青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「社会性」の崩壊(2020年節分に際して)
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    およそこの世は「利己」と「利他」の二者択一でしか有り得ず、例えばその中間的な「フィフティ:フィフティ」というイメージですらも「利己」の一種に過ぎません。また、いわゆる「家族愛」「愛国心」などの一般的な「同族愛」に於いても、やはり「利己」の拡大、延長版に過ぎません。何故ならそれらは通常「容易に敵を作るメンタリティ」と言えるからです。即ち「どう転んでも心に敵を作り得ないメンタリティ、精神的環境」以外は(如何に器用に世渡りしようとも)全て「利己(=自己中心思想)」と見做されます。

    こうした「利己(的行為)」の目的は「個(=己)の優遇による個の保存」つまりどれだけ快適に末永く生き続けられるかということでしかなく、それはしばしば「種の保存」よりも「個の保存」が優先されるという、生物学的に有り得ない現象をももたらします。

     

    ところでそもそも「社会性とは何か?」ということですが、基本的には寄り添って生きる人々がそれぞれに「利他の発想」を以って社会の枠組みを構築し、発展させ、運用していくことで、相互扶助に基づいた「誰もが生きやすい明るく楽しい社会」を望み、目指す心だと思います。つまり「社会性」とは、既存の社会に合わせる形のことではなく、前述のような社会を渇望する心と言い換えても良いでしょう。

     

    今年も節分を迎え、明日はいよいよ立春です。(節分、立春が特別な意味を持つ日であることは過去記事に書いていますので、参照して下さい。)

    2020年は混迷、混沌の年であることは既に申し上げた通りですが、新型コロナウィルスの対策等、早くも混迷状態が生じています。今後は世界でも日本国内に於いても不安定要素が山積状態にある中、何が起きても不思議では有りませんが、その際「利己的」な人々に於いては一層生き辛くなるかも知れません。何故なら、その一例として蓄積する毒素(不純物)を体外に排出する能力が著しく劣化、鈍化しているに違いないからです。

    | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:40 | comments(0) | - |
    正と邪はシステムの一部である
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      ※ 本日の記事は霊的内容を含むため、「霊的」に関心の無い方、嫌悪感ををお持ちの方はスルーして構いません。

       

      古来より日本には「正・邪」という概念が存在し、これは「善・悪」の概念と同一視される場合も多いと思われるものの、実は少し違う。いや、だいぶ違うかも知れない。何故なら「善・悪」の場合、往々にして「善悪の闘い」「神と悪魔の戦い」の様に、互いを「覇権争いのための闘いの対象」と見做すケースが多いのに対し、「正・邪」に於いては殆どの場合「正邪の闘い」とは成り得ないからだ。

      一方で「邪気を祓う」「悪魔祓い」など、言葉の上では共通の表現も存在するが、これらも実は質的に異なるもので、「悪魔祓い」が実質的な「(神の力を借りた)人と悪魔・悪霊との闘い」であるのに対して、「邪気祓い(=お祓い)」に闘いの要素は殆ど見られず、むしろ「自らに潜在する清廉性を引き出し高める」事が目的と考えられる。

       

      つまり「正・邪」に於いては両者の「覇権争い」など端(はな)から存在せず、無論その関係性に「闘いの概念」が介在する余地は無いということだ。

       

      では何故(なにゆえ)「闘わずして邪を祓い正に至ることが可能なのか」ということになるが、その答えは至極簡単で「心に敵を設けそれと闘うという感覚と構図」それ自体が「邪そのもの」と言えるからで、それは外的要因にとどまらず、自分自身の内面の「邪心、邪念」に対しても同様だ。何故ならそれらは(理由はどうあれ過去に)「自分自身が生み為し育んだもの」に相違無いからで、謂わば「自分の分身」とも言えるそれらを敵視すること自体がそもそも筋違いだ。本来ならば自らの不始末を詫び、その労をねぎらった上で、改めて協力を依頼するのが筋というものだろう。逆にそこまでして尚、数多(あまた)の障りをもたらす「邪」がいると言うなら見てみたいものだ。

       

      何れにせよ「正道、邪道」という言葉が示す様に、決まった(論理性という)軌道に乗るか、そこから外れるかというイメージが近いのではと思う。となれば「邪」とは、例えば「悪」の様にある種の個性や明確な意思を指すものでは無く、単に「正規の軌道から外れた状態を作り出すため」の何らかの仕掛け、働き掛けと見ることも出来る。(例えば障害走のハードル、トライアスロンのコース、マジックの仕掛け、迷路・・・)

      更にもう一つ言えば「邪(よこしま)」とは、文字通り「横」を表す意味の言葉で、横の反語として「縦(=順序、段階)」或いは「正面(規定のコース)」が考えられる事からも、道理を外れた危うい状態、またはそうした状態を作る働き掛けを指すことは明らかだ。

       

      ここまで読み進めてピンと来た方は、霊的を安全にイメージし、且つ正しく理解し得る人かも知れません。もしそうであれば、タイトルの「正と邪はシステムの一部である」という文言に込められた意図を汲み取って頂けるものと思います。念のためその根拠となる「宇宙の法則」なるものを掲載しておきますが、敢えて説明はしません。何故なら(頭で考えずして自価値相応に)心で理解すべきものだからです。

       

      火水土三位一体の法則

      原因結果の法則

      相反するもの一体の法則

       

      以上

      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 08:56 | comments(0) | - |
      「結果現象」を目の当たりにする
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        本年2019年は「結果現象の年」とは、年頭(1月2日)の記事でお示しした通りですが、すでに多くの盤石と信じられていた地位や立場、強固な権力基盤などが足元から崩れ落ちる様子がニュースとして報じられるだけでも後を断ちません。無論「結果現象」というからには、本来都合の悪い結果だけでなく、良い結果も含まれるはずですが、悪い結果ばかりが際立つのは、残念ながら長年私たちの社会が経済至上主義の如く「人間の有るべき姿」に対してあまりにもそれを軽視し、あるいは誤った(非論理的な)イメージを持ち続けてきた代償として、膨大な量の「悪い原因」を積み上げてしまったことに依るものです。今後も原因通りの結果が次々と現象することとなるでしょうが、肝心な事は結果を見て「原因を正しく理解する」ことに尽きると思われます。それが私たちの唯一無二の選択肢です。

        | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:26 | comments(0) | - |
        本日は「立春」です。
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          毎年申し上げているように、(霊的には)本日より実質的な本年がスタートします。今年はそのスケールや内容はまちまちながらも「悲惨な思いを味わう人」と「悲惨なモノを見せつけられる人」が激増することでしょう。理由は言うに及ばず、今年が「結果現象」の年だからです。気持ちの上ではどちらも願い下げですが、どちらか1つを選べというのなら後者でしか有り得ません。にも関わらず、既に私たちには「選択の自由」すら有りません。何故なら(繰り返しになりますが、)今年が「結果現象」の年に他ならないからです。

           

          そこで何より重要なのは、あらゆる結果を受け入れた上でそれを活かし、前に歩を進めることでしょう。くどいようですが、どんな場合であっても私たちは結果を100%受け入れるべきです。新たな物事は、それを因としてそこから始まるからです。私たちは過去に戻ることは出来ませんが、未来に於いてそれを贖(あがな)い、補強することは十分可能であることを確信するべきです。何故なら「そういう仕組み」になっている」からです。

           

          すべては手遅れにならない内に・・・。「手遅れ」とは、肉体が消滅し、次いで霊魂(たましい)の消滅が決定することを指しますが、そのことを以ってして「究極の不幸」と言っても過言ではないでしょう。それ故、仮に(人間として)そういう選択の自由があったとしても、こればかりは絶対にお薦め出来ません。

          | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 11:05 | comments(0) | - |
          「カレイドスコープ」の以下の各記事は秀逸且つ有益です。
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            以下はブログ「カレイドスコープ」「量子論・グノーシス・古神道」というタグ内の記事一覧ですが、ここには私たち人間に必要な本質的理解に通じる多くの有益な情報が含まれていると思われます。但し(ご本人自ら私見であると述べられている部分も有り)仮に記述内容が100%正しいと保証されるものではないとしても、真理や実相に対する必要十分な指向性が保たれている事自体が特筆に値すると言えるでしょう。(それだけまがい物が多いということでもあります。)

            また、当然ですが情報をキャッチするためには受け取る側のアンテナの有無や精度の良し悪しが問題となります。自身のアンテナのチェックという意味からも、これらの記事に一度触れられる事を是非お勧めします。

            因みに私自身は「たった1つしかない宝を得んがために999もの行いを要する」のが人生だと思っています。(一発必中など論理的に有り得ない!)要は「果たして宝とは何か」ということです。

             

            ※ 霊的内容全般に嫌悪感、不快感をお持ちの方はご遠慮下さい。

             

            http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-category-7.html

             

             

             

            | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 12:03 | comments(0) | - |
            心は常に計測され数値化され評価されている!
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              今日のタイトル「心は常に計測され数値化され評価されている」・・・こうした概念を持っている人は、今現在生きている人の中でおそらく圧倒的に少ないと思いますが、これは紛れもない事実です。何故ならそのようなシステムが実際に存在し、それが一年365日昼夜兼行運用されているからです。つまり「心」とは、決して我々が想像するようなアバウトなものではなく、漠然と存在するものでもなく、増して脳神経によって生み為される妄想的産物などではなく、むしろ理路整然と構築され認識されるべき存在であるということです。何故なら「心」こそが、人間の実像、実体そのものと言えるからです。ですから生きている人間の場合は「心」が本体で、体はそれに「付随するもの」として存在という認識が正しいのです。それが証拠に、心の状態は人相や風貌に反映しますがその逆は有りませんし、「心因性」といった診断の有無に関わらず、体調不良や病気の根源から「心の問題」を完全に切り離す事は困難で、むしろ不自然と言えます。(例えば生活習慣病など・・・)

               

              ところで「心は常に計測され数値化され評価されている」って・・・いったい誰に?・・・そんなこと、決まってるでしょう。とにかく自分の心と向き合うことです。

              | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:01 | comments(0) | - |
              そしてみんな発狂した
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                夜の時代が終わりを遂げ、昼の時代を迎えて既に77年が経ちますが、特にここ数年の間、増々強くなった光が世の中や人の心の隅々まで射し照らし、これまで闇に存在していたあらゆる穢れの類があぶり出され、苦しみ悶えながら一斉に表層に浮き出して世の中に大混乱をもたらしている事実が、世の中の様子から窺い知れます。

                 

                例えば国会に於けるIRカジノ法案、参議院定数6増法案然り、これらをまるでモノに憑かれたが如くゴリ押しする感覚や神経そのものが、もはや正気の沙汰とは思えません。

                また、愛知県豊田市の小学校に於ける小1児童熱中症死亡事件然り、この件に限らず私の知る範囲でも公職に就く人々の多くが既に正気を失い、正常な物事の判断が出来ずにいるようです。

                 

                今後もしばらくの間、今まで考えられないような事案が社会のあらゆる場で次々に人の手によって引き起こされるでしょう。しかしもし、それらが「二分化」という必要なステップの一過程であるとすれば、私たちは相応の心構えと覚悟を以ってあらゆる局面を受け入れざるを得ません。何故ならたとえどのような瞬間であれ、私たちが「生きるという意味」を見失う訳には行かないからです。

                それは「眼前の今にベストを尽くす」ことによってのみ達成されるものと確信しています。

                | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:11 | comments(0) | - |
                二分化の流れが止まらない
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                  ※ 本日の記事はは多分に「霊的内容」を含むため、興味のない方はスルーして頂いて構いません。

                   

                  以前より繰り返し申し上げてきた様に、現在の「昼の時代」に即した霊界の環境整備計画(とでも申しましょうか)に基づいた大規模な改変作業は滞りなく進行中で、それが一定の時間差を以って現界に反映する際の特徴的な現象の一つとして「明確な二分化」があると言えます。それは一言で表せば、これまでのいわゆる「グレーゾーン」を排した「白と黒とに人(の思想や言動)が二分化される」という意味で、それこそが霊界の計画の(段階的な)骨子と言っても良いでしょう。

                  となれば「グレー」はもはや存在出来ない色となり、強いて言えば嘗てのグレーは霊界の改変によって黒に分類されることとなるはずです。何故なら色の見え方は「価値観」がもたらすものであり、その価値観自体が霊界の改変を通じて180度転換されつつあるからです。(昨今のセクハラ問題などが良い例です。)

                  結局、霊界の改変に対して誰も抗い得ていないのが現状です。

                   

                  こうした「二分化」の進行によって、気が付けば「嘘の定義」すらも変わってしまいました。というのも、昔であれば「嘘は都合の悪い真実を悟られない様にするための(バレない前提の)もの」という認識でしたが、現在はそうではなく、「嘘は都合の良いことを単に強弁する(=言い張る)こと」でしかなく、バレようがバレまいが関係ない、ということの様です。(一連の政治家、官僚の答弁などが良い例です。)

                  そしてその結果何が起きるかということですが、単純に「嘘をつく人の卑しさ、醜さが引き立つだけ」でしか有り得ず、それは同時に自らの人間性の欠落(=人間的劣化)を進んで世に知らしめる行為に他なりません。

                  つまり人(の中の或る人々)はとうとう(自覚のないまま)「自滅」の引き金を引き始めたということです。(そんなこと誰も頼んでいません。)

                   

                  振り返れば当ブログでは2016年「変動、変化の年」、2017年「瓦解、崩壊の年」、そして2018年の今年は「対峙の年」というように毎年、年始めにその年の(予測ではなく)霊的進捗状況を明示させて頂いてきたつもりであり、例えば森友、加計問題で言えば、昨年の内に官邸や内閣府、財務省などの論理性、整合性は完全に「瓦解、崩壊」していたことが(改ざんや隠蔽事実の露見という形で)既に判明しています。ということは、今年になって現在私たち国民が「対峙」しているものは、実は既に崩壊して実体を失った構造体の「残渣或いは残像」に過ぎないということになります。(亡霊とかゾンビとかといった表現は好きでは有りません。)

                  そんなものとも(億劫がって)まともに対峙出来ないようでは、それこそ「対峙する側の責任やヤル気」に問題が有ると言われても致し方有りません。言い換えれば「対峙」とは、個々の人々の心と行ないが白であるのか黒であるのかを決する正念場でもあるのです。何故なら前段で申し上げた如く(霊界の意向により)グレーゾーンが廃止され、選択肢として消滅したからです。

                   

                  故にこの時期、私たちには「自分なりの対峙」がどうしても必要ということです。

                  | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 08:28 | comments(0) | - |
                  自分を知りたければ沈黙せよ。
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                    世の中で平均的と思われている人々の多くは、自分のことを余りにも知らなさ過ぎる。(そのようなレベルを「平均的」と信じて疑わないところに社会全体の劣化を見て取ることが出来る。)それが証拠に世の中の多くの人々にとって、己の運命は自らの思い描くそれとは違い、不平や不満、或いは後悔に満ちたものとなっている。(そのすべてをせいぜい他人や社会のせいに納得しているのがオチだ。)

                     

                    しかし残念ながらこうした理解がまったく事態の改善に役立たず、100%自滅の方向にしか向かわないことは明白で、何故ならそうした事態が「自分を知らない」が故に「自分のコントロールがまったく出来ていない」ことに起因しているからだ。

                    ところが人間は少なくとも「目と耳が機能し、頭で考えている」という実感が有る限りは、自分が「完全にコントロールを失っている」という認識には、そう簡単に至れない(らしい)。

                     

                    では何故、先頃の下村元文部科学大臣のように「ある意味で犯罪だと思う」と公然と口にした言葉を、立ちどころに追求されて即座に謝罪、撤回するという自らにとって不名誉で自らをわざわざ貶めるような言動を持ち得るのか?簡単な話が「自分を知らない=コントロール出来ない」からではないのか?

                    同じく、福田事務次官はコントロール出来ていたと言えるのか、佐川前国税庁長官は自分を知っていると言えるのか、もしそうなら「国民の大半を(未来永劫)敵に回す」ような言動はそもそも有り得ないだろう。

                     

                    取り分け近年に於いては多くの人々が勘違いしているが、人間は本来「無駄口を好まない」ものだ。それは決して好き嫌いのレベルの話ではなく、人格や人間性、或いは霊的な観点から見て「無駄口、おしゃべりの類は不利益をもたらす」からだ。それらの大半は主に自己宣伝、自己顕示、自己弁護、或いは不純な動機の下で他者を誘引し、また他者を嘲り貶める目的を持ち、到底人間的向上は望めず、むしろ人間的(霊的)価値を貶める場合が殆どと言える。(要はどのような思想の下で言葉を発しているかという事だが。)

                     

                    そういった意味では霊層段階が低い(=思想レベルが低い)状態に於いては、業務上、作業上必要なやり取り以外で思想的に発するに値する言葉など殆ど無いと言って良く、それは言い換えれば「無口」が相応の在り方と言える。

                    それを確かめる上で良い方法が有る。それは一度「無口」を貫き通して見ることだ。そうすればやがて「言いたくて言いたくて堪らなくなってくる」に違いないが、その時同時に「言いたくて堪らない主が自分自身ではなく別物」ということに気が付けば大したもので、その人にはまだ改善の余地が残されているかも知れない。

                     

                    お察しの通り、それは自分ではなく、正確には過去の自分(の分身)、つまり「腹の虫」であり、であるとすれば、当然憎むべき対象ではなく「詫びるべき対象」という理解が論理的に正しいだろう。

                    つまり「知りたければ沈黙し、知ったら詫びる」ということだ。

                     

                     

                    | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:08 | comments(0) | - |
                    昨日の記事について
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                      昨日の記事が「一見難解と思われるかも知れない」ことは重々承知しています。しかしそれを承知の上で敢えてそうしたのには、それなりの理由があります。その一つは「これまで記事にしてきたことの総括」として申し述べていること。もう一つは「解る人だけに解ってもらえれば」との思いがあるからです。

                       

                      こうした思いの根底には(これまで繰り返し申し上げている様に)程なく「(人間或いは社会の)価値観が180度変わる」という前提があります。180度と言葉するのは簡単ですが、実際にそれをイメージとして受け入れ順応することは(幼い子どもを除けば)多くの人々にとって至難の業となるに違い有りません。

                       

                      しかし世の中には(数は少ないながらも)今からそのための心の準備に勤しんでいる人々も存在するというのもまた事実です。そのような人たちであれば、一見して根拠が不明瞭で論理の飛躍としか思えないような内容であっても、ご理解頂ける可能性が無きにしも有らず・・・というのが昨日の記事です。

                       

                      当然のことになりますが、180度変わるということは私たちの「現在の価値観、認識のほぼ全てが間違っている」という意味になりますから、もし具体的に何がどうという話になれば即「論拠を示せ!」といった攻撃対象となりかねず、従って私自身そういう事に言及するつもりは有りませんし、そうする義務もなく、そういったトラブルは一切望んでいません。

                       

                      しかし同時に「変わらざるを得ないこと」が論理に基づいた「決定事項」であることについて、口を閉ざすつもりも毛頭有りません。(それが私のライフワークでもあるので。)

                      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 08:33 | comments(0) | - |
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