青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
正しい「信仰」の在り方とは
0

    ○ まず初めに(それぞれの母国語における)「神様」という言葉と概念を持っておいた方が良いでしょう。

    ○ 「神様」がこの世のありとあらゆる万物を創造され、運用管理されているという認識を持っておいた方が良いでしょう。

    ○ この世のありとあらゆる事物事象に対して「全て神様の御業と御心が込められている」という認識が必要でしょう。

    ○ 取り分け人間はその中でも「神様の最高傑作として神に準ずるものとの位置付けである」という認識が必要でしょう。

    ○ この世は凡そ「名実共に神に準ずる=神との差を取る=サトリ」のための修行の場であるという認識が必要でしょう。

    ○ 人間がサトル(=覚る)ために不可欠な要素として「向上と下向の自由」が与えられている真意を理解する必要があるでしょう。

    ○ 自らと同じく隣人も「神の創造物」と思えることで自ずと「良好な接し方、関わり方」のイメージが見えてくるでしょう。

    ○ 自らと同じく自然も「神の創造物」と思えることで自ずと「良好な共生の在り方」のイメージが見えてくるでしょう。

     

    ※ 基本的には「たったこれだけ」理解した上で日常を送ることが出来れば人間はみるみる霊層段階を駆け上り、少なくとも不満やストレスを抱え込んで生きることから開放されます。(クドいようですが宗教ではないので「神様」で必要充分です。)

     

    ※ 正しい信仰を持てる人、持てない人では「本気か半信半疑か」の違いが有るに過ぎませんが、その結果の差は甚大です。

     

    ※ 特に(多神教などにおける)神様の「御名(みな)」(固有名詞)などを安易に取り扱わない方が良いでしょう。(因みに当ブログにおいては当初より殊更そうした件に注意を払っております。)要はそうしたことが本当に「必要不可欠」であり、且つそれをする「霊的資格」を有するのか、場合によっては所謂「不敬罪」に問われないとも限りません。

     

    ※ その他「人格を向上させ霊層段階を上げるための具体的な方法」については、当ブログの「過去記事」を適宜検索して頂ければ幸いです。

    | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:23 | comments(0) | - |
    潜在霊の逆襲、総攻撃が始まった!
    0

      近年、巷では人々の「極めて自滅的、破壊的で異常な行動や言動」が多く見られる様になった。それも「抑えが効かない」とか「葛藤の挙句」などという手合いのものでは無く、むしろまるで「モノに憑かれたかの如く」何の躊躇も無く平然と「自らを自壊に追い込む」ようなことを行うケースが跡を絶たない。こうした傾向は事件や犯罪として表沙汰になるコトばかりに限らず、家庭内や日常生活の中では遥かに多くの事例が頻繁に生じているものと思われる。

       

      こうした状況に陥る当事者たちには或る共通点が有って、それは「自分はとてつもなく不幸であり、それは全て他者(ひと)のせいだ」という固定観念に終始苛まされ続けていることであり、これはとどのつまり「神の悪意に拠る我が身の不幸」であって「神に対する猛烈な怒り」を正当化する絶対的根拠となっている。(何故なら「他者」の大元は神だからだ。)

      そして更に始末の悪いことには、この当事者たちがこうした鉄壁の固定観念をより強固にすることはあっても、誤りを認めることはほぼ無い。何故ならその瞬間に自らが単に「不誠実で怠惰なろくでなし」に過ぎないことを露呈させてしまうことになるからだ。

       

      実はそういう人間性を打ち忘れた「不誠実で怠惰なろくでなし」の人々がこれまで何とか(曲がりなりにも人間として)生きてこれたのは無論本人の力では無く、協力因縁、反対因縁、妨害因縁、嫌がらせ因縁の各任を背負って内在する数多の「潜在霊」あっての賜物で、因みに思想を悪化させ霊層段階を大きく下げた状態では会話はおろか言葉さえ発することは困難で、到底「人間」としての対面を保つことは不可能であることすらも人々は知らない。(酩酊状態で記憶も無い人が自力でどうして家にたどり着けるのだ?)

       

      これら潜在霊たちは、協力、反対、妨害、嫌がらせ等、各々任の違いは有っても、大局的にはその人間に気付きを与え、進歩向上を促すために設けられたシステムの一部として存在していることに変わりは無く、だとすればもしその役務(えきむ)の一つ一つに毎度の如く悪口雑言を投げかけられ、無視や曲解で何十年も押し通されたら何と思うか。(人間ならば普通は耐えられないだろう。)

      無論、霊は人間ではない・・とは言え機械でもないので、その労苦に対しては当然「感謝と報恩の念」を以って応えるべきだろう。

       

      では積年の恨みを晴らさんとして潜在霊たちが独自に反乱を起こすかと言えばそんなことは無いだろうが、或る種のタイムリミットに応じた霊的環境の変化は当然起こり得る。その中の一つとして「潜在霊の逆襲、総攻撃」として映るものがあったとしてもひとつも不思議では無く、ひとたびそういう事態となれば最早逃れる術は無いだろう。

      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:06 | comments(0) | - |
      義務と責任
      0

        最初にはっきりさせておいた方が良いと思うのですが、昆虫で言えばアリやミツバチと同様に人間はそもそも社会性を有した生き物であって、但し単体でも生きられないことはない、という認識で良いと思われます。と言うのも霊的には当面、現界(=物質界)に於いて「より良い社会を作る」更には「より良い世界を作る」という目的が掲げられているからです。これを一言で言い表せば「病貧争絶無の理想世界建設」となる訳で、それこそが(あらゆる人々にとっての当面の)「生きる目的であって、今生きていることの意味」とされています。(わざわざ「当面の」とするのは、その目的が未だ達成されていない故です。)

         

        こうした話を前にすると、人々の反応はおそらく大きく二つに別れると思います。一つは「そんな話聞いてないし、誰もそんな積りでで生きてないし、全体主義じゃあるまいしそもそも生きる目的は自分で決めて良いはずだ。」といった反応ですが、それはそれで或る意味もっともな反応と思われます。何故なら私たちは近年「自由」の旗印の下、謂わば「そのように教育」されてきたからです。

        また「なんか宗教っぽくて怪しい・・・」といった懐疑的な反応もこちらに含まれます。

         

        今一つは「確かに戦争や貧困、不正、差別など内外共に社会の安全安心は脅かされ続けており、これで良いとは言えないが、と言って我々が今すぐどうにか出来るとも思えない」などといった所謂「問題意識の共有」だけはある程度出来るが、といって自分の在るべき姿を明確にイメージ出来ている訳でもない、ちょっと「宙ぶらりん」な感覚の反応。

         

        中には「そうだ、これだ!自分の求めている答はこれだったのか!」という反応も無きにしもあらずですが、多分ごく一部と思われます。

         

        このように聞こえ方、受け止め方は人それぞれと思われますが、構わず話を進めます。もし前述の如くあらゆる人間にとっての生きる目的が一律に「理想世界の建設(=より良い世界を作る)」にあるとすれば、自ずと人間一人ひとりはそのために社会の適所に配置された「適材(=コマ)」で有り、社会という全体像から見れば単なる1パーツに過ぎません。

        しかもそれは社会という極めて精巧に組まれたシステムを正常に円滑に動作させるために不可欠のパーツなので常に規格通りの安定した動作を求められており、もし暴走や動作不良を起こせばそれは即社会全体にダメージを及ぼす結果となります。

        因みに今現在の社会が多くの問題を抱えて機能不全に陥っているとすれば、それは「パーツが悪い」からで、それも一つや二つではなく、余りにもメンテナンスを怠ったせいでいよいよ「パーツの総取っ換え」が必要となっただけのことです。(間もなく「管理者」によって為されるでしょう。)

         

        人間が自らを「パーツ」であると認識することは、社会的な義務と責任を果たす上で極めて重要です。

        もちろん「総理大臣」というパーツもあれば「庶民」というパーツもありますが、パーツである限りその価値はどちらも「同じ」です。

        また「無能な総理大臣」であれば即刻置き換えられ「有能な庶民」ならば末永く重用されるのは当然です。

        人間というパーツと機械のパーツの大きな違いは、人間というパーツが「自分自身で如何様にもレベルアップ可能」な点です。

        むしろパーツとしての役割を確実に果たしつつ、同時にパーツそのもののレベルアップ(=進歩向上)を図ることは人間の義務と責任です。

        霊界では「進歩向上」こそが価値の全てであり、理想の社会とはこうした価値基準がダイレクトに反映される社会を指します。(少なくともお金や肩書は価値とは見做されません。)

         

        最後に、(言葉の制約の中で)皆様に少しでも霊的真意がお伝え出来れば幸いです。

        | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 08:57 | comments(0) | - |
        そもそも「信仰心」とは何か
        0

          「信仰心」とは、自らを取り巻く「自然環境を始めとするあらゆる環境(=神)」に対する深い理解と畏敬、崇敬の念を持すると共に、自らもそうした環境の一部であることを理解し、その有るべき姿を模索、探求し続ける心であって、それは言い換えれば「あらゆる物事を解決に導く心」であり、故に「信仰=解決」という図式が成り立つのである。

          逆に言えばそれ以外のものを「信仰」と見做すべきでは無く、例えば「宗教」は社会的圧力団体としての側面が大きく、よってその多くが本来「信仰」とは無縁である。

          | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 08:36 | comments(0) | - |
          「宇宙の法則」に関する過去記事
          0

            いつも当ブログ記事を閲覧頂きありがとうございます。このところ思いの外多くの方々にご来訪頂けていることも喜ばしい限りであって、改めて感謝申し上げます。

             

            さて、前年11月2日の記事で申し上げた通り、世間では「反転・逆転」から「露見・露呈・暴露」へと至るクロスフェードの兆候が国内外問わずいよいよ顕著に現れて来た様に思われ、またそうした事象の変化自体が一段とスピードアップされている様にも感じられます。こうした目まぐるしく移り変わる社会情勢の変化の中に於いても自らをしっかりと保ち、より適切に対応して行くためには、(錯綜する情報に翻弄されること無く)物事の「本質」に対する理解を深め、必要なレベルの精神性を確立しておくことが何より重要と思われます。

             

            そのためには様々なアプローチが考えられますが、その一つとして先日来書き綴って参りましたところの「宇宙の法則」に思いを致すことによる(その人なりの)「宇宙観」「世界観」の再構築も有効と思われ、その助力になればということで以下に「宇宙の法則」に関する過去記事のリンクを貼って置きます。(合わせて「サイト内検索」もご活用下さい。)

             

            「宇宙の法則」に関する過去記事

            | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:21 | comments(0) | - |
            もし神と悪魔が一体ならば・・・
            0

              宇宙の法則である「相反するもの一体の法則」が絶対真理として存在することは以前より申しておりますが、であるとすえば「相反する概念である神と悪魔(正神と邪神)が一体」であったとしても何の不思議も有りません。思えばこれら両者はいつの時代にも我々人間の物事に対するアプローチの為の「選択肢」として常に提示され続けてきた訳ですが、仮に「善悪(正邪)一体」であったとしてもそこの部分に於いては何ら変わることは無いと思われます。特に何があろうと起ころうと愚直に神の導きのままに生きることを旨としてきた人々にあっては尚更です。では一体何が変わるのでしょうか?

               

              一言で表せば「悪魔に付き従い悪行を旨としてきた人々」にとっては大きな変化を余儀無くされるでしょう。取り分け「支配欲、独占欲」など、一族を通じ数百年にわたってそうした夢を追い続けてきた所謂「巨悪」に類する人々も存在すると聞き及びますが、であればあるほど尚更顕著な結果を目の当たりにするのでは無いでしょうか。それは何故か?

              何故ならそうした場合(神(=善)という概念には些かの変更も加えられない反面)悪魔(=悪)という概念に於いて「真逆の変更」が生じてしまう為です。つまり簡単に言えば「この人々は漏れなく神?悪魔?に騙されていた」ということになります。

               

              「騙されていた」というと随分人聞きが悪いのですが、もっと正確に言えば「欲に目が眩んで自分の都合の良い様にしか真理が理解出来なかった」ということです。何故なら(「夜の時代に於いては真理が見え難い」ということが多少あったとしても)同じ時代に「そうならなかった人々」も存在するのですから、そこは完全な「自己責任」と言えます。

              何れにせよ「人格の完成を目指しつつより良い社会を形成して行く」という人間の「義務と責任」は、昼の時代であろうと夜の時代であろうと何時に変わること無く存在している訳ですからトボケてはいけません。

               

              そもそも霊的には「悪は善に磨きを掛けるためのツールである」とされていることからも、従来人間が如何に身勝手に真理を都合良く解釈してきたのかは明らかで、まもなくそれらの「勘違い」全てが白日の下に曝されることとなるでしょうが、それらは悉く「想定外」であり「想像を絶する結末」ということになります。(以前、ジグソーパズルの喩えを記事にしました。)

              | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 08:49 | comments(0) | - |
              他人と自分を較べて良いことほぼ無し
              0

                意外に思うかも知れませんが、これが「霊的常識」というものなのです。

                何故なら他人と自分とではそもそも「前世が違い過去が違い現在が違い未来(=将来)も違う」からです。

                これは仮に「親兄弟」であっても然り、ましてや「縁も由も無い他人」に於いては尚更です。

                それ故人間は(社会性の有無とは別の次元で)本来「孤独」であり、その人生は本質的にその人独自の固有なものであるということです。

                この各人固有の「前世、過去、現在、未来」(=過現未)は常に一つのサクセスストーリーが描かれ提示されており、少なくとも「霊的」には各人にとってそれが「最も相応しいストーリー(=至福の極致)」であることは疑う余地も有りません。

                しかし驚くべきことには「これを不服として努力を怠り、道を踏み外す人々」が跡を絶ちません。何故でしょうか?

                 

                それは(まだ見ぬ)自分固有の人生に大いに疑念を抱く一方で、目の前に展開される他人の「華美で優雅な金満生活」或いは「苦労知らずで能天気な楽々人生」など、それら他人の人生の(全貌とは程遠い)ごく一部を切り取ったに過ぎない薄っぺらな情報に心を奪われてしまうからでしょう。

                これは或る意味「罠」、と言って悪ければ「試練」だと思って下さい。「自分を信じる」とはそれほど難しい・・ということです。

                 

                人間もとより「他人と同じ人生」は有りません。それらはどれも個々人の有する「完全オリジナル人生」だということです。

                そうであれば、或る意味「この世で唯一無二の自分だけの人生」にもっと誇りを持って然るべきと思います。

                もっともそうした自分の人生を納得の行く形で完遂するためには、そこに多くの学びや助力が必要であることも事実ですし、それらの大部分が「他力」として他人の身を通じてもたらされるというのもまた事実でしょう。

                そうして「自分だけのオリジナル人生」でありつつも「自力」の足らざるところを互いに補い合いつつ、相互に「おかげさまで」の精神を基本としながらそれぞれの人生を全うして行くというのが「人間社会の健全な在り方」と思われます。

                | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 12:23 | comments(0) | - |
                「生死一如」の補足事項
                0

                  老いを悲しみ、衰えを嘆くことは重大な誤りである。

                  何故なら人が生涯を通じて体験する各年代にはそれぞれに異なる意味が有るからだ。

                  故にそれぞれの年代はどれも人生を完結させるために不可欠と言える。

                  故に本来そこには感謝しか無いはずだ。

                  だからもし人生を在るべき形で全(まっと)うしたいと願うなら

                  決して特定の年代に拘(こだわ)ったり

                  ましてやそれを忌み嫌ったりしてはならないのだ。

                   

                  これは当たり前のことだが

                  人が或る年代に達して自らの老いと衰えを意識するならば

                  それは同時に「実感を以て死を意識する瞬間」でもある。

                  それ以降は実質余生を送ることとなり

                  死に向けた適切な心構えの構築と身辺整理に勤しむこととなる。

                  取り分け円滑な世代交代に向けて思いを致すことは重要で

                  受け継ぐ者たちに無用な労苦を強いてはならないだろう。

                   

                  このように各年代に見合った常に誠実で懸命な生き方、向き合い方によってのみ

                  恐怖や不安、未練や執着、後悔の念など凡そ死に対する悲観的要素は悉く払拭され

                  一点の曇りも無い晴々とした心持ちを以て「死への旅路」の瞬間を待ち受けることが可能となる。

                   

                  つまり老いと衰えには「人生を総括するためのヒント」が隠されているということだ。

                   

                  | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:10 | comments(0) | - |
                  相反(あいはん)するもの一体の法則
                  0

                    宇宙の法則の一つに「相反するもの一体の法則」が在る。因みにこの場合の「法則」とは、宇宙全体がそもそもその様に作られ構成されているという意味の「絶対真理」であるから、凡そあらゆるものにそれが内包されており、(例えば人間がそれを意識しようがしまいが一切関係無く)あらゆる事物、事象がそれに基づいて機能しているということだ。

                     

                    この内、我々人間の生き方そのものに最も影響を及ぼしているのが「苦楽一如((くらくいちにょ)」「生死一如(しょうじいちにょ)」と思われる。何故なら圧倒的に多くの人々は「苦より楽が良い」と思うであろうし「ことさら死を恐れ悲しむ」に違いないからで、社会的にもそれが人間として自然の感覚であると認知されている。

                     

                    つまり苦楽や生死に関する限り、人間は明らかにそれが「一体(=セット)」であることに「強い抵抗感」を示す傾向があると言わざるを得ないが、少なくとも地球上のあらゆる生物でそのような感覚で苦楽や生死を受け止めているのは人間だけだろう。他の動植物は皆こぞってそれらを甘受し、その結果として「種の保存」や生物界総体としての「地球環境の保全」に大きく貢献し続けている。

                     

                    つまり宇宙の法則とは(当たり前のことだが)「総体として最高の結果」が生み出せる様にデザインされている訳だから「総体の中の一部である自分」にとっても最高の結果がもたらされることは当然なのだが、「自己中心思想」が介在するとそれが解らない。何故ならそこには「総体、全体、社会」などといった「自分(と身内)」以外を含める概念が存在しないからで、何でも「自分にとって損か得か」の話でしかなければ「苦労は損」「死は大損」となるのも頷ける。

                     

                    「苦楽一如」である理由は簡単だ。それがなければ心身共に「成長も進歩も望めない」からだ。

                    「生死一如」である理由は簡単だ。精一杯、力一杯生きた者だけが「心置き無く死に臨める」からだ。

                    | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:50 | comments(0) | - |
                    二度と元には戻らない
                    0

                      新年早々厳しいことを書かなければならず申し訳の無い限りですが、コロナ禍の折に「二度と元には戻らない」旨の記事を書いた覚えが有ります。無論それはコロナが永遠に続くという意味では無く、時代があたかも川の流れのように不可逆的に進行するため、過去に対しては如何なる執着も拘(こだわ)りも無用で有り、それらがむしろ現状に対する判断を曇らせ対応を遅らせる要因となり得るということです。もとより過去には緩慢に変化する(比較的安定的な)時期もあった訳ですが、現在は物事や生活環境が短時間で劇的に変わる「激動の時代」であるとの認識が不可欠と思われ、となれば日々の心構えや生活様式、物事の優先順位など、いつ何時でも「緊急時」への対応が可能となる体制を整えて置くことが肝要と思われます。

                       

                      因みに(自分以外の)他者に対する責任を大きく感じている人々や、確固たる善意の目的意識を持って生きる人々に於いては、上記の様な内容は言われるまでも無く既に準備万端怠り無きことかとも思われますが、一方で「今をできるだけ楽しみたい」「面白可笑しく生きたい」または「今まで何十年これでやってきたから」「たぶん大丈夫」など未だに緊急性の認識が不十分と思われる人々も(世情を見る限り)少なからず存在しているようで、何れにしても「自己責任」ということになるのでしょうか。

                      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:59 | comments(0) | - |
                           12
                      3456789
                      10111213141516
                      17181920212223
                      24252627282930
                      31      
                      << March 2024 >>