青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「富岡八幡宮」の件は、過去記事で警告済みにて
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    世の中では「起こるべくして起こる事が現実に起きている」感があります。私自身がそれを望んでいる訳では決して有りませんが、気付くのが遅れるとやはり避けきれない、防ぎきれないものが有るということでしょう。

    しかしそれは同時に「気付けば間に合う」という意味でもあることを、どうか忘れないで下さい。

     

    以下は当ブログの「神社」に関する過去記事ですが、多分に「霊的考察」を含んでいるため、興味の無い方にとっては参考にならないかも知れませんが、あくまでも関心をお持ちの方々の(霊的)理解の一助とさせて頂ければ幸いです。

     

    「神社」に関する過去記事はこちら→ http://blg-hal-kursk.jugem.jp/?search=%BF%C0%BC%D2

     

    尚、当ブログではカレンダー下の「ブログ内検索」を使って、任意のキーワードで目的の記事を探すことも出来ます。(例えば“教育基本法”“マインドコントロール”“人間性”など)

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:46 | comments(0) | - |
    「政教分離」について
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      ※「政教分離」の詳細な意味や歴史的経緯等については、ネット上にも多数の記述が存在するので各自でお調べ頂ければと思います。

       

      近代の自由主義諸国に於いては当たり前の如く採用されている「政教分離」は、日本に於いても憲法で厳格に規定されている通り「政治上の大原則」とされていますが、それは別段「信教(=目に見えないものを信ずる事)」に価値が無いと言う意味ではなく、むしろ歴史上あらゆる地域と時代で長期にわたって用いられてきた「祭政一致」によって生じるところの「(歴史的結果としての)不条理」を戒める意味合いのものと考えて良いと思います。(それらは数々の宗教弾圧、民族的対立、権力者の横暴、果ては国家的暴挙などを生み出し、我が国では戦前の「国家神道」が戦争への道筋を加速させてしまったとされる苦い経験があります。)

       

      では何故「祭政一致=不条理」という構図に陥りやすいのでしょうか?それは一重に「権力者(側)の意図や都合が論理性の有無よりも優先されやすい」からに他なりません。では何故そうなりやすいと言えるのでしょう?それは(信教的見地の特徴とも言える)「目に見えないものを根拠として物事を決断、決定することを憚(はばか)らない」傾向があるからと言って良く、またそうしたある種の「優越性」が発揮されなければ、そもそも「信教」を盾に取る意味が有りません。(ですからかなりの確率でそのような事が起こります。)

      こうしたケースに於いては論理(というよりも合理性)を謂わば「超越」した(目に見えない)見地と決断が果たして「正しいか否か」が全てと言っても過言では有りませんが、歴史的な評価の結論として「不条理なもの」と見做される事には、実際一理も二理もあると言えるでしょう。

       

      ところで「政教分離」を肯定した時点で、私たちは(少なくとも政治的、公的な場に於いては)「目に見えない要素(勘や閃き、或いは御託宣や占い、特定の宗教的教義など)」を根拠として自らの主張を展開する訳には行かなくなります。しかし一方で各自の「信教の自由」は憲法によって保障されている訳ですから、そうした部分に根ざした「信念や信条」があって然るべきとも思われます。そうした場合、もし良いと信じるものを「政治的、公的な場」に反映させたい(=社会を良くして行きたい)と願った際には、どうすれば良いのでしょう。また何が出来るのでしょう。

       

      例えば私自身の事を言うなら、別に日頃からあちらこちらで「霊的、霊的」などと連呼している訳ではなく、そればかりか私が「霊的に重きを置いている」事さえも知らない人が大半だと思いますが、もちろんそれで何ら不自由を感じる事も無ければ、やりにくさを感じる事も有りません。それは何故かと言えば「霊的」は、私に取って掛け替えのないバックグラウンドではあっても(この世に於いては)私自身を証明する手立てではないからです。

      例えば人間には「良心」が有り「人間性」が有り、倫理や道理を理解するための「論理性」が備わっており、それらの要素が渾然一体となって最終的に「品格を備えた人格」が形成されることになります。それは言い換えれば「霊的要素がこの世にマッチングするために形を変えたもの」に他ならず、であるなら「それで十分」ということになります。

       

      つまり「真っ当な人間」であれば「祭政一致」であろうが「政教分離」であろうが、やること、出来ることは殆ど同じと考えて良い訳で、故に敢えてここで「政教分離」を選択する理由が「真っ当でない人々や団体」が宗教の名の下に不当に流入して政治に介入する事を防ぐ目的にあるのは明らかでしょう。

      しかしだからと言って「全く宗教の政治介入が無いか」と言うとそんなことはなく、そうなれば今度は選挙時の資金力や集票力という形で絡んで来ることになりますが、これとて「真っ当な人間力」があればそんなことに血道を上げる必要もないはずですので、金集めに熱心であれば有るほど逆に「ここは怪しい」とする目安となるはずです。

       

      何れにせよ、まだ当分の間は「政教分離」が必要とされることでしょう。(出来れば「政金分離」もお願いしたい!)

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:35 | comments(0) | - |
      瓦解、崩壊の本質は「人としての体裁を失うこと」
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        それは言葉を換えれば「人が人たる由縁を失うこと」と言っても良いかも知れない。言って置くが(霊的には)「人」とは「人の形をした生き物」の事では無く、正しくは「人の心を有し、それが機能する状態の者」と言える。「人の心が機能する」とは「人らしい心が通い合える状態」を指し、当然のことながらそこには知的障害や発育障害、(昏睡状態を含む)物理的な機能障害を有した人々も含まれるので誤解、曲解のの余地はないと思う。

         

        もっとも霊的にはこのような煩雑な説明は不要で、それは単に「霊魂が肉体を制御する能力を失った状態」に過ぎず、そうなればその肉体は「内部の自我霊、想像霊、或いは外部からの憑依霊」などの意のままに翻弄されるしかなく、その事自体が「人としての(霊的な)存在意義の喪失」を意味し、従ってその人間の向かう先は「自滅」でしか有り得ないということになる。

         

        因みに世の中には「様々な価値観や考え方が(横並びに)在って然るべき」という人間観、社会観も存在するが、霊魂の世界(=霊界)ではこの「価値観や考え方」は全て上下方向の「縦並び」に配置されており、事実上「優劣判定の対象」でしかない。何故なら、それ自体が「霊魂の肉体制御能力に直結」するものだからだ。

         

        例えば世の中では「自己中心」な物の考え方を持っているからと言って、それが露骨に他人に迷惑を及ぼさない限り、必ずしも「劣っている」という評価とはならないが、霊的には「肉体制御能力に著しく悪影響が生じるもの」として、そうしたいわゆる「内面的な不備」さえも厳しい評価の対象とならざるを得ない。何故なら前述した通り、霊魂にとって「肉体を制御する能力を失う」ことは、文字通り「致命的」であり、それは「人が人でなくなる」ことを意味するからだ。

         

        直近のニュースでは「男性に対してストーカー行為を繰り返した女が逮捕された」との事だが、伝えられた供述の内容を信じる限り「妄想(=架空のイメージ)」に支配されていることが判る。これでは「霊魂が肉体を制御出来ている」とは到底言えず、むしろ「何ものかに操られている」という」イメージの方がはるかに受け入れやすいのではないか。

        もっと顕著な例では「岩泉町の町長が早朝に女性記者の宿泊先へ押しかけ、無理やり抱きつきキスをした」とされる事件で、町長自身が「わいせつ目的ではなく、女性を助けなければという幻聴や幻覚によるもの」と説明しているが、もし救助目的ならばまずホテル側に協力を要請するのが合理的で、単独行動自体が常軌を逸していると言わざるを得ず、すでにまともな人間の体を為していない。

         

        世の中ではこうした「人間の異常性」に対し、様々な理由付けが為されるのが常かも知れないが、霊界では単なる「制御能力の喪失」と見做され、相応の結果(=自滅行為)がもたらされる事となる。もしそれが何らかの「組織」という規模で頻発するようであれば結果的に「組織の崩壊」がもたらされるだけの事だ。よく「組織が腐っている」などと表現することがあるが、その意味は「相当数の構成員が自滅行為を行っている組織」ということに他ならず、構成員の人間的崩壊→組織の崩壊という図式となる。(自浄力が働かないとはそういうことだ。)

         

        今後も場所を選ばず、そうした人々の「自滅の光景」を目にすることが益々多くなり、やがては珍しくも無くなるに違いないが、そうした中では逆に「本物」が輝きを増すのかも知れない。ならばそれを見逃さないようにしたいものだ。それこそが今のこの時代の「宝物」に相違ない。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:24 | comments(0) | - |
        「個」と「集団」の正しい関係とは
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          人間は「個」か「集団」かと問われるなら、答えは「個」に違いない。そもそもが「生まれてくる時も死ぬ時も独り」であることからして、れっきとした「独立した存在」と言える。が、話はそれで終わる訳では無い。何故なら人間は(通常籍を置く)社会環境に於いて「客観的に価値を問われる存在」でもあるからだ。それは例えば人として、社会人として、親として、上司(=責任者)として、部下として、先輩として、男として、女として・・・つまり立場として「どうなの?」ということだ。実際これを無視して生きようとすると(意識の有無はさておき)非常に生き難くなるはずだ。それから見ても人間は「社会(=他者との集団形成)を前提とした個」であることが解る。この事は単に現状認識するだけでもそのように思えるものだが、更に「霊的考察」を深める事で一層明白になる。

           

          まず人間の実体を「霊魂」と見た場合、その目的が「向上(=価値の引き上げ)」にあると言っても過言で無いことは、以前申し上げた通りだが、「それはどのように行われ、そのために何が必要とされているか」を知ることは、非常に重要と言える。

          一言で言えば「それは社会参加によって行われ、そのために必要なものとは(参加出来る)社会である」ということになろう。しかも「それは社会であれば(取り敢えずは)どんな社会でも良く、どんな形の参加でも良い」ということで、それは考えるまでも無く、人間にとって(当初から)社会や参加形態を自分から選べることの方が、むしろ稀であることに起因する。(国籍も地域も親兄弟も通常選べない。)

           

          つまり人間はこの世に生まれ来た時点で直ちに(一方的に)とある社会に放り込まれ、そこで何かを感じ、何かを思い、何かを考え、そして何らかの行動を持つという流れの中で、霊魂の向上を図るべく宿命付けられているものと思って良いだろう。これは人間レベルで言えば「どんな社会であれ、その中で人間性を磨き、その中で人間性を発揮することが可能である」ことを意味し、そうしたひとつひとつの結果が地道に社会に反映されて行くことになる。

           

          これを要約するなら、即ち「個」は自らのレベルアップのために「集団」を形成する必要が有り、そこで「個」がレベルアップされる過程に於いて「集団」のレベルアップが果たされる、となろう。

          更に言えば、そのためには「個」は集団から(意識の上では)独立した存在でなければならず、逆に「集団」に依存するような「個」であってはレベルアップはおろか「集団」そのものの質を低下させ、場合によっては危機的状況をももたらし兼ねない。(社会の現状はこれに近い。)

           

          つまり霊的には「初めに個有りき」であって「集団(=全体)有りき」では上手く行かない。とにかく独り独りが自分の心のレベルアップを図る、それしかない。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:18 | comments(0) | - |
          再度「霊層」の話
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            少し前に「霊層段階」の話を集中的にしましたが、そこでは(話の構図を解りやすくするために)私たち個々の霊層段階がそれぞれの今価値に応じて「固定化」されているというイメージで説明してきました。しかし実際には生きている人間の(アクティブな霊魂の)霊層は、時々の想念や気分の影響によって刻一刻変化、つまり上下しています。つまり霊層段階とは決して床や天井で仕切られたエリアではなく、むしろ瞬時に上下向可能なオープンなものであるということです。

             

            しかし現実には、ある特定の霊層段階に留まり続けるためには、それに見合う霊魂の価値の蓄積や能力が必要であり、瞬間的に(何かの拍子で)高い霊層に跳ね上がったからと言っても、そこで何が出来るでもなく、長時間維持することも困難で、すぐに自価値相応の段階まで下がり、結局「その付近」で落ち着くことになりますが、そのように実質的な自価値相応の段階の事を「平均霊層」と称し、霊層を上げるとは正確にはこの「平均霊層」を上げる事を指します。

             

            このような「霊層の振れ幅」は、一般的には人間のその時々の「気分」によって生ずる事が多いようです。例えば人間は同じような出来事に直面しても、その対応は「気分や機嫌の良し悪し」によって変わり、同様の迷惑行為を被ったとしても機嫌が良ければ許せるし、機嫌が悪ければ許せないというような具合で、この場合前者の方が霊層が高く、後者の方が霊層が低いということになります。

             

            ならばいつも「気分や機嫌が良ければ良い」ということになりますが、そう上手くは行きません。何故なら多くの場合「気分や機嫌の良し悪し」は「自己満足の度合い」と関連が有るからです。そして自己満足を求め続ける事は「自己中心的傾向」を持つ事と無関係ではいられないはずです。となればその事自体が「霊魂の向上(=人間性の向上)」と本質的に矛盾を生じるため、(カンフル的な意味は為しても)継続的には不可能です。

             

            そのために人間には「自問自答」という立派な機能が備わっています。即ち自分が自身に対して「おかしいぞ」と問いを投げ掛ける機能です。人間は「この前は同じ事が許せて、今日は許せないっておかしくないか?」と自身に問い掛けることで気付く事が多々有るはずで、実はそれこそが進歩向上の基本だと言っても過言では無く、「霊層の振れ幅」は、まさにそのためにこそ必要と言って良いでしょう。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:24 | comments(0) | - |
            当サイトの意味するもの
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              以前にも書いたことがあるのですが、当ブログは日毎の閲覧者数に関して言えば、決して何千、何万などといった数を望んでいる訳では有りません。そればかりか日毎50人程度の人たちに見て頂ければ「十分に目的は果たせる」と、過去にも言い切っています。(その当時は確か平均20人前後であったかと思います。)

              その理由として、仮に50人の人に共感して頂けたことは、少なからずその周辺の人たちにも影響を与えて行くものと考えられ、更にはその先の人から人へ(思想として)伝わって行くものであるからと、説明して来ました。

               

              これは或る意味(論理としては)正しいのですが、少しばかり反論の余地があることも承知しているつもりです。その主だったものとしては「そんな悠長なことで間に合うのか?」ということだと思います。もちろん、そうした「成り行き任せ」では時間的、更には正確さや密度の面でも、期待するような結果に結びつかないかも知れません。謂わばそれが「物理的な限界」です。

               

              しかし何度もお話してきたように、人間は「物理的のみの存在」ではなく、人間の思いや思想的な発露というものは(良きに付け悪しきに付け)必ず「霊界」に向けて(自動的に)発信される事になっていて、それをキャッチした霊界側がその有り様に対応する形で動く仕組みになっています。その際一人の人間が霊界に及ぼす影響力は、限界のそれの数十倍〜数百倍と考えて良いでしょう。しかも(霊界の存在を認める限りに於いて)それは「実在する数」ということですから、それを思えば「50人で十分」という話になります。

               

              そのような認識のもと、当ブログは当初より「霊界に波及する目的」で発信されていると言っても過言では有りません。それは無論「霊界相手だから人は関係無い」という意味ではなく、「人を介して霊界経由で更に多くの人々へお届けしたい」という思いからです。

              因みに現時点では平均して日々60人前後の方にアクセス頂けている様です。

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:57 | comments(0) | - |
              「覚り(さとり)」とは何か
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                これはよく「覚りの境地」とか「覚りを開く」などと用いられ、特定の宗教的環境のもとで「到達」を意味する言葉として、私たちいわゆる「衆生の者」とは無縁の「隔絶された世界」のようなイメージを持たれますが、これは大きな誤りと言わざるを得ません。

                「覚り」に関する過去記事はこちら→ http://blg-hal-kursk.jugem.jp/?search=%B3%D0%A4%EA

                 

                因みにここで言う「覚り」とは「覚醒(=目覚め)」という意味を含んでいるため、単に「悟る(=察する)」という意味での「悟り」と区別しています。では「覚醒」とはどういう意味かと言うと、それは「(元々持っている)人間本来の(有るべき)能力を発揮し、人間本来の(有るべき)姿に立ち帰る、或いは立ち至る」ということで、早い話が「寝てる場合じゃないぞ、起きろ!」ということです。(まさにそういうタイトルの小冊子を配布しつつ啓蒙に勤しむ宗教団体等も有りますが、何が根拠や手引きとされているかによってその主旨や内容も変わってくるでしょう。)

                 

                 

                このように「覚り」という概念は、元々優れていた私たち個々の人間が何らかの事情で前後不覚の危機的な状況に陥ってしまい、それではマズいとして「自らの本来(の能力と生き方)を取り戻す」イメージと言って良いと思いますが、ここで生ずる幾つかの疑問に「霊的」に答えてみたいと思います。

                ○ まず「マズい」とは、どのくらいマズいのか?それは「霊魂本体が消滅する」くらいマズいということ。

                ○ 「自らの本来」とはどういうものか?それは「霊魂誕生時の霊層段階(=天国霊層)」のこと。

                ○ 何故「前後不覚状態」に陥っているのか?人間として生まれ変わるたび「霊的慢心と怠慢」を繰り返した結果。

                これらのことは、もちろん「目に見えず記憶にも無い話」ですから、信じるか否かは全くの自由ですが、ただそれとは別に「信じた方が得か損か」という論理的考察は可能だと思います。

                 

                以上のことから解るのは、「覚り」とは「特定の到達点」を指すと言うより、霊魂誕生時の霊層段階とのトル、つまり差を詰めていくアプローチ全体を指す言葉だということです。ですから例え一段でも霊層が上がればそれも「覚り」には違い有りませんが、感覚的に「節目」と感じられる段階が有るのも確かですので、それを以って「一つの覚り」とすることに特に異論は有りません。ただ「そこで終わる訳では無い」というところがポイントです。

                 

                何れにしても人間は「霊魂の向上」によって、それまでどうして良いか判らなかった事が判るようになり、また今まで気付かなかった間違いにも気付くようになるものです。そうしたことは単なる「職業訓練」などとは別次元の「人間力」によって実現され、霊的には「本来持っている力」が発揮されることを意味します。

                これらの力は段階的に「開眼」される形で徐々に高められて行き、ある時点では殆ど瞬時に物事の見極めが付き、瞬時に判断可能な状態となります。

                 

                こうした経過を振り返ると、「覚り(=霊魂の向上)」の道のりに於いては最初が最も辛く苦しく、徐々に弾みが付く(=判る)に従ってだんだん楽になって行くものであることが解ると思います。つまり最初の段階に於ける「的確なサポート」が非常に重要ということですが、現社会でいったいどれ程の人々がそうした関係を得ることが出来るか、甚だ疑問では有ります。

                 

                結論として「覚り(=霊的向上)」は(自らの幸福を願う限りは)万人が目指すべきものであって、取り分け政治家を初め、社会でリーダーシップを担う立場にある人々こそが、真っ先に覚るべきであるのは言うまでも無いことです。というよりそういう立場に就く人の審査基準に「人間力」が問われることを常識とする時代が、遠からず必ず来ると思います。何故なら真っ当な社会を築く方法は、(初めから)それしか無いのですから。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:24 | comments(0) | - |
                「霊層」に関する追記
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                  霊界は(現界と異なり)「問答無用」の世界である。そしてその霊界に於ける「霊魂の選択肢」はたった2つしかない。即ち「向上と下向(げこう)」の2つであり、それは(霊的には)「目的に向かって進むか、目的を放棄するか」の意味でしかなく、どちらを選択するのも霊魂の勝手だが、その結果は当然「問答無用」のものとなる。そしてその結果は霊界では瞬時に現象し、現界では時間差を伴って(物理的に)現象する。但し(それ以前に霊界の現象は必ず心にフィードバックされるので)「気付いて修正すれば間に合う」という救済策が用意されているにも関わらず、その仕組みが有効活用されるケースは極めて少ない。

                  それは何故か?

                   

                  人々が傲慢(ごうまん)となり、自ら(の心と行ない)を省みる機会を失ってしまったが故と断ずる事が出来る。では傲慢の本質とは何かと言うと、それは(誤った唯物思想のもとに)「自らと霊界との関わりを心から排除」してしまった事を指すのであって、必ずしも「他者に対する傲岸不遜な態度」を意味する訳ではなく、あくまでも「霊界に対する臆面もない慢心と怠慢=傲慢」と言い表している。

                  そもそも「目に見えないものは存在しない」というのならば、心の有り様と結果の相関関係も存在しないこととなり、その事がとっくに証明出来ていなければならないはずだが、そんなことは不可能だ。何故なら人に纏わるほとんどの現象は(ただ「目に見えない」ということを除けば)相関関係の存在をことごとく示唆しているはずだからだ。

                   

                  私たちは霊界(=心)の結果現象と現界の(物理的)結果現象の間に時間差(タイムラグ)が存在することを以って「相関関係」を否定するような愚を犯してはならない。それは救済措置の一環であって「思い直し、考え直す」ための貴重な時間に他ならないからである。(もしそれが無ければ、この世は今より遥かに凄惨な光景が展開するに違いない。)

                  故に私たちが事あるごとに「思い直し、考え直す」ことが出来るか否かは、まさしく「霊魂の選択肢」にその都度直面しているのと同じ意味を持っており、文字通りの死活問題であって、本当は「結果を見て慌てふためく」様では手遅れなのだ。

                   

                   

                  ※誤解の無い様に言っておくが、霊的理解を深めるために宗教に入信、入会する理由も必要も無く、増して「霊的知識」を詰め込む事でもない。それは生きる上で「より人間的(=霊的)と思われる選択」を繰り返すことのみによって得ることの出来るものである。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:21 | comments(0) | - |
                  「霊層」のまとめ
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                    結局のところ社会の様相とは、そこに集う人々の「霊層」そのものと言って良いでしょう。そこではいくらシステムやテクノロジーが進化しようとも、それらは常に「霊層相応」にしか役立てられません。即ち元々どんなに良いものであっても全く役に立たないか、ヘタをすれば(それがために)悍(おぞ)ましい害悪を社会にもたらす結果とも成り兼ねないということです。何故なら「霊層が低い」ということが、現界に於いては社会性の欠如、と言うよりむしろ「反社会性(=自己中心)」を意味することになるからです。

                     

                    一方「霊界」ではこの「霊層が低い」という意味が「霊魂が何も出来ない(不活性の)状態」として認識されます。それは喩えて言えば「萎み切った風船」の様なもので、完全な「約立たず」と見做されますが、その状態を自ら招いたという意味に於いて同時に「(霊的)怠慢」或いは「(霊的)反逆」の罪に問われることになります。

                    何故それが「罪」とされるのかと言うと、それは「霊界」の仕組みの根幹が「因縁」という相互扶助的な構造で成り立っているからと言って良いでしょう。そこでは個々の霊魂がそれぞれ「固有の役割」を果たす事が、常に全体に波及する仕組みとなっており、そのため良ければ良いなり、悪ければ悪いなりに全体に対して大きく影響を及ぼします。

                    因みに霊魂自体には「(動物的)自我」が存在しないため、単体であれば本来「罪」を犯す状態には有りませんが、肉体を有した「人間」という状態に限り自ら「霊層」を下げ、結果として「怠慢や反逆」に類する事態が発生するということです。

                     

                    現社会は「霊層の低い人」には全く事欠きません。以前から繰り返し言ってきた「思想の紊乱、道義の廃頽」とは、そういうことなのです。むしろ「少しばかり霊層が高めの人」を見つける事すら至難の業と言えるかも知れません。

                    しかしだからこそ、今この時点で「霊層を上げる」ことが際立つのだとも言えるでしょう。それは社会にとって「暗夜の荒海を照らす灯台の光」以上の意味を持つはずです。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:17 | comments(0) | - |
                    「霊層=人格」と思って下さい。
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                      このところ何回かに分けて「霊層」について記事にしました。その結果明らかとなったのは「世の中には様々な霊層の人が混在している」という当たり前のことでしか有りませんが、そこでの理解のポイントは、これは「世の中には様々な考え方の人がいる」と(いう一般的理解と)同義ではないということです。

                      と言うのも、一般的には「色々なものの見方、考え方、感じ方」は並列的に存在すると考えられ、信じられている節があるからです。もっと言えばそれらは「優劣の差」ではなく、どちらかと言えば経験、体験や立場の違いを反映しているものと受け止められることが多いと思います。

                      確かに「考え方の違い」には、そういった側面があるのも事実ですが、果たしてそれが「白と黒、右と左」の如く決裂や断絶を伴う様な「決定的な差異」を生じさせる程のものか否かと言えば、甚だ疑問と言わざるを得ません。(はっきり言って、そんなハズは有りません。)何故なら人々の根底に「(最終的な)目的の共通性」が見られる限り、解決不能な差異を生ずるはずが無いからです。

                      つまり人々の考え方の「決定的な差異」とは、言い換えれば「決定的な基本思想(=目的)の違い」であり、それは一重に「霊層の違い」に他ならないということです。であるとすれば、そういった考え方の違い自体を(前述の)「並列関係」として捉えても、決して解決の糸口は見えて来ません。何故ならそれは「上下の階層構造に基づく優劣の関係」であるからです。

                       

                      「霊層」とは縦(=上下)の階層構造ですから霊的には自ずと「階級、等級」の意味を持つものです。故にそれはそのまま「個々の霊魂の基本思想や能力」を表わすことになります。そして更には(その霊魂を有する)人間個々の(潜在的)価値、能力をも表わすことになります。(つまり人間には事実上、霊的な階級や等級が存在することになります。)

                      しかし現実の人間社会に於いては、そういった「霊的実相に基づく真実」は全て不問に付され、あたかも存在しないかの如く理解の外に置かれて来ました。何故ならそれは「ある意味正しい」からです。と言うのも、霊界では確かに「上位の力のあるものが指揮、指導する」という体制が整えられていますが、それは「肩書」によって保たれるものではなく、実質的な「包容力、責任能力」によって成り立っているということです。ただ現界(=物質界)と違い、全てが見透せる100%クリアな世界ゆえに、能力と肩書に些かのズレも生じないため、結果的に肩書(=階級)が作用している様に見えるに過ぎません。

                      ですからもちろん、霊界では(慢心などによって)下落すれば、一瞬にしてその立場と肩書を同時に失うハメに陥ることは言うまでも有りません。

                       

                      一方で現界は物質的な制約により、元々100%クリアな環境ではなく、それを前提として構成されている世界ですが、逆に見えにくいことで「奥ゆかしさ」や「そこはかとなく」などの捨てがたい美的感覚が生まれ、そもそも「神様が目に見えない」ということ自体がそれらと同根とも思えるほどです。むしろそのように(何でもあからさまにせず)「表によって裏を感じる」ことこそが、この世がこの世である由縁であり、醍醐味と言って良いでしょう。

                      ですから現界に於いて「霊層があからさまに語られない」のもそれはそれで正しいのですが、その代わりに人間社会には昔から「人格や品格」という基準が有ります。これらは生存競争や取り引きごとなどの生々しい用途に利用されることのない、その意味で極めて「霊的」な側面を持った人間的特質と言えます。

                      では「霊的向上=人格の向上」または「霊層=人格」という図式が100%成り立つかというと、ほとんど重なり合う部分が多いことは間違い有りませんが、敢えて言うなら「霊的な固有の使命を果たす」ことを優先させることで霊的向上が果たしやすくなり、それが人格に反映するという順序がより望ましいと思います。(何故なら、人格の追求が必ず霊的向上に結び付くとは限らないからです。)

                      つまり「霊的向上→人格の向上」という図式であれば100%成り立つということです。

                       

                      最後に思想的な一例を挙げて見たいと思います。

                      日本の安全保障を考える際に「戦力を高める事で抑止力を持つ」或いは「戦う意思を示さない事で相手に理解を求める」という大別すると二通りの選択肢があると考えられているようですが、この二つが互いに相容れず平行線をたどるのには理由が有ります。それはそもそも「目的」が異なっているからです。

                      前者は「言うことを聞かせよう」であり、後者は「仲良くなろう」となり、それぞれに目的に沿った立案であることは間違い有りません。

                      では、どちらの選択肢の「霊層」がより高いかと言えば、当然(目的からして)後者の「戦う意思を示さない事で相手に理解を求める」ということになります。(それを主張する人の邪念等はまた別問題です。)

                      よく「理想論」などの批判が有りますが、少なくとも目的が「仲良くなろう」ということであれば、それはそれで十分現実的な選択だと、私には思えます。

                       

                      目的を明確化すれば、議論は自ずと整理されます。逆に言えばそれをやりたがらないのが今の社会の風潮です。何かやましいところでもあるのでしょうか?

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:28 | comments(0) | - |
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