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「北朝鮮問題」の当事者は誰か?
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    つらつら思うに、いったい日本の国民の誰に「北朝鮮問題」の当事者を名乗ることが出来ようか。たぶん政府の人間も霞が関の役人も、ましてや一般の国民に至っては凡そ「当事者(=責任者)としての自覚」など持てる由も無い。何故なら「昨今の北朝鮮問題」の当事者は「北朝鮮当局者と北朝鮮人民(国民)」に相違ないからだ。

    にも関わらずテレビなどで報じられるままに、重要な国内の問題もそっちのけで「北朝鮮が大変だ」とばかりに朝から晩までそれに現(うつつ)を抜かしているのが既に「昨今の日本人」の特徴となっている。少なくとも日本人として日本国に対する当事者意識(=責任)を痛感している者であればそんな余裕も暇も無いはずだ。またそういう人であれば「北朝鮮問題の当事者は誰か?」という問いの答えなどとうに理解しているはずで、それは他のあらゆる国々に対する同様の問いの答えと変わらないはずだ。

     

    一方で我々日本人にとって、日本国内に於いて決定されるありとあらゆる事は、それが直接的であれ間接的であれ、自分たちの責任であることは間違いない。何故なら「主権者は国民一人ひとり」と定められているからだ。それを前提として、おかしいと思うこと、腑に落ちないことに対してきちんと「責任ある意思表示」をしているのだろうか?選挙で自ら票を投じた政治家たち(=自分たちの代表者)に対して責任ある目を向け続けているのだろうか?

    例えば「北朝鮮からミサイルが飛んでくるか来ないか」についての半分以上の話は「日本の国内問題」に属する。何故なら、当該国に対して「軍事的対決姿勢」を示すか示さないかは「日本の完全な国内問題」だからだ。そのような日本側の決定如何で相手国の態度や意思決定の在り方が変わってくるのは当然だろう。だからその意味で、日本人は当事者として「日本の国内問題で責任を示せ」と言っているのだ。

     

    まるで問題には「国際問題」と「国内問題」が有って、こと「国際問題」に関しては自分たち(=日本)のせいでは無いとでも言いたげな「無責任な論調と対応」が横行している様だが(そういった意識的な情報操作も含めて)これは勘違いも甚だしく、(外交問題も含めて)日本国としてのあらゆる意思決定の全ては、当事者としての国民の総意が反映された「国内問題」として捉えるのが正しく、もしそうであれば単に「北朝鮮が大変だ」といったような無責任で軽薄な感覚はまったく似つかわしくない。

     

    元来、日本人にとって無責任や軽薄さは相容れないはずのものだが、そろそろネジを巻き戻すべき時ではないのか。

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 17:42 | comments(0) | - |
    最近続き過ぎる「閣僚クラスの政治家」の不祥事
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      これら一連の問題は(総理大臣を筆頭に)どれも(人としての)レベルが低すぎて、そもそもそんな話を耳に入れたくもないし、それについて話したくもないというのが正直なところです。

       

      思えばどこの小学校の教育目標にも「考える力を養う」という類のものが掲げられており、それは当然「自分で考えられた分だけ自分で行える」という意味を含んでいる訳です。そうなると最近の(不祥事絡みの)政治家諸氏は、この「考える力」も無いとしか言いようが有りません。何故なら、見ている限りでは「不祥事の後の身の振り方」がまったく道理に適わず「なってない」からです。どの人も少なくとも「自分で考えて自分で行動する能力が有る」とはとても思えない対応で、それは強いて言えば「何が起こったか判らずその場に茫然と立ち尽くしている」姿に限りなく近いものです。それが証拠にほとんどの人たちが「辞任しない、辞職しない」からです。但し(曲がりなりにも)発言等に対する「謝罪、訂正、撤回」が行われているのは「自分で考える力」によるものではなく、さすがに「誰かに背中を押された」からです。つまり本来は(背中を押されなければ)揃いも揃ってそれすらも出来ない人たちということになります。(それってヒド過ぎませんか?)

       

      とにかく「考える力」が無いことが判明した限りに於いては、この際「謝罪、訂正、撤回」に留まらず、「辞任、離党、辞職」の必要な一連の行動に関しても、逐一「誰かが」というより「みんなで背中を押してあげるべき」だと思います。そうでないと、この人たちは(その場で茫然としたまま)いつまで経っても自分で態度を決することが出来ないようです。それではいつまでも晒しものとなって気の毒ですし、みんなも大いに迷惑しています。つまりそうすることがお互いのためだということです。

       

      因みにそういう不祥事絡みの「考える力の無い人」の多くで東京大学、財務省など学歴、経歴共に一流の人たちを見かけますが、「勉強の仕方を誤ると肝心の小学校レベルの考える力さえまったく育まれない」という好例とされ「要警戒」と言えるでしょう。

      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:38 | comments(0) | - |
      「人格形成」の実践について
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        よく宗教的に「悟り(覚り)」を開くとして、座禅や瞑想、断食や山中での荒行などが挙げられますが、これらは基本的に「独りの環境」が前提となっています。それらの良し悪しについては、この場では敢えて申しませんが、こと「人格形成」に至ってはそのような「単独の場」よりもむしろ、社会に於ける「人との関わり」の中で実践する方が遥かに効率的且つ合理的と考えられます。何故なら、そうした環境の下では自動的に「責任や負担」が目に見える形であらゆる行動に付与されるからです。それらは「人格形成」にとって非常に有効に活用されることになります。

         

        例えば社会生活に於ける「共同作業」や「分担作業」の場を想定して見ると、そこに参加する人々が最初に行なう事は「役割分担の振り分け」に違い有りません。(それが無ければ社会は単なる「烏合の衆」に過ぎないからです。)その際気付くことは、役割にはそれとなく「人気の高いもの、低いもの」「人が好むもの、嫌がるもの」などの評価の違いが有るということです。

        その差がどこから来るものかと言えば、一般的には「楽なもの、簡単なもの」が好まれ、反対に「キツいもの、難しいもの」が敬遠されるという図式となっているはずです。つまり普通の人が普通に考えればそうなる、ということです。

         

        実はそこに「人格形成」のツボが隠されています。それは一言で言えば「ことごとく人の嫌がることを選択せよ」となります。つまり自分のベクトル(方向性)を決して「楽で簡単」な方向に向けないということです。

        これは(あれこれ捻出され考案された)単なる「難行苦行」とは異質のものです。何故なら、それは必ず「誰かがやらなければならないこと」であり、ただそれを「率先してやっている」に過ぎないからです。

        このように「社会性」と一体となって形成されて行くべきものが、本来の「人格」であり「人間性」であるということです。これによる「人間的成長」が著しいことは言うまでも有りません。何故なら「苦はやがて楽と感じられ、困難もやがて簡単に思える」ようになるからです。

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:31 | comments(0) | - |
        苦手意識の克服とは
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          人間には元々個人的傾向として「好きなものと嫌いなもの」或いは「得意なことと苦手なこと」が有り、それぞれの傾向に対して自分自身がどう向き合うかが非常に重要となりますが、それは目的や目標の持ち方によって異なると言えるでしょう。

          特に目的が「人格の形成」であった場合、「好きなものと得意なこと」は放っておいて良いでしょう。そして貴重な時間を費やすなら「嫌いなものや苦手なこと」により注目する必要が有ると思います。

           

          ここで一つの反論があります。それはおそらく「好きなものや得意なこと」こそ伸びしろが期待できるから、そこに打ち込むべき」というものだと思います。もちろんそこにもそれなりの道理は有りますが、その考え方は基本的に信頼出来る「分業システム」の存在と稼働を前提としたものです。つまり「誰かの能力の偏りを別の誰かが補う関係性」を想定しなければ成り立ちません。

           

          そもそも「人格」というものは「偏りを容認出来ない性質」のもので、しかも他人を当てにせず「自己完結を目指す性質」のものですから、必然的に「バランスと安定」をイメージしながら努力することになります。そうなるとどうしても精神的、実務的な双方の面で「アンバランス」の原因となる「苦手意識の克服」に力が注がれることとなり、それによってバランスの良い安定感のある人格、即ち「人格の向上」が実現可能となります。

           

          但し荒業としては確かに「自分の短所を一切気に止めず長所だけをひたすら伸ばす」という方法も存在するのは事実です。しかしその場合も「一定の境地」に達した後は、やはり「短所(=苦手意識)」に戻って克服に着手することになります。

           

          しかし今の時代、このような「人格の向上」を目的としたノウハウの話をいったいどれだけの人たちが必要としているのか、甚だ疑問と言わざるを得ません。

          「人格の向上」は霊的に見れば「霊層の向上」ひいては「運命の向上」を意味し、人生に於いてこれほど重要な目的は無いのですが、それを抜きにしてどのように「無難息災」を望めば良いのか、私にはよく解りません。

           

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:57 | comments(0) | - |
          エディターに不具合?
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            本日は朝から、当ブログ用のエディターの動作に不具合があるため、現時点で記事のアップを見送っています。後に改善されればアップするかも知れません。

            | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 12:34 | comments(0) | - |
            電車に乗ると分かること
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              電車に乗るといったい何が分かるのでしょうか?ハイ、人々の精神的実態、ひいては社会の精神的実態が良く分かります。別にそういうことを見たくて知りたくて乗っている訳では有りませんが、結果的に「嫌でも見せつけられる」ことになってしまうのです。それは何故でしょうか?

               

              それは多くの人々は一歩家の外へ出ると、その間「真っ当な社会人」を演じ続けなければならない現実があるからに他なりません。謂わばその姿は「素(す)の自分ではなく、演技そのもの」と言って良いものです。

              つまり殆どの人たちのメンタルは「真っ当な社会人」と言える代物ではなく、ただ様々な理由から「それを演じる必要性」だけは認識している、ということになります。

               

              どうしてこんな事になってしまったのでしょう?それはそのような「裏表を使い分けるメンタリティ」を容認、或いは推奨する教育を施されて来た結果だと私は思っています。これは戦後日本の「自由主義経済を社会基盤とした弱肉強食的競争原理」に基づく教育の下では、むしろ当然の事と思われます。

               

              そうした社会環境にあって、例えば競争相手(=ライバル)に対して「自分を磨いてくれる良き友」と思うか、それとも「自分の存立を脅かす敵」と思うかは、まったく各人に一任されており、教育的に整合性を以ってコントロールする事は困難です。何故なら人々にとっては、そんなことよりも「競争による勝敗の結果」の方が遥かに深刻に違いないからです。(この状況下での表面的な道徳教育など、人々に余計に混乱をもたらすに違い有りません。)

               

              電車の話に戻しますが、そこは人々にとっては(基本的に)お互いが「何の社会的しがらみも感じなくて済む精神的に開放された空間」と感じられる場であるようです。その意味で多くの人たちは(おそらくは無意識でしょうが、無防備にも)「素顔をさらけ出している」ことが多いのです。そうした顔は少なくとも「職場や所属するグループ内」では有り得ない、どちらかと言えば「家の中での顔」に近いものと思われます。

               

              近年は乗り込むとすぐにスマホや読書に耽る姿を多く見かけますが、問題はその表情や風情がどの人も(良く見ると)「辛そうであったり、苦しげであったり、暗く陰鬱であったり、或いは必死に何かに没頭しようとしていたり」と、人によってニュアンスの違いは多少有っても共通して周囲に対する「無視、無関心、無頓着」という或る種の「排他性」が見て取れます。(その様子からは本来の社会性など微塵も期待出来ません。)

              しかし現実はこのように「裏表のある人々」によって、(かろうじて)社会が支えられているということです。

               

              このような社会を(心の奥底では)誰も望んでいないに違い有りません。それは「演じ続けなければならない」こと自体が道理に合わず苦しいことだからです。にも関わらず何故私たちは演じ続けなければならないのか。それは「社会システム(=経済システム)」自体が私たちに(有ろうことか)「反社会性(=自己中心主義)」を要求するという本質的な「矛盾」が原因です。

              私たちはこの「矛盾」を即刻正さなければなりません。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:07 | comments(0) | - |
              「破綻」の時代は「居直り」の時代
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                今年は「瓦解、崩壊」がキーワードですから、その結果として様々な物事が「破綻」します。その中には当然、人々の暮らし向きや立場なども含まれる事となるでしょう。

                普通は「破綻」すれば色々な意味で「追われる身となり、身の置きどころに窮する」はずですが、最近の傾向としては、それよりもむしろ「居直り、開き直り」に転じる人々が増えているようです。この傾向は以前から知られているところの「逆ギレ」という現象に通じるものが有るように思います。その特徴はどちらも「論理的思考を放棄している」ということです。

                 

                人間は追い込まれると、その最大の関心事は「自己擁護」となるようです。一方で平素、社会の一員として社会生活を営む上では「他者とのバランス」が必須とされ、そのため(曲りなりにもそれなりの)「論理的思考」が求められる事になります。しかしどうもその時点から(本音では)それを「不本意」或いは「苦手」として、バランスを取るための「論理的思考」自体をストレスと感じている人々が多くなり、その結果すぐに「逆ギレ」するということだと思います。

                つまり「逆ギレ」も「居直り、開き直り」も、それから(今朝も報じられていた)「轢き逃げ」なども全て、その人間の平素からの「本音」そのもので、言い換えれば「元々そういう人間」ということです。

                 

                取り分け、今の日本を象徴しているのは、再三にわたって「総理大臣が国会答弁で逆ギレ」と報じられ、国民がそれをこれまた「看過」していることです。これはつまり日本政府そのものが(理詰めで追い詰められると)「逆ギレ」し、「居直り、開き直り」を先陣切って体現しているということであり、更に驚く事には、国民もそれを目の当たりにして「余り違和感を感じていない」と思われる節が有ります。

                これには国民がそれを「見慣れた」とか「慣らされた」というより、むしろ「わかる、気持ちわかるよ」みたいな低レベルの「同類意識」が働いているのではとの懸念さえ覚えます。

                 

                しかし良く考えて下さい。「破綻して居直る」ということは、自己擁護に徹する余り「社会的責任を一切負わない」と宣言しているのと同じです。政府が率先してそれを行ない、国民の皆もそれに準ずるとなれば、それは直ちに「社会全体の崩壊」を意味することとなります。(その兆しは既に随所に出始めています!)

                誰も責任を負わない世界・・・それは醜悪極まりない世界です。そうなって真っ先に途方に暮れるのは自分自身、つまり私たち自身に他なりません。(たぶん生き延びることさえ困難でしょう。)

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:31 | comments(0) | - |
                「誰も信じるな」と教わる子どもたち
                0

                  これまでにも世の中では私たちに「人を信じることを躊躇(ためら)わせる」ような出来事が数多く起こって来ました。「振り込め詐欺」などはその典型とも言えますし、現職の警察官や教師などが「立場上の社会的信頼」を逆手に取って行なう悪質な犯罪も後を絶ちません。

                   

                  そのような流れの中で、子どもを守るべき「小学校の保護者会会長が容疑者」というニュースを聞かされて、世の中の人々は何と思うのでしょうか。「ああ、やっぱり人を信用しちゃいけないんだ」と改めて悟らされた、とでも言いたいのでしょうか。もちろん安易にそう結論付けるのも自由かも知れませんが、社会の人々の大勢ががその方向に流れた時に、社会がいったいどういうことになるのかだけは知っておく必要が有ると思います。

                  その理由は、結果を見て後で「こんなはずじゃなかった」などと騒がなくても済むようにです。

                   

                  私は「他人の言葉や考えをむやみに受け入れない」事と「人を疑って掛かる」事は(似ている様で)別の事だと思っています。それは「いつも人の身になって考える習慣」を持って暮らしていれば容易に理解出来ます。

                  例えば「商売をしている人」の身になって物事を考えれば、その人が目の前の客に「何とか少しでも多く買ってもらおう」と思うのは当然の事です。そしてそのためには客である私のことを「親身になって考えてくれている」と印象付けようとするのも当然の事です。そういう人の言葉は大概「私のことを心配して購入を勧めてくれている」様に聞こえますが、それもまた当然の事です。その時点でこの「商売人」の人には何の落ち度も有りませんし悪意も有りません。つまり「信用して良い」のです。

                   

                  但し、私が相手に勧められた商品を買うか買わないかは、それとはまったく別問題です。

                  どういうことかと言うと、商売人の人が商品を私に勧める理由自体があくまでも「一般論」の枠内に於いてのものであって、何故ならその人は私のプライベートな事情を話の内容に反映させ得るだけの十分な情報を持ち得ないからです。

                  しかし私の方では相手の話す「一般論」に「自分しか知らない個人的事情」を掛け合わせたものを判断材料にする訳ですから、相手や相手の話を何ら疑う必要もなく「要らない」と言うことが出来ます。

                   

                  例えば「これはお買い得ですよ!」というお勧めも「一般論としてそうだ」という話であって、それが必ずしもこちらの「個人的な事情」と合致するとは限らないのです。言い換えれば「欲をかいて騙される」とは、この「一般論」に振り回されてプライベートを軽視することで起こります。つまり「無い袖は振れない」はずなのに、袖が有るように錯覚するということです。

                   

                  ここで最初の話に戻りますが、社会のみんながお互いに「誰も信じられない」ということになれば、一人一人が孤立します。そういう人々が頼るものと言えば、いよいよ公的な「社会システム」だけになってしまいます。

                  それら既存のシステムが一人一人を完璧にサポートしてくれるのなら、それも有りかも知れませんが、それは警察に「私個人を100%護って下さい」と言っているのと同じで、現実には有り得ません。

                  つまり「誰も信じられない」先には、孤立感漂うスカスカの世界が広がっているということです。そこから逃れるにはバーチャル世界に身を委ねるしかありません。それとも全部ロボットにお任せしますか?

                   

                  何れにせよ「誰も信じるな」という教育は間違いだと思います。

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 17:26 | comments(0) | - |
                  人間を頂点とするイメージの限界
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                    よく「宗教と科学」などとして、両者を対比させたりしますが、おそらく大半の科学者は「神」を信じています。何故ならこの世のあらゆる物事を(真面目に)探究していくと、すぐに「或る壁」にぶち当たり、同時に「或る思い」が心をよぎるからです。そしてそれがこの世の偽らざる実相であり、この世の真実だということです。(逆に人間が時間を弄して頭でこねくり回す理屈に真実は有りません。)

                     

                    (科学者を含む)真面目で有能な探究者たちは率直に思います。それは「物事が自然の成り行きだけでこんなに上手く構成され、形作られるハズがない」というものです。取り分け過去に比べれば探究能力が飛躍的に向上した現代では、多くの人たちが正に「科学と神秘の境界線」が崩れ去る感覚を体験することとなるハズです。

                    これは物理学や自然科学に留まらず、(始めから人為的なものを除く)あらゆる分野の探究に共通することと言えます。(例えば、音の性質に由来する音楽や、色や形状を扱うデザインなど。)

                     

                    このように人間が直感に従おうとすれば、それは「神」を認める方向性となるに違い有りません。そして元来、人間には「それを拒む理由が無い」というのが正しい理解だと思います。では果たして人間の中で(直感に反し)「神を認めたくない」方向性をもたらす要因があるとすれば、それはいったい何なのでしょうか。

                     

                    それは一重に「宗教」と呼ばれる組織的社会運動の功罪に他なりません。以前にも記事にしましたが、宗教の意図するところは「社会的影響力を手中に収めるためのマンパワーの結集」にあり、その意味では他の社会的、反社会的なあらゆる「団体、結社」の概念と変わるものではないということです。そうなると当然「認める、認めない」という選択の対象となることも頷けます。

                     

                    ここで改めて言っておきますが、人間が心の中に「神を認めイメージする」事と「宗教を受け入れる」事とは何の関係も有りません。

                    神を信じるとは「信仰心」の事であって「謙虚で素直な生き方の裏付けとなる心」の事であり、世に言う「宗教」とは本来、異質で無縁のものです。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:39 | comments(0) | - |
                    小学校の6年間で人間の基礎が出来る
                    0

                      例えば中学校生活〜高校生活の6年間は「思春期」などと呼ばれ、希望と混沌が織り交ざる中で人間としての基礎固めに重要な時期との認識も誤りでは有りませんが、一方でこの先「どういう中学生、高校生になるのか」の概要がその有り様によって半ば決まりかねないのが小学校の6年間であるとすれば、保護者として子どもの成長や移り変わりにしっかりと注視し、必要に応じて惜しみないサポートを行わなければならないものと思います。

                       

                      皮肉な話ですが、国民の間に「愛国教育」を広め浸透させようと考える人たちの悲願とも言えるべきものが、例の「森友学園の瑞穂の國記念小学校開校計画」に象徴される「小学校教育を中心とした愛国教育」だった事が、小学校教育6年間の重要性を暗に物語っています。つまりその時期に(学力とは別に)どういう思想教育が為されるか、或いはどのような「思想環境」の中で育まれるかは、その人間の将来の基礎として非常に重要な意味を持つということです。

                       

                      誤解の無いように申し上げておきますが、少なくとも公立の小学校の場合では「特定の政治教育や特定の宗教教育を行なってはならない」とされていますが、それ自体が「中立性を保とう」という一つの思想的結論であり、その意味では当然「憲法」も「教育基本法」も思想的裏付けと共に在り、文科省と言えども「時々の思想的影響下」にあることは間違い有りません。

                      つまり「人間形成」と「思想的確立」は不可分のものと考えるのが妥当ということです。(人間が「無思想」などということは有り得ません。)

                       

                      今現在、子どもたちの小学校生活に於いて最も不足しているものは、未来に対して子どもたちが自ずと肯定的になれるような「思想環境」と言わざるを得ません。それは「愛国心とか競争心」とは無縁の「他者を思いやりいたわり自然に認め合う平和で穏やかな気持ち」「自分も人も同じと自然に思える気持ち」の裏付けとなる「思想環境」が決定的に足りない様に私には思えてなりません。(それじゃそりゃ不幸にもなります!)

                       

                      そういう心(=思想)の乏しい大人たちが寄ってたかって何をしても、残念ながら子どもたちの幸せな未来を作るお手伝いなんか出来っこ有りません。

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:27 | comments(0) | - |
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