青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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勇気ある発言者が確実に増えつつある。
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    昨年は「陰謀論」として今まで半信半疑とされてきた権力による「陰謀の実体」が事実として白日のもとに晒された年と言って良く、それに伴い「陰謀論」という言葉自体も最早使うのも気後れするような「死語」となりつつある。何故ならそれらは「論争する余地や可能性」などではなく、認定された「事実」とされたからだ。

    しかもこれらの「事実認定」は、第三者によって究明された結果と言うより、むしろ「陰謀の当事者たち」自らがあらゆる場所のあらゆる機会に自分たちで勝手に曝け出した結果と言え、それは現在も続いている。有り得ないような話だが「もはや隠す必要はない」という判断なのか、それとも「隠しおおせなくなった」ということなのか、そうでなければ単に「イカれてしまった」としか思えない。

    何れにせよここに来て、過去何十年、いや何百年かけて営々と築き上げてきた「虚構の世界(=キレイ事)」は当事者たちの努力?によって呆気無く崩壊し、粉塵と化してしまった。(特にここ5年余りの変化は著しい。)

     

    これらは自ずと社会と人々の内部に「価値観の逆転現象」をもたらすことになる。解りやすく言えば「良いことが悪いことになり、良い人が悪い人になる」ということだ。そうなれば当然、今まで良いと信じて進んで来た人たちも(それが悪いとなれば)方向転換を余儀なくされる。

    だがその一方では、それでも尚(自己執着の余り)過去の幻影にしがみつき、価値観の逆転を認めようとせず、方向転換出来ずに終わる人たちもそれなりの数に達すると思われる。

    そうした中、社会に於いて今後しばらくは方向転換をする者としない者が交錯する状況が続くだろう。だが重要なのは「雌雄は既に決していて価値観の逆転が既に起きている」という事だ。

    社会に対する「勇気ある発言者が確実に増えつつある」という事が何よりの証拠で、その背景に「虚構の崩壊に伴う価値観の逆転」があるのは言うまでもない。

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:38 | comments(0) | - |
    「説得力=包容力(寛容さ)」のことです。
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      「説得」とは自説に対して他人が「受け入れる気持ち」になってくれることであって、健全な社会、確かな人間関係を構築していく上で大変重要な意味を持つ局面と考えられます。これはもちろん、威圧的な態度で大きな声を上げて強い口調で主張を繰り返せば良いというものでは有りません。(そんなことをすれば必ず先方の内心の反発を招く事になります。)

      また「説得」は商取引の様に「相応の(物理的な)対価を払って成立」するような場面にはおそらく無縁のものでしょう。(その場合は「取引に見合う対価」そのものが説得力と言えます。)

       

      「説得」とは元々「利害損得に対する認識」の異なる者同士の間に於いて「認識そのものの距離を縮める」作業と言って良いと思います。人と人との関係性は最終的には「理解(=認識)の共有」が望ましいのですが、互いの置かれた立場や環境の違い、更にはそれぞれに異なる文化的背景を持つことなどから、中々容易ではないはずです。しかしその解決に「力関係」を持ち込むことは全く正しく有りません。何故なら、そうした「論理的に未解決の問題」は必ず双方に強い不信感や不満感をもたらすものだからです。

       

      繰り返しますが「説得とは理解(=認識)の共有による論理的解決のための努力」なのですから、そのように理解出来ると何をどうすれば良いのか、何が必要なのかは自ずと見えてきます。

      利害損得の異なる相手と認識を共有したいのであれば、ひたすら「寛容」であるべきです。寛容とは広い心を以って相手を受け入れることですから、その時点で当然相手方の「利害損得」も受け入れることになります。

      つまり「説得」の基本は、こちらの主張を差し控えて相手方の「利害損得」をいち早く受け入れることに有ります。

       

      そこで「ではこちら側の主張はどうなってしまうのか」という疑問が生ずるのも、もっともだと思いますが、そもそも「利害損得」の問題は多くの場合、主張すべき主旨(=理念)そのものではなく、謂わば主題に到達する手前の障害物のような意味合いのものです。(例えば「戦争は反対だが軍需産業に従事している人々の生活はどうするのか」のような話です。)

      そこでどれだけ相手の諸事情に譲歩したとしても、それは「相手になるべく窮屈な思いをさせない」ための配慮であって、些(いささ)かもこちらの「理念」を曲げたことにはなりません。

       

      では反対に「寛容さ」を示そうとする事で、自分側が逆に「窮屈な思い」を強いられるのかと懸念を持たれる事も有るでしょうが、実はそれも正しく有りません。何故なら相手方に対してこちらがどれだけ「譲歩」出来るかという数値に絶対的な基準など無く、それは個々の「包容力(キャパシティ)」の問題だからです。その意味ではキャパシティの大きい人ほどあらゆる局面に於いて「余裕で譲歩」出来ることになり、それはつまり「説得」のために(譲歩に拠る)相応の損失を被ったとしても(人に依っては)「痛くも痒くもない」ことさえ有り得ることを意味します。

       

      豊かな包容力や人としての寛容さは当然ながら「一朝一夕」に身に付けられるものでは有りませんが、一般的には人間関係に於ける困難な状況や課題を真っ当に克服してきた数だけ、自然に身に付くものと考えて良いでしょう。そうした人としての進歩、向上の第一歩はまず、目の前の人間関係に対して「自分のリミットぎりぎりまで全力を尽くす」ことによってのみ踏み出す事が可能となるでしょう。(キャパシティが小さい内は余裕が持てないのも当然です。)

       

      「説得」とは人間関係全般のひとつの局面に過ぎません。そもそも人間関係の基本が「相手に先んじて相手を受け入れること」なのですから「説得力」も当然その延長線上に有るものです。それは特別な技術や業の話ではなく、「まず相手を受け入れるから相手にも受け入れられる」という物の道理に従って理解されるべきものです。

      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:15 | comments(0) | - |
      「陰謀論というレッテル貼り」自体が陰謀だった?
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        「カレイドスコープ」の以下の記事の中に「陰謀論(conspiracy theory)」という言葉自体が1967年にCIA(アメリカ中央情報局)によって、ケネディ大統領暗殺事件に対する真相究明の動きを封じるために考案された事が知られているという旨の記述が有ります。

        記事はこちら→ http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-5376.html

         

        また「世界の裏側ニュース」の2013年の記事には、すでにそれと同様の更に詳細な記述が見受けられますので「陰謀論=CIAの考案、意図的な使用」はほぼ事実と見て良いでしょう。

        記事はこちら→ https://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11626040630.html

         

        つまり「陰謀論、陰謀論者」というレッテルを為政者や時の権力者に不都合な情報や情報提供者に貼る事で、他の本当に荒唐無稽で如何わしく、価値の疑わしい情報と同等に扱い、その信憑性を著しく貶めるという極めて悪魔的な手法がここ50年余り用いられて来た訳であって、それが過去から現在に至る(権力側による反社会的な)「フェイクニュース(インチキ情報)」を側面から支え続けて来たことは言うまでも有りません。

         

        しかしそうした「陰謀呼ばわりするという陰謀」が白日の下に晒された今となっては、もはや惑わされる要素は何も有りません。(欧米では既に半数以上の人々が真実に気づき始めているとのことです。)ただマインドコントロールの結果「寄らば大樹の陰」的生き方に慣れ親しんだ(取り分け日本人のような)人々には、社会的に大きな変革を望むには今度は「自分自身の内面のヘタレ根性」が大きな障害となるでしょう。(自己防衛の意識の高い欧米の人々には余りそうした障害はなさそうです。)

         

        しかしちょっと考えれば判りそうなものです。「生みの苦しみを味わうぐらいなら生まない方が良い」という考え方自体が、完全な「自滅思考」であることぐらいは。また「誰かがやってくれるだろう」というズルい考えも今後は通用しません。何故なら益々世の中がピュアに近づいて行くであろうからです。

        これからは「誰が取り残されるのか」という結果が出る時代です。

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:28 | comments(0) | - |
        自らの行動に責任を負う時代
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          今日のタイトルだが、別に時代に関係なく(大人であれば)人間が自分の行動に「責任を負う」のは当然だ。ただそこで敢えて「時代云々」と言うのは、取り分け「対峙の時代」にあっては(それこそ執拗なまでに)その事を自分自身に言い聞かせて行かなければ容易に圧力に流されたり屈したりと、最終的に「身が持たなくなる」だろう事を懸念するからだ。そこではある意味「他人は他人、自分は自分」というクールさも必要となる。何故なら「他の人々は私自身の負っている責任を果たすことが(論理的に)出来ない」からだ。

          それは別段「他人の誠意や人間的価値を疑って掛かる」からではなく、人間は「置かれた立場ごとに見えるもの、感じるものが違う」からであって、その意味で(責任の在り方に関して)「他人と見解が異なる」のは、むしろ当然と思われる。(参考にするのは大いに結構だが、最終的に結論を出し行動するのは自分だ。)

           

          例えば昨今の「成人式で晴れ着が届かなかった事件」の後日談として、被害に遭った方々の一生に一度の思い出作りを無償でサポートしたい、という所謂「美談」がしきりと囁かれている。確かに被害者の方々の落胆と動揺は計り知れないものがあるだろう。

          しかし私の注目したいのは実はそこではなく、成人式のもともとの「出席率」の部分であって、それを示す目安となるような数字は(少なくともニュースでは)一切挙げられていない。

          ネットで探ってみるとこれがまたマチマチで年代や地域差も大きく、統計としてのはっきりした数字に行き当たらないが、近年ではどうやら50〜70%が一般的らしく、一部には全国平均56%という記述もある。何れにしても80〜90%ということではないらしい。(但し規模の小さい自治体では地域圧力が高く、実質欠席の選択肢が持ち辛いようだ。)

           

          この全国で40%前後の成人式不参加の理由は何だろうと考える時に、やはり女性の場合「高額な振り袖」という定番がネックとなるのは否定できないと思う。(もちろん仕事や受験、人付き合いなど理由は他にもあるが。)実際出席者は時代や地域に依らず女性の方が多く、晴れの場で競い合う意気込みが感じられるが、その一方で始めから「経済的事情」等でネガティブにならざるを得ない人がいたとしても不思議ではない。

          これは奇しくも小学校で度々問題視されている「二分の一成人式」に対する指摘と同じ構図であり、成人式なら欠席すれば済むことだが、小学校では授業の一環として「経済格差」を見せつけられることにもなり、事態は更に深刻と言える。(場合によっては欠席させても良いのではないか。)

           

          とまあ、こうした話もそれを聞く人の立場や物の考え方次第で、当然賛否が分かれるのも承知の上で、敢えてこちらの受け止め方を押し付けようとも思わないし、異なる考えに対して批判を向けようとも思わない。

          但し「自らの責任の及ぶ範囲」に関しては、常に信念に基づいて「しっかりと責任を果たさせて頂きたい」と願うばかりだ。何故なら、今更自分が信念を曲げて損はすれども「得をすることなど何ひとつ無い」からだ。

          お金、命、そんなもの余計にいらない。だって、余ったらめんどくさいだろう。

          それはともかく、今年はしっかり「対峙」していきましょう。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:13 | comments(0) | - |
          TPPの件と同じく今回も「外圧」か?
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            以下の「日刊ゲンダイ(1月9日)」の記事は、またまた肩透かしを食らった「日本政府の孤立ぶり」を表している。これは昨年の「外圧によって粉砕された(不当な)TPP交渉」を彷彿とさせる流れと言えそうだ。

            記事はこちら→ http://www.asyura2.com/18/senkyo238/msg/263.html

             

            この中で特に客観性が有って且つ説得力の有る記述を以下に引用する。

             

            (引用始め)

             

            ■国際包囲網で日本は孤立

            「4日の産経新聞によれば、米朝が12月に北京で極秘協議を行っていた。対話路線を唱えるティラーソン国務長官が水面下で周到にコトを進めていたのです。なぜ、河野外相はティラーソンのような問題解決に向けた行動ができないのか。この期に及んで圧力強化を遠吠えしている日本は、国際社会から見れば異常ですよ。安倍外交は、米日韓同盟で朝中ロに立ち向かうという冷戦時代の反共軍事同盟の発想に凝り固まっている。しかし、12月の同じ時期にカナダ政府が日本政府に対北圧力方針の見直しを迫っていたことも判明しました。これは重要なことで、今回の南北会談は、米韓中ロにカナダも含めた国際的な対話醸成努力の成果と見ることができる。つまり、親分である米国の威光をカサに、北に対する国際包囲網を作り上げているというのは、日本だけが思い描いている虚像なのです。実際は、対話による解決のための国際的包囲網が作られつつあり、包囲されているのは、対話を拒否している日本ということになります」(ジャーナリスト・高野孟氏)

             

            (引用終わり)

             

            こうした事の一つひとつが「北朝鮮の脅威」を殊更煽り、改憲、再軍備にひた走る「安倍政権」に痛烈なダメージをもたらす事は明白だし、さんざん過去記事でも書いた通りだ。

            とにかく(国際的に)みっともないし(日本人として)恥ずかしい限りに付き、即刻やめて頂きたいと思う。

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:03 | comments(0) | - |
            お金の問題
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              お金に絡む問題が人々の精神的クォリティーを著しく劣化させるという、誰でも知っている動かし難い事実が有ります。(それが犯罪的レベルにまで達すれば犯罪的行為を犯す事となります。)

              また、お金に関わる(肯定的で魅力的な)話が人々の「論理的思考力」を著しく低下させているのも、おそらく本当でしょう。(経済学が難解至極?である事だけが人々の判断を誤らせる理由ではないでしょう。)

               

              人間が「自身に都合の良い話だけを肯定したがり、直克信じたがる」という傾向は、殊更お金に絡む話ではいっそう顕著に表れる様ですが、そのこと自体が既に「論理的破綻」をきたしています。何故そう言えるかと言うと、お金の話は文字通り「死活問題」なわけですから、本来なら慎重の上にも慎重を重ねたとしてもおかしくないはずと思えるからです。

               

              今年は年初から株価が大幅な伸びを示し、また仮想通貨の代表格であるビットコインの暴騰振りに注目が集まっています。確かにそれが「見た目の結果」には違い有りませんが、方や今一つその「論理的根拠」が定かでは有りません。(それぞれに諸説様々有りますが、少なくとも私には理解出来ていません。)

              こんな時、人間には2つの選択肢が在ると思われます。

              ひとつは「論拠が(自分の中で)明らかになってから判断する」というもの。

              もうひとつは「(論拠は二の次にして)時節に乗り遅れないよう素早く跳び付く」というもの。

               

              何に限らず「商品リスク」は売り手が喧伝するものではなく、買い手が「調べる」ものだと思います。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:36 | comments(0) | - |
              誠実で偽りが微塵も感じられない話
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                「マスコミに載らない海外記事」のAndre Vltchek(アンドレ・ヴルチェク)の記事がまさにそれだろう。目からウロコを落とすために(少々長いが和訳されているので)是非一読をお勧めする。

                記事はこちら→ http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-e013.html

                それに比べて今朝の「時事放談」(TBS)の石破茂と増田寛也が揃いも揃って悲しすぎる。心にもない事を言っているのがありありと分かるし、同時に現在の自公政権の限界をひしひしと感じさせる。到底視聴に耐え得るものではなく、本当に勘弁して欲しい。(司会の御厨貴の死んだ顔も印象的だ。)

                 

                ところで冒頭のヴルチェク氏の記事には彼の(真実を知るための壮絶で凄惨な)取材体験に基づく多くの報告と告発と提言が込められている。文中にもあるように彼の「人間、芸術家、思想家として、常に立場をはっきりさせるべきだ。‘バリケード’のどちら側に立っているのかという自分の位置は、明快で正直でなければならない。そうでなければ、ウソつきになる。」という思いの丈が(翻訳文でありながらも)明確に伝わってくる内容で、要点と思われる部分を以下に書きだしてみる。(太字表記は管理人による編集)

                 

                世界中で暮らす人々の‘心をつかもうとして’常時競合している二つの平行する現実が実際に存在するのを、たまに自覚するのは良いことだ。本当の生活と‘偽の生活’が存在しているのだ。現実と、現実そのものより現実らしく見える巧妙に作り上げられた似非現実が存在しているのだ。本物の果物より本当らしい香りがする化学的に製造された青リンゴ・シャンプーのようなものだ。

                 

                “真実に出来るだけ近づかなければならない。近づき過ぎると、死ぬことになる。”は、その通りだ!

                真実に出来るだけ近寄るためには、人は素早く、断固、一定の精度で、明らかな失態をさけて行動しなければならない。

                身の回りの人々が自分を信じていてくれる必要があり、自分も、誰を信じ、誰を避けるべきかをわかっていなければならない。

                独力でやるか、少なくとも大半の時間、独力でやらなければならない。

                 

                良いものである場合、決して単なる‘報道’ではない。それはジャーナリズムを遥かに超えるか、さもなくばたわごとだ。していることには何らかの優雅さが必要で、哲学と人道的なものや、背景やとイデオロギーや情熱もたっぷり必要だ。

                こうした仕事には‘客観性’などない。客観性というのは、主流メディアが流布している幻想、おとぎ話に過ぎない。しかし、決してウソを言ってはならない。目撃し、語らねばならないことを、そう言うべきだと思う形で語り そうしながらも、読者や視聴者に、自分の立場を正確に伝える義務がある。

                 

                苦く本質的な真実はこうだ。たとえ自分の命の危険をおかそうとも、たとえ酷く負傷したり、心理的に困憊したりしようとも、多くの感謝や支援を期待してはならない。

                (中略)

                これは非難ではなく、人類の存続のために戦おうとしている人々に対する単なる警告に過ぎない。“完全に自力でやるしかない。時にくずおれるのは確実だ。”

                それでも、私は他に意味ある生き方を知らない。私は誰かの人生と私の人生を取り替えようとは思わない。

                 

                世界は全く違っていて、聞かされているより、実際にはずっとずっと美しく多様だということをお知らせさせて頂きたい。今は炎に包まれている場所の大半さえ美しいのだ。そして、もし平和のままにしておけば、こうした人々は繁栄するのだ。

                世界は、そのために戦うに値する。世界は守るに値する。

                (管理人注釈1:「美しく多様」とは風景のことではなく、人の心と人の営みのことに相違ない。)

                (管理人注釈2:「戦う」「守る」とは武力闘争ではなく「広く識らしめ対峙すること」に他ならない。)

                 

                植民地主義は常に悪だ。帝国主義は常に悪だ。いずれかの文化、宗教、あるいは経済の至上主義は、全くいかなる例外無しに悪だ。

                比較的小さな一大陸の国々の集団が全世界を強奪し、自分に都合の良いように形作り、違う肌の色、信仰、価値観の人々を奴隷にし続けるのは全て明らかに間違っている。

                だが世界はそういうものだ。残酷で、不公平で、一つの攻撃的で、強欲で、陰険で傲慢な少数派に支配されている。世界は依然そういう状態だ。繰り返そう、世界は益々そうなっている。

                 

                世界を略奪し、奴隷化しようとし続けている連中が流布する“ニュース”や“情報”を決して信じてはならない。ご自分で直接見て、聞いたこと、感じたことだけを信じよう。もし、そういう人々を見つけ出せたら、この世界を愛している人を信じよう。自身の感覚を、自分の内在的論理を、自分の感情を信じよう。

                 

                ご自分の目で見るまで、本当に確信するまで、その人々と話すまで、彼らが言っていることを本当に理解するまで、地球上のどこであれ、いかなる外国への爆撃や、経済制裁に賛成投票してはならない。テレビだけ眺めた後で判断や結論を出してはいけない。お忘れなく。似非現実は人を殺すのだ! そして、それは、あなたをその殺戮に参加させたがっているのだ。

                 

                世界を自分の目で見た後、それを理解した後、皆様は私に同意されるのはほぼ確実だと考えている。現時点で、この地球上には二つの平行現実が存在している。一つは、本当の人間の生活や物語でできており、もう一つは、世界のただ些細で、巧妙に操作された解釈だ。(本物の)現実は進歩や思いやりや楽観や調和を熱望している。もう一つ(偽もの)は、常に不確実さや無主義や破壊や絶望を広めている。

                連中が“偽ニュース”と呼ぶもののみならず、まるごとが、既存支配体制が作り出し、ヘルメットを被り、防弾チョッキを着て、4WDに乗り、目立つ「報道」記章を付けた男女が支えている‘偽現実’なのだ。

                 

                要点を書き出しただけでもかなりのボリュームだが、実際全文を読んで見ても無駄な文言は一つも見当たらないほど内容の濃い記事となっている。当然だ。命懸けの何十年間の思いの丈が、たかだか一文に収まる由もない。何れにせよこうした「誠実な人々」の地道な努力と心の訴えを決して無駄にしてはならないと思う次第だ。(そんなことをすれば罰(バチ)が当たるに違いない。)

                 

                「論理は実践によって証明されるものであり、実践によって証明された論理ほど強いものは無い。それらはすべて人ひとりが全身全霊を以って自力で成し得るもの」という真理に肉薄する、たいへん示唆に富んだ文章と思い紹介致しました。(訳者の方に感謝申し上げます。)

                 

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 07:50 | comments(0) | - |
                沈黙(という名の悪)と敢然対峙する村本大輔
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                  昨日も言った通り、もはや論じない。ムダな時間だ。それでなくとも人間的に、社会的に、そして何より論理的に「白黒」はついているのだから。その意味でも今後はこうした「レポート」が多くなるだろう。

                   

                  まずは元旦(1日未明)に放送された『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)に出演したウーマンラッシュアワーの村本大輔氏に関する「リテラ」のこちらの記事をご覧頂きたい。

                  記事はこちら→ http://lite-ra.com/2018/01/post-3711.html

                   

                  ここで重要な事は、村本氏は始めからそのつもりで「とある役柄」を沈着冷静に演じ切っているに過ぎないということだ。それは「番組が本当に視聴者(=一般国民)目線で視聴者のために作られているのか」或いは「番組が番組側と出演者各位の予定調和の下に特定の結論に視聴者の意識をを誘導していないか」などを視聴者目線でチェックし、成り行きがおかしいと感じれば「視聴者に成り代わって意義を唱える」という役柄だ。

                   

                  この「○○に成り代わって」というのは社会人の基本であって極めて普通の感覚であり、取り分け「皆さんに成り代わって」事に臨むというのであれば「称賛」されこそしても断じて「非難」される謂れは無い。

                  だからどう見ても「もっと勉強しなさい!」などと言い放った人の方が恥ずかしい。何故なら相手(=村本氏)が「みんなの思いを背負ってそこにいる」という、(公共の電波を使った番組の出演者として)当然の心の嗜(たしな)みにまで思いが至らなかった心の狭量さを自ら露呈させてしまったからだ。

                   

                  但し村本氏はそういう場に於いても決して「視聴者の代弁」などといった直接的な表現やニュアンスを持ち出さず、むしろ「オレはわからない」「オレはこう思う」「オレはそう言いたい」など一人称的な表現に徹することで周囲を混乱させている。

                  それはひとつには「(政治家でもあるまいし)芸人のくせに何様だ」という批判を多少なりとも回避する意味に於いて「破天荒な芸人」として振舞っているということもあるが、同時にに相手の油断を誘い「本音をあぶり出す」効果があることも重々承知しているはずだ。

                   

                  何故そう言えるのか。村本氏自身のツイッターを見る限り、そうとしか思えないし、そうしたことは私自身が過去40年以上ずっとやってきたことでもあるからだ。

                  何れにせよ「学者と称する連中の屁理屈」よりも「命がけの芸人の道理」の方が遥かに有益で魅力的である事だけは間違いない。

                   

                  ※ 余談だが、テレビと言えば正月は報道番組が皆無だが、世界も日本も何事も無いという意味なのか?それとも国民が「正月はニュースなんか見たくない」と言ってるのか?どっちも有り得ない。いったいどういうつもりだ。

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:41 | comments(0) | - |
                  物事を「論じる」時代は終わった
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                    「今年は対峙の年」と申し上げ、これまでその概要や詳細を述べて来ましたが、それは別の言い方をするなら(本日のタイトルの通り)「物事を論じる時代は終わった」となり、それは「もはや論じる事の役目は終わり、その必要性も失くなり、そんな時間も余裕も無い」ということです。(極端で乱暴な話であることは重々承知の上ですが、そう言わざるを得ません。)

                     

                    何故なら、私に言わせれば人々が互いに「論ずる」必要があるのは現状に於いて「(全部または一部が)隠されたもの、見えていないもの」について、それらを論理的に導き出して行きたい場合に限ります。しかし昨日の記事でも申した様に、社会の建前の多くが瓦解、崩壊してしまった事で(国際、国内を問わず)殆どのものが既に「丸見え状態」になってしまっています。

                    それは物理的な意味に留まらず、そうした状況の中で「開き直り」や「下手な嘘」や「遁走」を繰り返す人々の「人間的価値の可視化、顕在化」にまで及んでいて、そうしたものを日々目の当たりにしては「今更論じる余地もない」と感じたとしても不思議では有りません。論じることは「言葉遊び」ではないのですから。

                     

                    しかしこうした「誰もが容易に物事を見定めることの出来る丸見え、丸出し社会」であっても尚、相変わらず「何がどうなっているのかさっぱり解らない」或いは「今までとなんにも変わらない」などと言っている人たちがいるとすれば、それは(頭が悪いとか理解力が乏しいとかではなく)何らかの理由で「見たくないものは見ない」として「心の眼」を固く閉じたままにしている人たちに相違有りません。(そういう器用な事が出来るのも人間の特徴ですので。)

                    但し外部から正しい情報を得ることを拒むことは、私たち人間にとって死活問題となりますので、その意味ではそういう人たちは「自滅タイプ」と言え、決してお勧め出来ることでは有りません。(「自由」と言われればそれまでですが。)

                     

                    何れにしても「論じる時代の終焉」と共に今度は「価値の逆転現象」がもたらされる事となるでしょう。何故なら従来型の多くの価値観が「インチキ」に基づいて作られた事も明らかにされつつあるからです。

                    例えばテレビのニュースで上から順番に並べられた10項目のニュースの内本当に必要なものは最後の1項目だけかも知れません。(1つ有ればまだ良い方だという話さえあります。)

                     

                     

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 13:16 | comments(0) | - |
                    本日は2018年元旦です。
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                      皆さん、明けましておめでとうございます。早速ですが(アクセスログを見ると)昨年12月の1ヶ月間に456件の記事に対してアクセス頂いています。(アクセス総数は5707件。)これは日々の更新分を差し引いても420件以上の過去記事をわざわざ閲覧頂いたことになり、私としても日々精魂込めて書いている記事が「過去のもの」とならず、皆さんによって活かされ続けていることに、人知れず細やかな喜びを感じている次第です。

                       

                      さて、以前から申し上げている通り、今年は「対峙の年」ですが、簡単に言えば「しっかりと向き合う」ことです。問題は「何と向き合えば良いのか」の一語に尽きますが、それは各々が「目の前に示された結果としっかり向き合うこと」を意味し、また誰もがその必要性に迫られるであろうということです。何故ならそれを怠ると「その人自身が困る事になる」に違いないからです。

                       

                      ここで昨今の世の中の出来事に目を向けて頂きたいのですが、起きている事と言えばその多くが「長年通してきた事が通らなくなった」或いは「長年保ってきたものが保てなくなった」または「長年隠し続けてきた事が隠し切れなくなった」など、長年当たり前と思われ、これで良いと信じられてきた「ある種の驕(おご)りに基づく不適切な体制の崩壊」によって生じた結果と言えるでしょう。(但しそれを伝える大手メディアも同じく崩壊しているので、それらが正しく伝えられているとも言えませんが。)

                      これは社会の質や監視体制が向上したためではなく、いよいよ限界まで「社会の質が低下した」事を意味します。

                       

                      ところが驚いたことには、いざそのような「不都合な結果」に直面した際に「立派な背広を着た人たち」が我先に取った行動の多くは「開き直り」か「遁走」であるという事実に私たちは直面しています。(これは例えば「轢き逃げ犯」の心理に良く似ています。)しかも「上の人たち」がそうであるということは、このような傾向は既にあらゆる社会的階層の人々に共有されている恐れが有ります。しかしそれでは「個人と社会の双方」が成り立たず(放っておけば)双方ともに「自滅」することは明らかです。

                      つまりこれは「自滅文化」です。

                       

                      故に私たちはまず自己の内面の「不都合な結果」に対して「しっかりと真正面から向き合う」必要が有ります。もちろん「自滅」しないためです。そしてその後、身近な社会環境に於けるあらゆる「不都合な結果」に対しても同じく「しっかりと真正面から向き合う」必要があるということです。もちろん、掛け替えのない社会を「有らぬ方向(=自滅)」へ向かわせないためです。

                      これは明確に「やればやっただけの結果」を伴い「やらなければやらないだけの結果」がついて回ります。

                      そうして正に今、卑怯や怠惰や強欲と決別しなければ、先行きそうした機会さえも失われてしまうでしょう。

                       

                      元日早々こうした内容の記事を発信せざるを得ない事を以って、切迫感が少しでもお伝え出来れば幸いです。

                       

                       

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 01:53 | comments(0) | - |
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