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人はなぜ「偽物(にせもの)」にだまされるのか?
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    これは非常に簡単な話で、要は「本物を知らない」からです。もっと言うなら(不幸にも)生まれてこの方「本物」にお目に掛かった試しが無く、そればかりか(言われるままに)ずっと長らく「偽物を本物と信じて生きてきた」という人が圧倒的に多いからと思われます。

     

    昨年は「フェイクニュース」という言葉が流行しましたが、これも「偽物ニュース」という意味で、「実際には無かった事を有った事にする、もしくは有った事を無かった事にする」という意味になり、そのようなものが公然と流布されているとすればそれ自体大問題ですが、更にはもし、そのような「偽情報(=捏造を含む情報の恣意的操作)」が今に限らず「昔から行われていた」とすれば、私たちの教わり識るところの「歴史(日本史、世界史)」自体の信憑性にまで当然関わって来ます。(そうした固定観念はどこかで一度リセットした方が良さそうです。何故なら「偽情報が生み出す概念」のもとでは決して幸せにならないからです。)

     

    また「偽商品や偽取引」も横行しているようですが、昔から「ウマい話には裏が在る」「タダほど高いものはない」などと言われていますが、これも「本物の(=誠実な)商品」とはどのようなものかを知らない人に限って引っ掛かります。その意味ではもはや「純粋に誠実な商品」など世の中にほとんど存在せず、電化製品なども一定の使用状況で「壊れるように出来ている」はずで、ただ商品価格との折り合いが付くかどうかという話に過ぎません。(強いて言えば偽物だらけの中で「ましな物」と「ヒドイ物」の選択をしているような状況です。)

     

    しかし最も深刻な問題で大いに危惧するべきは「本物の人間に会ったことが無い」という人が、おそらく非常に多いという現状であろうかと思います。これは多くの人々にとって真に耳の痛い話でしか無いのですが、しかし事実は事実、真実は真実としてこの際はっきりさせた方が良いでしょう。

    人間にも「本物」と「偽物」が存在するということです。その基準はもちろん「人間性」であり、良心に基づく「利他の精神」によって裏付けされた「人格」の完成度によって判別可能なものです。こうした評価のもとでは「自己中心思想の持ち主=偽物の人間」ということになりますが、もちろん基本的人権を失うという意味ではなく「在るべき人間の姿と大きく異なる」ということです。何故なら(以前にも説明した通り)自己中心思想=自滅思想そのものだからです。

     

    このことの何が深刻かと言うと、例えば自己中心思想の強い親に育てられた子どもは言い換えれば「本物の親に会ったことがない」ことになり、自己保身の気持ちの強い先生に教わった子どもたちは「本物の先生に教わった試しがない」ことになります。こうして会う人会う人がみな「偽物」であった場合、子どもたちは必然的に「偽物を本物と誤認して、それを手本とした人間形成が行われてしまう」結果となり、知らず知らずの内に「自滅の輪」の中に組み入れられてしまいます。

    12歳に達すれば運命は自己責任とは言え、そこから自力で脱する事は容易では有りません。

     

    繰り返しになりますが、人が「偽物(の人間)」と見破れないのは「本物(の人間)」と接したことが無いからです。その違いは歴然としていますので(本物を知っていれば)決して見誤ることは有りません。

    但し、ある程度「自己中心思想」が強くなった状態では、仮に「本物(の人間)」に会えたとしても「違和感」が先立って(理屈を付けて)敬遠する傾向が生じます。そうした悪循環に抗うのもこれまた容易なことでは有りませんし、極めて不幸なことだと思います。

     

    何れにせよ私たちは社会に於いて(人に依らず物に依らず)出来得る限り「本物」を増やして人の知るところとする事によって、世の中の「当たり前」を再び「逆転」させる必要が有ります。(そもそも偽物が大手を振って跋扈する時代が異常なのです。)

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:07 | comments(0) | - |
    こんな時代に於ける「万全の備え」とは
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      昨年(2017年)は社会の様々な事象について事有る毎に疑義を呈し、関わりを持つ人々に向けて改善を求め、自覚を促すための発信に重点を置いて来ましたが、2018年の年が開けてからは、もはや(基本的に)「その時期は過ぎた」ものとして、そうした社会に生きる上での「備え」に関する内容に重点がシフトして行くものと思われます。

       

      その理由は2つ有ります。

      ひとつは「二分化」が固定的なものと成りつつ有り、当事者に対し具体例を以って警鐘を鳴らす事の意味が薄れつつあること。

      今ひとつは来たるべき「対峙(=不服従)の時代」に耐え得る「万全の備え」が必要且つ喫緊の課題となるため。

       

      そう、流れや圧力に屈することなく「おかしいものはおかしい」として「対峙する(=真正面から向き合っていく)」ためには、そのための「内面的な備え」が必要不可欠であることは言うまでも有りません。しかし今、それをしなければ自分を取り巻く社会環境が益々悪くなる一方であって、放って置いて良くなる事は決して有りません。つまり「自分自身の備えの有無」は、私たち一人ひとりが個別に取り組むべき「死活問題」なのです。

      例えば私を含むその場の10人の内、私ひとりが「備えを怠っていた」とすれば、他の9人は良くなり私ひとりが「くたばる」ということです。(「他人にあやかろう」というズルい考えは「霊的」に認められません。)

       

      ところで今の時代ほど「人間性」という言葉が軽んじられ、まるで「絵空事」のように扱われている時代は嘗てなかった様に思います。取り分けビジネスの世界では殆ど「死語」と化しているのではと思えるほどです。

      その理由はもちろん「競争社会」「格差社会」では無用を通り越して「邪魔者」以外の何ものでもないからです。

      つまり「人間社会」で在りながらフィルターでわざわざ「人間性」を除去し、その上で構築されているのが今の主要な社会システムということです。それが証拠に「AI(人口知能)化、ロボット化、人員削減」の話に嬉々として跳びついて行くでは有りませんか。(要は人間が「嫌い」なのです。)

       

      しかし一方で(憲法はもとより)「法律全般」が依然として歴史的、文化的、精神的伝統に基づいているものであることは否めません。と言うことは、そこでは当然「常識、良識、人格、品格、人間性、社会性(柔軟性、協調性)」などといった所謂旧来型の「人間的素養」が尺度として用いられ、それらの有無が問題となり、平たく言えば「(社会人として)人間的素養を著しく欠いた行為=犯罪」ということだと思います。

       

      思えばこのところ「一流の学歴、経歴、社会的地位や立場を有した人々」による犯罪や犯罪紛いの行為が跡を絶ちません。こうした事実は社会の中枢がすでに「非人間的で反社会的風潮に毒されている」ことを示しており、逆にこれで社会が「崩壊」しない方が不思議です。

      いえ、実はすでに崩壊しているのです。その証拠として私たちは(信じ難い事に!)裁判所や検察、或いは警察が恣意的に「法の精神」に反し「非人間的で反社会的」な動きをするのを度々目撃しています。(そこでは苦しんでいる人々の訴えが放置され命が守られていません。)

       

      ここで重要な認識は、現在日本に於ける55%の人々が(自覚の無いまま)「崩壊に巻き込まれる側」に立っており、危機的状況にあるという事であって、残りの45%の人々が「崩壊に巻き込まれることなく(崩壊後の)再建を目指せる立ち位置にいる」という事だと思います。ただ、それを可能にするためにはその前にどうしても「対峙」というハードルを(私たち一人ひとりが)クリアしておかなければなりません。

      そこでは一個の人間としての「人間力」が問われる事になりますが、もちろんそれは「学歴、経歴、社会的地位や立場」の事では有りません。(それを以って人間力と考える人の多くが崩壊に巻き込まれるでしょう。)

       

      「人間力」とは前述した「人間的素養の豊かさ」であって、集約すれば「人間性(=利他の精神)」であり、その証しとして、もしそれを失えば「常識、良識、人格、品格、社会性」など豊かで円滑な社会生活を送るための全てを失うこととなり、精神的にやせ衰えた貧弱で見苦しい人間に成り下がってしまうでしょう。(悲しいかな、現社会はそうした非人間的で反社会的な人間像の具体例に事欠きません。)

       

      要は「みんなで良くなろう、みんなで良くしよう」という心こそが、これからの時代を生き抜く「万全の備え」そのものになるということです。

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:10 | comments(0) | - |
      まさかこんな時代が本当に来るなんて
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        今日のタイトルは敢えて「こんな時代」と言い放つ事で、悲哀を込めた「残念」の意を表しています。また「本当に」という言葉の裏には「知っていたし覚悟もしていたけれど」といったある種の「無念」さが垣間見えます。(「歓迎」の意であればたぶん「このような時代」と表現します。)

        では「こんな時代」とは一体どんな時代であって、何が「残念無念」ということなのでしょうか。

         

        それは今後、私たちの社会に於いてどのような展開が予想されるのかという事に関わっています。

        例えば私たちは「結果が未知数」であるからこそ、より良い結果を求めて「努力目標」を設定し、物事に本気で打ち込む気持ちになれる訳ですが、そこで(未来でありながらも)「結果は既に決まっている」ということにでもなれば、目標を持つ意味も行なう意味さえも立ちどころに失ってしまいます。

        結果が如何に悪いものであったとしても「努力が至らなかったから」というのと「最初からその結果しか無かった」というのでは、全く意味が違います。そして従来私たち人間にとって「結果が未知数でなかった時代」など存在した試しは無く、少なくとも「やればやっただけの成果がある」と信じてこれまで励んで来れたという事だと思います。

         

        ところが少し以前から社会の様相は一変しました。その理由は「霊界」主導のもとに世の中に地球規模の大きな変革が起こりつつある事に拠りますが、それは霊的価値基準による明確な「仕分け」をも含みます。

        その事については当ブログでも以前から「手遅れにならないように」との思いで事有る毎に警鐘を鳴らし続けて来た訳ですが、永遠にその状態が続けられるはずも無く、やがてタイムアップとなるのは必定で「実際そうなってしまった」ものと考えて良いでしょう。(社会に於ける基本思想の「二分化」がそれを裏付けています。)

         

        「二分化」が固定化されてしまうと、それはまるで人と人との間に物理的に設けられた深い溝のようなものとなるでしょう。

        私たちは利他の精神のもとに、目の前で困っていたり苦しんでいたりする人がいれば手を差し伸べ、抱き起こし、肩を貸して共に歩むことがいつでも可能とする中で社会と自分との関わりを考え、問い続けて来ましたが、もし「二分化」が決定的なものとなれば溝の向こうで相手がどんなにもがき苦しんでいても、それを「手をこまねいて見ている」しかなくなるという事態に陥ります。しかしそうであっても私たちに「その場を離れる」という選択肢は有りません。多分1%にも満たない可能性に賭けてその場に居続ける事となるでしょう。

         

        もし1%を2%に、2%を3%にしたいというのであれば、私たちに出来ることは「ひたすら自らの人間力(=人間性)をアップさせておくこと」でしか有りません。何故なら「二分化」によって生じた溝とは、物理的なものではないからです。

        無論、それにも自ずと限界は有りますが、しかし今出来ることはそれが全てであれば「当然そうするべき」です。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:52 | comments(0) | - |
        「影が薄くなる」とはどういうことか?
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          世間で名の通った人々の中にも「最近ずいぶん影が薄くなってきた」と感じられる人たちが見受けられる。(そういうことは不思議とテレビ越しにも判るものだ。)しかしそうした場合の「影」とは果たして何を指しているのだろうか?

           

          「影」とは(幻ではない)実体の有るものに対して生ずるという意味で「存在の裏付け」と言えるだろう。つまりそれは「霊的な裏付け」に他ならないのだが、ここでの「裏付け」とは「存在意義」または「役割」という意味でしかない。何故なら人間とは霊界に籍を置く霊魂が、霊的に付与された「役割」を果たす事を目的として肉体と合体した状態を指すものだからだ。

           

          この「役割」には当然、自覚が必要なものもあるが、一方で無自覚の状態で果たされる場合も考えられる。(例えば「子という存在自体が親としての自覚を促す」など。)その意味に於いて「役割」を持たない人間など一人として存在しない事になる。(「人の命の尊さ」は本来それが根拠となっているが、当然教科書には書けず意味不明の説明でお茶を濁している。)

           

          つまり「影が薄くなる」ということは「生きる上で必要とされる絶対的な裏付けが失われつつある状態」ということになる。こうしたことはその人間の(見た目の)精神や肉体のコンディションとは関わりなく、あくまでも「(生きることに対する)霊的な意味付けの継続性」のみが関係するため、その人間が現在社会的重責を担う立場にあろうが、多忙の最中にあろうが無かろうが関係ない。その意味では誰もが必ずしもフェードアウトして行く訳では無いし、良く良く考えれば世の中は「そうでなければ困る」というような仕組みにもなっていないはずだ。

           

          それよりもむしろ重要な事は(本人の自覚の有無はさておき)「あの人は最近影が薄くなった」と感じた側がどのように処すべきかであろう。例えば(形はどうあれ)「実質役目を終えた人間」に対し、今更ながらあれこれ注文を出し、文句の限りを尽くし、徹底的に追い詰める・・・気にはならない。と言うより、実体が希薄となりつつ有るのだからそうする意味が無い、というのが正直なところだ。(冷たいようだがこればかりは如何共し難い。)

           

          だからこそ言える事だが「たとえどのような形であれ、人間はまともに取り合ってもらえる内が花」なのだ。(急に周辺が静かになったらまずは自分の身を案じた方が良いだろう。)

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:55 | comments(0) | - |
          「他者を排除せず」して最善を尽くす方法(その2)
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            まず「人間関係」には大別して2通り有ると思われます。それは相手が「いた方が良い」と思える場合と「いない方が良い」と思える場合です。(どちらでもないという場合はここでは除外します。)それらは例外なく「自分が相手から被る利益と不利益の比率」によって生ずる「快感(=心地良さ)と不快感(=ストレス)の度合い」に応じて感覚的にもたらされるものですから、元々「自己本位」で主観的な話ということになります。

            ただ「ストレス」は現実に精神的疲弊のみならず、(神経系を通して)肉体的ダメージをもたらす場合すら有るので「攻撃を受けている」という実感の下「消え失せて欲しい」という気持ちに傾く経緯自体は分からないでは有りません。

            しかしそうなると「わがまま(自己中心)な人」ほど選り好みが激しく、その分感じるストレスも大きい訳ですから、単にストレスを減らす方向で物を考えれば良いという事にはなりません。そればかりか、それでは永遠に「争いの火種」を持ち続ける事になります。つまり問題は「ストレスをどうするか」ということです。

            これについては以下の過去記事が参考になります。

             

            ○ 「ストレス」って何だ?

            ○ ストレス解消法について

            ○ 子どものストレス

             

            これらの主旨は以下の通りです。

             

            ・ストレスは自分の身に及ぶ「何かを改善するためのきっかけ」として作用する。
            ・ストレスを感じたら「速やかに問題点を認識、分析して、ただちにその原因を突き止める努力をする」こと。

            ・「自分自身」を変えたり動かしたりする方が「他人や環境全体」を変えたり動かしたりするより遥かに楽で効率的である。
            ・まず「自分自身の側の努力」がしっかり行われているとすれば、それが「先方に対する説得力=相手を動かす力」ともなる。

            ・ストレスは「短命」であればあるほど良く、心身の機能を正常に保つためには、絶対に「慢性化」させてはならない。

             

            例えば交渉の場に於いて「相手に譲歩する」という事を考えた場合、実際に「譲る事が出来ない」のと「譲りたくない」のとは全く意味が異なります。多くの場合は「どちらが主導権を握るか、優位なポジションに立つか」という謂わば「今後の成り行きを見据えた上での勝敗を決する材料」として譲る、譲らないの話が持ち出された挙句「(本当は譲歩の余地が有るにも関わらず)断じて譲れない」などと結論付けたりしますが、その時点で相手に「嘘を付いている」のですから、これは極めて「不誠実」な態度と言わざるを得ません。

            このように「弱みを見せられない」「面子を保つ」「意地を張る」などが常態化しているのであれば、ストレスが溜まる一方であるのも頷けます。しかしその原因が自らの「不誠実さ」にある事は明らかです。

             

            一方「手の内」を全て晒して「これ以上(譲ろうにも)譲れるものが無い」とする人に対して更に追い打ちを掛けようなどという人は滅多にいません。またそんなことをすれば周囲の人たちが黙っていないでしょう。

            このように常に「誠実な対応」を心掛ける人は(護るものや望むもの」が多くない分)基本的にストレスが有りません。また他人から信頼されるため、お互いに心を開いた関係が持てやすく、そうした積み重ねが相互扶助の社会環境へと発展することにも繋がります。またそうした安定的な関係を持続させるためには「自らのキャパシティの更なる向上」が重要であることにも気が付く事となるでしょう。何故なら「譲れるものが多い」ことが信頼性の一つの証しとも言えるからです。

             

            「誠実」のみがストレスを無くし、争いを無くする。今やこれは理想論ではなく「現実論」です。歴史的に云々と言いますが、それは「それぞれに誠実さが欠けていた証し」に過ぎないのではないのですか。そもそもやりもしないで「誠実」の価値を語る事は出来ません。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:57 | comments(0) | - |
            「他者を排除せず」して最善を尽くす方法(その1)
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              昨日の記事は「霊的」な内容だったにも関わらず、多くの方々に閲覧頂きました。「霊的こそが本命」と考える私としては、まことに喜ばしい限りです。

               

              さて、昨日の記事に於いて(人の在るべきスタンスとして)「如何なる場合であっても決して「他者を排除」せず、それを前提として最善を尽くす」という旨を申し述べましたが、当然そこでは「無抵抗主義」「(言葉の暴力を含む)非暴力主義」「平和主義」「人道主義」など、争い事を忌避し、回避するための様々な主義主張、方法論などが想起されることになります。

               

              しかし問題は(理想論はともかくとして)それらが果たして(社会の実情に照らして)「現実的であるのか」「実現性があるのか」という一点に尽きると思われ、有史以来人類がこれまで際限なく積み上げてきた様々な「対立構造」とそれに伴う形で幾度となく世界中で繰り返されてきた「戦争、紛争、抗争の類」を以って、それらを(良い悪いの話ではなく)「歴史的事実」「歴史的認識」或いは「歴史的教訓」などとして、そうした「既成事実」に則(のっと)った考え方を「現実主義」と称する場合があるように思います。

               

              そうした人たちに言わせれば「お花畑(実現不可能な理想論(=子供じみた稚拙な発想)を卒業して早く大人(=現実主義者)になれよ。」ということでしょう。つまりそこでは「対立と争いは不可避」という認識であって、あるのはただ「如何に勝つか、如何に負けないか」ということに集約された発想のみとなります。

               

              この「(歴史的認識のもと)現実に即応する」という考え方は一見合理的で正しいように見えますが、重大な欠陥を抱えています。

              ひとつは「対立と争いが不可避」とする論理的根拠に言及していない事です。それではまるで「過去の争いの当事者たち」の選択が常に正しかったという「雑な話」としか聞こえません。(歴史的事実を根拠とするならば、一件一件丁寧な考察を行わなければ判断の是非すら解りません。)

               

              更にもうひとつの欠陥は、「大人(=現実主義者)」に必要なメンタルは「闘争心と奸智、狡知、邪智で十分だ」と言っているようにしか聞こえないことです。何故なら「人間性の向上」や「人格や品格の形成」といった人間的成長がそもそも何のために必要かと言えば「従来不可能と思われてきたことを可能とするため」であり、言い換えればそれは「理想(=お花畑?)を現実にするためのパワーアップ」に他なりません。

              つまりそうした全てを見限って現実的対応に固執する限りは、少なくとも「人間的成長は不要」ということです。(私は若い頃「現実主義者」だった時期もあるので、そうしたことはよくわかるのです。)

               

              次回は「理想を現実にする具体的方法」に触れてみたいと思います。

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:05 | comments(0) | - |
              世界は完全に「二分割」の様相を呈している。
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                本日は「霊的」な話となりますので、関心の無い方はスルーして下さい。

                 

                実は昨日の記事を書いた後に当の村本大輔氏のツイッターを閲覧し、いわゆる「炎上振り」を確認致しました。大概の炎上がそうなのでしょうが、それは「疑義」や「議論」というような体裁のものではなく、明白な「攻撃と防御、つまり戦(いくさ)」以外の何ものでもないということがよく解りました。またこの事からして、一昨日の記事でも書いた通り「論じる時代は終わった」ことが解ります。何故なら互いに「聞く耳を持っていない」からです。これは外交問題に喩えれば「交渉決裂状態」の後に来る武力侵攻(=戦争)そのものです。

                このようなことが日常化しているのであれば、人々の判断に狂いや歪みが生じてくるのは当然でしょう。

                 

                ところで今日のタイトルにある「二分割」とは、世間で言うところの「右翼、左翼」「保守、リベラル」「自由主義、社会主義」「改憲派、護憲派」などといった政治的スタンスの話ではなく、人種、宗教、或いは社会的立場や経済格差の話でもなく、もっと基本的な「人間的、思想的、そして霊的」二分割の話です。これらは「良心という霊界由来の心の働き」が、日常的な人間の言動にどの程度影響を及ぼしているかという比率によって線引きが(自動的に)行われます。

                「そんな目に見えない曖昧な基準じゃ分からない」と心配?する必要は有りません。むしろこれは私たちが誰でも簡単に自己診断出来る「非常に解りやすい分割の仕組み」と言えます。

                 

                それは一言で言えば「(事と次第に依っては)直接的または間接的に他人の死(=存在の消滅)を望む場合があるか否か」というだけの事であって、そのくらいは誰でも自分の胸に手を当てて考えてみれば判ることです。(「判らない」という人はトボケているだけで、ただ「イエス」と言いたくないだけのことでしょう。)

                例えば「あんな人どこかへ引っ越しちゃえばいいのに」「アイツの顔も見たくないのでウチの会社辞めて欲しい」「死ねとまでは思わないけどあんな奴は大怪我でもしてヒドイ目に遭えばいいのに」などはよく有る話かも知れませんが全て「アウト」です。何故なら「霊的」には「消えろ、失せろ」は「死ね」と同義語となるからです。(その意味ではツイッター上での「戦闘行為」に参加する人たちも、そこに「排除」の思想が有る限り全て「アウト」です。)

                 

                重要な事は、それが心の内のものであろうと実際の言動であろうと関わりなく「排除=死、死=排除」を意味するということであって、それは同時に自らが(霊的因縁の存在すらも知らないくせに)おこがましくも「他者を裁き審判を下している」ということでも有ります。

                因みにこの問題は厳密には司法の場を預かる「裁判官」にも言える事であり、彼らにしても「(そんなことは百も承知の上で)社会の保全のため便宜上それを行なうしか術(すべ)がないのだ」という達観のもと、謙虚の上にも謙虚を重ねて職務を全うするという姿勢が望まれる事は言うまでも有りません。

                 

                故に、単に自分の都合や感情で他人を裁き「死を望む」など、とんでもない話ということであって、無論そこには「国家のため或いは家族のため」などといった「大義名分」も成り立ちません。何故なら、それらも所詮「自己、身内、仲間」という範疇のエゴイズムに過ぎず、それを第三者に論理的に理解させ得る方法など存在しないからです。更に言えば「身内と仲間は(ご都合主義から言えば)自己の一部」に過ぎず、その正体は100%のエゴイズムと知るべきでしょう。(他者との関係性を垣根で仕切った時点でインチキだということです。)

                 

                つまり「二分割」の中身はこういうことです。

                ○ 如何なる場合であっても決して「他者を排除」せず、それを前提として最善を尽くす人々。

                ○ 場合に依っては「他者を排除」してでも、己と周囲の限られた者たちの権益を守ろうとする人々。

                この内最後まで残れるのは日本では凡そ45%とされるどちらか一方でしょうが、その理由は極めて「霊的」なものです。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:03 | comments(0) | - |
                2017年も残り3日となりました。
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                  振り返れば2016年は「変動、変化」の年、2017年が「瓦解、崩壊」の年、そして来年2018年は「対峙」の年ということですが、それとて別段、それぞれが切った羊羹やカステラの如く整然と分け隔てられている訳ではなく、常にゴールに向けた一連の流れの中の様々な段階が混在しつつも「大局的にはそうなるだろう」という意味と受け止めて頂ければと思います。

                  つまり来年は「対峙の年」でありながらも、依然として「変動、変化」の動きは収まらず「瓦解、崩壊」も起こり続けるということです。ただ何れもタイムスケジュールに沿った一連の動きと考えれば、波状的に到来するそれらのタイミングは決してアバウトなものとは言えないでしょう。

                   

                  ところで何故「瓦解、崩壊」の次に「対峙」が来るのかということですが、本来であれば次に来るものは「再生、再建」など建設的な話であって良いのではないのでしょうか。これはおそらく「自然界広し」と言えども一連のサイクルの中で「対峙」などという過程を要するのは人間社会ぐらいのものと思われます。

                  「対峙」は人間だけが持つ「法則や論理で測れない部分」即ち「自己執着」の存在によって発生する事態と言って良いでしょう。この「自己執着」というものは、解りやすく言えば「自分ひとりの利益のためなら他の70億の人々を害することをも厭わない」というメンタリティを指します。改めて聞くと「そんな大それた事」と思うでしょうが、「いざとなれば他人の事など気にも留めない」とはそういうことで、事実毎日のようにそういう人たちが入れ替わり立ち替わりニュースに登場しています。

                   

                  今後は追い詰められた「自己執着」がいっとき暴走する事があるかも知れませんが、それらは瓦解、崩壊後の残渣に過ぎず、何れも脅威とは成り得ないでしょう。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 15:13 | comments(0) | - |
                  まずは「籠池佳茂氏のツイート」を読むべし
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                    今日は少しばかり厳しい話をしようと思います。何故なら以下の籠池佳茂氏のツイートがたいへん深刻で厳しい内容だからです。

                    http://www.asyura2.com/17/senkyo237/msg/639.html

                     

                    籠池佳茂氏は両親である「(詐欺容疑で逮捕された)籠池夫妻の不当とも思われる長期勾留」を当事者として目の当たりにするに至り、現政権の異常性、危険性と、それを黙認する社会の異常性、危険性を文字通り「有らん限りの言葉」を以って「私たち国民に対して」訴え掛けています。

                    その論拠として現政権がまい進する「改憲、軍拡」が有り、それを容認すれば「何れ困ることになるのはあなた達自身であると気付いて欲しい」更には「気付いたなら今すぐ声を上げて欲しい」という主旨と思われます。

                     

                    ここでひとつ確認しておく必要があるのは、佳茂氏を含む籠池家の人々が当初は現政権が目論む「国家主義、愛国教育」を支持し、加担する側にいて、安倍総理による「トカゲの尻尾切り」以降、政権と距離を置かざるを得なくなった経緯があるということですが、それを以って「自業自得」と切り捨てるのはどうかと思われます。佳茂氏も「自分は中にいた経験があるからわかる」とツイートの中で言っている様に、物事を劇的に動かすためには「内部を知る人々の力」に勝るものは無いのですから、そういう一つひとつを大切にして行く必要があると言えます。

                     

                    そこで本日もここから「霊的考察」となるのですが、以前から指摘している様に、安倍晋三と彼の政権とその各種取巻きは現在露骨な「開き直り」の真っ最中でもあり、逆に言えばそれしか打つ手が無いと言え、これで押し通せるかと言えばそんなことは(霊的に)有り得ず、幾多の解りやすい教訓を残した上でその悪しき役割を終えるでしょうが、それはそれとして私たち個々人として重要な事は「その過程に於いて誰がどのような思いで何をしたか」ということに尽きるのです。

                     

                    例えばあなたがそうした過程の中で「終始一貫傍観者に過ぎなかった」とすれば、あなたの未来は(その後どのような社会が訪れようとも)「傍観者だった者(=冷たい人)」としての未来でしか無いと言うことです。私に言わせれば、これほど当たり前の話は有りません。だからこそ私は今までも、そしてこの先も出来る限りの事をしようとしている訳です。

                    ですからみなさんがもし、この先も「傍観者」で有り続けたいと望むのであれば、取り敢えず「霊界の存在を否定する」しか無いと思われますが、もちろんそれも私が口を挟むことではなく、みなさんの自由です。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:03 | comments(0) | - |
                    便利ツールの原点は「薬」です。
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                      昨日は「便利ツール」が確実に人間の論理性(=自立性)を衰退させ、やがては訳も分からないままシステムに依存するしかない「危うい状態」に貶めて行くであろう話をしました。何故そう断言出来るのか、それはそもそも「便利」に跳び付く心の傾向自体が「ずるさと欲」という「非論理性」に端を発しているからで、それは「便利」とは本来「論理的に(物事に)要する手間暇を(感覚的に)バイパス(=省略)することで得られる実感」に他ならないからです。(事実「便利屋」という商売の中身はそうなっています。)

                       

                      ところでこの「便利ツール」の原点が「薬」であることは、ほぼ間違い有りません。特に植物の薬効を主とした生薬の歴史は古く、世界では今から6000年も前にシュメール人が、日本でも4000年以上前の縄文人が既に用いていた痕跡や記録が残されているとのこと。

                      こうした薬の役割は当時も今も基本的に同じで、ただ「(感覚的な)体調不良を(感覚的に)改善する」だけのことですが、それは必ずしも「体調不良が起きた論理的道筋に沿って体調の改善を目指す」という意味とは限りません。むしろ荒っぽい言い方をするなら「理屈はどうあれ(体調不良を)感じなくすれば良い」という考え方さえも有って、それも含めて「薬効」と言えるでしょう。

                       

                      ここでもし「この世に薬というものが無かったらどうなるのか」を想定して見ると、改めて薬の「便利ツール」振りが解ると思います。その場合、私たちの選択肢は病気(=体調不良)に対して前述の如く「体調不良が起きた論理的道筋に沿って体調の改善を目指す」しか無くなるはずです。(例えば「冷え」による症状は温めるしか無く「睡眠不足」による症状は寝るしか無い等。)要するに「原因の究明」が最重要課題であり、病状の改善は「時間と手間を掛けてその逆を辿るしか無い」ということです。

                      例えば不摂生や不養生或いは無理を重ねた挙句に3年掛けて痛めた体を元に戻すためには、自然治癒力による修復能力を合わせ考えるなら少なくともその3倍、凡そ10年は掛かると見るのが普通でしょう。それを思う時に、薬というものが如何に「便利を通り越したトンデモツール」であるかが解るというものです。

                       

                      さて、いよいよここからは「霊的考察」となりますので、関心の有る方のみ読み進めて下さい。

                      「霊的」には、薬(という概念)は「神が故有って人間にもたらしたもの」とされていますが、その本当の理由は「病に苦しむ衆生を救うため」と言うような平易で解りやすい話では決して無く、むしろ「エッ、どういうこと?」と一瞬理解に戸惑う様な内容を孕んでいると言えるかも知れません。しかしそれは本来「病、貧、争」からなる人間の不幸の要因に於ける(突出した)薬の存在、或いは薬に依存する人の心の中で何が起きているかを改めて考察することで、自ずと見えてくるものと思われます。(奥義に属するため答えは書きません。)

                       

                      ただ、この際はっきりと言えることは、私たちには「薬という便利ツールに依存して生きることを良しとするか否か」という選択肢が常に有り、それは他の「便利ツール」に関しても、それぞれに「自分の生き方に対する是非」が論理的に存在することと変わりが有りません。

                      (因みに私の場合、薬もスマホも「ノー」です。単にどちらも自分の生き方との接点が無いからです。)

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:22 | comments(0) | - |
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