青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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頭が良くても心が「馬鹿」
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    という人間なら、世の中に掃いて捨てるほどいますが、こういう人々は(私の知り得る限り)何の役にも立たないばかりか、ただ世の中を引っ掻き回して終わります。所謂「しょうもない人々」ですが、無論当人たちにそんな自覚は露ほども有りません。何故なら「馬鹿」とは「まじか(間近)」と読む如く、自分の足元がチンプンカンプン皆目見えていない状態を指す言葉だからです。ですから様々な理由による「知的発達障害」の方々の場合は断じて「馬鹿」では有りません。少なくとも「自分の足元だけはしっかりと認識出来ている」からです。(それ故、偽らざる感謝の気持ちが持てるのです。)

    このように多くの人々の(頭ではなく)心が「馬鹿(=自分の足元が見えない)」のため、「思想の紊乱、道義の敗退」が進み、社会に蔓延し、人々が(互いに周囲を巻き込みながら)自滅寸前の状態に陥っているというのが現状です。

     

    こうした状況の中で今、最も求められているのは少数派であるところの(頭はそこそこであっても)「心の賢い人々」のしっかりとした役割認識と地道で着実な行動、及び可能な限りの合力を形成する事です。その基本は「臨機応変」な対応ですが、そのために何を為し得るかは「自分の足元」を見れば解りますし、何を為すべきかは「眼前の今」を直視することで解ります。

    無論、行動の結果が常に最善のイメージとして返ってくるとは限りませんが、重要な事は「結果によって霊界との距離感が測れる」ということです。そのことさえ理解して弛(たゆ)まぬ精神で課題の解決に勤しむ事で、必ずや求める結果が得られるものと確信して良いでしょう。

     

    何のために? 自分も含めて「みんなで良くなる」ためです。本気でそう思えることが「心が馬鹿でない証し」ですので。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:10 | comments(0) | - |
    「相対」と「絶対」の意味
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      ※本日の記事は、昨日の話の捕捉になります。従って「物証による理解」をお求めの方々にはお薦め出来ません。

       

      私たちの(現在日常的に)有する「相対的価値観」とは、自らの生存権、自らの正当性、そして自らの現状を前提とした上で、様々な価値観の中から取捨選択が行われた結果のものと思われます。これは言い換えれば(無意識に)「自分を世界の中心」に置くことで実現されたものです。

       

      例えば「この世は弱肉強食だ!」という価値観も、前述の理由によって選択されたものであって、そういう「宇宙の法則」が存在する訳では有りません。

      また、身近なところでは「医療や健康」に対する価値観も然りで、(良くも悪くも)前述の「自己中心的なスタンス」が反映された相対的な意味合いの強いものと言えます。

      例えば一般的に「長寿は良いことだ」とされていますが、「長寿でなければならない理由」となると、定かでは有りません。

       

      一方で「絶対的価値観」となると、すぐに思い浮かぶのが日本では戦前、戦中の或る時期に於ける「天皇崇拝」に基づく価値観の集約だと思います。海外では国王であったり法王、教皇などですが、これらは何れも「神に任ぜられた存在」または「神そのもの」であるので、言い換えれば「絶対的価値観とは神を世界の中心と見做すことにより実現される」という事になります。

       

      確かに、そうであれば私たちは自らを「世界の中心に据える」必要が無くなるかも知れません。しかしこれには重大な問題が有ります。それは単純化すれば「現実に姿かたちが人間であるものを如何にして絶対と認めるか」という話になります。そして結果的には、これらの試みは(真実がどうであるかはさておき)弊害が多く、上手く行かなかったというのが偽らざるところだと思います。そればかりか「絶対的価値観は危険だ」という概念さえもたらしました。そうなると当然(消去法的に)選択肢は「相対的価値観」しかなくなってしまうのも頷けます。

       

      ここで一つ面白い提案をして見たいと思います。それは「縦社会に於いては上に行けば上に行くほど損をする仕組み」を作るということです。(正確には、精神的には得をするが物理的には損をするという話です。)少なくとも「霊界」ではそうなっているのですから、「現界」に於いてそれに異を唱える理由は見当たりません。

      無論、これは現況誰もが受け入れられる話ではないかも知れませんが、しかし「人間性の豊かな人」であれば喜んで受け入れるに違い有りません。(今後はそういう世の中になるでしょう。)

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:36 | comments(0) | - |
      価値観の逆転が何故起こるのか
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        ※本日の記事は完全に「証明不可」に付き、理詰めで事の真偽を見極めようとのスタンスをお持ちの方には閲覧お薦め出来ません。

         

        少し前に『物事の価値観が180度変わる』という記事を書きました。しかしそこでは「何故それが起こるのか」という疑問には答えていませんでした。そこで今回は少しその点に触れてみようと思います。

         

        振り返れば、私たちの有する「価値観」の大半は「相対的な関係性」に基づいている様に思えます。例えば親子は相対的な関係性と言えます。課長と部下もそうですし、店員と顧客もそうです。また環境と人間も「有益、無益、有害」などの概念に代表されるような相対的関係にあると言えます。それからよく「あいにくの雨」などと表現しますが、これも気象と人間の相対的関係の最たるものでしょう。

         

        こうして一つ一つ例に照らして考えてみると、あらゆるものと自分との「相対的関係性」が判ります。つまり私たちは日々その中に埋もれるような形で生きているのですが、その一つ一つの関係性そのものは決して固定的なものではなく、むしろ「日々変化する」と考える方が自然なものです。そう考えると、私たちは気の休まる暇も無くなるというのも解ります。何故ならそれは「有るものが突然無くなったり、無害なものが急に有害になったり」するかも知れないことを意味するからです。相対的な関係とは「相手の状態に依存する」部分が大きいので、その影響を避けられないのが真実です。

         

        そこで、では私たちにとって「絶対的な関係性」とは何なのか、また、例えば「相対的な関係性」から逸脱して「絶対的な関係性」を主軸とした価値観を構成した上、それを以って生きる事が可能か否かという問いが生じます。

        その答えを得るためには、正に「霊界の在り方」が参考になります。結論から言えば、「霊界には相対的な関係性に基づく価値観は無く、従ってそこには揺るぎない絶対的な価値観しか存在しない」という事になります。

         

        答えのヒントは「物的特徴にばかり心を奪われていると、(人を含む)事物の本質を見誤る」ということだと思います。例えば「子どもを子どもとしか思えない限りは、その子との相対的な関係性しか見えて来ない」ということであって、(霊的には)「子どもは子どもでは無い(少なくともその事に余り意味は無い)」ということです。

        人間性の豊かな人は、総じて相手の姿形には余り重きを置きません。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:22 | comments(0) | - |
        物事の価値観が180度変わる
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          その瞬間が刻一刻と近づいています。これは単に「価値観が変わる」ではなく、180度とするところに意味が有ります。何故なら「物事の根源的な理解」が覆(くつがえ)るからであり、それによって「社会常識」全般も覆ることになるからです。

           

          「根源的な理解」とは例えば、宇宙とは何か、に始まり、地球とは、世界とは、国とは、人間とは・・・と続く本質的な事物に対する理解のことです。しかしこれらを一つ一つ分けて考えることに余り意味は有りません。これらは或る一つの認識をきっかけとして同時に置き換えられる関係性にあると思われます。

           

          この「(世界的な)価値観の劇的な転換」がどのようにしてもたらされるのか、具体的に示すことは多分困難です。何故ならこれは何千、何万、或いはそれ以上の途方もなく多くの(特徴的な)事象が複雑に絡み合い・・・というより影響を及ぼし合い、融合を重ねながら進められて行くであろうからです。つまりこのような観点から、この事は「誰にも制御は出来ない」ということです。

           

          当たり前のことかも知れませんが、世の中は現状、概ね「マジョリティー(多数派)」とされる人々の価値観を主体として物事が進められていますが、それに対して(本質的な部分で)疑義を唱える「マイノリティー(少数派)」の人々も存在することは事実で、そのような人々への評価が「不適応者」「変わり者」ならまだしも「発達障害」「適応障害」などと見做される事すら有るでしょう。(例えば「嘘が決して付けない人」は発達障害でしょうか?)

           

          しかし既に前述の「価値観の180度転換」に向けた変化は、目に見えない形ではあっても着実に進んでいます。そこには当然「多数派と少数派の逆転」も含まれるでしょう。その中に於いて、最も危険なものは「固定観念」に囚われ続けることだと思います。

          いつ、どの時点で「リセット」を掛けるかは、私たち個々の判断に委ねられていますが、早ければ早いほど良いでしょう。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:54 | comments(0) | - |
          霊層は顔に出る!
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            と、ここまで言わなければならない状況を本当に悲しく思います。特に現在「森友学園問題」で、新たに政権側と籠池側という対立構造が生起して以来、互いに相手側の証言を「虚偽呼ばわり」する応酬が続いています。つまり「必ずどちらかが嘘をついている」という状況に於いて、「嘘をついている者が、真実を語る者を名指しで公然と嘘つき呼ばわりする」という、考えように依っては「人として最も醜い行為」を行なっている現場を私たちは否応なしに日々見せつけられているという事です。このようなものが、子どもの教育上甚だよろしくないのは言うに及びません。

            というのも、昔の時代劇では相当の悪党であっても捕り方から追い詰められ「神妙にお縄を頂戴しろ」と言われれば、やおらその場に座り込んで「恐れ入りやした」と、自ら背中に手を回し「往生際の良さ」をアピールしたものです。(つまり当時は「そのような文化や価値観や教育が存在していた」ということです。)

            転じて今は「醜さ」「見苦しさ」「汚さ」が当たり前のように通用する時代という事でしょうか。

             

            またテレビやネットの情報に触れるたびに「嘘をつく本人」もさる事ながら、その人間を取り巻き、「擁護の弁に終止する多くの人々の生々しい挙動」も同時に目にしなければなりません。そうした人々自身は、たぶん全く気付いていないのでしょうが、かなり正確に「私は○○の虚偽を承知で擁護しています」というメッセージが態度や物腰、表情や言い回しから総合的に伝わって来ますが、極めつけは「霊層」に有ると言って良いでしょう。

            この場合の「霊層」とは、「平均霊層」と言うより「瞬間霊層」とでも言うべきもので、「虚偽を承知でそれを擁護」することによる「自らの虚偽(=悪事)」がまさに行われている瞬間の「霊層」ということですから、それがリアルタイムに反映された人間の「相」となると、さすがに「誰の目にも明らか」ではないでしょうか。(霊層が「相」に表れるという概念を有してさえいれば。)

             

            人間は「私心に囚われる」事さえなければ、誰でもそのぐらいのことは判る様に出来ているものです。これからはそういう価値判断を可能とする「わかりやすい時代」に推移して行くものと思われます。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:47 | comments(0) | - |
            「命を捧げる」は是か否か
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              「森友学園問題」で話題となった「教育勅語」は、国民は(親であるところの)天皇陛下に命を捧げるべしとされている。そして「教育勅語の是非を問う」とは、正に「それを何と見るか」という話に集約されている。何故なら、他の「道徳的な部分」に於いては(要約するなら)「日々の安心立命を得んが為には縦横の繋がりを重視し必要十分な配慮を怠るべからず」という事であるなら、それは当たり前のことであって、それこそ「格言やことわざ」と同様の文化的な一般論に過ぎないからだ。

              つまり早い話が「教育勅語」を良しとする人は「命を捧げる」ことを良しとし、良しとしない人は「命を捧げる」ことを良しとしないと見て取ることも出来る。(特攻隊を「美学」と感じる人々も未だ根強く存在する。)

               

              この「命を捧げる」という概念そのものが悪いかと言うと、一概にそうとも言えない。

              例えば自然界に於いても「親が子を守るために命がけの行動をする」などの例を見るまでもなく、人間が我が子を命がけで守り育てる事に対して、称賛される事はあっても、決して非難されるものではないだろう。また、多くの人々の窮地を救うため、命を投げ出して尽力する人間像は永く語り継がれ、人の心を打つ物語にもされている。

              つまり「誰かのために命を捧げる」という事自体は、それが「人間性」に裏付けされたものであり、しかも「自発的」なものである限り、古今東西「良い」とされてきた経緯がある。

               

              即ち「教育勅語」的な問題は、「命を捧げるという概念自体」が悪いのではなく、「一方的に指定された特定の存在のために命を捧げろと強要する」という「本人の命にも関わらず、本人の自由意志の完全否定」が教育課程で行われる事が「あってはならない悪いこと」として歴史的に認識されているという事だ。

              例えば「命が大事、自分が大事などと教えるから社会性が失われ、自己本位、自己中心な人間ばかりが増えて世の中が乱れるのだ。」という論調は確かに存在し、その裏返しとして「命を捧げる教育」が善化、美化されるということがあるのかも知れないが、それではただ物事の指針が「両極端」を行ったり来たりしているに過ぎず、何の解決にもならない。肝心な事はバランスであり、目指すべきは「中庸の心」にあるからだ。

               

              人間はとにかく「せっかち」だ。それが証拠にいつまで経っても「人間性をベースとした教育現場」など程遠い状態ではないか。確かに「人間性(=人格)」を養うとは並大抵の事ではなく、時間も掛かるが、その成果としての高い人間性は「オールマイティ」な力を発揮し、無数に存在する社会の不備などあっという間に解決出来るほどの潜在力を秘めている。「急がば廻れ」とは、正にこの事だ。

               

              「命を大事にする」のも「命を捧げる」のも、人間性の中では一つの事として理解されている。

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:41 | comments(0) | - |
              仕分け台にのせられる人々
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                ※本日は私の別ブログの記事の転載です。

                 

                 

                自らを「トカゲのしっぽ」と悟った森友学園籠池理事長が、遂に反撃の狼煙を上げた。

                問題は「それ」に対する(関係者を始めとする)人々の反応だ。実際に多くの人々が「それ」に対する態度の表明を余儀なくされている。

                例えば安倍総理を始め政府閣僚、与野党国会議員は元より、各省庁並び大阪府の役人、マスコミ各社とそれに付随するワイドショー出演者であるキャスター、コメンテーター(学者、弁護士、評論家、文化人)など、果ては街頭でインタビューに応じる一般庶民に至るまで、否応なくこの問題のために「仕分け台」にのせられるハメになっている事に果たして気付いているのだろうか。

                 

                ここで重要な事は「この事態の結末は既に決まっている」と言う事と共に、人々は「この事態によって本性を炙り出される」と言う事だ。それはこの「仕分け台(=事態)」の上では、人々が謂わば「白か黒か」を容易に判別されてしまう事を意味する。

                つまりこれは罠だ。にも関わらず、追い込まれた人々は未だその事に気付いていない。多分最後まで気付かないだろう。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:21 | comments(0) | - |
                「霊界よりのオーダー」は絶対だ。
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                  昨日も記事にした通り、物事は「心象の世界」より発せられたオーダーを受ける形で「物理的」な動きが開始される事となる。それは例えば自然現象として「地軸の移動」があったり「気象の変動」が生じたり「地震」が起きたりもそうだが、それを思えば(たかが)一個人の人間の思い付きや行動をオーダーに合わせて制御する事ぐらいの事は「朝飯前」の話だと悟って然るべきだろう。(元々は必要とあらば惑星の運行だって変えられるレベルの話だからだ。)

                   

                  このように「霊界(=心象の世界)」では、マクロの世界からミクロの世界に至るまで完全に統制出来る体制が常に整えられているという理解が全く正しいのだ。そして逆説的に言えば、それ故人間、そして人間世界に於いては「いろいろなことが起きる」と言える。それは(昨日も触れた様に、)「心象の世界」では人間の自発性、即ち「向上と下向の自由」が最大限に尊重されている事に起因する。何故ならそれこそが「人間を人間と呼べる唯一の理由」だからだ。

                   

                  話をいきなり現実の世情に戻すが、例の「森友学園問題」では様々な動きが起きている。今後の予測をする上では「カレイドスコープ」の最新の記事が参考になると思われるので、以下にリンクを貼っておく。

                  http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-4888.html

                   

                  この問題の存在自体を「心象世界よりのオーダー」という視点に立って見るなら、「結果は既に決まっている」事になる。そして事件の解明や解決に向けた「人の動き」は、それぞれに「オーダーに対応したもの」と言える。そこでは「誰が善人で誰が悪人」という評価はさほど意味が無く、ただ「今後私たちがどう在るべきで、社会はどう在るべきか」という概念の形成に向けて全てが集約されて行く事が望ましいだろう。(もちろん、そのための人材の養成や人材の選択について適切な見直しが期待される事となる。)

                   

                  そしてもし、この一連の流れが「心象世界のオーダー」によるものだとするなら、今後この(物理的な)動きは世界中の至るところでほぼ同時に起きる事となり、それはもはや誰にも止められないだろう。何故なら、人間世界は既に(従来の浅はかな考えの下に突き動かされて来た愚かな指導者たちによって)文字通り後の無い「崖っぷち」に立たされていて、「霊界」ではまさに「オーダーの発動タイミング」をそこに設定していたと考えて良いからだ。その理由は一重に「最も効率が良く、効果的である」からと思える。

                   

                  ついでながら「ものを信じる」とは「土壇場で信じきる」ことです。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:36 | comments(0) | - |
                  時には「大局的なアプローチ」も必要です。
                  0

                    例えば「宇宙の起源」や「生命の起源」について思いを馳せて見ます。

                    これらは私たち「人間」が存在するために、どうしても必要でした。

                    しかし逆に考えるなら、物理的に「人間がどうしても存在しなければならない理由」など有りません。

                    ですから「人間が存在しなければならない理由」は、あくまでも「心象的理由」と言えます。

                    そして「人間」が存在するためには、そこに「宇宙」が存在し、「生命」が存在する必要があったということになります。

                    少なくともそう筋道を立てることで「宇宙や生命の誕生に関わる確率の問題」は一瞬に解決します。

                    そして後には個々の現象を具象化するための「技術的問題」のみが残り、それを解明するのが「科学」ということです。

                     

                    ところが私たちは「科学的概念」に目覚めてこの方、そのような考え方を「バカバカしい」と、一笑に付して来ました。

                    何故でしょうか?

                    それは科学を「万能」とする一方で、長年「心象の世界」を科学の外に置き去りにして来たからに相違有りません。

                    その結果、全ての現象の発露に対して「物理的動機」を不可欠のものと考えざるを得なくなりました。

                    何故なら、そうでない考え方の全ては凡そ「非科学的」として相手にされなくなってしまったからです。

                    もちろん「心象の世界」もその限りでは無く、「現象は心象に左右される」など、有り得ない話とされて来ました。

                     

                    ここで改めて確認しますが、私たちに影響を及ぼす事象の因は「心象の世界であるところの霊界」に有ります。

                    そして霊界の因が発動すると、現界で必要な物理的連鎖が起こり、結果現象をもたらすというのが「物の筋道」です。

                    例えば「死」という因が発動すると、それに合わせて体内に「死に向かう物理的変化が生じる」ということです。

                    もし「いや、そうではない」と言うなら、逆に「そうではない根拠と証明」が必要ですが、多分出来ないと思います。

                     

                    それに多くの人たちは気が付いていませんが、本当は「心象一つ」で物事を動かせた方が楽なはずです。

                    但し「法則に従った思い」である必要はありますが、それは私たちが日頃「憲法や法律を遵守」するのも同じ事と言えます。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 14:19 | comments(0) | - |
                    霊界と現界に於ける「結論」の違い
                    0

                      ※本日の話は「人間は生きている間も霊界と現界に同時に籍を置いている」事を前提としていますので、これらの話に馴染めない方、認められない方は閲覧注意となります。

                       

                      まず「霊界」では「思想、想念」が結論(結果)に直結します。よく「徳を積む、功徳を積む」などという言い回しが有りますが、これらはその働きとして「思想、想念を下支えする」という意味になります。しかし実際にはこれら「徳」の概念にも、その根拠となる「思想の高低によるランク付け」が存在しますので、やはり決め手は「思想、想念の有り様」と言わざるを得ません。そしてその「思想」が(良くも悪くも)安定的に維持される事によって、その人間の「平均的な霊層段階」が決定し、予め定められた「段階ごとの因」が(自動的に)発動する仕組みとなっています。霊的にはそれが即ち「結論(結果)」と言うことですから、やはり「思想、想念が即結果する」と考えて良いと思います。(「思想」という言葉は解りやすく「心柄」と置き換えても構いません。)

                      つまり「霊界」は純粋に「心象の世界」ということです。

                       

                      一方で私たちの暮らす「現界」は、ほとんどの事象が「物質」を介して引き起こされる仕組みとなっていますので、通常は「物質的現象の連鎖」の末に結論(結果)が用意される事となります。そして同時にそれらの「物質的連鎖の過程」に於いては「物理(学)的な矛盾」は生じないものと考えるのが一般的と思われます。つまり「結果現象は物理的に理に適った範疇でしか起こり得ない」というのが一般的な認識であって、例えばその中には「確率的に起こり得ない」という認識も含まれるでしょう。

                       

                      しかし、ここでは物の順序が問題となります。それは「霊界で発動した因に従って現界で現象が起きる(または起きない)」という「物の順序」です。それは一重に「私たちの感覚の中では有り得ない事も起きる」可能性を示唆しています。

                      このように「霊界の結論に忠実に従った現界の結果」をもたらす仕組みについては、さほど難解なものとは思えません。何故なら、その事象が人間に関わる場合、その時点で実は心象のコントロールが100%可能だからです。

                       

                      元より人間には「向上の自由と下向の自由が与えられている」とされていますが、もしその「自由」が失効されたとすれば、私たちに「他の自由」は存在しませんので、当然100%霊界のコントロール下に置かれる事になります。そしてそれは「ピンポイントで結果現象を起こす必要」に際して言うなら、決して有り得ない事では無いということです。

                      私たちが簡単に「有り得ない」などと思うのも、余りに「霊界と現界の関わり」を知らな過ぎるためと思われます。

                       

                      それより何より、私たちは「与えられた自由」を実感し、最大限に活かす事にもっと専心する必要があるのではないでしょうか。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:30 | comments(0) | - |
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