青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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記事の更新を今日で最後とします。
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    最後に当たって何を書こうかと、少々迷うところでは有りますが、やはり自分の一番言いたい事を書くことにします。

     

    まず人間はどんな人であろうと「自分自身の生きたいように生きている」ということだけは知っておいてもらいたいと思います。何故ならどんな人にでもその人なりの「基本思想」というものが有り、人は必ず「基本思想」に従って思い、考え、行動するものだからです。

    幼い子どもが無邪気なのは「基本思想に邪気が無い」からですし、弱肉強食さながらの環境でイキイキとしている人は「基本思想に弱肉強食の考え方を持っている」からに他なりません。また「イジメ」や「引きこもり」といった行動も同じく「基本思想として持っているもの」に応じた生き方をしているに過ぎません。

    ここで重要な事は、人間誰しも「基本思想に無いものは逆さに振っても出てこない」と理解することです。

     

    こうした人間の「実相」によって私たちが知り得ることは、このようにほとんど「自分なりの基本思想に支配されている」と言っても良い人間が「容易に他人の思想に感化されたり、他力によって基本思想に修正を施されたりすることはほぼ期待出来ない」という事であろうと思います。

    確かに表面的には「悪い仲間に感化される」とか「悪い誘惑に乗せられる」などといった所謂「悪い方向になびきやすいのでは?」と思わせられるケースが多々有るのは事実ですが、それとて「基本思想にまったく無縁」だった訳ではなく、むしろ単に「隠し持っていたものが顕在化」したと理解した方が問題点の所在が遥かに解りやすくなるはずです。

    何れにせよ多くの人たちが既に「ともすると自己中心の方向に流されやすい基本思想」を持って生きていることは事実です。

     

    そうした現状も有り、人間が「良い方向に基本思想の舵を切る」ことは益々以って至難の業となっています。

    前述の如く、通常人間は自分の基本思想を正しいものと信じ、それに従って「生きたいように生きている」のですから、余程「自らの基本思想自体に不信を抱き不都合を感じる」など無ければ、ちょっとやそっとでそれを変えようとは思いません。何故ならそれは、それこそ「長年築き上げた実績や将来イメージをご破算にする」ぐらいの意味を持つかも知れないからです。

    しかしそこが人間のすごいところで、人に依っては「自ら退路を断つ」ためにわざわざ自分で過去の栄光や現在の安住の環境に見切りを付けて一切を破壊して捨ててしまう人すらいますが、そういう人はむしろ稀でたいがいの場合は「行き詰まって窮地に立たされた末」に決断を強いられる形となるでしょうが、何れにしてもそのくらいの事が有ってなおかつ自発的な求めが無ければ「そう簡単に基本思想は変えられない」ということです。

     

    結局のところ人間は、そのきっかけはどうであれ本人が「変わりたいという(気持ちではなく)心が持てるか否か」が分かれ目になります。それが容易に持てた人は「運が良い」としか言い様もなく、方やなかなか持ち得ない人は「運が悪い」としか言い様が有りませんが、だからと言ってそれを他人がどうこう思うこと自体が正しく有りません。何故なら、どうしてその人は「運が悪い」のか他人には知る由もないからです。(私たちは神では有りませんので。)

    それ故私たちに出来る事と言えば「いつも自分の眼前に対してベストを尽くすこと」でしかなく、それが唯一の自己評価の対象であるということ以外に考えるべくも無く、そして人生の最後の日まで、ただただそれが継続出来れば良いと思っています。

     

    2年8ヶ月余りの長きにわたり、ご精読頂きありがとうございました。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:36 | comments(0) | - |
    人生の真の目的は「成長すること」と言えます。
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      人生の目的を「何かを成し遂げること」と思っている人がいるかも知れませんが、そういった「形の上での目標」が成長するための「ツール」となり得ることは事実かも知れませんが、必ずしも明確な目標の形が無ければ成長出来ないということではなく、それこそ成長のための道程は「人それぞれ」と言えるでしょう。

      因みに「何かを成し遂げること」を人生の目的にしてしまうと極端な話、成し遂げた時点で人生が終わってしまうコトになり、それに連れて成長も著しく鈍化してしまい、それでは本末転倒と言わざるを得ません。そうではなく「目標の達成」はむしろ「成長の過程でたまたま起きること」というイメージです。

       

      何故、人生の目的が「成長すること」であるのかと言うと、それは人間も他の生物もそうですが「生まれ来た時点では非常にか弱い」ものだからです。それは芽吹いたばかりの草木の双葉であろうが、卵から孵ったばかりの魚の稚魚であろうが、もちろん人間の赤ん坊も、とにかく懸命に生きようと最大限の努力をしなければ生きられる由もないものです。つまり人間を含むあらゆる生物が、そのスタートの時点から「成長を目的としない限り生きられない仕組み」の中に置かれているという事になります。

      そして実際、人間以外の自然界の生物に於いては「成長しきった時点が生体としてのピーク」であって、以後老化衰退することに意義を見出すことは殆ど出来ません。しかし人間だけは別です。

       

      何故なら人間には「霊魂の価値」に由来した「心」というものが在り、その成り立ちからして「ピークも老化衰退も無い」訳ですから、生きている間ほとんど「無限に成長を続ける事が出来る」ものと言えます。

      しかもそうした「心の成長」は、成し得た分だけリアルタイムに「霊魂の価値」として加算、蓄積される仕組みになっていて、謂わば「霊魂の基礎体力、基礎能力」としてダイレクトに反映されるため、それが人生に於いて一層心の成長を加速させる結果となることは間違い有りません。またそうして積み増すことの出来た「霊魂の価値」は死後も失われる事は無いので、こうした「心の成長の仕組み」によって、人間の霊魂は生まれ変わり死に変わりを経て「永遠に価値を増し続ける事が出来る」ものとされています。

       

      ですからもし、人間が「気持ちの萎えや心の衰え」などを感じることがあったとしても、それは単に「肉体の持つ意識」に過ぎません。何故なら前述の如く「心は老化の影響を受けるはずの無いもの」だからです。そしてその場合「霊魂の価値の著しい低下」が懸念され、よって速やかに人生の目的を「心の成長」に置き換えるべく心機一転を図るのが良いと思います。(辛くても不可能では有りません。)

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:35 | comments(0) | - |
      人はどうして「自分のこと」が解らないのか?
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        これはもちろん「他人のことならよく解るのに」というような浅い意味では無く、むしろ「他人のことが解らないのは当然としても、せめて自分のことぐらいは」という思いを込めての本質的な意味合いの問いということです。

        しかし、実は人間が「自分のことが解らない」というのは、人間がこの世に生まれて来るその仕組みから言えばむしろ「当然なこと」であって、(少なくとも当初は)それが自然な事と言えます。何故なら、殆どの人間には(霊魂のレベルに於いて)「前世」が在りながら、今世(の肉体レベル)ではその記憶が存在していないからです。つまり「運命」に関しては明らかに「前世」を継承しながら、肉体にはその認識がまったく無いという、極めてバランスを欠いた状態で誰しも「人生」をスタートさせる訳です。

         

        何故そういう仕組みになっているのかは、もし私たちが「前世の記憶を携えながら生まれて来たとしたらどうなるか」をちょっと考えて見れば解ると思います。

        確かにそこには始めから「課題」や「展望」が見えていますが、それらはむしろ「それを突きつけられている」感覚に等しいものかも知れません。しかもその全てが「論理的に正しい」となれば、もはや人生そのものが(数学の問題集のように)「端から順番に数式を解いて行く様な(味気のない)単純作業」と化してしまう恐れさえあるでしょう。私たちにとって、果たしてそれが「有意義な人生」として感じられるものでしょうか。

         

        「霊界」は殊の外「人間の自由意志、自発性」を重要視しています。仮に「義務や責任」であっても、あくまでも「強要や強制」ではなく、それらが「人間の自由な意思の下、自発的に行われる事」にこそ、その価値が有るとされるのが一貫した「霊界の主旨」なのです。

        ですから(人間がそれに気付こうが気付くまいが)人間には「十分過ぎる程の自由」が常に与えられています。それらは私たち人間が「上手く活用して有意義な人生を送る事が出来るため」の、誰にでも公平平等に与えられた自由ということです。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:42 | comments(0) | - |
        人は何故「しゃべる」のか?
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          「おしゃべり」の中身は人それぞれ、千差万別と言って良いでしょうが、それら唯一の共通点は「必要ない事をしゃべっている」ということです。もちろんしゃべっている本人には、そんな意識や自覚は毛頭有りませんが、客観的に聞いていればそれは非常によく判ります。

           

          それに良く「(しゃべって)間を持たせる」という表現を使いますが、それでは「間が持たない」と、人はいったいどうなるのでしょうか。

          殆どの場合、まず「落ち着き」が無くなり、次に「不安と焦燥」に駆られます。ひどくなると「疑心暗鬼」が頭をもたげて来ることさえあるでしょう。しかし何故そこに(おしゃべりを止めて)「沈黙」があるだけで人はそのような「いたたまれなさ」を感じなければならないのでしょう?

           

          そうした際に感じる(理由のハッキリしない)「不安と焦燥」は、実はその人に「(24時間365日)常駐」する感覚だということです。それが存在する理由は後ほど述べますが、とにかく人はそうした「不快な感覚」から逃れるために(人といる時には)「おしゃべり」をし、誰もいない時には「何かに没頭」したくなる事だけは間違い有りません。それらはすべて「じっとしていると湧いてくる不快な感覚」から逃れるための術(すべ)でしか無く、それ以上の意味を持たないことが殆どです。

           

          それではこの(思いのほか多くの人たちに常駐する)「不安と焦燥」の実体は何でしょうか。それは一言で表わすなら「やるべき事をやってない」という(霊的な)警告でありサインということです。もちろん「霊的」というからには「仕事や家庭の事をちゃんとやっている、やっていない」或いは「法律をちゃんと守っている、守っていない」という様な表面的な話では有りません。

          そうではなく、ここでは「人間性」即ち「霊的向上心の有無」を問われているのです。何故なら「無難な社会生活を送ること」もさる事ながら、人間には「一定の霊的向上の目標値」を設定され、その達成を一つのノルマとして(霊界から)この世に送り出されて来た「霊的経緯」があるからです。

           

          取り分けこうした「霊的サイン」は人間が本来、雑多な意識神経から開放されるべき状態即ち「沈黙」「暇」などで一層鮮明となるため、「霊的怠慢」を重ねている人にとってはそれが「(不安や焦燥などの)不快な感覚」となる訳ですが、逆に「霊的努力」を重ねている人にとっては正に「霊的インスピレーション」を得るための貴重な時間とも成り得る訳です。

          また、こうした「心の静寂」とも言える時間を意識的に設けようとする試みとして「瞑想」などが考えられる訳ですが、こうして見るとわざわざそういう時間を作り出すまでもなく、それこそ日常的に「ホッと一息つく時間」さえあれば、(そしてそれを上手く活用出来るのなら)それで十分事足りるというのが本当のところです。

           

          しかし残念な事には多くの人たちが、そうした本来「貴重な時間」であるはずのものを、わざわざ「おしゃべりや取るに足らない様な事」に没頭することで、尽(ことごと)く不意にしてしまっているのが私たちの現実と言えるでしょう。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:33 | comments(0) | - |
          「発想、発案」の質と正当性について
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            これらは脳ミソの出来不出来や知識や情報の集積度には(残念ながら)関係有りません。つまり如何に頭が良くて物識りであっても、発想が貧弱で誤った選択しか出来ない「愚か者」はこの世にゴマンといるということです。

            何故なら、そもそも「質が高く正当性のある豊かな発想、発案(=アイデア)」というものは「霊的に担保」されていない限り持ち得ないものだからです。つまりその時点で「頭の回転速度や引き出しの多さ」は殆ど関係ないものと言え、強いて云うなら(それを他者に伝達する際に不自由を感じない程度の)国語力があれば尚良いという事でしょう。

            更に言えば、それら上質の発想の本体は元々が「イメージ(=絵図)」であって、故に一瞬で認識、把握出来る特性を持つものであるからして、尚更「頭の回転力」など及ぶべくも無いということになります。

             

            では人間に「頭の良さ」や「知識や情報(またはその収集能力)」などは不要で、それらは単なる「無用の長物」に過ぎないのかと言うと、決してそんな事を云うつもりは有りません。ただ「使いどころ」を間違えてはならないと言いたいのです。

            それら「実務的要素」は、イメージとして得られた発想や発案(=アイデア)を「具体化」する際には必ず必要とされるものであり、それは現社会でも当然そうなのですが、但しその部分がことさら他の実務的要素としての「技能、技術、労働形態など」に対して突出して価値が勝(まさ)っているという評価には疑問を呈さざるを得ません。

            この不当とも思える「ランク付け」は、おそらく現社会に蔓延している大きな誤解と、現実にまかり通っている大きな誤用によってもたらされていると思われます。

             

            それは「世の中は(その能力と権利と資格を有する)頭の良い人間たちの発想、発案によって形作られ成り立っているという誤解と誤用」が実際に為されているという現実に有ります。そしてこの件については、もはや論じる意味すら無く、国際社会や日本社会の歴史的経緯と現状を見ればそのまま「(学歴偏重主義による)頭が良い(だけの)人たち」には、権利や資格以前に「その能力に欠けている」事は明らかで、まさしく「貧弱な発想と浅はかな選択」の結果として現代社会に恒常的な混乱と閉塞感をもたらしています。

             

            その理由は冒頭でも説明した通り「霊的価値」、言い換えれば「人間的価値」が余りにも低い事によって「私たちの社会にとって必要十分となるイメージの持ち合わせが無い」からです。

            しかも残念ながら私たちには、そのような人たちの「霊的向上」を指を咥えて待っているだけの時間的ゆとりは有りません。

            そうなると私たちに出来る事は限られて来ます。即ち(そうした役回りを)「アイデアに優れた別の人とさっさと交代してもらう」ことです。

            当然です。(違いますか?)

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:05 | comments(0) | - |
            人間の惨状に於いては最早語る言葉も無い
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              おそらくは世界であろうが日本に限ったことであろうが、正に現在こそが私たち人類にとって「歴史上最も悪い状態」と言えると思います。それは道理として「総体として見た場合の人間はこれ以上悪くはなれないだろう」と思われるからで、その意味では今が正に「底を打った状態」と言って良いのだと思います。と言われても多くの人々にはその実感は無いでしょうが。

               

              何故私たちはそのような前代未聞の危機的状況にも関わらず、その実感を持ち得ないのか・・・。それはテクノロジーの進歩と複雑化した社会システムによって、曲がりなりにも「何か物事がちゃんと機能している」ように錯覚させられているからに他なりません。

              それは例えば、高度なテクノロジーで複雑な制御システムを搭載した先進的な車さえあれば、ドライバーの質やマナー、安全意識などどうでも良く、それを以って車社会の未来は明るいと安易に思える感覚と似ています。つまり「自分たちには理解出来ないスゴいテクノロジーとシステム」が(自分自身の努力なしに)何もかも解決してくれるものと思い込んでいるのでしょうが、ここまで行くともう或る種の「信仰」のようです。

               

              しかし本来は「テクノロジーの進歩」と「人間としての努力」とは全く別のものであって、機械やシステムに「心を吹き込む」のが人間の役割であることは、如何に社会の様相が変化しようとも一貫して変わらないはずです。それがそもそも「霊界と現界」「霊主体従」「唯心唯物一体思想」など、この世(=宇宙)の基本構造に基づくところの「人間の論理的存在意義」そのものとも言えるものです。

              逆に言えば「物に心を添える」という役割を果たそうとしない時点で、人間は「存在意義」すら失ってしまうということで、ついでに言うならその「一部始終をチェックする機能が霊界には厳然と存在する」ということですから、霊界より現界へのフィードバック(=原因に対する結果)では、当然ながらその反映を見る事になります。

               

              「物(=物事、言動)に心を添える」と言っても、もちろん「どんな心でも良い」という訳には行きません。その人なりの「人間性」に基づいた可能な限り「豊かな心」でなければならない事は言うに及ばず、それが為に人間には折りに触れ「弛(たゆ)まぬ(心の)努力」が求められる事になります。

              即ちその連続が「人の一生」ということですから、そのような目的意識を持って生きる人の数が殆ど「極限」まで少なくなってしまった現在に於いては、やはりこれを以ってリミットとし、ここを「折り返し地点」として再起、再生を図るのが私たち人間に残された唯一の道であろうかと思われます。

              そのためには「瓦解、崩壊」による衝撃さえも、この際「踏み切り台」として利用する心積もりが必要となるでしょう。

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:46 | comments(0) | - |
              自然との関わり方で「人間性」が判る?
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                自然環境(=地球環境)とどのように関われるか、またどのように関わりたいかには、その人の「人間性」が表れます。何故なら(昨日の記事にも書いたように)私たち人間を取り巻く自然環境そのものが「霊界の意向」の反映の一部だからです。そこには「誰のための何のための地球環境であるのか」という本質的な命題が隠されています。(それは故意に隠している訳ではなく、ただ自然が「言葉で語らない」というだけの事ですが。)

                つまり人間が自然と何らかの関わりを持つ時に、その命題の答えを正しく踏まえているか否かで、関わり方が全く違ってくるということになります。しかも「どう関わるのかは人間の自由意思に委ねられている」と言うのです。それはいったい何を意味しているのでしょう?

                 

                昔から私たち人間はありのままの自然環境から様々な収穫物を得たり、また開墾や干拓、埋め立てなど土地そのものに直接手を加えて農地や宅地にするなどして、当たり前の様に自然と深い関わりを持ってきましたが、果たしてそうした関わり方が「霊界の意向」に沿うものであったかどうかと改めて問い直すのであれば、基本的にはそうした利用の在り方に問題は無いとされています。何故なら「自然環境(=資源)は人間が営みのために活用すべきもの」という理解自体は「霊的」にも正しいからです。ただしそこに「分別」が必要であることは言うまでも無く、資源の枯渇や環境の悪化、荒廃を招く様な「無分別な関わり方」で重大なリスクを負うのは人間自身に他なりません。

                つまりそこには「自然との共存、共生の心」「自然環境の保全意識」などと共に、自らも「自然とのバランスを配慮した上での節度有る暮らし向きや営み方の感覚」が求められることとなるはずです。

                 

                このように「自然環境」との関わりに於いては「私たちは自然によって生かされている」という大前提こそが同時に「どのように関わるべきか」との答えを明示している言っても良いでしょう。つまりそれは「故に大切に思い、大事にして行かなければならない」ということです。

                ところでこれとよく似た話は他にもあります。それは私たちと社会、或いは他者との関わりについてです。実は私たちは「自然環境」に限らず、自らを取り巻く「環境」によって支えられて生きているということです。謂わば「社会環境」「対人関係(=人間環境)」などもその一つであって、やはり「それらによって生かされている故に大切に思い、大事にして行かなければならない」ことに変わりは有りません。(もし「そうは思えない」という人は、正しくは「そうは思いたくない」ということではないでしょうか。)

                 

                人間性とは「あらゆる環境とどう向き合えるか」という意味合いを持つものと言えます。何故なら「環境」は本来自分で選ぶ事の出来ない部分を指すものだからです。(好き嫌いを言うのは自由ですが。)

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:32 | comments(0) | - |
                問いに対する答えは自然環境に在る
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                  人間がこの世の構造的理解として「霊界の存在」を認めるか否かは、人間が「自分の心の存在」を認めるか否かと、ほぼ同レベルの話と見て良いでしょう。もし内外の刺激(=情報)に対する生物的反応形態としての意識とは別に「人の心」の存在をも認めるというなら、既にその人は「霊界の存在」を否定する理由を持ち得ません。何故ならそれらは共に「目に見えず、自分の意識で自由に制御出来る代物ではない」からです。

                  このことは非常に重要で、私たちの人生観を確実に左右する問題であって、故にそれについて私たちは早急に態度を決する必要が有ると思われます。(ものの1分も有れば答えは出せるでしょう!)

                   

                  そこで次に、この「霊界」なるものが私たちにとって「善意」として働くものであるのか、それとも「悪意」として作用するものであるのか見極める必要が有るかも知れません。何故なら「霊界の存在」を認める、受け入れるという事は、自ずと「霊界の意向に従う」ことを意味するからです。つまりそれは私たち人間がイメージする「自由(または勝手気まま?)」を制約されてまで、それに付き従う価値を感じる事が出来るか否かという問題です。(価値を認めないものを受け入れる事など、誰にも出来ないはずです。)

                  果たして「霊界」が私たちに示している「価値」とはどのようなもので、私たちはそれを感じて受け入れる事が出来るのでしょうか。

                   

                  実はその答えは、私たちの身の回りの「自然環境」の全てに在ると言うことが出来ます。それらは「人間そのものと、人間が作ったり人間の手が加えられたもの以外の全て」と言えます。しかし何故この「ありのままの自然」が「霊界の意思、意向」を指し示している事になるのでしょうか。

                  それは一つには、それらの自然環境を現存させる為に、どれだけの叡智と歳月と手間が掛かっているかを想像、と言って悪ければ検証して見れば解ることです。

                  そして二つ目には、これら自然環境には一貫したテーマが見事に描き出されているということです。そこではバランス、調和、共存、共生、連携など全体として非常に高度な営みが日夜行われていて、それによって緻密な自然環境が保たれています。

                  三つ目には、そうした「自然環境」を人間が何と感じ、受け止め、そして現実にどういう意味合いと認識しているのか、ということがあります。確かに「自然」は脅威と感じられる面もありますが、全体として私たちはそれらを「美しい」と感じ「必要」と思い、「大自然の恵み」という言葉に表される如く、人間の生存に不可欠のものであることは間違い有りません。

                   

                  「自然」というものは、知れば知るほどそれが考え抜かれた緻密で巧妙な仕組みに支えられた「創造物」であることが解ります。そしてもしそれが「霊界の意思、意向」であるのなら、いったいどこをどう解釈すれば私たちがそこに「人間に対する悪意」を見出すことが出来ると言うのでしょう?

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:35 | comments(0) | - |
                  霊界の存在を認めるとどうなるか
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                    例えば「宇宙の創生」や「生命体の誕生」を「偶然のいたずら」として捉える事は(それでもかなり無理は有りますが)不可能とまでは言えないかも知れません。また、そこまでのゴリゴリの唯物論者でなくとも「神や悪魔」を勝手な都合の良いイメージで認識するなどして、実相から大きくかけ離れた世界観を持つことであれば、更に容易(たやす)く出来るはずです。

                    そしてこれらの話に共通する事と言えば、何れも「霊界」という概念が存在しないか、もし有っても希薄で漠然としたものでしかない、ということです。つまり図らずも「霊界という概念」を忌避するところに人間的自由?(=好き勝手)が許されている感があります。

                     

                    しかし自由を謳歌することはともかくも、真に私たち(の幸福な人生)にとって必要な事は、本当のこと(=真実、実相)を知ることであり、それに基づく幸福な生き方の正しいイメージを持つことではないでしょうか。そしてその鍵を握るのが「霊界の存在」ときちんと向き合う事に他ならないと思われます。何故なら「霊界と現界」或いは「霊と体」といった異質な要素による「複合構造」は、そこに「明確な意図」が存在しなければ決して存在し得ないものであり、また安定的に維持管理されるはずもないものだからです。

                    それは私たちが「霊界の存在」を認めた瞬間に、同時に自分たちが「明確な意図に基づく絶対的な管理下」に置かれている存在であることを(嫌が上にも)知るという意味を持ちます。

                     

                    このことを逆説的に表すなら、もし人間が「好き勝手な振る舞い」をしたいのであれば「決して霊界の存在を認めてはならない」ということになります。ですからそのような人々は必ずと言って良いほど「唯物論者」であるか、或いはその教義が霊界に即しているとは到底言い難い、ほとんど社会運動化した「宗教団体」を標榜しているはずです。

                    また一見「霊的」であるかのように見えても、その実構造的理解に程遠く「神がかり、霊がかり、透視眼、念力、予言」など、パフォーマンスを売りにするだけの場合もそこに含まれます。何故なら「構造的理解に裏付けされた上質の基本思想」無くしてパフォーマンスのみが突出する事自体が通常起こり得ないことだからです。

                     

                    「霊界」を受け入れようとする際、中には「自由がない=面白くない」などとすぐに考えてしまう人も少なからずいるかも知れませんが、それは私たちの社会生活とて同じで、憲法や法律、また周囲との決めごとの範囲を逸脱して良い事にはなっていないはずです。また、社会では「それ故護られている」という面も大きく、そこも社会も霊界も変わりません。

                    せっかくなので私たちはこれを機に「自由とは何か」について、もう一段見識を深めて見ては如何でしょうか。

                     

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:22 | comments(0) | - |
                    人間の体内に仕込まれた「時限爆弾」
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                      誰が仕込んだのか・・・自分自身です。(未解決の自分の過去の過ちはすべて霊細胞として蓄積されます。)

                       

                      それは何のためか・・・それは本来、人間に未解決の過去の過ちを都合よく忘却させないための仕組みです。

                       

                      それがあるとどうなるのか・・・折りに触れて不快な過去の記憶を蘇らせ、本人を不快にさせます。

                       

                      どうすれば完治するのか・・・過去の過ちを認め、悔い改めるべく「贖(あがな)いに勤しむ」事で解決します。

                       

                      「贖いに勤しむ」とは?・・・既に手の届かない過去であれば、現在の類似の案件によって過去の過ちを精算出来ます。

                       

                      「贖わない」とどうなるのか・・・類似の案件が生じる度に同じ過ちが繰り返され、単純に「過ちが加算」されて行きます。

                       

                      「過ちが溜まる」とどうなるのか・・・想念の悪化が進み、不快の念が常態化することで、徐々に「贖い」が困難となって行きます。

                      ※日本人の成人の85%はこの状態と考えられます。(つまり自分で自分の統制が上手く取れない人たちです。)

                       

                      「過ちが更に溜まる」と?・・・膨大な未解決の過ちが行く手を阻んで物事が進まなくなり、その原因を他人のせいにします。

                      ※他人のせいだと思っている内の99%は自分の(未解決の過去の)せいです。

                       

                      「最後」にはどうなるのか?・・・自らストレスにより心身を疲弊させ、思想の劣化により自己の運命を破壊、つまり「自滅」します。

                      ※但しそれが即「肉体の死」を意味するかどうかは(霊的意向もあり)別問題ですが、何れにせよ「自らの手で自分の未来を閉ざす」ことになります。

                       

                      「過ち」を持たないためには・・・今々に「人間らしい心」を持って誠実な気持ちで「ベストを尽くす」だけの事です。

                      ※過去を精算しなければ現在を現在として生きられず、現在を現在として生きない限り未来は有りません。それが霊的常識です。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:26 | comments(0) | - |
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