青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
記事の実質総数900前後にて
0

    私たちは「一つの結果」を目の当たりにするかも知れません。これまで何度も申し上げている様に、2017年が「瓦解、崩壊」の年となるであろう事は、ここまでの諸々の経緯を以って容易に推測出来ますが、それは人間が自身の体の異変に対して「もうこれ以上は身が持たない」と率直に感じるのと似ています。

    一方で人間はあらゆる部分で基本的に「保守的」なものですから、異変に対して何でもかんでも蓋をしたがります。しかし「変化に基づく圧力の高まり」に対し(変化を嫌って)蓋をする行為が、やがて爆発による崩壊を招く事は「自明の理」と言えます。ですから正確なカウントダウンには至らないまでも「もうそろそろ」といった具合の「感性による体感レベル」では(人によっては)十分予想が可能かとも思われます。もちろん、私自身もそんな一人です。(無論「データの収集と分析」に基づいた予測も可能と思われますが、私はそちらのタイプでは有りません。)

     

    ところでタイトルにある「記事の実質総数」とは、例えばカテゴリーの「ご連絡・お願いなど」等を除いた記事をカウントしたものを指します。今現在、記事全体では840を超えていますので、それより少し少ない数が「実質総数」という認識です。何れにせよ正確な数は伏せておきます。何故なら私たちの心構えとして、もはや種々の災難に対する日々の備えが不可欠の時代に突入しているという認識が必要と思えるからです。それは言い換えれば私たちの「不適切な保守性」が、これまで様々なものに蓋をしてきたその数が「半端ではない」ということで、それら全てのツケをほぼ同時に払わなければならない時期に差し掛かってしまったということです。

    私たちはこれから「様々な価値観の変更」を余儀なくされるでしょうが、とにかくお互いにがんばりましょう。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:07 | comments(0) | - |
    ついた嘘が片っ端からバレる時代
    0

      嘗ては「巧妙な嘘」というものが存在し、それがそれこそ動かされざる事実の如く歴史を作ったり、世界を動かして来たりもしました。と言うのも昔は今と違って「重要な情報の伝達ルート」が極めて限られており、その途上で「遮断、改ざん」などの「嘘にとって必要な措置」が思い通りに講じられた事が大きいと思います。しかし昨今のニュース映像の多くに「視聴者の撮影、投稿」によるものが多く用いられている様に、今や「人の目や耳(=情報源)」は世界中至るところに在り、しかもそうした無数の情報が(さして深い考えも無しに)リアルタイムに世界中に発信され続けているという状況の中で、特定の情報を隠蔽したり都合よく差し替えたりなどの「情報操作」をパーフェクトに行なう事はほぼ不可能です。結局その状態で為し得る事と言えば「明らかにされている事実」を力ずくで吹き飛ばす様な「強烈な別の情報」を矢継ぎ早に繰り出し、「前の情報の印象操作」に専念し懸命する事で「都合の悪い情報の影響力を極力弱める」以外に有りません。

      それがいわゆる「フェイクニュース」という「敢えて情報の根拠、信憑性を重視せず、ただ情報のインパクトによる競合目的だけで発信される情報」だと思われます。これはつまり「嘘がバレること」を承知の上で、それでもある一定期間「効力を発揮すれば良い」という、情報として「極めてたちの悪い」ものです。

       

      しかし物事には程度があり、それは如何に「フェイクニュース(嘘ニュース)」と言えども同様です。ある一線を超えれば、それはもはや「遂に発狂した」と思われるレベルにまで到達するでしょう。これはもちろん「報道機関」だけに限らず、官房長官による政府の発表や総理を始めとする各大臣の答弁などもみな同じで、フェイク(誤魔化し)が一線を超えた瞬間に全てが水泡に帰して「終わる」のです。

      それは既に限界ギリギリのレベルに差し掛かっている様に見えます。もう沈む船から逃げ出す機を既に逸しているかの様にも見えます。(あれほど再三警告したにも関わらず。)

      何かに取り憑かれているとしか思えません。

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:11 | comments(0) | - |
      「霊的」は言ったもん勝ち?
      0

        昨日の話にも関連するが、40年余り「霊的」に携わって来た身としていつも思うのが(タイトルの)これだ。だから自分としては尚更そうはなりたくないし、第一出来ない。何故なら「論理」を飛び越えて他人を屈服させようと強弁する事自体が(神に対してはいざ知らず)人に対してことさら「傲慢」と思えるからだ。

        実は人間にとって「傲慢さ」も「謙虚さ」も限定的に使えるような代物ではなく、人に対して傲慢な人は(同じく)神に対しても傲慢であって、そこにはただそれを(都合上)表出するかしないかの違いしかない。何故ならそれらは本人の「思想上の特徴」であって、思想は(相手によって)自由に入れ替え可能なものではないからだ。(謙虚な人が「傲慢を演ずる」というならまた話は別だが、どうもそうは思えない。)

         

        そのため私は今までも「他人が理解出来ず証明も出来ない事」を(いくら真理や真実であろうと)強弁する事を避けてきたつもりであって、「謙虚さ」を美徳と信じる限り、それは誰に対しても(子どもや赤ん坊に対しても)自然とそうなるはずのものだ。

        だから時折「日本人の僅か○○%が天国霊層」などといった話をするにしても、決して「信じろ」「受け入れろ」という気持ちからではなく、そのような話を聞いて「何を思うか」「何を考えるか」という「聞き手への問い掛けに留めたい」と思う次第だ。

        増して(何度か指摘している通り)「霊的」には危険な側面が存在する事もあって、「論理的な理解の不足」が危険を増大させる事からも、強弁によって「受け入れ」を強要すべきではないと思っている。

         

        そうなると私に出来る事は自ずと限られて来る。それは(論理的に証明可能な)「より良い思想」と「より良い行ない」を実績として、可能な限り多くその場に積み上げて行くことだ。

        「ちょっと待って、それのどこが霊的なの?それって普通のことでは?」と問われれば、正に我が意を得たりだ。

        私たちは「現界」に住んでいるだから、この世で当たり前の事が「霊的」にも当たり前に決まっている。その当たり前の事が出来なくなっているから、追加的に「霊的論理」の投入を必要としているに過ぎず、それによって「(従来とは一味違う)当たり前の事を積み上げて行く」のが、実は「霊的」の真骨頂なのだ。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:31 | comments(0) | - |
        信心とは目に見えないものを信じる事?
        0

          このところ大手宗教団体への某女性タレントの「出家」宣言が、世間を賑わせている様です。私はそのような「世間的賑わいや盛り上がり」には殆ど関心が無いので、詳細は知りません。しかし「守護霊の言葉」が具体化される様な環境に於いて「真の霊的理解」を求める為に人々がどう在るべきかは、非常に重要な問題だと思っています。何故ならそれはどう考えても「霊的な環境」と言わざるを得ないからです。

           

          そうした場合「最初から最後まで一貫した唯一のキーワード」となるのが「目に見えないもの」です。例えば「目に見えないから(在るとは)信じられない」と言われれば、素直に「ああ、そうかな」と思えますが、逆に「目に見えないから(在ると)信じられる」と言われれば、そこに「或る種の恐怖」すら覚えるでしょう。それは論理の破綻にすら気付かせない程の強力な「洗脳」かも知れないからです。

           

          また、他人には一切見えない、聞こえないものを、たとえ自分だけ見聞き出来たとしても、それが(幻聴、幻覚ではなく)確かに「実存」であること、更にはそれが「本物であって偽物ではないこと」を、その人はいったい何と(誰と)照合して確認すれば良いのでしょう。

          このように「霊的探求」には、自ら招く形での「罠や落とし穴」が幾つも有り、「目に見えないものを信じられる気持ちになれた」だけでは、とても念願成就には程遠く、まだまだ前途は多難と言わざるを得ません。

          つまり「目に見えないもの」を対象とする限り、それが「論理的」に正しく、間違い様の無いものであると確認する術(すべ)自体が無いのです。

           

          しかし、ここに唯一(目に見えないにも関わらず)いつでも「具現化」出来て、簡単に証明出来るものが有ります。それは私たちの「思想」です。思想の具現化されたものがその人の「行ない」であり、形になる前の「目に見えない状態」がその人の「心柄」ということになります。更にこれらの「心と行ない」は、共に「物事の原因」と成り得るものですから、時間の経過と共に必ず「結果」に反映され、その時点で「実存か否か」または「真偽の程」などが原因と結果を結ぶ「論理」によって(客観的に)確認可能となります。

          この「思想と論理」の間には相互作用が働き、思想の働きがもたらす結果に依って深められた理解が、同時に思想自体を高めるという結果を生み出します。

           

          ですから当ブログでは「霊的」であれ「宗教」であれ「信仰」であれ、(目に見える、見えないに関わらず)「思想を向上させ得るもの」以外には関心が有りません。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 15:59 | comments(0) | - |
          命運定まり進退窮まる政権
          0

            既に(一定の猶予期間を置いて)「霊的審判」が下されている中、当ブログに於いては目的上、敢えて世界や国内の個別的事例を掲げて問題提起していく必要性を以前ほどは感じておらず、むしろそれに伴って必ず起こる事となる「瓦解、崩壊」の事後処理や将来の展望に関わる内容に記事の重点をシフトしつつある事は、先日もお話しした通りです。もちろん(政治や経済、法律など)各専門分野の方々に於かれましては、引き続き「現状報告や分析、今後の課題や見通し」などに関するレポートや活動の継続を切にお願いするところであります。(ただ、私の専門が「そこではない」という事です。)

             

            しかしそうとは言え、伝え聞くところの国会での「金田法務大臣」「稲田防衛大臣」などの答弁やなり振りが余りにもヒドく、「政権を擁護すべき大手マスコミ」でさえもその「情報封殺改ざん能力」の限界を越えて擁護し切れず、広く国民の知るところとなっているとの事です。つまり露呈したその「無能さ」に皆が呆れ返っていると言うことです。(内容上公正を保つため、該当する関連記事はご自身で検索される事をお勧めします。)

            これもある意味での「瓦解、崩壊」の一端であり、閣僚の任命責任はすべて「安倍総理大臣」にある訳ですから、「無能呼ばわり」されなければならないのは、本来「安倍総理大臣」その人でなければならないということです。

             

            しかしこの問題は、実はそれだけでは終わりません。というのも、私たち国民は「無能呼ばわりされなければならなくなった安倍総理」を自ら選んだ覚えが有りません。では誰が安倍総理を選んだのかと言うと、それは「自民党議員と自民党員」であって、(論理的には)彼らが「無能」であるからこそ「無能な自民党総裁を選び得た」事になります。しかし話はまだ終わりません。

            選挙で「自民党の候補者」を多数当選させ、自民党を「与党」にしたのは他ならぬ私たち「国民」です。確かに「不正選挙(=得票数の不正操作)」などの疑惑も拭い切れませんが、それとてまさか1対99を99対1に逆転出来るはずも有りませんので、(論理的には)相当数の「無能な国民」が「無能な自民党」に票を入れた事になります。(連立与党である公明党の影響はこの際除外して考えます。)

             

            結局のところ、そもそも論で言えば「金田法務大臣」「稲田防衛大臣」の信じ難い無能ぶりの責任は、私たち「信じ難いほど無能な国民」にあることになります。それを称して「一億総白痴化」などという言葉すら存在し一般化する世の中です。(ネットで検索すれば分かります。)このような状態で「日本号という船」がまともな目的地を目指せる訳が無く、現在「漂流中」というのが正しい認識です。

            つまり私たち日本人は「ボイラーを焚いているふり、舵を取っているふり、レーダーを見ているふり」をしているに過ぎず、実際にやっていることは「無茶苦茶」を通り越して「滅茶苦茶」をやっているに過ぎないという事の現実が、あらゆるシステム上に存在する「無能」の二文字に象徴されているということです。

             

            「瓦解、崩壊」とは、修復不能と判断されたシステムの「リセットボタン」が押された事を意味します。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:52 | comments(0) | - |
            「運の尽き」とは
            0

              「運が良い」とは一般的に物事の運び(流れ)が「自分好み」の方向に向いている状態を指す様で、これは「占いなどに於ける運勢の良し悪し」とは微妙に異なるものの様に思えます。何故なら、他人の運勢を占う際に、一般的には暗黙の内にその人が「善良」である事を前提としており、その人の「悪運の良し悪し」を占っているはずは無いからです。(一部には野望や欲望の成就を占う場合もあるでしょうが。)

               

              しかし単に「運(=流れ)が良い」と本人が主観として感じる中には、当然そうした「野望や欲望」の部分も含まれる事になります。更に「運が尽きる」となればそのニュアンスとして、これまでさんざん「危ない橋」を渡って来た人が、遂に「橋から落ちる」或いは「梯子(はしご)を外される」といった「悪運尽きた状態」か、そうでなくとも極めて「博打的要素」の強い状況が想像されます。

              人は社会的責任を行使する場合、そこに「博打的要素」を持ち込もうと考えたりしないものですから、そこにはやはり個人的な「野望や欲望」に類する動機を認めざるを得ません。(国民の財産である年金資金を株式(博打)で運用している輩の気が知れません。)

               

              一般的に「健全な(運勢)占い」には、同時に多くの教訓的アドバイスや生活指導的側面が有ります。例えば「急がば廻れの精神で」とか「ここはじっくり腰を落ち着けて」など、何れも「周囲を冷静に感じ取る」事を促しています。それは本来の意味の「運勢」が、客観的なバランスの中での個人の立ち位置を示す役割を果たしているからに他なりません。

              つまり(占いは)元々が「自分の欲望を満たすための道具」では無いという事です。それよりもむしろ「全体の中の(年毎、月毎、日毎に平等に廻ってくる)役割分担としての認識」を的確に持つことで全体の調和が得られ、それによって個々の幸福を目指すのが「運勢占い」の本意ではないかとさえ思われます。

               

              一方で「運の尽き」などの悲惨な状況に至る様な「運」の概念は、前述のような「占い」には無関係です。何故なら、その場合の「運」には「全体のバランス」という要素が存在しないからで、ということは勿論、本人を幸福に導くような働きも有りません。(逆に不幸に導く働きと言っても良いでしょう。)

              例えばギャンブルでよく言われる「ビギナーズラック」とは、あたかも当人を「ギャンブルの虜」にするための意図的なものと思われます。「やること為すこと上手く行く」というのも、まるで本人を「自信過剰の慢心状態」に追込み、絶対に後戻りをさせないための策かと思わせます。

               

              そこには「転落時の落差を十分に稼いで置く」という一貫した意図が感じられます。その目的は無論「再起不能」にするだけのダメージを本人に与えるためです。

              いったい誰がそんな「悪魔的なこと」を考えるのでしょう。もちろん「神」では有りません。

              「悪魔の囁き」をこれっぽっちも信じてはいけません。誰に対するどんな言葉も「全部嘘、100%嘘」です。もちろん「名乗る名前も嘘」です。何故なら「人を騙して調子付かせ、最終的に転落させて再起不能にする」のが悪魔の仕事だからです。逆に言えばそれしか有りません。だから「徹底的に騙す」のです。

               

              つまり本当は「ビギナーズラック」の時点で、既に「運が尽きている」かも知れないということです。

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:11 | comments(0) | - |
              「生きている」の意味も様々
              0

                日本は平均寿命(0歳児の平均余命)が男女共に80歳を超えています。しかし今の状態が健康かどうかとはまた別の話で、取りあえず「介護を必要としない状態の期間」を「健康寿命」と定義しているようで、それによると「健康寿命」は「平均寿命」よりも現状で10年程度短いそうです。

                しかしそこで話が終わる訳ではなく、特に定義はされないものの、(介護は要しないまでも)「医療や薬」に頼らざるを得ない状態を果たして「健康」と呼べるのかどうかは甚だ疑問です。(もしそれが健康と見做されないとすれば「健康寿命」は更に10年は短くなるでしょう。)

                しかしそれも依然として枝葉の問題に過ぎず、本質的には(生きるに際して)「自立可能か否か」が問題と思われます。

                 

                日本人の平均寿命は1947年には50代そこそこに過ぎませんでしたが、考えように依ってはそれは「死の直前まで自立していた」ことになります。ここで言う「自立」とは、老化や病による身体機能の衰えの影響を受けず、働くなどの「自活」が普通に出来る状態を指します。

                もっとも「平均寿命の著しい伸長」には乳幼児や若者の死亡率の低下が大きな要因とされていることでもあり、決して当時の人たちが「60歳まで生きられなかった」という意味では有りませんが、それでも50〜60代の(今で言えば)「まだまだ働き盛り」で亡くなる人の数は今よりも多かったと思われます。

                言い換えれば、この70年間で「平均寿命が30年伸びた」とは言え、その数字が私たちの「若さの持続」や「自立可能な年齢」の伸長を表すものではないところに、新たな問題が生じているということではないでしょうか。

                 

                私たちは、ただただ「寿命は長いに越したことはない」と思っている節が有りますが、「人の命は尊い」とすれば、それは半ば当然かも知れません。しかし一方では「尊ばれるような生き方」という選択肢も有ります。そしてこちらは多分「寿命の長さ」には余り関係がない様なので、少なくとも「死なないようにしなくては」というプレッシャーは、さほど感じずに済むかも知れません。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:20 | comments(0) | - |
                優しい人が異様に生き難い時代
                0

                  これは大人の社会だろうと子どもたちが通う学校だろうと同じです。そもそも優しさとは自分以外の他者に自然に向けられる思いやり、いたわりの気持ちであって、誰か特定の人間との利害損得にまつわるものではなく、それによって人との関係に於いて「居心地の良さ」を覚えるはずのものです。つまり、何ら不利益を被るはずの無いもののはずです。

                  しかし、現代社会では往々にしてその「優しさ」が仇となり、他人の気付かないところで文字通り「耐え難い辛さ、苦しさ」を味わっている人たちがいるという事です。それはその人たちが直接「いじめや嫌がらせ」の対象となる訳では有りませんが、いわゆる「荒れて寒々とした環境」「薄っぺらで空虚な人間関係」の毒気に晒され続ける内に、己の無力感や失望感と共にどうしても馴染めない(染まれない)孤立感に、自ら打ちひしがれて行くという、謂わば「自滅型」の苦しみを呈します。

                   

                  「自滅型」と言いましたが、厳密には「環境の圧力」に屈した形ですから、本質的には「その環境の正否」が問われる問題と言えます。しかし既に大多数の人々に於いては「問題意識が消失」している状態で「環境を受け入れている」という現実もあり、問題提起が困難というのが実情でしょう。

                  とにかく社会や学校では「心やさしい人々」がマイノリティ(少数派)として表面的には「自滅の形を以って行き場を失いつつある」という現実があります。それは例えば「戦争は良くない、競争社会は良くない」という主張の一方で、「悪い奴らはやっつける、競争は能力を引き出し人を強くする」という理屈がまかり通っている現実を見ても解りますが、戦争も競争も同じ「争」の字が付いていて「争い」の醜さから逃れられない事に何故気が付かないのでしょうか。(それで「人間性」が豊かになったなどという話は聞いたことが有りません。)つまりこの理屈は極めて悪魔的であって、その動かぬ証拠として「優しい人々が居たたまれなくなる」という現実があるものと思われます。

                   

                  そんな「優しい人々」が平然とその場に居続けられる方法がひとつだけ有ります。それは、その場に居続けるための「強力な動機」を持つことです。またそれは「自分の存在意義」を自覚する事でもあります。それは言い換えれば「何故自分は今ここに居るのか」という、別の視点とその答えを持つことでもあります。

                  実はそのためには「優しい」だけでは事足りません。何故なら「優しさ」とは「智慧、勇気、愛、情け」の心の働きの内の「愛と情け」の表れであって、物事を貫徹するためには「強さ(=智慧、勇気)」が不可欠だからです。

                  ですからそれは、そう簡単な事では有りませんので、今すぐ誰にでも出来るとは申しません。しかし今後の目標として知っておいても損はないでしょう。

                   

                  何れにしても、今後は「優しいこと」が非常に重要な世の中になるでしょう。そのためにも是非、自分の中の優しさを(如何なる方法を以ってしても)守り抜いて大事に育てて頂きたいと切に願っています。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:52 | comments(0) | - |
                  致命的状況は致命的なミスの結果か?
                  0

                    もし、そういうことで有れば「失態の大きさとミスの大きさは比例する」こととなり、仮にミスを一切犯さなければ「失態を演じる事も一切無い」ことになります。それは本当でしょうか。もしそうなら「運が悪かった」という言葉は、どこから来るものでしょうか。それは「誰かのせい」か或いは「偶然の生ずる確率」を意味するものなのでしょうか。

                     

                    私たちは油断をすればミスを犯しますし、緊張し過ぎてもやはりミスを犯します。ですからミスを減らす(失くす)努力とは、鍛錬や熟練によって心身の余裕(=リラックス)を獲得し、それを前提として余念を持つこと無く集中出来る状態を作り出すことかと思われます。もちろん「場数」を踏んで、そうした状況や雰囲気に十分慣れることも重要でしょう。つまり「準備万端おさおさ怠りなく」ということです。

                    しかし、それでもまさかの「致命的な失態」が生じてしまった時に、私たちはその事実をどう理解すれば良いのでしょうか。(それは単純に「何が足りなかった」「どこか悪かった」と言える様な状況では有りません。)

                     

                    ここで私たちの出来る事は「二つ」有ります。

                    ひとつは「どこか気付かないところに見落としが有った」として、従来通りに「ミスの原因」を究明すること。

                    もうひとつは「これは起こるべくして起こったもの」として「達観」し、前向きに捉えること。

                    おそらく賢明な人は、この二つを同時に平行して行なうに違い有りません。

                     

                    その根底には、私たちは「自分自身のことを(知っている様でいて実は)殆ど知らない」という前提が有ります。例えば「一歩踏み出せば歩幅の分だけ前へ進む」ぐらいの事は解っていますが、本当の意味に於ける自分の「精神や肉体の限界」や「運命の限界」、また時間軸で言えば「前世、過去、現在、未来」の流れの内、知っていると言えば(僅かに)「過去と現在」の一部でしか有りません。それが証拠に、もしそれらの事を人に問われた時に、すっきり答えられる人など未だお目に掛かった事が有りません。

                     

                    つまり「自分の事が解っていない」のだから、当然「自分にとって今、何が必要なのか」も(本当のところでは)解っていない可能性が大きいのです。

                    その意味で人間にとって「自分を知る」事は非常に重要です。そしてそれは(具体的には)様々な事象から必要に応じて「学ぶ」形を以って成し遂げられます。

                    ですから時には「致命的失態」からも「学ぶべきもの」は当然有るだろうということです。取り分け「技術や技量の習得」などとは次元の異なる学びに於いては、往々にして有り得る事と言えます。

                     

                    「己を知る」ためには「転んでもただでは起きない」ぐらいの欲(=探究心)の深さが必要です。

                     

                     

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 13:00 | comments(0) | - |
                    「天下を取る」という概念について
                    0

                      日本の現政権は果たして「天下を取っている」のでしょうか?それはともかくも「天下を取りたい」と考え、行動している事は事実でしょう。おそらく「天下を取る」とは、支配構造の頂点にあって安定的に支配する事を指すのだと思われます。そのためには知略、計略をめぐらせ、多くの策を講じなければならない事は想像に難く有りません。そしてそれらはそれなりに(当事者の考える)「合理性」に裏付けられたものということなのでしょう。

                       

                      しかし日本の文化、即ち言葉の意味から言えば、そもそも「天下」とは「天の下(した、もと)」であることから、天下を取るには「天に準ずる資格」が必要という事になります。更に「天の認めるところのもの(=天命)」であることが自ずと求められています。つまりそこには(文化的に)奸智、邪智、狡知などによる「弱肉強食」的発想が入り込める余地など、元々無いのです。

                      ですから、そのような「誤った考えを持った人々」が天下を取った試しなどは無く、ただ(どれもほんの束の間)「そのように見える一瞬」が有ったに過ぎません。それを称して「驕(おご)れる者久しからず」と言います。(欧米の人々が「支配」に対して実際にどのような理解を持っているのかは判りませんが、日本に於いては古来より一貫してそう考えられて来たということです。)

                       

                      ところで「天下人(てんかびと)」に求められる「天に準ずる資格」とは、どのようなものでしょうか。その答えは非常に簡単です。それは「天に準ずる揺るぎない心」を持っていることであり、それは「智慧と勇気と愛と情け」がバランスしたオールマイティな心のことです。

                      これからの時代は、もし自分がいきなりそうなれないにしても、そのような「豊かな心を持つ人」を歓び迎え入れ、支援して行こうという気持ちが今以上に必要とされるでしょう。何故なら、それが私たち自身のためでもあるからです。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:43 | comments(0) | - |
                          123
                      45678910
                      11121314151617
                      18192021222324
                      25262728   
                      << February 2018 >>