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最近続き過ぎる「閣僚クラスの政治家」の不祥事
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    これら一連の問題は(総理大臣を筆頭に)どれも(人としての)レベルが低すぎて、そもそもそんな話を耳に入れたくもないし、それについて話したくもないというのが正直なところです。

     

    思えばどこの小学校の教育目標にも「考える力を養う」という類のものが掲げられており、それは当然「自分で考えられた分だけ自分で行える」という意味を含んでいる訳です。そうなると最近の(不祥事絡みの)政治家諸氏は、この「考える力」も無いとしか言いようが有りません。何故なら、見ている限りでは「不祥事の後の身の振り方」がまったく道理に適わず「なってない」からです。どの人も少なくとも「自分で考えて自分で行動する能力が有る」とはとても思えない対応で、それは強いて言えば「何が起こったか判らずその場に茫然と立ち尽くしている」姿に限りなく近いものです。それが証拠にほとんどの人たちが「辞任しない、辞職しない」からです。但し(曲がりなりにも)発言等に対する「謝罪、訂正、撤回」が行われているのは「自分で考える力」によるものではなく、さすがに「誰かに背中を押された」からです。つまり本来は(背中を押されなければ)揃いも揃ってそれすらも出来ない人たちということになります。(それってヒド過ぎませんか?)

     

    とにかく「考える力」が無いことが判明した限りに於いては、この際「謝罪、訂正、撤回」に留まらず、「辞任、離党、辞職」の必要な一連の行動に関しても、逐一「誰かが」というより「みんなで背中を押してあげるべき」だと思います。そうでないと、この人たちは(その場で茫然としたまま)いつまで経っても自分で態度を決することが出来ないようです。それではいつまでも晒しものとなって気の毒ですし、みんなも大いに迷惑しています。つまりそうすることがお互いのためだということです。

     

    因みにそういう不祥事絡みの「考える力の無い人」の多くで東京大学、財務省など学歴、経歴共に一流の人たちを見かけますが、「勉強の仕方を誤ると肝心の小学校レベルの考える力さえまったく育まれない」という好例とされ「要警戒」と言えるでしょう。

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:38 | comments(0) | - |
    「人格形成」の実践について
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      よく宗教的に「悟り(覚り)」を開くとして、座禅や瞑想、断食や山中での荒行などが挙げられますが、これらは基本的に「独りの環境」が前提となっています。それらの良し悪しについては、この場では敢えて申しませんが、こと「人格形成」に至ってはそのような「単独の場」よりもむしろ、社会に於ける「人との関わり」の中で実践する方が遥かに効率的且つ合理的と考えられます。何故なら、そうした環境の下では自動的に「責任や負担」が目に見える形であらゆる行動に付与されるからです。それらは「人格形成」にとって非常に有効に活用されることになります。

       

      例えば社会生活に於ける「共同作業」や「分担作業」の場を想定して見ると、そこに参加する人々が最初に行なう事は「役割分担の振り分け」に違い有りません。(それが無ければ社会は単なる「烏合の衆」に過ぎないからです。)その際気付くことは、役割にはそれとなく「人気の高いもの、低いもの」「人が好むもの、嫌がるもの」などの評価の違いが有るということです。

      その差がどこから来るものかと言えば、一般的には「楽なもの、簡単なもの」が好まれ、反対に「キツいもの、難しいもの」が敬遠されるという図式となっているはずです。つまり普通の人が普通に考えればそうなる、ということです。

       

      実はそこに「人格形成」のツボが隠されています。それは一言で言えば「ことごとく人の嫌がることを選択せよ」となります。つまり自分のベクトル(方向性)を決して「楽で簡単」な方向に向けないということです。

      これは(あれこれ捻出され考案された)単なる「難行苦行」とは異質のものです。何故なら、それは必ず「誰かがやらなければならないこと」であり、ただそれを「率先してやっている」に過ぎないからです。

      このように「社会性」と一体となって形成されて行くべきものが、本来の「人格」であり「人間性」であるということです。これによる「人間的成長」が著しいことは言うまでも有りません。何故なら「苦はやがて楽と感じられ、困難もやがて簡単に思える」ようになるからです。

      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:31 | comments(0) | - |
      電車に乗ると分かること
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        電車に乗るといったい何が分かるのでしょうか?ハイ、人々の精神的実態、ひいては社会の精神的実態が良く分かります。別にそういうことを見たくて知りたくて乗っている訳では有りませんが、結果的に「嫌でも見せつけられる」ことになってしまうのです。それは何故でしょうか?

         

        それは多くの人々は一歩家の外へ出ると、その間「真っ当な社会人」を演じ続けなければならない現実があるからに他なりません。謂わばその姿は「素(す)の自分ではなく、演技そのもの」と言って良いものです。

        つまり殆どの人たちのメンタルは「真っ当な社会人」と言える代物ではなく、ただ様々な理由から「それを演じる必要性」だけは認識している、ということになります。

         

        どうしてこんな事になってしまったのでしょう?それはそのような「裏表を使い分けるメンタリティ」を容認、或いは推奨する教育を施されて来た結果だと私は思っています。これは戦後日本の「自由主義経済を社会基盤とした弱肉強食的競争原理」に基づく教育の下では、むしろ当然の事と思われます。

         

        そうした社会環境にあって、例えば競争相手(=ライバル)に対して「自分を磨いてくれる良き友」と思うか、それとも「自分の存立を脅かす敵」と思うかは、まったく各人に一任されており、教育的に整合性を以ってコントロールする事は困難です。何故なら人々にとっては、そんなことよりも「競争による勝敗の結果」の方が遥かに深刻に違いないからです。(この状況下での表面的な道徳教育など、人々に余計に混乱をもたらすに違い有りません。)

         

        電車の話に戻しますが、そこは人々にとっては(基本的に)お互いが「何の社会的しがらみも感じなくて済む精神的に開放された空間」と感じられる場であるようです。その意味で多くの人たちは(おそらくは無意識でしょうが、無防備にも)「素顔をさらけ出している」ことが多いのです。そうした顔は少なくとも「職場や所属するグループ内」では有り得ない、どちらかと言えば「家の中での顔」に近いものと思われます。

         

        近年は乗り込むとすぐにスマホや読書に耽る姿を多く見かけますが、問題はその表情や風情がどの人も(良く見ると)「辛そうであったり、苦しげであったり、暗く陰鬱であったり、或いは必死に何かに没頭しようとしていたり」と、人によってニュアンスの違いは多少有っても共通して周囲に対する「無視、無関心、無頓着」という或る種の「排他性」が見て取れます。(その様子からは本来の社会性など微塵も期待出来ません。)

        しかし現実はこのように「裏表のある人々」によって、(かろうじて)社会が支えられているということです。

         

        このような社会を(心の奥底では)誰も望んでいないに違い有りません。それは「演じ続けなければならない」こと自体が道理に合わず苦しいことだからです。にも関わらず何故私たちは演じ続けなければならないのか。それは「社会システム(=経済システム)」自体が私たちに(有ろうことか)「反社会性(=自己中心主義)」を要求するという本質的な「矛盾」が原因です。

        私たちはこの「矛盾」を即刻正さなければなりません。

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:07 | comments(0) | - |
        「破綻」の時代は「居直り」の時代
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          今年は「瓦解、崩壊」がキーワードですから、その結果として様々な物事が「破綻」します。その中には当然、人々の暮らし向きや立場なども含まれる事となるでしょう。

          普通は「破綻」すれば色々な意味で「追われる身となり、身の置きどころに窮する」はずですが、最近の傾向としては、それよりもむしろ「居直り、開き直り」に転じる人々が増えているようです。この傾向は以前から知られているところの「逆ギレ」という現象に通じるものが有るように思います。その特徴はどちらも「論理的思考を放棄している」ということです。

           

          人間は追い込まれると、その最大の関心事は「自己擁護」となるようです。一方で平素、社会の一員として社会生活を営む上では「他者とのバランス」が必須とされ、そのため(曲りなりにもそれなりの)「論理的思考」が求められる事になります。しかしどうもその時点から(本音では)それを「不本意」或いは「苦手」として、バランスを取るための「論理的思考」自体をストレスと感じている人々が多くなり、その結果すぐに「逆ギレ」するということだと思います。

          つまり「逆ギレ」も「居直り、開き直り」も、それから(今朝も報じられていた)「轢き逃げ」なども全て、その人間の平素からの「本音」そのもので、言い換えれば「元々そういう人間」ということです。

           

          取り分け、今の日本を象徴しているのは、再三にわたって「総理大臣が国会答弁で逆ギレ」と報じられ、国民がそれをこれまた「看過」していることです。これはつまり日本政府そのものが(理詰めで追い詰められると)「逆ギレ」し、「居直り、開き直り」を先陣切って体現しているということであり、更に驚く事には、国民もそれを目の当たりにして「余り違和感を感じていない」と思われる節が有ります。

          これには国民がそれを「見慣れた」とか「慣らされた」というより、むしろ「わかる、気持ちわかるよ」みたいな低レベルの「同類意識」が働いているのではとの懸念さえ覚えます。

           

          しかし良く考えて下さい。「破綻して居直る」ということは、自己擁護に徹する余り「社会的責任を一切負わない」と宣言しているのと同じです。政府が率先してそれを行ない、国民の皆もそれに準ずるとなれば、それは直ちに「社会全体の崩壊」を意味することとなります。(その兆しは既に随所に出始めています!)

          誰も責任を負わない世界・・・それは醜悪極まりない世界です。そうなって真っ先に途方に暮れるのは自分自身、つまり私たち自身に他なりません。(たぶん生き延びることさえ困難でしょう。)

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:31 | comments(0) | - |
          「誰も信じるな」と教わる子どもたち
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            これまでにも世の中では私たちに「人を信じることを躊躇(ためら)わせる」ような出来事が数多く起こって来ました。「振り込め詐欺」などはその典型とも言えますし、現職の警察官や教師などが「立場上の社会的信頼」を逆手に取って行なう悪質な犯罪も後を絶ちません。

             

            そのような流れの中で、子どもを守るべき「小学校の保護者会会長が容疑者」というニュースを聞かされて、世の中の人々は何と思うのでしょうか。「ああ、やっぱり人を信用しちゃいけないんだ」と改めて悟らされた、とでも言いたいのでしょうか。もちろん安易にそう結論付けるのも自由かも知れませんが、社会の人々の大勢ががその方向に流れた時に、社会がいったいどういうことになるのかだけは知っておく必要が有ると思います。

            その理由は、結果を見て後で「こんなはずじゃなかった」などと騒がなくても済むようにです。

             

            私は「他人の言葉や考えをむやみに受け入れない」事と「人を疑って掛かる」事は(似ている様で)別の事だと思っています。それは「いつも人の身になって考える習慣」を持って暮らしていれば容易に理解出来ます。

            例えば「商売をしている人」の身になって物事を考えれば、その人が目の前の客に「何とか少しでも多く買ってもらおう」と思うのは当然の事です。そしてそのためには客である私のことを「親身になって考えてくれている」と印象付けようとするのも当然の事です。そういう人の言葉は大概「私のことを心配して購入を勧めてくれている」様に聞こえますが、それもまた当然の事です。その時点でこの「商売人」の人には何の落ち度も有りませんし悪意も有りません。つまり「信用して良い」のです。

             

            但し、私が相手に勧められた商品を買うか買わないかは、それとはまったく別問題です。

            どういうことかと言うと、商売人の人が商品を私に勧める理由自体があくまでも「一般論」の枠内に於いてのものであって、何故ならその人は私のプライベートな事情を話の内容に反映させ得るだけの十分な情報を持ち得ないからです。

            しかし私の方では相手の話す「一般論」に「自分しか知らない個人的事情」を掛け合わせたものを判断材料にする訳ですから、相手や相手の話を何ら疑う必要もなく「要らない」と言うことが出来ます。

             

            例えば「これはお買い得ですよ!」というお勧めも「一般論としてそうだ」という話であって、それが必ずしもこちらの「個人的な事情」と合致するとは限らないのです。言い換えれば「欲をかいて騙される」とは、この「一般論」に振り回されてプライベートを軽視することで起こります。つまり「無い袖は振れない」はずなのに、袖が有るように錯覚するということです。

             

            ここで最初の話に戻りますが、社会のみんながお互いに「誰も信じられない」ということになれば、一人一人が孤立します。そういう人々が頼るものと言えば、いよいよ公的な「社会システム」だけになってしまいます。

            それら既存のシステムが一人一人を完璧にサポートしてくれるのなら、それも有りかも知れませんが、それは警察に「私個人を100%護って下さい」と言っているのと同じで、現実には有り得ません。

            つまり「誰も信じられない」先には、孤立感漂うスカスカの世界が広がっているということです。そこから逃れるにはバーチャル世界に身を委ねるしかありません。それとも全部ロボットにお任せしますか?

             

            何れにせよ「誰も信じるな」という教育は間違いだと思います。

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 17:26 | comments(0) | - |
            小学校の6年間で人間の基礎が出来る
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              例えば中学校生活〜高校生活の6年間は「思春期」などと呼ばれ、希望と混沌が織り交ざる中で人間としての基礎固めに重要な時期との認識も誤りでは有りませんが、一方でこの先「どういう中学生、高校生になるのか」の概要がその有り様によって半ば決まりかねないのが小学校の6年間であるとすれば、保護者として子どもの成長や移り変わりにしっかりと注視し、必要に応じて惜しみないサポートを行わなければならないものと思います。

               

              皮肉な話ですが、国民の間に「愛国教育」を広め浸透させようと考える人たちの悲願とも言えるべきものが、例の「森友学園の瑞穂の國記念小学校開校計画」に象徴される「小学校教育を中心とした愛国教育」だった事が、小学校教育6年間の重要性を暗に物語っています。つまりその時期に(学力とは別に)どういう思想教育が為されるか、或いはどのような「思想環境」の中で育まれるかは、その人間の将来の基礎として非常に重要な意味を持つということです。

               

              誤解の無いように申し上げておきますが、少なくとも公立の小学校の場合では「特定の政治教育や特定の宗教教育を行なってはならない」とされていますが、それ自体が「中立性を保とう」という一つの思想的結論であり、その意味では当然「憲法」も「教育基本法」も思想的裏付けと共に在り、文科省と言えども「時々の思想的影響下」にあることは間違い有りません。

              つまり「人間形成」と「思想的確立」は不可分のものと考えるのが妥当ということです。(人間が「無思想」などということは有り得ません。)

               

              今現在、子どもたちの小学校生活に於いて最も不足しているものは、未来に対して子どもたちが自ずと肯定的になれるような「思想環境」と言わざるを得ません。それは「愛国心とか競争心」とは無縁の「他者を思いやりいたわり自然に認め合う平和で穏やかな気持ち」「自分も人も同じと自然に思える気持ち」の裏付けとなる「思想環境」が決定的に足りない様に私には思えてなりません。(それじゃそりゃ不幸にもなります!)

               

              そういう心(=思想)の乏しい大人たちが寄ってたかって何をしても、残念ながら子どもたちの幸せな未来を作るお手伝いなんか出来っこ有りません。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:27 | comments(0) | - |
              私たちはいつも「何かに加担」している。
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                これも当たり前のことで、私たちの日々の生き方や考え方、立ち居振る舞いの一つひとつが、(たとえ自意識が希薄であっても)客観的に見ればれっきとした「自己表現」でしか有りません。ただそこには、人によって表現の「強弱」があるに過ぎません。

                 

                例えば、当ブログでも何回か取り上げていますが、現政権発足以来(不当な圧力や利権絡みによる)「公共放送NHK」の偏向振りは目に余るものが有り、今や国民生活を危機に陥れ兼ねないレベルに達していると言っても過言では有りませんが、その時点で「NHKを見ない、信じない」という人がいるかと思えば、未だに「(公共放送だから)NHKの言ってることが本当だ」とばかりに「NHKを信じて疑わない」というNHKファンもいるでしょう。

                 

                しかし、こと「森友学園問題」の扱いなどに露骨に表れている様に(姑息な情報操作を積み重ねる事で)現在のNHKが極端な「政権擁護」の偏向振りを示していることは、実際誰の目にも明らかとなっています。(これはNHK単体では無く、可能な限りのテレビ局や他のメディアも同時に見比べてみる事で、より鮮明化します。)

                にも関わらず、依然としてNHKを支持し続け、そこで提供される情報を鵜呑みにし続けるという時点で、その人は「(NHKを媒介として)現政権を支持する態度を社会的に表明している」ことになります。それは言い換えれば「現政権の補完勢力の一員」にされているということです。

                 

                これはほんの一例を挙げたまでで、ただ「テレビ(番組)を見るか見ないか」という、極めて日常的でプライベートな事柄であっても、私たちはそこで「社会に向けた自己表現」を無意識無感覚に行なっているという事ですから、一日を通して見ればそこでは数限りない潜在的な意思表示(=支持=加担)が行われているということになります。

                つまり私たち国民は「直接的な行動」をしていないから「加担していない」というのは体の良い「錯覚」に過ぎず、場合によっては「何もしない、何も言わない」ことを以ってさえ、それが「何らかの(消極的な)加担」であることは間違い有りません。

                 

                私が敢えて申し上げたいのは「後で泣き言をいうのは、やめて欲しい」ということです。おそらくそれらは「自分は知らなかったし、まったく関わってもいない。完全な被害者だ」というようなことだと思いますが、子どもであれば確かにそうでしょうが、大人の場合それは「無し」です。何故なら「知る機会は幾らも有ったし、判断の材料も猶予も十分有った」からで、唯一後悔する原因が有るとすれば「損得勘定を誤った」ことぐらいでしょうか。

                 

                話は変わりますが、私は自分の父母が「先の戦争」について多くを語ろうとしなかった理由は、最低限「加担したこと」を認めるだけの知性と良心を有していたためだと今でも思っています。(それ故、私は絶対に加担するまいと心に誓っています。)

                何れにしても、国内状況も世界情勢も、もはや予断を許さない緊迫感と危機的状況に満ちています。そうした中で今、正しいと信じる方向に「加担」しておかないと、その人は後でしっかり後悔する事になると思います。

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:29 | comments(0) | - |
                自民党は終わった。国会で究極の暴挙!
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                  国会の場において何を以って「究極の暴挙」とするか。それは「議会制民主主義」の根幹を踏みにじる事に他ならない。例えばあの手この手のからめ手を使い、のらりくらりと言い逃れに終始し、詭弁を弄してけむにまくと言うのなら(たちは悪いが)まだいい方だが、今回は違う。衆院厚生労働委員会の場で自民党の丹羽英樹委員長自らが、森友学園問題に関する野党議員からの質問を「議題に関係の無い質疑」として一蹴し、答弁を求められた安倍総理の逆ギレに露骨に加担したばかりか、何を思ったかその日の予定には無かった法案の強行採決という暴挙にまで及んでしまったのだ。これは「議会制民主主義」が既に政権与党である「自民党」によって破壊されてしまった事を意味している。

                  関連記事(外部リンク)はこちら→ http://lite-ra.com/2017/04/post-3071.html

                   

                  独裁政権を望むならば別だが、あくまでも「国民主権」「民主主義」が良いのならば、今すぐ安倍政権と自民党(及びその補完勢力)を政権の座から引きずり下ろすしかないだろう。

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:27 | comments(0) | - |
                  世の中には二通りの人がいる
                  0

                    世の中には二通りの人がいて、それは逆に言えば「二通りの人しかいない」ということになります。

                    まず一つには「(鬱蒼とした藪の中に)道を切り拓く」人がいて、その後に続いて「道を拡げ踏み固める」人がいます。

                    これは「分業」が良いと思います。何故なら「道を切り拓く」ためには相応の知見とエネルギー、そして何よりも相当の勇気が必要となり、誰もがその要件を満たせる訳ではないからです。

                    一方で「道を拡げ踏み固める」作業では、危険度は低いものの、地道で丹念な仕事振りが求められ,微に入り細にわたる心配りが無ければ安全安心が確保出来ず、せっかくの道を「活かし切る」ことが出来ません。

                    この事は見方によっては、私たちの社会を理想に向かわせる力として「智慧と勇気」と「愛と情け」の合力が望ましいことを表している様に思われます。

                     

                    この事を私たちの現状に当てはめて見るならば(昨日も記事にしたように)、確かに「社会の閉塞感」を打ち破り、切り拓こうとの「真っ当な動き」が随所に感じられるのは事実ですが、惜しむらくは「後に続こうとの動き」「道を拡げ踏み固める動き」と、それに伴うパワーがまだまだ不足しているように思えてなりません。

                    実際に「道が道である」ためには、後に続く私たちがそれらを「本物の(使える)道」に自らの意思でして行く必要が有る様に思います。それが誰のためかと問われるなら、真っ先に「私たち自身のため」に違い有りません。何故なら(その道とは)私たち自身が利用する道に他ならないからです。

                     

                    このように「切り拓く人」と「踏み固める人」が同じ目的のために「同等」であり、お互いに感謝し合える(至極当たり前な)社会が、私の望む社会像でもあります。

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:44 | comments(0) | - |
                    真っ当な人々は「希望的観測」をしていない
                    0

                      一昨日もまた「今村復興相の激昂問題」で、「自主避難者は自己責任」などのトンデモ発言が飛び出すなど、現政権及び現役閣僚に対する国民の不信感は募る一方と思われる。

                      関連記事の外部リンク→ http://lite-ra.com/2017/04/post-3051.html

                       

                      これらの真実が露呈するのは、一重に(昨日の記事にもあるように)真っ当な人々の地道な活動有っての賜物と思う次第だが、それではその「真っ当な人々」は希望的観測のもとに明るい展望を描いているのかと言うと、必ずしもそうとは言えない様だ。中には(冷静に分析した上で)「現状は既に末期的様相を呈しており、社会の致命的崩壊は避けられない」と判断する向きもある。つまり平たく言えば「もうだめだ、間に合わない!」という話である。

                       

                      例えば「声を大にして正論を唱えたからと言って、必ず(望んだ)結果が付いてくるとも限らない」という事は、確かにあるだろうし、そればかりか(現状の如く客観的には)「もはや手遅れか」と思いつつも、結果的に終始一貫した行動を取り続ける場合もある。それはどうしてだろう。そして何のためだろうか。

                       

                      そこには何の理屈も無い、単に「自らの人間性に従う」という行動原理が在るのみである。それは本当に「損とか得とか」「上手く行くとか行かないとか」といった話とは無縁で、ただ「人間性を貶(おとし)めてはならない」という一念に尽きる。故に行動自体が「結果に左右されない」のだ。

                       

                      「何故そんなことをする?」「何故それがいいのだ?」

                      答えは簡単だ。「人間性に従うこと」こそが、この世で唯一「間違いなく自分にも良い、人にも良い選択肢」であることを知っているからだ。

                       

                      そう思えない人は「物の見方を知らない人」と、敢えて断言出来ます。

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 15:35 | comments(0) | - |
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