青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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役に立つ「馬鹿さ」と立たない「馬鹿さ」
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    昨日は「若者は馬鹿さでがんばろう!」という話でしたが、そういうと勘違いをする人がいます。よく「○○馬鹿」などと言って、「馬鹿みたいにスポーツに打ち込んだり、学業に没頭したり」と、何かひとつの事に執着(しゅうちゃく)する事だと思っている人がいますが、これは違います。というか、へたをすると「本物の馬鹿」になってしまいます。(今の時代、そういう人間が珍しく有りません。)なぜなら「馬鹿(ばか→まじか)」の本来の意味は「自分の間近(まぢか)」を知らない、つまり「足元が見えていなくて危険な状態」ということだからです。

     

    なぜ「足元が見えない」あるいは「周りが見えない」ということが起こるのかと言うと、「自分の未来の夢」ばかりに目をうばわれて「それに関係の無い現実」を見ようとしないからです。自分の足元や周囲、または社会の現実というものは「客観的」なものですが、それを「主観(=自分の都合)」で勝手に無視したり軽視したりすることは、仮に何かひとつの事に秀でたとしても、全体としては大変バランスの悪い歪(ゆが)んだ感覚や考え方をもたらします。そういう人はいくら勉強が出来て頭が良くても「自分の足元も見えない本物の馬鹿」でしかなく、自分の行く末のみならず社会にも害悪を及ぼしかねません。(実際そういう大人たちが寄り集まって世の中を悪くしています。)

     

    「若さは馬鹿さ」とはそういう意味ではなく、「あらゆる事に全力を尽くす」「何事も匙加減(さじかげん)しない」「心にずるさを持たない」「物事に誠心誠意で臨む」などの事で、これらは良く考えれば、実は私たち人間が生まれて間もない0歳〜5歳くらいの間に「普通にやっていた事」なんですね。だから本当はそのまま大人になれば良いだけの話なのですが、なぜかその後の10年足らずの間に、「賢(かしこ)い」事と「ずるい」事を取り違えてしまって「安っぽい損得計算」にうつつを抜かすことで、人間本来の「童心」を忘れてしまう人が右にならえで圧倒的に増えてしまうのは、まことに残念な限りです。(それを教える大人が悪い!)

     

    私の経験上、普通に健康であれば30歳くらいまでは「若さは馬鹿さ」のままで全然OKです。個人差もあるでしょうが、私の場合50歳くらいまでは問題なくその感覚で行けました。さすがにその先は「体と相談」せざるを得なくなってきますが、おかげさまで心の方は今でも「子どもたちと同じ感覚」でいることができて、それが何より幸せに感じます。それと同時に私のような感覚や考え方の大人がもっともっと増えることを切に望んでいます。

    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:55 | comments(0) | - |
    若さは馬鹿(ばか)さか?
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      久々に青少年の方向けに記事を書いてみたいと思います。元々はそのつもりで立ち上げたブログでしたが、「大人たちが何とかならない事には子どもを救う手立てが無い」ということで、しばらく大人を対象として記事を書いてきましたが、やっぱり子どもは良いものです。(ほっとします。)ぜひとも今のきれいな精神のまま大人になって欲しいと思います。

       

      ところで「若さは馬鹿さ」というダジャレのような言葉が有ります。しかしこの「馬鹿」はあながち捨てたものでも有りません。これはたぶん「分別がない」とか「加減がわからない」という意味だと思いますが、では「分別や加減」は知っておいた方が良いのかというと、自分の経験上必ずしもそうとは言えません。

       

      例えば自分は若いころ「不死身」だと思っていました。少なくともそう言って自分に良く言い聞かせていました。「オレは死ぬまでは不死身だ。」といった感じです。本当に馬鹿みたいな話ですが、これの良いところは「自分のことを守ったりかばったりする必要がない」というところです。「不死身」なので当たり前です。そしてそれには「物事を何でもギリギリのところまでチャレンジする事ができる」というメリットが有ります。また、それによって「自分の本当の力と本当の限界」を同時に知ることもできます。(ただし、自分が倒れた後にですが。)

       

      若者にこのような「暴挙(=乱暴なやり方)」が許されるとすれば、それは「倒れてもすぐに立ち直れる」だけの生命力(=回復力)に満ち満ちている時期だからです。同じことを大人がやれば倒れるだけでは済まず、体を壊してしまったり、本当に命取りになったりします。「年寄りの冷や水」とはそういう例えです。

      このように、せっかく人生の一時期にしかない「不死身の時期」を惜しみなく活用するかしないかで、その後の生き方が大きく方向付けられると考えられます。なぜなら「本当の限界を知ることは本当のバランスを知ること」だからです。本当のバランスとは「正しい分別や加減」のことですから、結局「若い時の馬鹿さが本物の分別や加減を知った大人を作る」と言えます。

       

      ところで若者が「馬鹿さ」を発揮しようとすると、迷惑がって知ったかぶりして上から目線でがたがた言う大人がいます。そうではなく、若い人の自発的なチャレンジは、その意味を理解しギリギリまでやらせてあげるのが大人の甲斐性というものです。仮に大人目線でやめさせたりすると、そのせいでその若者は「小粒で取るに足りないような大人」にしかなれないかも知れません。

      そうなるとやはり「ダメな大人の無理解が子どもや若者をダメにする」ということになってしまいますが、ぜひ若いみなさんにはめげずおくせずがんばっていただきたいと思います。

      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:28 | comments(0) | - |
      「正義の戦い」について
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        「正義の戦い」とは、悪人や悪徳集団と勇ましく刃を交え、これを殲滅、粉砕する事では有りません。そうではなく、「悪に加担しようとする人」の数を減らし、悪を「孤立無縁の用済み状態」にするための策を講じ、実践する事です。
        例えばシロアリは「健全な状態の木材」に巣食う事は無く、風通しが悪く「湿気で傷みかけた木材」しかエサに出来ません。悪も全く同じで、「そこにエサが無ければ消滅する」ということです。
        つまり「正義の戦い」とは上の例で言えば、「いつも風通しを良くしておく努力」ということになります。

        よく正義を標榜する側の人たちの「(悪に対して)強い憤りを覚える」という言葉を耳にしますが、この「憤り」という感情の中身は「怒りと憎しみ」です。そしてそれは「悪人の恰好のエサ」であることを、私たちは片時も忘れてはなりません。一瞬「憤り」を持ったからといって「即座に悪に染まる」とは申しませんが、それが常態化すると「大変危険な状況」に身を晒す事になります。何故ならそれは容易に「殺意」に変わり、「利害に関わる排他思想」へと変貌する時点で最早「立派な悪」としか言い様が無くなるからです。

        即ち「悪人に対する憤り(=怒り、憎しみ)」は禁物ということです。何故なら、それは「悪」にエサを提供する事に他ならず、「悪人はそれを待っている」からです。そしてその結果、果てしない「悪の連鎖」を生む事となります。
        では、悪人に対して(エサとなる)「憤りを持たない」ためにはどうすれば良いのでしょうか。

        それは「自分自身が被害者意識を持たない」事に尽きます。具体的には(相手の悪行に対して)「オレは別に構わないけど・・・」というぐらいの気持ちの余裕が必要ということです。何故かと言うと、人間は物事に於いて「自らの切羽詰まった利害」を意識すると、自己防衛本能に依って必ず「感情的」にならざるを得なくなるからです。そして追い込まれれば追い込まれるほど「なりふり構わなくなる」でしょうが、その時点で「自己中心思想」が働いてしまいます。これはどうしても避けなければなりません。

        容易に「他者の横暴や悪行に対する被害者」とならないためには、「自分の中のマージン(=ゆとり)」が決め手となります。例えば仮に「経済的圧迫」を被ったとしても、元々「節約」を旨とした経済感覚であれば、標準的なそれよりも(相対的に)「マージンが有る」事になります。こうしたマージンの持ち方、作り方は経済に限らずあらゆる事に適用可能ですので、総じてアクシデントに対する「冷静な対応」が取りやすくなります。

        では、そういう(辛抱や忍従を旨とするような)人は、何があっても涼しい顔をしていられるので、「正義の戦い」に参画する動機も気概も持てないかと言うと、決してそんな事は有りません。
        動機と気概は「責任」という二文字に集約されます。または「愛」という一文字に動かされるかも知れません。
        つまり、そのような人は常に「自分の利害のため」に動いているのでは無く、「みんなのため」または「相手のため」に動くという事です。それ故(感情に振り回される事無く)「沈着冷静」に「最良の結果」に向かって計画を立て行動出来るという事です。

        そのような人たちは、多分(悪人に向かって挑むのでは無く)これから悪人となるかも知れない人たちに向かってこう叫ぶでしょう。
        「どうか、大きな悪に心を奪われる事無く、自分の中の小さな悪心と戦ってください!」と。
        もし、その思いが通じるならば、この世から「悪」は消滅します。
        | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:03 | comments(0) | - |
        2月に寄せられた「検索キーワード」(2)
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          検索キーワードに対する「一問一答」の後半です。


          ◎道理と感情の優先順位
          「道理」を重んじるのは「理性」が働くからです。理性と感情の比率が7:3であれば、感情と言えども「道理」を妨げません。しかし理性の比率が下がると感情が道理を踏みにじる様になります。「理性」を高めましょう。

          ◎インチキな世の中
           多くの人々の本音が「自己中心思想」であるとすれば、社会では「嘘」を並べ立て、「体裁」を取り繕ってやって行かなければ立ち行きません。「競争と格差」を正当化する社会は必ずそうなります。やめましょう。

          ◎並列にするな
           物事を並列(=横の関係)的に見ても「現象の羅列」に過ぎませんが、直列(=縦の関係)として「原因結果の法則」に照らして捉える事で「理解と解決の糸口」が容易に見つかります。

          ◎親に信頼されてない
           当たり前ですが「信頼される事が正しい」のは、「相手が正しい」場合のみです。「間違っている相手」の信頼に応える事は「自分が間違わない事」ですが、それが気持ちとして伝わるためには「努力と時間が必要」です。

          ◎民意という暴力
           現代社会の問題として「民度の低い多数決」と「民意の捏造、意図的操作」が頻発している実体が挙げられます。一部の権力者によって「民意が暴力的に悪用」されやすいのが「民主主義の特徴」です。

          ◎神仏の修行はどうすればいい
           神仏の「善意」と「御力(みちから)」に疑いの念を抱かず、日々ひたすら「人間性」を培い養いつつ、それを「日常生活で惜しみなく発揮する」事です。何故なら「修行=衆業」だからです。

          ◎強か したたか
           元々は「悪い意味」では有りません。「強(したた)か」であるためには「思想」がしっかりと確立している必要が有ります。問題はその「思想の良し悪し」に尽きると思います。悪に流されない「強かさ」が必要です。

          ◎何でも出来ます 神人 OR 霊覚者 OR 覚者 OR 特殊能力...
           「霊能者」は何でも出来る訳では有りませんが、その役割は「神の代行者」と規定されていますので、任を果たすために最も重要なことは「思想的に神に近いこと」です。後は「神」が良しなに計らうでしょう。

          ◎霊的力学
           「霊的力学」の根源を為すのは「霊力」で、霊的に「払い、清め、高める」ための力です。変幻自在な万能エネルギーと言って良く、霊魂のみならず、人間も(無意識に)恩恵に浴するところの大きい力です。

          ◎アクシデントに強い人
           「冷静」であることが最も重要ですが、その上「経験智」が豊富で有れば盤石と言えるでしょう。人間が「冷静」を保てない原因は(生き死にを含めた)「自らの利害得失」にこだわるからです。

          ◎死ねば楽になる
           こう考えるのは全くの素人(しろうと)です。苦しみの末に死ねば(自殺であっても無くても)生きている時の30倍苦しむとされています。この数字は想像の域をはるかに超えています。生きて幸福を目指しましょう。


          以上、「一問一答」では不十分な面が多々有るかも知れませんが、何がしか発想のきっかけにでもなれば幸いです。
          | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:59 | comments(0) | - |
          2月に寄せられた検索キーワード
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            今回は、当ブログにアクセス頂いた方々の「キーワード」に対して「一問一答形式」でお答えして見たいと思います。


            ◎家 居たくない
             必ずしも親の考え方が正しいとは限りませんが、自分が未熟である事も事実です。その気持ちをきっかけに「独立心とバランス感覚」が共に成長する事を期待します。

            ◎世の中 極端
             おっしゃる通り「バランスの良くない世の中」です。「極端」とは本来「真ん中」を知るための手掛かりとして「知る必要」は有っても「目標」とすべきでは有りません。

            ◎戦争 側面 ビジネス
             国家間の戦争、大規模な内戦など「お金の掛かる戦争」は「側面」どころか「ビジネス」のためにわざわざ(巧妙に)計画されたものという報告も有ります。

            ◎心の拠り所 宗教
             心の拠り所は「宗教」ではなく「信仰」です。「宗教」とは「共通の信仰を建前とした(組織力を有する)社会的集団」であって、必ずしも目的が「信仰」とは限りません。

            ◎公共の精神(とは)
             「公共」とは「(自分も含めた)みんな」の事ですので、その精神とは「いつもみんなの事を考え、みんなで良くなろう、良くしようという気持ち」の事で、自分が率先する気持ちが重要です。

            ◎自己執着
             全てを「己の利害得失」に結び付けて考えざるを得なくする「自己を中心とした世界観」の元となる執着心。双方向に於いて「愛」と無縁となるため、失うものが余りにも大きい。

            ◎霊層高い人
             我欲や執着心に乏しく「人間性」の豊かな人。常に眼前の今(=責任)にベストを尽くせる人。霊的には与えられた「使命、天分、職業の道」に人事を尽くして天命を待てる人。

            ◎嘘をつくとはどういう事
             嘘をつく理由は「自分のため」か「相手のため」のどちらかです。どちらにしても「(予想されるダメージから)守る必要が有る」からで、その目的は「思想」に左右されます。

            ◎純粋な人 生きづらい
             このように感じるのは求められる「強さ」が足りないからで、挫け易いのは「思想的弱さ」があるからです。「思想的強さ」とは「寒風で皮膚が鍛えられる」様な「経験智」を指します。

            ◎学校は争いの場
             「学校」は「他者との様々な関わりが試される場所」ですが、「学校側にそのような認識が乏しい」ために「無作為に集う人々」への対応が十分でない結果「争い」が際立ちます。

            ◎悪人 必ず 滅びる
             悪は悪同士(論理的に)最後の一人になるまで潰し合いますので必ず滅びますが、霊的には(それを待たずとも)「退場」のタイミングが定められています。

            ◎なるようにしかならない霊的
             これは「霊魂の定めに無いものを望んでも適う事は無い」という意味では正しいと言えます。但し「悪魔に魂を捧げてまで霊的に無いものを得よう」とする人間もいますが、正直「悪魔の正体」を知らな過ぎます。

            ◎気遣いとは 心遣いとは 違いは?
             「気遣い」は「立場欲」などから発する「損得勘定」でも可能で、意識神経を使います。一方「心遣い」は「深い思い」が形に表れるもので(ほとんど無意識的であって)神経を使いません。両者は全く別物です。

            ◎けつおきせいかく
             申し訳有りません。「けつおき」の意味、用法が不明に付きお答え出来ません。


            続きは次回に。
              
            | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:05 | comments(0) | - |
            「悩み、苦しみ、迷い」について
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              生きることに関して「悩み、苦しみ、迷い」を持つのは、自分の「間違いや力不足」を教わるからです。これらは自分にとって「正しい状態」とは言えず、即刻改善の必要のある問題ですが、しかし「悩み、苦しみ、迷い」を全く感じないで生きるよりは、数段良い状態とも言えます。何故ならそれは「向上の意思」の表れでもあるからです。
              人間が悩み、苦しみ、迷うのは、色々な意味で「痛み」を感じるが故だと思います。痛い思いを避けたいと思えばこそ、無造作に分け入ったり踏み入ったり、増して何でもなぎ倒して進めば良いなどとは到底思えないという事ですが、逆に言えば「痛み」さえ感じなければ、そういう生き方も平気で出来てしまう訳です。
              そういった謂わば「ブルドーザーのような生き方」は、たいへんパワフルと感じられて羨ましがられる向きも有りますが、「他人の痛みや辛さ」が存在する事を理解出来ないまま、それらを踏みにじって進んでしまう恐れが多分に有り、それでは「自他共に良い」という結果は望むべくも有りません。

              自分が「痛み」を感じる事のメリットとして、自分の身の安全を確保出来る事と同時に、「他人の痛み」も理解出来る事が大きいと思います。例えば「料理の味」に敏感な人は、他人に対しても「おいしい料理」を振る舞うことが出来るのと同じで、このように物事は「痛み」であろうと「味」であろうと「感じることが出来る分だけ可能性が広がる」ことは間違い有りません。
              その際、自分は「美味しいもの」を食べるが、他人には「平気で不味いものを出す」という人は滅多にいないと思いますが、もしそういう人がいたとすれば、その人は自分の感性を「人生に於いて全く生かすことが出来ていない人」ということになります。何故なら、能力の使い道の優先順位として(感覚的には)「1に他人、2に自分」とすることで、実質的に「五分五分」となるよう出来ているからであって、そうでなければ「みんなで良くなる」という「人生の王道」は全う出来ません。

              このように「本質的」に物事を理解することは重要です。何故なら「悩み、苦しみ、迷い」などは何れも「努力の矛先」が定まらない、或いは「中途半端」であるということを示しているからです。例えば「生きる目的」や「人生の目標」が定まらなければ、何をやっても「虚しい」ということにしかならないはずです。その場合「虚しさ」自体が即ち「悩み」であり「苦しみ」であり「迷い」であることは間違いなく、もっと具体的に言うなら「自分の感性や能力の生かし方が解らない」ということになります。
              人間は「生きる目的や目標」がしっかりと定まりさえすれば、「必要な苦労」はあっても「悩み、苦しみ、迷い」は持たないものです。
              | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:57 | comments(0) | - |
              「悪」を制し得る「善」とは
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                皆さん、心根の優しい人の「悩み」が常に深く、お人好しな人がいつも「損をする」のは何故だと思いますか?それは「非力」だから。つまり「悪を制するだけの力が全く足りない」からです。これでは「悪」に翻弄されてしまうのは当然です。そしてそのことを意識すれば「苦しみ」が募り、意識しなければひたすら「損ばかりする」ことになります。
                このような「気の毒な人たち」の精神はきれいで、紛れもなく「善」であると言えます。それなのに何故、いわば「不幸な境遇」というものを甘受しなければならないのでしょう?これでは神も仏もあったものでは有りません。いえ、そうではなく、これは「力を付けて悪を制するべし」というメッセージなのです。しかし自分なりに「悪いことを考えない」ように努力して、いつも「きれいな心」でいられることを目標にがんばっているはずなのに、それ以上何が足りないというのか俄(にわか)には思い付きません。

                「心がきれい」というのは、確かに「周りがみんな善」であれば、何の問題もないでしょうが、それは言うなれば「無菌状態ならOK」という意味にしかならず、取り分け現代社会の特徴とも言える「競争原理に基づく自己本位(=悪)の容認」のもとでは「人との関わり」自体に難儀せざるを得ません。そこには基本的に「取り込まれるか弾き出されるかの二者択一」しか無いと思われるからです。
                これは「八方塞(ふさ)がり」の感が有ります。何故なら「心をきれいに保とう」とすれば、他人に悪意を抱く訳には行きませんが、さりとて他人の自己本位を認め、協力や加担をすれば「きれいな心」は保てません。しかし、だからと言って「孤立」してしまえば社会の恩恵は受けられず、他人の反感さえも招き兼ねません。いったいどうすれば良いというのでしょう?(実際イジメに至る経緯の幾つかは、これに通じるものがあると思われます。)

                ここで「心がきれい」という状態を分析して見ると、心の中で基本的に「悪を排除している」ことが解ります。方法としては道義的に「良いこと」「悪いこと」を仕分けて「良いことを選択」し、「悪いことはしないし考えない」ということでしょう。これは言葉を換えれば「良いものは解放し悪いものは抑圧する」という方法と言えますが、その前提として「人間の中には必ず善と悪とが存在する」ということが有り、肉体に「防衛本能」が備わっている限り、それは或る意味「正しい」と言えます。
                しかし、自分の心の中がそうであれば、それはそのまま他人や社会に対しても「そうだ」ということです。何故なら「内と外で思想を持ち分けることは困難」だからです。そしてこの場合「悪を抑圧する」ということが問題となります。何故なら「忌み嫌われ、抑圧された悪とは敵対関係」と成りがちだからです。このことが他人に対する気持ちとして「嫌いだ。でも嫌う事は悪だ。出來ない。でも嫌いだ。」となって延々と続き、神経を苛ませます。

                前述のことから「悪を抑圧する事は論理的な誤り」であることが解ります。ではどうすれば良いのでしょう。簡単なことです。「悪と敵対する」のが良くないのなら、「悪に協力してもらえば良い」のです。次にその方法を示します。
                まず、「良いことを心掛けて徳を積みたい」と思うなら、「ひたすら懸命に良い(と信じる)ことを行う」べきです。そしてその際「悪い心や良くない思い」が頭をもたげて来たら、そこでは「懸命に自分の悪に詫び、そして良いことを続けさせてもらえるようお願いする」ことです。特に当初は頻繁にそういうことがあるので、その都度「悪に誠意を以ってお願いする」ことが重要です。そしてそのようにしつつも、決して「良いことを行う気持ちをブレさせない」ことです。
                何故「悪に詫びる」「悪にお願いする」必要があるのでしょう?それは「そもそも悪は自分が作り、これまで育ててきたもの」だからです。それなのに自分の都合で一方的に「引導」を渡されて、いったい誰が承服出来るというのでしょう。
                それに、「悪」は単なる「悪」でしか無い訳ではなく、本人の重要な「経験値」の一部であることを忘れてはなりません。「悪を排除する」という考え方は、この貴重な経験値をごっそりと失うことを意味し、一方「悪に協力を要請する」ことで、それをすぐさま活用することが出来、この差は実際取り返しが付かないほどに大きいと思われます。

                このように「善と悪の正しい関係」とは、本来「悪よりもはるかに大きい善の心」を以って「悪に協力関係を要請」することで、「悪の持つ経験値をも善が活用することで善そのものを成長させる」というものです。因みにこのようにして「善化された悪」は非常に有能で良く働きます。もちろんこれは「心の中」での話ですが、皆さんは「現実の社会」に於いても「これとよく似た改心話」に心当たりをお持ちではないでしょうか。
                | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 13:09 | comments(0) | - |
                自己主張(じこしゅちょう)の苦手(にがて)な人のために
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                  このところ大人向けの話が続きましたが、久々に「子どもたち」に向けた話をします。
                  みなさんは学校やお友だち関係の中で、きちんと自分の気持ちや考えを「いろいろな相手」に伝えることができているでしょうか?たぶん、そういうことが得意(とくい)な人もいれば、あまり得意でない人、中にはすごく苦手(にがて)な人もいると思います。
                  また、学校でも「相手に自分の気持ちや考えを正しく伝える」ことは良いことで、大人になるために必要(ひつよう)なことと教わるはずですから、後は「勇気を持って」みんなの前で発言するなどの訓練(くんれん)をしたり、上手な人を見習ったりしながら「だんだん慣(な)れて行こう」ということではないかと思います。その目的はもちろん「みんなと良い関係を作れるようになるため」です。

                  しかし、実はこのような話は今よりももっと前、少なくとも何十年か前だったら「役に立った」かも知れませんが、今のみなさんには、あまり「役に立たない」と思います。私がそう思う理由(りゆう)はいくつか有ります。
                  まず今の人たちは「自分にとってはみんなが必要で、みんなにとっては自分が必要」という気持ちがあまり有りません。つまり「お互いに助け合って生きる」という気持ちが乏(とぼ)しいのです。
                  それともうひとつ、今の人たちは「どんどん自己主張してほかの人より前に出た方が得(とく)をする」と思っています。それはつまり「自己主張しないと損(そん)をする」と信じているからです。

                  どうして今の子どもたちがそういう気持ちでいるかと言うと、今の大人(=親や先生など)がそう思っているからです。
                  昔は社会の仕組(しく)みからして「みんなで力を合わせ、助け合って生きる」ようにできていましたので、生活の中で「いつもみんなで分ける」というのが普通(ふつう)の気持ちとして有りましたし、いつもみんながみんなのことを気にしていて、「誰(だれ)かに何かあれば助けよう」という気持ちもまた、普通の気持ちでした。そこには感謝(かんしゃ)と共(とも)に優(やさ)しさが必ずありました。

                  ところが今は社会の仕組みが昔とずいぶん変わってしまい、それに連(つ)れて「お互いに助け合って生きる」必要もなくなってきました。つまり、一人一人が「自分のことだけ」きちんとやれば、ほかの人がどうだろうとあまり自分に関係なくなってしまったので、「人と分け合う」必要もなければ、人のことを気にする必要もなくなってしまったのです。
                  つまり今の社会は「人が集まっている」ということだけは昔と同じでも、「人と力を合わせたり、気持ちを一つにする必要がない」ため、「ほかの人たちへの感謝や優しさを必要としない」社会ということが言えると思います。

                  ただ、それは人との人間らしい関(かか)わりがなくても「お金には困らないかも知れない」というだけの意味でしかないことは、ぜひ知っておいてほしいと思います。実は「人間が困ること」とは、何もお金のことだけでは有りません。それが証拠(しょうこ)には、今みなさんが持っているかも知れない悩(なや)みの多くは「お金の問題ではない」はずです。たぶん「心や友だち関係」のことがほとんどではないでしょうか。それはたとえ大人になっても変わりません。
                  ですから私には、そういった今の社会はあまり「良い社会」とは感じられません。そして、そういう「あまり良くない社会」に合わせた自分に自分でして行くことは、みなさんの幸(しあわ)せを思う時に、どうしてもおすすめする気持ちにはなれないのです。

                  もちろん、喜んで自己主張をして、みんなよりも一歩でも前に出ようとする人は、その人の自由ですし、少なくとも今の社会では目立つことができて、活躍(かつやく)することができるかも知れませんが、「それだけで本当に幸せになれるのかという問題」はまた、別の話だということだけ知っておいてもらえたらと思います。
                  そのことよりも、問題は「自己主張の苦手な人はどうするべきか」ということだと思います。私の希望(きぼう)としては、そのことにコンプレックス(=自分は人よりもダメなんだという気持ち)を持たないでほしいと思います。「自己主張できない理由」はだいたい次のようなことです。「人とケンカや取り合いになるのがイヤだから」「人の気持ちをキズつけたくないから」「自分に自信がないから」「人に悪(わる)く思われたくないから」「はずかしいから」

                  これらの理由には、とても大切な人間としての気持ちがいくつも含(ふく)まれています。まず「人に対する優しさや思いやり」です。それから「自分に対する謙虚(けんきょ)さ、慎(つつ)ましさ」が有ります。それと「結果(けっか)を予想(よそう)する力」「慎重(しんちょう)さ」「欲張(よくば)らない気持ち」「善悪(ぜんあく)を判断(はんだん)する力」「全体(ぜんたい)を見る力」なども有るかも知れません。
                  つまり、これらの気持ちはすべて「社会性」にとって必要なものなのです。むしろこの人たちはそれが「人より劣っているのではなく、人より優(すぐ)れている」ために見かけ上「人に遅(おく)れを取っている」ように見えるだけだということです。どうしてかというと、「自己主張」という元々は「社会的とは言えないもの」をものごとの中心に持ってこようとするからです。良い社会、良い関係を作ろうと思うなら、そこに「自己主張」ではなく、「みんなにとって良いと思う考え」を初めから持ってくるべきだと思います。そうすれば「自己主張は苦手」とする人たちも、喜(よろこ)んで参加(さんか)できると思います。

                  そういうことですから「自己主張の苦手な人」は、逆にそれを自分の「長所」として、社会性と優しい気持ちでぜひ、自分らしい生き方を見つけてほしいと思います。
                  | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 12:15 | comments(0) | - |
                  何でもかんでも「並列関係」にするな
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                    物事の仕組みは「縦の関係」と「横の関係」で作られています。もちろん社会構造も人間関係もそうです。(本質論としては「縦横陰陽」で説明されますが、そのことは取り敢えず置いておきます。)
                    人間も普段から(半ば無意識に)縦と横の関係を感じながら生きています。実は、そこには果たして「何が自然で何が不自然か」という厳然とした論理的整合性が存在するのですが、近年に於いては「それを無視したり取り違えたりすることによる歪(ひず)みや軋轢」が多々見られるようになりました。そもそも「物事を正しく理解する」ということは「縦横の関係を正しく理解すること」と言っても過言では有りません。ですから、まずそこでつまずいてしまうと、物事は決して良い方向には向かいません。

                    そこで最初に押さえておきたいのは、人間にとっての「縦横の関係」とは具体的に何を指しているのかということですが、言葉の持つイメージから、間違っても「縦とは縦社会のことで、一般的な権力構造に於ける上下関係」などと思わないで頂きたく、一応釘を刺して置きます。
                    まず「縦の関係」とは「責任という概念を前提とした抱合関係」のことです。おそらく、その殆どは「親子関係」になぞらえて説明可能な事柄になると思われます。
                    次に「横の関係」とは「責任という概念を前提としない協力関係」のことで、前者に倣(なら)うならその関係性は「兄弟(姉妹)」に例えられるものと言って良いでしょう。これはもちろん、兄弟同士の関係性で責任の概念が全く生じないという意味ではなく、あくまでも「構造的なものか否(=任意)か」というレベルでの問題です。

                    次にいくつかの例を挙げて、問題点を押さえて行きたいと思います。
                    例えば、現在も沖縄の普天間基地の辺野古移設問題で、国(=日本政府)と沖縄県(=地方自治体)の関係が割れていますが、この場合の「国と地方」との関係は「縦の関係」即ち「責任という概念を前提とした抱合関係」に相違なく、間違っても「責任構造」から外れた「並列関係」ではないはずです。従ってノーマルに考えるなら、国は「親が子を思う気持ち」で問題関係に手放しで臨むべきであるはずです。その際「最も重大な誤り」が考えられるとすれば、それは国が「強権」を発動してゴリ押しすることであり、それは我が子の苦しみに対して「親の顔に泥を塗るな!」と凄んで見せることと同じです。そこではいつの間にか「親と子が並列関係」に陥っていますが、これは明らかに「親の間違い」です。

                    また、世の中の母親の中には「夫婦の離婚」を年端も行かない我が子に説明する際に一言も詫びること無く(欧米流と称して)「だってママが幸せを感じなかったらアナタも不幸でしょう?」という理屈をコネる人がいるそうですが、これも典型的な「親子関係の歪曲」であって、物の見事に「親子関係を並列化」していることになります。何故なら、それは言葉を変えれば「ママが楽しくない時は、オマエの世話は出來ないヨ」と言っているのと同じだからです。いったいこのような発想のどの部分に子どもは「親の愛」を感じることが出来るというのでしょうか?子どもの人生が「親の気分」で左右されたのでは、子どもはタマったものでは有りません。是非ご一考頂きたいと思います。
                    因みに「母親」に限らず「父親」でも同じことですが、たまたま聞き及んだ話がそうだということで、それ以上の「他意」は有りません。

                    とにかく、今の人たちは「責任」という言葉を殊更嫌うようです。いや、「責任者」という響きは好きだが「責任を取ることは嫌い」と言い直した方が良いかも知れません。(そういう総理大臣を一人知っています。)そのため、何でもかんでも「並列関係」にしてしまうのですが、それは「不幸の原因」にしかならないということに早く気が付くべきです。何故なら、それは「本質的な誤り」だからです。
                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:02 | comments(0) | - |
                    「純粋な人」というキーワードについて
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                      「純粋」という言葉を心に対して用いれば、「心がきれい」「心に穢れ(=汚れ)がない」という意味になると思います。そしてその事自体はとても良いことに違い有りません。ところが一方では「純粋であること」自体が悩みや苦しみの原因にもなっているようです。それはなぜでしょうか?

                      まずひとつには「感じ方や考え方がほかの人と違っていて孤立感を持ちやすい」ということが有るかも知れません。
                      また、「ちょっとしたことでもほかの人より強く感じてしまいダメージを受けやすい」とも言えます。
                      更には「他人の心がきたなく醜(みにく)く思えてしまい、だんだん人を避けるようになる」ということも有り得ます。

                      これらの苦しみの要因は「純粋が少数派」ということにあります。単純に「社会はみんなと違うと生き辛(づら)い」ものです。なぜなら気持ちの上でモノにいちいち引っ掛かっていると疲れてしまうからで、出来ればスンナリ行きたいという気持ちは誰しも同じだと思います。
                      このような日常的な「疲労(ひろう)感、消耗(しょうもう)感」が「純粋な人」にとっての大きな障害となります。

                      ところで「赤ちゃんはみんな純粋」です。それがなぜ成長の過程で多くの人たちが不純とは言わないまでも「純粋ではなくなっていく」のでしょうか?
                      それは親を初めとする大人たちとの関わりの中で、「妥協(だきょう)と洗脳(せんのう)」がくり返し行われるからだと思います。それは決して悪気があってのことではないのでしょうが、とにかく大人たちのイメージの中での「生きやすさ」を子どもに身に付けさせようという狙いがあっての事ではないでしょうか。つまり「赤ちゃんのように純粋のままでは生きにくい」と考えられているということです。

                      なぜ「純粋だと生きにくい」とされてしまうかというと、今の社会の大本(おおもと)が「競争原理」で作られていることに関係していると思われます。競争とは「勝ち負け」や「優劣」のことです。競争の「争」は戦争の「争」と同じで「人と争う」ことです。とにかく「自由に競争できること」が社会の多くの人の「やる気」にとって必要とのことらしいのですが、それが本当に正しい考え方かどうか、もっと別の良い方法があるかどうかについては、現在はあまり問題にされていないようです。(だからといって問題がまったく無いわけではなく、むしろ課題は多いと言えます。)
                      ただはっきり言えることは、「純粋な人は他人との競争には不向き」だということでしょう。

                      話が長くなるので、最後に「純粋な人が今の社会で楽しく生きられる方法」について考えて見ることにしましょう。
                      まずしっかりとした「大きな目的」を持つことです。それは「大きな夢」であっても構いません。自分の力で実現可能かどうかもあまり関係有りません。とにかく「純粋であることを活かす事のできる目的」が必要です。

                      次に「みんなの役に立つ自分」をイメージして、そのための備えをしましょう。これももちろん「純粋な人にしか考え付かないし、できないこと」でなければなりません。たぶん出番はそんなに多くないかも知れませんが、その意味では「消防士さん」だって同じです。むしろ出番は無い方がいいけれど、備えは必要ということで良いのではないでしょうか。(但し出番は必ず有ります。多くの人が赤ちゃんの笑顔で救われるように)

                      そして最後に、「相手の悪い部分を悲しむ」のではなく、「相手の良い部分を引き出してあげられない自分の力不足を悲しむ」ようにしましょう。

                      これらのことは「社会や他人と心でつながっているために絶対に必要なこと」です。そして「何事も心がつながっていれば苦痛とはならない」ことを証明する良い機会でもあります。ぜひ試してみてください。
                      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:03 | comments(0) | - |
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