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「発狂する」とはどういうことか?
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    一言で表すなら「理性の働きがほぼ失われ、論理的に物事を理解し判断することが決定的に出来なくなった状態」で、残念ながら政治家、官僚、財界人、知識人、マスコミ関係者などの中にも顕著な例が数多く見受けられる。何れもその特徴としては「論理を逸脱した自らの言動に対して羞恥心や後ろめたさの欠片も持ち得ない」ことに尽き、結果的に図らずも「嘘やデタラメを平然と言ってのける」こととなる。

     

    ここでのポイントはそうした発狂状態での言動には、本人にとっての「ささやかな合理性は存在するかも知れないが、論理性が致命的に欠如している」ということで、そのこと自体が既に「自己破壊=自滅」を意味している。何故ならこの世は「真理→道理→論理」によって成り立っており、決して「合理性の産物」などではないからだ。(そのことが理解出来るか否かが「二分化」の原点とも言える。)

     

    ※ 論理性と合理性の違いについては、過去に「論理性と合理性の違いについて」という記事が有り、そちらを参照して下さい。

    | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 10:40 | comments(0) | - |
    目的の為には・・・手段を選べ!
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      世の中には「目的の為には手段を選ばず」という考え方もあるようだが、これは大きな誤りと言わざるを得ない。何故なら、それが(言葉や形の上で)如何に「崇高な目的」のように思われても、物事の実質的な価値は「事に臨む人間の心柄」によって決定付けられる仕組みになっているからだ。

       

      即ち「質の悪い心柄と質の悪い行為によって導き出された結果は(どんなにタイソウなお題目であろうと)無価値であるばかりか、社会的に極めて有害である」と言って良い。というのも当然ながら社会全体に対して「質の悪い心柄と質の悪い行為」を容認させ、更には推奨させる結果となるからである。(そんな社会が良くなるはずもない事は常識で解る。)

       

      また、よく「涙を呑んで・・・」とか「感情を押し殺して・・・」などの表現で行為自体の冷酷さや残忍さ、また行為に及ぶ際の自らの心をを正当化しようとの目論見が為されるが、この手のものは全てごまかし、インチキと断言できる。何故なら人間は(良きにつけ悪しきにつけ)心に無い言動は絶対に持てない仕組みになっているからだ。つまり「冷酷な行為は(自覚の有無に関わらず)必ずや冷酷な心によって実行されている」ということだ。

       

      因みに「心柄=人間性のレベル」という意味だから「目的の為には手段を選ばず」という考え方自体に既に「人間性の喪失」が表されており、故に「社会のため、人々のためと称しつつ(人間性不在の)行為に及ぶ」ことの不条理、異常性、欺瞞性はもはや疑う余地も無い。

       

      つまり「目的が崇高で価値が高いと思われるなら、それに見合う相応の手段、方法を選べ」ということであって、(今はどうあれ)それは必ず近い将来の常識とされるだろう。(元々常識であって、今が特別おかしいだけだからだ。)

      | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 09:33 | comments(0) | - |
      「戦前回帰」或いは「男尊女卑」について
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        集約すればこれらは何れも嘗ての「縦社会」に対する再評価であり憧憬とも受け取れる。「昔はそれで上手くやれていた」とでも言いたいのだろう。だが残念ながら今の時代にそれを声高に叫んでいるのは100%「自己中心主義者」であり、人間的価値としては見るべきものの無い人々だ。つまりそういう人たちは「縦社会の方が自分たちの思いが遂げやすい」という理屈でモノを言っているだけのことで、縦社会の何たるかなど全く解っていないはずだから、こういう人たちの下での縦社会は凶器(狂気)にしかなり得ない。(事実、部分的には既にそうなっている。)故に絶対にそうさせてはならないのだ。(例えば「良い独裁もある」みたいな話とかにノセられてはいけない。)

         

        一方で真に縦社会を理解している人は、今の時代に決して「やっぱり縦社会が良い」などとは言わない。それは不心得な戦前回帰論者や安易な男尊女卑主義者に表面上の言葉尻を取られ、不本意に言説を利用されてはかなわないからだ。

        言っておくが縦社会の「縦」とは立場の上下や権利、権限の順列を表わしているのではなく、そこに明示されているのは「固定化された責任の所在と範囲」に過ぎない。だから逆に言えば「それさえはっきりしていれば後のことはどうでもいい」とさえ言えるのが「本当の縦社会」というものだ。後のことは「人間性」で適当にやれば良い。何故なら「責任とは人間性で果たすもの」だからだ。

        | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 08:44 | comments(0) | - |
        「対峙」には時間と手間(=労力)とお金が掛かる
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          例えば社会の不条理に対して、私が延べ100時間と10万キロカロリーと10万円を投じたとする。だからと言って、それによって物事が劇的に変わるということではないかも知れないが、もし私以外の1000人の人々がそれを同時に行なったとすれば、総エネルギー量は一気に10万時間、1億キロカロリー、1億円分となり、それだけでも世の中を動かすのに十分なエネルギー量と言えるだろう。

           

          故に、今本当に必要なのは徒党を組んで何かをしようと画策することではなく、私たち一人ひとりが持てるエネルギーを使って、それぞれの立ち位置に於いて「本気で対峙」することだと思う。逆に言えばそうしたピュアな生き方以外に人の賛同を獲得し、人を動かす方法などない。どうしてそう言い切れるのか?簡単な話だ。みんながこぞってそれと真逆のことをやってきた結果が、何もかもがメチャクチャとなってしまった今の世の中だからだ。(土台そう思えない人には関係のない話でしょうが。)

          | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 10:48 | comments(0) | - |
          「対峙」とは何か?
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            「対峙する」とはどういうことかを端的に表わすなら「この世には(自身の)命より大事なものがあることをそこはかとなく理解する」ことに他ならない。何故ならそう思えない限り(正確な意味に於いて)対峙することなど出来ようはずもないからだ。

             

            例えば自然界に生息するあらゆる生き物には、あらかじめ「対峙」という行動パターンとその発動条件が本能の一部として組み込まれており、そのほとんどが「種の保存」に関わるものと言える。(これは逆説的に言えば「個々の個体の存命」は、さほど重要視されていないという風にも思える。)そして結果的に自然界の生物たちの「対峙」が確実に発動し実行されているおかげで「自然界全体が保たれている」ことになる。

             

            翻って人間の場合、思考や行動が本能で規定されている訳ではない(と考えるのが普通だ)。なので他の生物と同様「(自身の)種の保存を目的として対峙する」と考えるのは些か無理が有るし、もしそうならそれに依って社会の安定と継続が保証されなければならないはずだが、実際にはそれと逆のことが起きるだろう。

            このように人間の場合「対峙」の在り方一つとって見ても、自然界の他の生き物たちとは本質的な違いが有ることぐらいは最低でも理解する必要がある。

             

            何れにせよ人間は「無」から始まって「有限」を経過し「無限」に至るイメージを持ち得る唯一の存在であることが、他の生物との決定的な違いであり、それこそが本能に代わる人間的な能力と言っても過言ではないとすれば、人間的な「対峙」も必然的にそのイメージ上に存在するに違いない。

             

            気が付けば今年になって多くの著名人(最近は是枝監督)が実際に「対峙」という言葉を用いて自らの社会的スタンスを明確化している。そのような(命を賭した)一人ひとりのエネルギーが合力となり、世の中を方向付ける大きな力となっていることは間違いない。

            | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 16:08 | comments(0) | - |
            「理想と現実」について
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              世の中では「理想主義」とか「現実主義」などという対比が用いられる事が多いが、これらはイメージ的には「理想=遠くの(論理的)目標、現実=間近の(合理的?)対応」と言い換えて良いだろう。しかし本来「理想と現実」という対比の仕方は決して「遠い、近いと言った時間的猶予の有無や距離感の問題」などではなく、むしろ「論理に忠実か否か」或いは「非論理性をどこまで容認出来るか否か」という話でしかない。何故なら、現場の対応が「本来の論理的主旨に即したもの」であることは一つも間違いではないし、逆に「時間が無いから論理的対応は不可能」という理屈が成り立つはずもないからだ。

               

              しかし現状では私たちの社会(の様々な事象)に於いて、少なからず理想と現実はかけ離れているものと認識される事が多く、あたかも「理想は理想、現実は現実として当面分けて考える」のが正しいとされ、ともすれば「理想主義に傾く(=理想を貫く)」事に対しては「非現実的で不合理?な対応であって物事の解決の手段として適当でない」との評価さえも存在しているのが実情ではないかと思う。

              そこで問題は、私たちがいったい何故「あるべき理想(=論理的解決)」に対して、それが「非現実的選択」と思えるまでに「距離感」を覚えなければならないのかということで、何故に「理想即現実」と成り得ないのかということだ。

               

              その答えは至って簡単で、それは私たち個々の人間がそれぞれに「我と欲と執着」を持っており、社会の多くの部分が(建前上はイザ知らず)内実はそれらを反映したものであり、私たちの社会がそれらを前提として成り立っている限り、諸問題に対する現実的対応が実質「我欲や執着心のせめぎ合いに対する調整」に終始する以外にないのは当然で、その状態で論理(=理想)の介在する余地などあろうはずもないということだ。

              これはもし社会が(我と欲と執着ではなく)理知(=論理)的に構成されていれば、ほとんどの問題は5秒で解決するであろう事を意味し、それこそが(社会に於いて)「理想が理想とされる由縁」である。

               

              因みに「我、欲、執着」とは、己さえ良くなればよいという「自己中心思想」の根源を成すものであり、同時にその目的や思いとは裏腹に(多くの場合、結果的に他者をも巻き添えとする)「自滅の論理」を体現するものである。つまり当ブログで繰り返し書いてきたように「自己中心思想=自滅思想」ということだ。

               

              日本に於いては現在、競争社会に於ける勝利至上主義があからさまに喧伝され蔓延する中で、戦後最大の疑獄事件と言われる安倍総理周辺の「森友、加計問題」や、直近の「日大アメフト部による暴行事件」などの本質は、すべて「勝つためなら何をしても許される」が如き反社会性に裏付けられた「自滅思想」にあると断言出来る。それら当事者たちの共通の特徴は、ひとえに「見苦しい」の一言に尽きる。

               

              今年は「対峙の年」であるが、何を以って対峙するのかと言えば当然「論理=理想=あるべき姿」でしかない。(そういう自分も現在必要あって身近な事案にて「対峙中」。)

               

              | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 09:19 | comments(0) | - |
              口は災いの元
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                近年、社会で起きる様々なレベルの様々な事件、事象を鑑みるに付け、つくづくそう思わざるを得ない。

                 

                思い返せば小学校の頃、当時の「道徳」の教科の時間に「有言実行と不言実行」について教わった記憶が有るが、戦後の民主主義教育の一環としては「コミュニケーションの重要性」に対する理解を促進させる観点から、「有言実行」がより良い選択とされる空気があったように思われる。

                 

                だが同時に私はその時、子どもながらに一抹の違和感を覚えたのも事実で、何故ならそれまでの日本の文化には「黙して語らず」即ち「不言実行」を美しい、正しいと捉える向きがあったのもまた事実だからだ。(そうでなければ敢えて「有言実行と不言実行」を対比させる様な教わり方をしなかったはずだ。)

                 

                もちろんその場合の「不言実行」には、あくまでも自らが「善で有り正義である」という前提が置かれていて、悪事をこそこそ行なうという意味でない事は当然であり、むしろ「黙することで自己顕示欲を抑制する」という意味合いを持つと考えられる。つまり「不言実行=謙譲の美徳」ということだ。

                 

                無論「有言実行」を悪いとか、劣るとか言うつもりはないが、問題は「有言(=言葉を発する)」ということに対する個々の人々の理解や解釈の有り様だと思う。例えばそれが「自己顕示欲」を目的としたり、相手に対する「牽制や威嚇」を目的としたり、甚だしきは「自らの本質を故意に相手に見誤らせる」ための言葉などは、もはや「有言実行」の体を為しているとは言い難く、単に悪意による言葉の乱用で有り、極めて醜悪だ。

                 

                民主主義であろうがなかろうが私の経験上、他者に自分の誠意や思いの丈を伝える目的であれば、饒舌である必要はなく、吟味された少ない言葉で十分だ。また、それでトラブルが生ずるはずもない。更に言うなら「言わず語らず(=不言実行)」は未だに有効で、時折り「事足りない」と感じた際に最低限の「有言実行」を用いれば済むことだと思う。何故なら現に多くの場合「口は災いの元」になっているし、それでは命が幾つ有っても足りないぐらいだ。(皆さんは奇跡的に生きているが)

                 

                 

                | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 09:21 | comments(0) | - |
                人間のクズとは
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                  「人間のクズ」という言葉が有り、ネット上などでも相手を誹謗中傷する際の文言として時折り見かけることがある。一方で「人間の(命の)尊厳」という概念から言えば、どんな人であっても「尊い存在」とされる。となれば「クズ呼ばわり」すること自体が間違いかというと、そうとも言えない。(但し、自身の品格を保つ上に於いて不適切な言葉遣いということはあるだろう。)

                   

                  屑(クズ)とは言うまでもなく「役に立たないもの」という意味であるから、人間の場合に当てはめれば文字通り「役に立たない人間」ということになろう。しかし人間に於いてはそれだけでは済まされず、他にも「穀潰し」「場所塞ぎ」という言い方もあるように、生きている限り様々なものを消費し占有し続けるという事実がある。それ故「人間のクズ」には「役立たず」の他に「邪魔者」というニュアンスが付いて回ることになる。そこから転じて「反社会的傾向を示す者(=社会環境を乱す者)」を社会の邪魔者と位置付け、「人間のクズ」と称する場合がある。

                   

                  ところで相手を「人間のクズ」呼ばわりする際の「役に立つ、役に立たない」の判断の基準がどこにあるのかが明示されることは少なく、むしろ「バカ、アホ」と同様に相手を貶め不快感を与える目的で感情的に用いられるケースが多いのは余り好ましいことではない。

                  実は人間が「クズかクズでないか」には明確な基準が存在する。もちろんそれは身体的、知的ハンディの有無や法的な問題の有無とは無関係なことだ。

                   

                  そもそも「役に立つ、役に立たない」の前には「社会の、みんなの」という語句が入り、決して「自分だけ」の役に立てば良いという意味でないとするなら、要はそういう心、思い、志の有無や大小、更には質がその人間の(社会的な存在)価値を決めていると言っても過言ではない。

                  それは実際に体を動かして(仕事量として)何がどれだけ出来るかという話だけとは限らず、極端に言えばそのような純粋な心や思いが現に存在するだけでも社会的に十分意味が有ると言える。(何故なら純粋さは人を動かす力となり得るものだからである。)

                   

                  このように「みんなの役に立ちたい」という気持ち(=心、思い、志)が社会にとって極めて有用であるとすれば、逆説的にそうした気持ちが小さければ小さいほど無用(=クズ)の度合いが増していくものと思われる。

                  但し現在の自由主義経済の下では、基本的に(株式投資など)「個人的欲望」を利用することで成り立っている側面があることも否定できず、有用、無用の判別が付きにくいのも事実だが、それ故歪みが常態化し、争いが絶えないことを見ても、これが社会の理想形、最終形態であろうはずもない。

                  「力ずく」「早いもの勝ち」「独り占め」などが、何れ無用(=クズ)と認定される時代となるだろう。(幼稚園では今でもそう教えている。)

                   

                  | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 10:25 | comments(0) | - |
                  自分で自分をダメにする典型的なパターン
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                    そのひとつに「スポーツ選手のテレビCM出まくり」がある。実はこの事は40年以上も前から知っていたものの、余計なお世話と思われるので努めて公言は差し控えて来たつもりだが、ここに来て「社会に於ける価値観の逆転現象」が顕著となりつつある中での判りやすい例とも言えるので、今更ながら指摘させて頂く次第だ。

                    但しここでスポーツ選手の「成績とCM出演の相関関係」にまで踏み込むつもりはない。それは本人が自覚すべき問題で、他人には関わりの無い事だからだ。(もちろんスポンサー契約やCM出演も本人の自由に違いない。)ただそこに「何らかの社会的な強制力」が働いているとすれば、まことに気の毒な話とは思う。

                     

                    またスポーツ選手の本分として「勝つ姿を人前で披露する」という思いを持つことは大いに結構だが、それが「相手を打ち負かす」という意味と受け取られる様な事であるとすれば、それは断じて好ましくない。何故なら心有る人からは「自己本意な浅ましい姿」としか映らないであろうからだ。大げさなガッツポーズなどはその最たるもので、世界的に尊敬の対象とされている超一流のアスリートに限って、そんな(対戦相手に対して)無礼なマネはしないし、そもそも昔の日本人選手もそういう事は厳に慎んだが、それは言うまでもなく「己に打ち勝つことを旨とし美徳として、互いに切磋琢磨する」という精神文化がまだまだ根付いていたからだ。

                    「他人に勝ちたい一心」をむざむざ人前に曝すぐらいなら、スポーツなどやらない方が良い。何故なら「精神文化に間違いなく悪影響を及ぼす」からだ。

                     

                    今の時点でこうした指摘をしても半信半疑、ともすれば反発を招くかも知れないが、やがて「価値観の(再)逆転」が更に進めばスポーツも「在るべき姿」に戻らざるを得ないだろう。

                     

                     

                    | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 12:04 | comments(0) | - |
                    「説得力=包容力(寛容さ)」のことです。
                    0

                      「説得」とは自説に対して他人が「受け入れる気持ち」になってくれることであって、健全な社会、確かな人間関係を構築していく上で大変重要な意味を持つ局面と考えられます。これはもちろん、威圧的な態度で大きな声を上げて強い口調で主張を繰り返せば良いというものでは有りません。(そんなことをすれば必ず先方の内心の反発を招く事になります。)

                      また「説得」は商取引の様に「相応の(物理的な)対価を払って成立」するような場面にはおそらく無縁のものでしょう。(その場合は「取引に見合う対価」そのものが説得力と言えます。)

                       

                      「説得」とは元々「利害損得に対する認識」の異なる者同士の間に於いて「認識そのものの距離を縮める」作業と言って良いと思います。人と人との関係性は最終的には「理解(=認識)の共有」が望ましいのですが、互いの置かれた立場や環境の違い、更にはそれぞれに異なる文化的背景を持つことなどから、中々容易ではないはずです。しかしその解決に「力関係」を持ち込むことは全く正しく有りません。何故なら、そうした「論理的に未解決の問題」は必ず双方に強い不信感や不満感をもたらすものだからです。

                       

                      繰り返しますが「説得とは理解(=認識)の共有による論理的解決のための努力」なのですから、そのように理解出来ると何をどうすれば良いのか、何が必要なのかは自ずと見えてきます。

                      利害損得の異なる相手と認識を共有したいのであれば、ひたすら「寛容」であるべきです。寛容とは広い心を以って相手を受け入れることですから、その時点で当然相手方の「利害損得」も受け入れることになります。

                      つまり「説得」の基本は、こちらの主張を差し控えて相手方の「利害損得」をいち早く受け入れることに有ります。

                       

                      そこで「ではこちら側の主張はどうなってしまうのか」という疑問が生ずるのも、もっともだと思いますが、そもそも「利害損得」の問題は多くの場合、主張すべき主旨(=理念)そのものではなく、謂わば主題に到達する手前の障害物のような意味合いのものです。(例えば「戦争は反対だが軍需産業に従事している人々の生活はどうするのか」のような話です。)

                      そこでどれだけ相手の諸事情に譲歩したとしても、それは「相手になるべく窮屈な思いをさせない」ための配慮であって、些(いささ)かもこちらの「理念」を曲げたことにはなりません。

                       

                      では反対に「寛容さ」を示そうとする事で、自分側が逆に「窮屈な思い」を強いられるのかと懸念を持たれる事も有るでしょうが、実はそれも正しく有りません。何故なら相手方に対してこちらがどれだけ「譲歩」出来るかという数値に絶対的な基準など無く、それは個々の「包容力(キャパシティ)」の問題だからです。その意味ではキャパシティの大きい人ほどあらゆる局面に於いて「余裕で譲歩」出来ることになり、それはつまり「説得」のために(譲歩に拠る)相応の損失を被ったとしても(人に依っては)「痛くも痒くもない」ことさえ有り得ることを意味します。

                       

                      豊かな包容力や人としての寛容さは当然ながら「一朝一夕」に身に付けられるものでは有りませんが、一般的には人間関係に於ける困難な状況や課題を真っ当に克服してきた数だけ、自然に身に付くものと考えて良いでしょう。そうした人としての進歩、向上の第一歩はまず、目の前の人間関係に対して「自分のリミットぎりぎりまで全力を尽くす」ことによってのみ踏み出す事が可能となるでしょう。(キャパシティが小さい内は余裕が持てないのも当然です。)

                       

                      「説得」とは人間関係全般のひとつの局面に過ぎません。そもそも人間関係の基本が「相手に先んじて相手を受け入れること」なのですから「説得力」も当然その延長線上に有るものです。それは特別な技術や業の話ではなく、「まず相手を受け入れるから相手にも受け入れられる」という物の道理に従って理解されるべきものです。

                      | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 08:15 | comments(0) | - |
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