青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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もう攻撃するな!
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    図らずも(というよりも故意に)対戦型スポーツの奨励などによって、長らく他者に対する「攻撃性」「攻撃力」の保有、強化などが正当化、或いは善化、美化され、あたかも価値高いものの如く吹き込まれ続けて来たが、結局のところそうした価値観は人間性や社会性の高揚に寄与するどころか、むしろ著しく人間の品性を貶め、更にはごく少数の勝者と無数の敗者、またはごく一部の強者と残りの大量の弱者といった「分断」を社会にもたらし、(謂わばある意味理不尽な不公平、不平等を)容認させる以外の何者でもなかったということだ。

     

    だが既にフェーズが変わって、この先は「攻撃性」や「攻撃力」が賛美され、それによって人々に「勇気を与える」などというトンチンカンな話は二度と再び耳にすることも無くなるだろう。(あと半年ぐらいは聞かされるかも知れないが。)

    ついでに言っておくが、人間に内在する攻撃性、攻撃力は本来(他者に対して振るうものではなく)あくまでも自分自身を叱咤激励するために備わっているもので、他者に対してはそれこそ「思いやり、いたわり、ねぎらい、親切、助け合い」などの気持ちを誰彼問わず向ければ必要十分で、キーワードはたった一つ「優しさ」だ。

     

    「優しさ」さえ持てれば他人を「問いただし、問い詰める」こともなく、自己主張や自己PRによる他者への押し付けもなく、こうした暴力や虐待以外の目に見えない「攻撃」が社会に蔓延し、常態化することで社会そのものの質を低下させ、劣化させることも無くなるだろう。

    凡そこの世は「バランス」で成り立っており、であるならバランスの良いのが心地良いに決まっていて、それで見るなら「勝者と敗者」「強者と弱者」「少数と多数」などは極めてアンバランスな状態と言わざるを得ず、誰にとっても居心地の良いはずが無い。(独占欲に目が眩んだ一部の人々でさえも・・・だ。)先ごろ「覚醒」という表現をしきりに目にするが、その本質は自らの「優しさ」に目覚め、他人の「優しさ」に共感することに相違ない。何故なら「優しさ」のみが謂わば人間の最強の「攻撃力」であり且つ「防御力」であるからだ。

     

    最後に言っておきたいのは、(少なくとも)コロナ禍に於いては「衣食住」と種々の「インフラ」の堅持が当然メインであって、スポーツ、芸能、観光、カルチャー、それに教育などを「オプション」と位置付ける認識の転換が望ましい。逆に言えばそのような的確な優先順位が付けられなかった結果が現在の惨状(=医療崩壊)を招いたと言っても過言ではなかろう。(正直「観光立国」などと言われ始めた時から危惧してました。)

    | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 08:20 | comments(0) | - |
    社会を変えたいならまず己を変える
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      問題は「どういう社会」をイメージして「己をどう変える」かだ。

       

      どういう社会?

       

      ○ 当ブログの主旨でもある「みんなで良くする、みんなで良くなる社会」に決まっている。

       

      己をどう変える?

       

      ○ 決して世界の中心に自分を置かないこと(これは人間はもとより生きとし生けるものの鉄則だ。)

       

      ○ 勝手に他人に対して審判を下さないこと(人間誰しもその権利も資格も能力も無し。これと状況分析は別物。)

       

      ○ 宗教は不要だが最低限の信仰心を持つこと(人間を取り巻く自然に対する畏怖と崇敬、感謝の念が有れば十分。)

       

       

      ※ 幸福とは上記を正しく理解、実践出来る人の心の様を言い表した言葉です。

      | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 07:42 | comments(0) | - |
      諸悪の根源は「自己執着」です。
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        これは国際問題から家族関係に至るまで同様で、「自己執着」こそがあらゆるレベルに於ける人間関係の健全な醸成を阻み、あらゆるレベルに於ける社会に脅威と破壊をもたらし続けています。無論、その目的が「自己破壊」にあることは言うまでも有りません。何故ならこの世に「自己執着」ほど非論理的で矛盾に満ちたものは無いからです。そしてこの事は同時に私たちが今、最優先で何を為すべきかを示しています。それは「自己執着からの脱却」に他なりません。何故なら「自己破壊」を免れるためには、それが唯一無二の選択肢であろうからです。

         

        ※ 詳細は「自己執着」に関する過去記事をご参照ください。(サイト内検索もご利用頂けます。)

         

        ○ 不幸の根源は「自己執着」です

         

        ○ 不幸の根源は「自己執着」です。 その2

         

        ○ 再び「自己執着」の話

         

        ○ 「自己執着」という検索キーワード

         

        ○ 悩みの根源は「自己執着」です。

         

        ○ 自己執着と自己中心の関係について

         

        ○ 「自己執着」と「自我」

         

        ○ 公共の精神と自己執着

        | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 08:32 | comments(0) | - |
        「発狂する」とはどういうことか?
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          一言で表すなら「理性の働きがほぼ失われ、論理的に物事を理解し判断することが決定的に出来なくなった状態」で、残念ながら政治家、官僚、財界人、知識人、マスコミ関係者などの中にも顕著な例が数多く見受けられる。何れもその特徴としては「論理を逸脱した自らの言動に対して羞恥心や後ろめたさの欠片も持ち得ない」ことに尽き、結果的に図らずも「嘘やデタラメを平然と言ってのける」こととなる。

           

          ここでのポイントはそうした発狂状態での言動には、本人にとっての「ささやかな合理性は存在するかも知れないが、論理性が致命的に欠如している」ということで、そのこと自体が既に「自己破壊=自滅」を意味している。何故ならこの世は「真理→道理→論理」によって成り立っており、決して「合理性の産物」などではないからだ。(そのことが理解出来るか否かが「二分化」の原点とも言える。)

           

          ※ 論理性と合理性の違いについては、過去に「論理性と合理性の違いについて」という記事が有り、そちらを参照して下さい。

          | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 10:40 | comments(0) | - |
          目的の為には・・・手段を選べ!
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            世の中には「目的の為には手段を選ばず」という考え方もあるようだが、これは大きな誤りと言わざるを得ない。何故なら、それが(言葉や形の上で)如何に「崇高な目的」のように思われても、物事の実質的な価値は「事に臨む人間の心柄」によって決定付けられる仕組みになっているからだ。

             

            即ち「質の悪い心柄と質の悪い行為によって導き出された結果は(どんなにタイソウなお題目であろうと)無価値であるばかりか、社会的に極めて有害である」と言って良い。というのも当然ながら社会全体に対して「質の悪い心柄と質の悪い行為」を容認させ、更には推奨させる結果となるからである。(そんな社会が良くなるはずもない事は常識で解る。)

             

            また、よく「涙を呑んで・・・」とか「感情を押し殺して・・・」などの表現で行為自体の冷酷さや残忍さ、また行為に及ぶ際の自らの心をを正当化しようとの目論見が為されるが、この手のものは全てごまかし、インチキと断言できる。何故なら人間は(良きにつけ悪しきにつけ)心に無い言動は絶対に持てない仕組みになっているからだ。つまり「冷酷な行為は(自覚の有無に関わらず)必ずや冷酷な心によって実行されている」ということだ。

             

            因みに「心柄=人間性のレベル」という意味だから「目的の為には手段を選ばず」という考え方自体に既に「人間性の喪失」が表されており、故に「社会のため、人々のためと称しつつ(人間性不在の)行為に及ぶ」ことの不条理、異常性、欺瞞性はもはや疑う余地も無い。

             

            つまり「目的が崇高で価値が高いと思われるなら、それに見合う相応の手段、方法を選べ」ということであって、(今はどうあれ)それは必ず近い将来の常識とされるだろう。(元々常識であって、今が特別おかしいだけだからだ。)

            | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 09:33 | comments(0) | - |
            「戦前回帰」或いは「男尊女卑」について
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              集約すればこれらは何れも嘗ての「縦社会」に対する再評価であり憧憬とも受け取れる。「昔はそれで上手くやれていた」とでも言いたいのだろう。だが残念ながら今の時代にそれを声高に叫んでいるのは100%「自己中心主義者」であり、人間的価値としては見るべきものの無い人々だ。つまりそういう人たちは「縦社会の方が自分たちの思いが遂げやすい」という理屈でモノを言っているだけのことで、縦社会の何たるかなど全く解っていないはずだから、こういう人たちの下での縦社会は凶器(狂気)にしかなり得ない。(事実、部分的には既にそうなっている。)故に絶対にそうさせてはならないのだ。(例えば「良い独裁もある」みたいな話とかにノセられてはいけない。)

               

              一方で真に縦社会を理解している人は、今の時代に決して「やっぱり縦社会が良い」などとは言わない。それは不心得な戦前回帰論者や安易な男尊女卑主義者に表面上の言葉尻を取られ、不本意に言説を利用されてはかなわないからだ。

              言っておくが縦社会の「縦」とは立場の上下や権利、権限の順列を表わしているのではなく、そこに明示されているのは「固定化された責任の所在と範囲」に過ぎない。だから逆に言えば「それさえはっきりしていれば後のことはどうでもいい」とさえ言えるのが「本当の縦社会」というものだ。後のことは「人間性」で適当にやれば良い。何故なら「責任とは人間性で果たすもの」だからだ。

              | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 08:44 | comments(0) | - |
              「対峙」には時間と手間(=労力)とお金が掛かる
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                例えば社会の不条理に対して、私が延べ100時間と10万キロカロリーと10万円を投じたとする。だからと言って、それによって物事が劇的に変わるということではないかも知れないが、もし私以外の1000人の人々がそれを同時に行なったとすれば、総エネルギー量は一気に10万時間、1億キロカロリー、1億円分となり、それだけでも世の中を動かすのに十分なエネルギー量と言えるだろう。

                 

                故に、今本当に必要なのは徒党を組んで何かをしようと画策することではなく、私たち一人ひとりが持てるエネルギーを使って、それぞれの立ち位置に於いて「本気で対峙」することだと思う。逆に言えばそうしたピュアな生き方以外に人の賛同を獲得し、人を動かす方法などない。どうしてそう言い切れるのか?簡単な話だ。みんながこぞってそれと真逆のことをやってきた結果が、何もかもがメチャクチャとなってしまった今の世の中だからだ。(土台そう思えない人には関係のない話でしょうが。)

                | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 10:48 | comments(0) | - |
                「対峙」とは何か?
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                  「対峙する」とはどういうことかを端的に表わすなら「この世には(自身の)命より大事なものがあることをそこはかとなく理解する」ことに他ならない。何故ならそう思えない限り(正確な意味に於いて)対峙することなど出来ようはずもないからだ。

                   

                  例えば自然界に生息するあらゆる生き物には、あらかじめ「対峙」という行動パターンとその発動条件が本能の一部として組み込まれており、そのほとんどが「種の保存」に関わるものと言える。(これは逆説的に言えば「個々の個体の存命」は、さほど重要視されていないという風にも思える。)そして結果的に自然界の生物たちの「対峙」が確実に発動し実行されているおかげで「自然界全体が保たれている」ことになる。

                   

                  翻って人間の場合、思考や行動が本能で規定されている訳ではない(と考えるのが普通だ)。なので他の生物と同様「(自身の)種の保存を目的として対峙する」と考えるのは些か無理が有るし、もしそうならそれに依って社会の安定と継続が保証されなければならないはずだが、実際にはそれと逆のことが起きるだろう。

                  このように人間の場合「対峙」の在り方一つとって見ても、自然界の他の生き物たちとは本質的な違いが有ることぐらいは最低でも理解する必要がある。

                   

                  何れにせよ人間は「無」から始まって「有限」を経過し「無限」に至るイメージを持ち得る唯一の存在であることが、他の生物との決定的な違いであり、それこそが本能に代わる人間的な能力と言っても過言ではないとすれば、人間的な「対峙」も必然的にそのイメージ上に存在するに違いない。

                   

                  気が付けば今年になって多くの著名人(最近は是枝監督)が実際に「対峙」という言葉を用いて自らの社会的スタンスを明確化している。そのような(命を賭した)一人ひとりのエネルギーが合力となり、世の中を方向付ける大きな力となっていることは間違いない。

                  | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 16:08 | comments(0) | - |
                  「理想と現実」について
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                    世の中では「理想主義」とか「現実主義」などという対比が用いられる事が多いが、これらはイメージ的には「理想=遠くの(論理的)目標、現実=間近の(合理的?)対応」と言い換えて良いだろう。しかし本来「理想と現実」という対比の仕方は決して「遠い、近いと言った時間的猶予の有無や距離感の問題」などではなく、むしろ「論理に忠実か否か」或いは「非論理性をどこまで容認出来るか否か」という話でしかない。何故なら、現場の対応が「本来の論理的主旨に即したもの」であることは一つも間違いではないし、逆に「時間が無いから論理的対応は不可能」という理屈が成り立つはずもないからだ。

                     

                    しかし現状では私たちの社会(の様々な事象)に於いて、少なからず理想と現実はかけ離れているものと認識される事が多く、あたかも「理想は理想、現実は現実として当面分けて考える」のが正しいとされ、ともすれば「理想主義に傾く(=理想を貫く)」事に対しては「非現実的で不合理?な対応であって物事の解決の手段として適当でない」との評価さえも存在しているのが実情ではないかと思う。

                    そこで問題は、私たちがいったい何故「あるべき理想(=論理的解決)」に対して、それが「非現実的選択」と思えるまでに「距離感」を覚えなければならないのかということで、何故に「理想即現実」と成り得ないのかということだ。

                     

                    その答えは至って簡単で、それは私たち個々の人間がそれぞれに「我と欲と執着」を持っており、社会の多くの部分が(建前上はイザ知らず)内実はそれらを反映したものであり、私たちの社会がそれらを前提として成り立っている限り、諸問題に対する現実的対応が実質「我欲や執着心のせめぎ合いに対する調整」に終始する以外にないのは当然で、その状態で論理(=理想)の介在する余地などあろうはずもないということだ。

                    これはもし社会が(我と欲と執着ではなく)理知(=論理)的に構成されていれば、ほとんどの問題は5秒で解決するであろう事を意味し、それこそが(社会に於いて)「理想が理想とされる由縁」である。

                     

                    因みに「我、欲、執着」とは、己さえ良くなればよいという「自己中心思想」の根源を成すものであり、同時にその目的や思いとは裏腹に(多くの場合、結果的に他者をも巻き添えとする)「自滅の論理」を体現するものである。つまり当ブログで繰り返し書いてきたように「自己中心思想=自滅思想」ということだ。

                     

                    日本に於いては現在、競争社会に於ける勝利至上主義があからさまに喧伝され蔓延する中で、戦後最大の疑獄事件と言われる安倍総理周辺の「森友、加計問題」や、直近の「日大アメフト部による暴行事件」などの本質は、すべて「勝つためなら何をしても許される」が如き反社会性に裏付けられた「自滅思想」にあると断言出来る。それら当事者たちの共通の特徴は、ひとえに「見苦しい」の一言に尽きる。

                     

                    今年は「対峙の年」であるが、何を以って対峙するのかと言えば当然「論理=理想=あるべき姿」でしかない。(そういう自分も現在必要あって身近な事案にて「対峙中」。)

                     

                    | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 09:19 | comments(0) | - |
                    口は災いの元
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                      近年、社会で起きる様々なレベルの様々な事件、事象を鑑みるに付け、つくづくそう思わざるを得ない。

                       

                      思い返せば小学校の頃、当時の「道徳」の教科の時間に「有言実行と不言実行」について教わった記憶が有るが、戦後の民主主義教育の一環としては「コミュニケーションの重要性」に対する理解を促進させる観点から、「有言実行」がより良い選択とされる空気があったように思われる。

                       

                      だが同時に私はその時、子どもながらに一抹の違和感を覚えたのも事実で、何故ならそれまでの日本の文化には「黙して語らず」即ち「不言実行」を美しい、正しいと捉える向きがあったのもまた事実だからだ。(そうでなければ敢えて「有言実行と不言実行」を対比させる様な教わり方をしなかったはずだ。)

                       

                      もちろんその場合の「不言実行」には、あくまでも自らが「善で有り正義である」という前提が置かれていて、悪事をこそこそ行なうという意味でない事は当然であり、むしろ「黙することで自己顕示欲を抑制する」という意味合いを持つと考えられる。つまり「不言実行=謙譲の美徳」ということだ。

                       

                      無論「有言実行」を悪いとか、劣るとか言うつもりはないが、問題は「有言(=言葉を発する)」ということに対する個々の人々の理解や解釈の有り様だと思う。例えばそれが「自己顕示欲」を目的としたり、相手に対する「牽制や威嚇」を目的としたり、甚だしきは「自らの本質を故意に相手に見誤らせる」ための言葉などは、もはや「有言実行」の体を為しているとは言い難く、単に悪意による言葉の乱用で有り、極めて醜悪だ。

                       

                      民主主義であろうがなかろうが私の経験上、他者に自分の誠意や思いの丈を伝える目的であれば、饒舌である必要はなく、吟味された少ない言葉で十分だ。また、それでトラブルが生ずるはずもない。更に言うなら「言わず語らず(=不言実行)」は未だに有効で、時折り「事足りない」と感じた際に最低限の「有言実行」を用いれば済むことだと思う。何故なら現に多くの場合「口は災いの元」になっているし、それでは命が幾つ有っても足りないぐらいだ。(皆さんは奇跡的に生きているが)

                       

                       

                      | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 09:21 | comments(0) | - |
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