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小、中学校教員の「勤務実態」について
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    安倍政権のテコ入れによって断行された「教育基本法の改悪」に端を発する「学習指導要領の改訂」などの影響が、思わぬ結果・・・と言うよりむしろ「予想通りの結果」を招いている。

    文部科学省が28日に2016年度の教員勤務実態調査結果(速報値)を公表し、国が示す「過労死ライン」に達する週20時間以上の「残業」をした教諭は中学校で57.7%、小学校で33.5%に上ることが明らかになった。部活動や授業の増加が主な要因。1週間の平均勤務時間は、06年度の前回調査に比べ、中学校教諭で5時間12分、小学校教諭で4時間9分増えた。現場からは「ひどいのは電通だけじゃない」と悲鳴が上がっている。(毎日新聞 4/28(金) 23:58配信

    当ブログに於いては以前より「教育基本法の改悪」に対して「子どもたちや社会全般に与える悪影響」を不可避のものとして警告を発し、その撤回、無効化を訴え続けているところであるが、こちらも懸念されていた通り(当然の事として)今回、それらの影響が小、中学校の現場の教員たちを更に多忙化させ、その勤務実態をを著しく悪化させていることが判明した。(私は彼らと直接関わっているので、尚更よく判ります。)

     

    前述の記事では「現場からは悲鳴が上がっている」とされているが、私から見れば何故(個人的な問題ではなく)労働環境の明らかな構造的問題という認識のもとに、しかも健康や命に関わりかねない問題でもあるのに声を上げないのか理解出来ない。そのために幾つもの「教職員組合」が存在しているはずなのだが。

    「子どもたちのためだから(我慢して)」と言いたいのであれば、それこそトンデモナイ勘違いと云わざるを得ない。いったいそういう人たちは子どもたちに何を教えようとしているのか?今自分たちが仕事でギュウギュウの目に合わされているとしたなら、それがそのまま今の子どもたちの将来となることぐらい分からないとは言わせない。何故ならそれが国民に対する「国からのお達し」であるからで、そこには方や「雇用」、方や「教育」という形態の違いしかない。

     

    百歩譲って「子どもたちのため」を思うのなら、悪いことは言わないので、まず「誤った教育基本法並びに学習指導要領に基づく(国策に押し付けられた人を人とも思わない)過酷な労働条件」に対して、(日教組でも全教組でも全教連でも何でもいいから)みんなして声を上げたらどうなのだ。そういう根性すら無いものに子どもの教育は向かない。

    それにそもそも「教育によって人格の完成を目指す」のではなかったのか?

     

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:04 | comments(0) | - |
    自民党の二階幹事長発狂で前後不覚か?
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      としか思えない、無思慮、無自覚の到底信じ難い発言で、自民党と所属の大半の政治家が(既に国民から100%乖離して)「終わっている」という事実を、嫌が上にも国民の間に広く知らしめる結果を招いた。以下は関連記事の抜粋。

      自民党の二階俊博幹事長は26日、東京都内での講演で、東日本大震災をめぐる失言で辞任した今村雅弘・前復興相を念頭に「人の頭をたたいて、血を出したっていう話じゃない。言葉の誤解があった場合、いちいち首を取るまで張り切っていかなくてもいいんじゃないか」と語った。自らの派閥に所属する今村氏の発言を、擁護したとも受け取られかねない発言だ。(朝日新聞デジタル 4/26(水) 13:39配信

      これから見ても、自民党は現時点で既に国民に対して完全に背中を向けており、単純に自分たちの目的のために策を巡らせながら突き進む「政治秘密結社」と化している。ただ秘密が秘密で無くなって来ているところが「焦りと慢心と驚くほどのレベルの低さ」を物語っているに過ぎない。つまりは見たまんま、見えたまんまが「現在の自民党」で、何かの深謀遠慮か?などと深読みする必要すらもない。

       

      また(どこかの記事に書いてあったが)財界やマスコミが現自民党政権を不自然なほど擁護に徹する理由はただ「(自分たちが)儲かるから」だそうで、そのためには「稚拙な政治」によって国民が軒並み不幸に突き落とされ、国が荒廃しても良いというのだから、呆れてものも言えない。まさに「金の亡者」だ。

      心ある財界関係者並びマスコミの諸氏は、直ちに持てる力の全てを投じてこの忌まわしい流れに反旗を翻すべきだろう。(それが「自分自身」のためだ。)

       

      とにかく政権与党の中枢に多数の発狂者、と言って悪ければ「キツい妄想に取り憑かれた人々」を抱える状況である上に、その周囲に群がる「金の亡者」たちによる寄ってたかってのマインドコントロールのために、現実感を喪失させられた挙句「何があっても何をされても無批判、無反応、無関心」とされてしまった国民という組み合わせは、もはや「北朝鮮を遥かに凌ぐ危険極まりない状況」と断じる事が出来る。

       

      今は間違いなく「内政」に目を向ける時であり、「北朝鮮が〜、韓国が〜、中国が〜」などと言って良い時期はとっくに終わっているのだ。

      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:19 | comments(0) | - |
      今村復興相が辞任したは良いが
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        議員は辞めない。大臣どころか国会議員としての資質(=権利、資格)すら持ち合わせていないことが、その言動からも明らかなのに。(いいね、好きだね、こういう解りやすい人。)まるで金魚の水槽にこびり付いた「青ゴケ」みたいだが、現政権に於いてはこのところ特段珍しい事とは言えなくなっており「今村さん、やっぱりアンタもか!」と言った具合に恥ずかしげも無く議員の座に居座る事は、もはやワンパターン化している。

         

        その元凶は「安倍総理」その人に他ならない。今回もワンパターン化した例の「任命責任はまさに総理大臣である私にございますので、こうした結果となりましたことに対しまして、おわびを申し上げたいと思います」との事だが、そうした言葉自体が常に「お詫びしたいという希望」を述べているだけで、実に軽い。だから単にその場を取り繕う以外の何の意味も持たず、事実、似たようなことが何度でも起きる。そういうことから見ても、実質的な何のお詫びも為されず、「任命責任」などと言葉はしても、その責任が果たされた試しすら無いと言える。

         

        それに最近の自民党自らの「気の緩み」という言葉の真意は、「驕り高ぶる余り、腹の底では自民党が国民をバカにし切っている事を包み隠しておられないほどに気が緩んでいる。」という意味であって、間違っても「(気の緩みで)油断が生じて誠心誠意国民に尽くし切れていない」という殊勝な心掛けであるはずもない。

         

        そんなの誰だって見ればわかる。

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:49 | comments(0) | - |
        今日も朝から「朝鮮半島有事」ですか?
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          相変わらず米国も日本政府もテレビ報道も、あたかも今起こっている(とされている)事が「自然の成り行きとして不可避」であるかの論調ですが、まったく何をかいわんやです。

          国連決議云々にしても、国連自体が常任理事国の実態を鑑みるまでもなく、第二次大戦の戦勝国を主体とした「差別意識」が未だに反映されている組織でしかないことは事実で、百歩譲ってその事を抜きにしても、そもそもアメリカが武力行使に踏み切るための「レッドライン」なるものを一方的に想定したのも「アメリカの独断」に相違無く、その強硬姿勢を「全面的に支持する」などと、ろくな展望も持てずに追従したのは他ならぬ安倍晋三率いる「日本政府」です。

          このことからも安倍晋三の頭の中には「原発事故」と同じように、「戦争を真剣に回避しようとの殊勝な心積もりは皆無」であることが判ります。また悪いことに大半の日本人は、政府と財界、マスコミが一丸となった「悪辣なマインドコントロール」によって作り出されたバーチャルな世界観の中で生かされており、まったく現実感を感じることが出来ずにテレビのインタビューで「ハア、なんか・・コワいですよネ〜」「こんなんで戦争になっちゃうの?って感じですよネ〜」などと、まるで夢でも見ているような顔して答えています。

           

          自分の国の政府が「北朝鮮に対する(米国による)先制攻撃を肯定している」事に対して、国民としてそれを「容認」していながら今更「エーッ?まさか〜」は無いでしょう!国として「他国に対する武力行使」を肯定してしまえば、その時点で「自分たちがミサイルのターゲット」にされるのは、これ以上無いほど当たり前のことではないですか。(他国に攻撃の意思を持つ諸外国はみなそうでしょう。)

          それが嫌なら「立憲主義」に基づき、憲法改正(=改悪)を公言して止まない現政権を「みんなして政権の座から引きずり下ろす」しかないでしょう。(夢見心地でボヤ〜っとして漫然と生きていられる時代はとっくに終わっているのです。現実に立ち返りましょう!)

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:50 | comments(0) | - |
          「北朝鮮問題」の当事者は誰か?
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            つらつら思うに、いったい日本の国民の誰に「北朝鮮問題」の当事者を名乗ることが出来ようか。たぶん政府の人間も霞が関の役人も、ましてや一般の国民に至っては凡そ「当事者(=責任者)としての自覚」など持てる由も無い。何故なら「昨今の北朝鮮問題」の当事者は「北朝鮮当局者と北朝鮮人民(国民)」に相違ないからだ。

            にも関わらずテレビなどで報じられるままに、重要な国内の問題もそっちのけで「北朝鮮が大変だ」とばかりに朝から晩までそれに現(うつつ)を抜かしているのが既に「昨今の日本人」の特徴となっている。少なくとも日本人として日本国に対する当事者意識(=責任)を痛感している者であればそんな余裕も暇も無いはずだ。またそういう人であれば「北朝鮮問題の当事者は誰か?」という問いの答えなどとうに理解しているはずで、それは他のあらゆる国々に対する同様の問いの答えと変わらないはずだ。

             

            一方で我々日本人にとって、日本国内に於いて決定されるありとあらゆる事は、それが直接的であれ間接的であれ、自分たちの責任であることは間違いない。何故なら「主権者は国民一人ひとり」と定められているからだ。それを前提として、おかしいと思うこと、腑に落ちないことに対してきちんと「責任ある意思表示」をしているのだろうか?選挙で自ら票を投じた政治家たち(=自分たちの代表者)に対して責任ある目を向け続けているのだろうか?

            例えば「北朝鮮からミサイルが飛んでくるか来ないか」についての半分以上の話は「日本の国内問題」に属する。何故なら、当該国に対して「軍事的対決姿勢」を示すか示さないかは「日本の完全な国内問題」だからだ。そのような日本側の決定如何で相手国の態度や意思決定の在り方が変わってくるのは当然だろう。だからその意味で、日本人は当事者として「日本の国内問題で責任を示せ」と言っているのだ。

             

            まるで問題には「国際問題」と「国内問題」が有って、こと「国際問題」に関しては自分たち(=日本)のせいでは無いとでも言いたげな「無責任な論調と対応」が横行している様だが(そういった意識的な情報操作も含めて)これは勘違いも甚だしく、(外交問題も含めて)日本国としてのあらゆる意思決定の全ては、当事者としての国民の総意が反映された「国内問題」として捉えるのが正しく、もしそうであれば単に「北朝鮮が大変だ」といったような無責任で軽薄な感覚はまったく似つかわしくない。

             

            元来、日本人にとって無責任や軽薄さは相容れないはずのものだが、そろそろネジを巻き戻すべき時ではないのか。

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 17:42 | comments(0) | - |
            最近続き過ぎる「閣僚クラスの政治家」の不祥事
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              これら一連の問題は(総理大臣を筆頭に)どれも(人としての)レベルが低すぎて、そもそもそんな話を耳に入れたくもないし、それについて話したくもないというのが正直なところです。

               

              思えばどこの小学校の教育目標にも「考える力を養う」という類のものが掲げられており、それは当然「自分で考えられた分だけ自分で行える」という意味を含んでいる訳です。そうなると最近の(不祥事絡みの)政治家諸氏は、この「考える力」も無いとしか言いようが有りません。何故なら、見ている限りでは「不祥事の後の身の振り方」がまったく道理に適わず「なってない」からです。どの人も少なくとも「自分で考えて自分で行動する能力が有る」とはとても思えない対応で、それは強いて言えば「何が起こったか判らずその場に茫然と立ち尽くしている」姿に限りなく近いものです。それが証拠にほとんどの人たちが「辞任しない、辞職しない」からです。但し(曲がりなりにも)発言等に対する「謝罪、訂正、撤回」が行われているのは「自分で考える力」によるものではなく、さすがに「誰かに背中を押された」からです。つまり本来は(背中を押されなければ)揃いも揃ってそれすらも出来ない人たちということになります。(それってヒド過ぎませんか?)

               

              とにかく「考える力」が無いことが判明した限りに於いては、この際「謝罪、訂正、撤回」に留まらず、「辞任、離党、辞職」の必要な一連の行動に関しても、逐一「誰かが」というより「みんなで背中を押してあげるべき」だと思います。そうでないと、この人たちは(その場で茫然としたまま)いつまで経っても自分で態度を決することが出来ないようです。それではいつまでも晒しものとなって気の毒ですし、みんなも大いに迷惑しています。つまりそうすることがお互いのためだということです。

               

              因みにそういう不祥事絡みの「考える力の無い人」の多くで東京大学、財務省など学歴、経歴共に一流の人たちを見かけますが、「勉強の仕方を誤ると肝心の小学校レベルの考える力さえまったく育まれない」という好例とされ「要警戒」と言えるでしょう。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:38 | comments(0) | - |
              「人格形成」の実践について
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                よく宗教的に「悟り(覚り)」を開くとして、座禅や瞑想、断食や山中での荒行などが挙げられますが、これらは基本的に「独りの環境」が前提となっています。それらの良し悪しについては、この場では敢えて申しませんが、こと「人格形成」に至ってはそのような「単独の場」よりもむしろ、社会に於ける「人との関わり」の中で実践する方が遥かに効率的且つ合理的と考えられます。何故なら、そうした環境の下では自動的に「責任や負担」が目に見える形であらゆる行動に付与されるからです。それらは「人格形成」にとって非常に有効に活用されることになります。

                 

                例えば社会生活に於ける「共同作業」や「分担作業」の場を想定して見ると、そこに参加する人々が最初に行なう事は「役割分担の振り分け」に違い有りません。(それが無ければ社会は単なる「烏合の衆」に過ぎないからです。)その際気付くことは、役割にはそれとなく「人気の高いもの、低いもの」「人が好むもの、嫌がるもの」などの評価の違いが有るということです。

                その差がどこから来るものかと言えば、一般的には「楽なもの、簡単なもの」が好まれ、反対に「キツいもの、難しいもの」が敬遠されるという図式となっているはずです。つまり普通の人が普通に考えればそうなる、ということです。

                 

                実はそこに「人格形成」のツボが隠されています。それは一言で言えば「ことごとく人の嫌がることを選択せよ」となります。つまり自分のベクトル(方向性)を決して「楽で簡単」な方向に向けないということです。

                これは(あれこれ捻出され考案された)単なる「難行苦行」とは異質のものです。何故なら、それは必ず「誰かがやらなければならないこと」であり、ただそれを「率先してやっている」に過ぎないからです。

                このように「社会性」と一体となって形成されて行くべきものが、本来の「人格」であり「人間性」であるということです。これによる「人間的成長」が著しいことは言うまでも有りません。何故なら「苦はやがて楽と感じられ、困難もやがて簡単に思える」ようになるからです。

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:31 | comments(0) | - |
                電車に乗ると分かること
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                  電車に乗るといったい何が分かるのでしょうか?ハイ、人々の精神的実態、ひいては社会の精神的実態が良く分かります。別にそういうことを見たくて知りたくて乗っている訳では有りませんが、結果的に「嫌でも見せつけられる」ことになってしまうのです。それは何故でしょうか?

                   

                  それは多くの人々は一歩家の外へ出ると、その間「真っ当な社会人」を演じ続けなければならない現実があるからに他なりません。謂わばその姿は「素(す)の自分ではなく、演技そのもの」と言って良いものです。

                  つまり殆どの人たちのメンタルは「真っ当な社会人」と言える代物ではなく、ただ様々な理由から「それを演じる必要性」だけは認識している、ということになります。

                   

                  どうしてこんな事になってしまったのでしょう?それはそのような「裏表を使い分けるメンタリティ」を容認、或いは推奨する教育を施されて来た結果だと私は思っています。これは戦後日本の「自由主義経済を社会基盤とした弱肉強食的競争原理」に基づく教育の下では、むしろ当然の事と思われます。

                   

                  そうした社会環境にあって、例えば競争相手(=ライバル)に対して「自分を磨いてくれる良き友」と思うか、それとも「自分の存立を脅かす敵」と思うかは、まったく各人に一任されており、教育的に整合性を以ってコントロールする事は困難です。何故なら人々にとっては、そんなことよりも「競争による勝敗の結果」の方が遥かに深刻に違いないからです。(この状況下での表面的な道徳教育など、人々に余計に混乱をもたらすに違い有りません。)

                   

                  電車の話に戻しますが、そこは人々にとっては(基本的に)お互いが「何の社会的しがらみも感じなくて済む精神的に開放された空間」と感じられる場であるようです。その意味で多くの人たちは(おそらくは無意識でしょうが、無防備にも)「素顔をさらけ出している」ことが多いのです。そうした顔は少なくとも「職場や所属するグループ内」では有り得ない、どちらかと言えば「家の中での顔」に近いものと思われます。

                   

                  近年は乗り込むとすぐにスマホや読書に耽る姿を多く見かけますが、問題はその表情や風情がどの人も(良く見ると)「辛そうであったり、苦しげであったり、暗く陰鬱であったり、或いは必死に何かに没頭しようとしていたり」と、人によってニュアンスの違いは多少有っても共通して周囲に対する「無視、無関心、無頓着」という或る種の「排他性」が見て取れます。(その様子からは本来の社会性など微塵も期待出来ません。)

                  しかし現実はこのように「裏表のある人々」によって、(かろうじて)社会が支えられているということです。

                   

                  このような社会を(心の奥底では)誰も望んでいないに違い有りません。それは「演じ続けなければならない」こと自体が道理に合わず苦しいことだからです。にも関わらず何故私たちは演じ続けなければならないのか。それは「社会システム(=経済システム)」自体が私たちに(有ろうことか)「反社会性(=自己中心主義)」を要求するという本質的な「矛盾」が原因です。

                  私たちはこの「矛盾」を即刻正さなければなりません。

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:07 | comments(0) | - |
                  「破綻」の時代は「居直り」の時代
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                    今年は「瓦解、崩壊」がキーワードですから、その結果として様々な物事が「破綻」します。その中には当然、人々の暮らし向きや立場なども含まれる事となるでしょう。

                    普通は「破綻」すれば色々な意味で「追われる身となり、身の置きどころに窮する」はずですが、最近の傾向としては、それよりもむしろ「居直り、開き直り」に転じる人々が増えているようです。この傾向は以前から知られているところの「逆ギレ」という現象に通じるものが有るように思います。その特徴はどちらも「論理的思考を放棄している」ということです。

                     

                    人間は追い込まれると、その最大の関心事は「自己擁護」となるようです。一方で平素、社会の一員として社会生活を営む上では「他者とのバランス」が必須とされ、そのため(曲りなりにもそれなりの)「論理的思考」が求められる事になります。しかしどうもその時点から(本音では)それを「不本意」或いは「苦手」として、バランスを取るための「論理的思考」自体をストレスと感じている人々が多くなり、その結果すぐに「逆ギレ」するということだと思います。

                    つまり「逆ギレ」も「居直り、開き直り」も、それから(今朝も報じられていた)「轢き逃げ」なども全て、その人間の平素からの「本音」そのもので、言い換えれば「元々そういう人間」ということです。

                     

                    取り分け、今の日本を象徴しているのは、再三にわたって「総理大臣が国会答弁で逆ギレ」と報じられ、国民がそれをこれまた「看過」していることです。これはつまり日本政府そのものが(理詰めで追い詰められると)「逆ギレ」し、「居直り、開き直り」を先陣切って体現しているということであり、更に驚く事には、国民もそれを目の当たりにして「余り違和感を感じていない」と思われる節が有ります。

                    これには国民がそれを「見慣れた」とか「慣らされた」というより、むしろ「わかる、気持ちわかるよ」みたいな低レベルの「同類意識」が働いているのではとの懸念さえ覚えます。

                     

                    しかし良く考えて下さい。「破綻して居直る」ということは、自己擁護に徹する余り「社会的責任を一切負わない」と宣言しているのと同じです。政府が率先してそれを行ない、国民の皆もそれに準ずるとなれば、それは直ちに「社会全体の崩壊」を意味することとなります。(その兆しは既に随所に出始めています!)

                    誰も責任を負わない世界・・・それは醜悪極まりない世界です。そうなって真っ先に途方に暮れるのは自分自身、つまり私たち自身に他なりません。(たぶん生き延びることさえ困難でしょう。)

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:31 | comments(0) | - |
                    「誰も信じるな」と教わる子どもたち
                    0

                      これまでにも世の中では私たちに「人を信じることを躊躇(ためら)わせる」ような出来事が数多く起こって来ました。「振り込め詐欺」などはその典型とも言えますし、現職の警察官や教師などが「立場上の社会的信頼」を逆手に取って行なう悪質な犯罪も後を絶ちません。

                       

                      そのような流れの中で、子どもを守るべき「小学校の保護者会会長が容疑者」というニュースを聞かされて、世の中の人々は何と思うのでしょうか。「ああ、やっぱり人を信用しちゃいけないんだ」と改めて悟らされた、とでも言いたいのでしょうか。もちろん安易にそう結論付けるのも自由かも知れませんが、社会の人々の大勢ががその方向に流れた時に、社会がいったいどういうことになるのかだけは知っておく必要が有ると思います。

                      その理由は、結果を見て後で「こんなはずじゃなかった」などと騒がなくても済むようにです。

                       

                      私は「他人の言葉や考えをむやみに受け入れない」事と「人を疑って掛かる」事は(似ている様で)別の事だと思っています。それは「いつも人の身になって考える習慣」を持って暮らしていれば容易に理解出来ます。

                      例えば「商売をしている人」の身になって物事を考えれば、その人が目の前の客に「何とか少しでも多く買ってもらおう」と思うのは当然の事です。そしてそのためには客である私のことを「親身になって考えてくれている」と印象付けようとするのも当然の事です。そういう人の言葉は大概「私のことを心配して購入を勧めてくれている」様に聞こえますが、それもまた当然の事です。その時点でこの「商売人」の人には何の落ち度も有りませんし悪意も有りません。つまり「信用して良い」のです。

                       

                      但し、私が相手に勧められた商品を買うか買わないかは、それとはまったく別問題です。

                      どういうことかと言うと、商売人の人が商品を私に勧める理由自体があくまでも「一般論」の枠内に於いてのものであって、何故ならその人は私のプライベートな事情を話の内容に反映させ得るだけの十分な情報を持ち得ないからです。

                      しかし私の方では相手の話す「一般論」に「自分しか知らない個人的事情」を掛け合わせたものを判断材料にする訳ですから、相手や相手の話を何ら疑う必要もなく「要らない」と言うことが出来ます。

                       

                      例えば「これはお買い得ですよ!」というお勧めも「一般論としてそうだ」という話であって、それが必ずしもこちらの「個人的な事情」と合致するとは限らないのです。言い換えれば「欲をかいて騙される」とは、この「一般論」に振り回されてプライベートを軽視することで起こります。つまり「無い袖は振れない」はずなのに、袖が有るように錯覚するということです。

                       

                      ここで最初の話に戻りますが、社会のみんながお互いに「誰も信じられない」ということになれば、一人一人が孤立します。そういう人々が頼るものと言えば、いよいよ公的な「社会システム」だけになってしまいます。

                      それら既存のシステムが一人一人を完璧にサポートしてくれるのなら、それも有りかも知れませんが、それは警察に「私個人を100%護って下さい」と言っているのと同じで、現実には有り得ません。

                      つまり「誰も信じられない」先には、孤立感漂うスカスカの世界が広がっているということです。そこから逃れるにはバーチャル世界に身を委ねるしかありません。それとも全部ロボットにお任せしますか?

                       

                      何れにせよ「誰も信じるな」という教育は間違いだと思います。

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 17:26 | comments(0) | - |
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