二分化」が決定的なものとなれば溝の向こうで相手がどんなにもがき苦しんでいても、それを「手をこまねいて見ている」しかなくなるという事態に陥ります。しかしそうであっても私たちに「その場を離れる」という選択肢は有りません。多分1%にも満たない可能性に賭けてその場に居続ける事となるでしょう。

                     

                    もし1%を2%に、2%を3%にしたいというのであれば、私たちに出来ることは「ひたすら自らの人間力(=人間性)をアップさせておくこと」でしか有りません。何故なら「二分化」によって生じた溝とは、物理的なものではないからです。

                    無論、それにも自ずと限界は有りますが、しかし今出来ることはそれが全てであれば「当然そうするべき」です。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:52 | comments(0) | - |
                    「影が薄くなる」とはどういうことか?
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                      世間で名の通った人々の中にも「最近ずいぶん影が薄くなってきた」と感じられる人たちが見受けられる。(そういうことは不思議とテレビ越しにも判るものだ。)しかしそうした場合の「影」とは果たして何を指しているのだろうか?

                       

                      「影」とは(幻ではない)実体の有るものに対して生ずるという意味で「存在の裏付け」と言えるだろう。つまりそれは「霊的な裏付け」に他ならないのだが、ここでの「裏付け」とは「存在意義」または「役割」という意味でしかない。何故なら人間とは霊界に籍を置く霊魂が、霊的に付与された「役割」を果たす事を目的として肉体と合体した状態を指すものだからだ。

                       

                      この「役割」には当然、自覚が必要なものもあるが、一方で無自覚の状態で果たされる場合も考えられる。(例えば「子という存在自体が親としての自覚を促す」など。)その意味に於いて「役割」を持たない人間など一人として存在しない事になる。(「人の命の尊さ」は本来それが根拠となっているが、当然教科書には書けず意味不明の説明でお茶を濁している。)

                       

                      つまり「影が薄くなる」ということは「生きる上で必要とされる絶対的な裏付けが失われつつある状態」ということになる。こうしたことはその人間の(見た目の)精神や肉体のコンディションとは関わりなく、あくまでも「(生きることに対する)霊的な意味付けの継続性」のみが関係するため、その人間が現在社会的重責を担う立場にあろうが、多忙の最中にあろうが無かろうが関係ない。その意味では誰もが必ずしもフェードアウトして行く訳では無いし、良く良く考えれば世の中は「そうでなければ困る」というような仕組みにもなっていないはずだ。

                       

                      それよりもむしろ重要な事は(本人の自覚の有無はさておき)「あの人は最近影が薄くなった」と感じた側がどのように処すべきかであろう。例えば(形はどうあれ)「実質役目を終えた人間」に対し、今更ながらあれこれ注文を出し、文句の限りを尽くし、徹底的に追い詰める・・・気にはならない。と言うより、実体が希薄となりつつ有るのだからそうする意味が無い、というのが正直なところだ。(冷たいようだがこればかりは如何共し難い。)

                       

                      だからこそ言える事だが「たとえどのような形であれ、人間はまともに取り合ってもらえる内が花」なのだ。(急に周辺が静かになったらまずは自分の身を案じた方が良いだろう。)

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:55 | comments(0) | - |
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