「今年も皆様にとって良い年で有りますように」と軽々しく続けられる状況でないのが残念です。何故なら「良い年」とは降って湧いてくるものではなく、個々の努力によって手繰り寄せて来なければ得られないものだからです。しかも「努力」とは、思い思いの好き勝手な目標に向かって行われるものを含めず、人として真っ当で正しい「共通の目的」に向かって為されるものでなければ意味が無いことも、既に判明しております。それは平たく言えば「みんなで良くなろう、みんなで良くしよう」という、全地球的なバランス感覚に基づき、例え「神の目」から見ても整合性の取れたものでなければ「有効な努力」とは認められないものです。
人間にはそれを容易にするために(誰にでも)「理性と感情」が備えられており、その割合を7:3以上に保つ事によって「人間性」という普遍的で何物にも代えがたい指針を誰しもが持てる様になっています。それが証拠には、人間は子どもの頃には「童心」という理想的な向上心の形で、皆それを携えております。現在の状況として、(抵抗力が乏しいのを良いことに)それを片っ端から破壊して行くのが「悲しすぎるほど罪深い大人たち」となります。そんな不愉快な話は、本当にいい加減今年限りで終わりにして欲しいと思います。
そのような中で、今年はある程度の「達観」と「諦観」が必要になろうかと思われます。何故なら私達が「より良い世界」を目指して進む方向性は、既に決まっているからです。故に問題はそれに気付き、流れに乗れる人と、未だそれに気付くこと無く、流れに乗り遅れる人とに人々が二分されてしまうであろう事だと思います。
私達は残念ながら「他人の首に縄を付けて引っ張って行く事は出来ない」のです。それが「達観」であり「諦観」であるという事です。
せめて一人でも多くの人が「気付き」を得られます事を。