青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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当サイトの意味するもの
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    以前にも書いたことがあるのですが、当ブログは日毎の閲覧者数に関して言えば、決して何千、何万などといった数を望んでいる訳では有りません。そればかりか日毎50人程度の人たちに見て頂ければ「十分に目的は果たせる」と、過去にも言い切っています。(その当時は確か平均20人前後であったかと思います。)

    その理由として、仮に50人の人に共感して頂けたことは、少なからずその周辺の人たちにも影響を与えて行くものと考えられ、更にはその先の人から人へ(思想として)伝わって行くものであるからと、説明して来ました。

     

    これは或る意味(論理としては)正しいのですが、少しばかり反論の余地があることも承知しているつもりです。その主だったものとしては「そんな悠長なことで間に合うのか?」ということだと思います。もちろん、そうした「成り行き任せ」では時間的、更には正確さや密度の面でも、期待するような結果に結びつかないかも知れません。謂わばそれが「物理的な限界」です。

     

    しかし何度もお話してきたように、人間は「物理的のみの存在」ではなく、人間の思いや思想的な発露というものは(良きに付け悪しきに付け)必ず「霊界」に向けて(自動的に)発信される事になっていて、それをキャッチした霊界側がその有り様に対応する形で動く仕組みになっています。その際一人の人間が霊界に及ぼす影響力は、限界のそれの数十倍〜数百倍と考えて良いでしょう。しかも(霊界の存在を認める限りに於いて)それは「実在する数」ということですから、それを思えば「50人で十分」という話になります。

     

    そのような認識のもと、当ブログは当初より「霊界に波及する目的」で発信されていると言っても過言では有りません。それは無論「霊界相手だから人は関係無い」という意味ではなく、「人を介して霊界経由で更に多くの人々へお届けしたい」という思いからです。

    因みに現時点では平均して日々60人前後の方にアクセス頂けている様です。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:57 | comments(0) | - |
    「覚り(さとり)」とは何か
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      これはよく「覚りの境地」とか「覚りを開く」などと用いられ、特定の宗教的環境のもとで「到達」を意味する言葉として、私たちいわゆる「衆生の者」とは無縁の「隔絶された世界」のようなイメージを持たれますが、これは大きな誤りと言わざるを得ません。

      「覚り」に関する過去記事はこちら→ http://blg-hal-kursk.jugem.jp/?search=%B3%D0%A4%EA

       

      因みにここで言う「覚り」とは「覚醒(=目覚め)」という意味を含んでいるため、単に「悟る(=察する)」という意味での「悟り」と区別しています。では「覚醒」とはどういう意味かと言うと、それは「(元々持っている)人間本来の(有るべき)能力を発揮し、人間本来の(有るべき)姿に立ち帰る、或いは立ち至る」ということで、早い話が「寝てる場合じゃないぞ、起きろ!」ということです。(まさにそういうタイトルの小冊子を配布しつつ啓蒙に勤しむ宗教団体等も有りますが、何が根拠や手引きとされているかによってその主旨や内容も変わってくるでしょう。)

       

       

      このように「覚り」という概念は、元々優れていた私たち個々の人間が何らかの事情で前後不覚の危機的な状況に陥ってしまい、それではマズいとして「自らの本来(の能力と生き方)を取り戻す」イメージと言って良いと思いますが、ここで生ずる幾つかの疑問に「霊的」に答えてみたいと思います。

      ○ まず「マズい」とは、どのくらいマズいのか?それは「霊魂本体が消滅する」くらいマズいということ。

      ○ 「自らの本来」とはどういうものか?それは「霊魂誕生時の霊層段階(=天国霊層)」のこと。

      ○ 何故「前後不覚状態」に陥っているのか?人間として生まれ変わるたび「霊的慢心と怠慢」を繰り返した結果。

      これらのことは、もちろん「目に見えず記憶にも無い話」ですから、信じるか否かは全くの自由ですが、ただそれとは別に「信じた方が得か損か」という論理的考察は可能だと思います。

       

      以上のことから解るのは、「覚り」とは「特定の到達点」を指すと言うより、霊魂誕生時の霊層段階とのトル、つまり差を詰めていくアプローチ全体を指す言葉だということです。ですから例え一段でも霊層が上がればそれも「覚り」には違い有りませんが、感覚的に「節目」と感じられる段階が有るのも確かですので、それを以って「一つの覚り」とすることに特に異論は有りません。ただ「そこで終わる訳では無い」というところがポイントです。

       

      何れにしても人間は「霊魂の向上」によって、それまでどうして良いか判らなかった事が判るようになり、また今まで気付かなかった間違いにも気付くようになるものです。そうしたことは単なる「職業訓練」などとは別次元の「人間力」によって実現され、霊的には「本来持っている力」が発揮されることを意味します。

      これらの力は段階的に「開眼」される形で徐々に高められて行き、ある時点では殆ど瞬時に物事の見極めが付き、瞬時に判断可能な状態となります。

       

      こうした経過を振り返ると、「覚り(=霊魂の向上)」の道のりに於いては最初が最も辛く苦しく、徐々に弾みが付く(=判る)に従ってだんだん楽になって行くものであることが解ると思います。つまり最初の段階に於ける「的確なサポート」が非常に重要ということですが、現社会でいったいどれ程の人々がそうした関係を得ることが出来るか、甚だ疑問では有ります。

       

      結論として「覚り(=霊的向上)」は(自らの幸福を願う限りは)万人が目指すべきものであって、取り分け政治家を初め、社会でリーダーシップを担う立場にある人々こそが、真っ先に覚るべきであるのは言うまでも無いことです。というよりそういう立場に就く人の審査基準に「人間力」が問われることを常識とする時代が、遠からず必ず来ると思います。何故なら真っ当な社会を築く方法は、(初めから)それしか無いのですから。

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:24 | comments(0) | - |
      「霊層」に関する追記
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        霊界は(現界と異なり)「問答無用」の世界である。そしてその霊界に於ける「霊魂の選択肢」はたった2つしかない。即ち「向上と下向(げこう)」の2つであり、それは(霊的には)「目的に向かって進むか、目的を放棄するか」の意味でしかなく、どちらを選択するのも霊魂の勝手だが、その結果は当然「問答無用」のものとなる。そしてその結果は霊界では瞬時に現象し、現界では時間差を伴って(物理的に)現象する。但し(それ以前に霊界の現象は必ず心にフィードバックされるので)「気付いて修正すれば間に合う」という救済策が用意されているにも関わらず、その仕組みが有効活用されるケースは極めて少ない。

        それは何故か?

         

        人々が傲慢(ごうまん)となり、自ら(の心と行ない)を省みる機会を失ってしまったが故と断ずる事が出来る。では傲慢の本質とは何かと言うと、それは(誤った唯物思想のもとに)「自らと霊界との関わりを心から排除」してしまった事を指すのであって、必ずしも「他者に対する傲岸不遜な態度」を意味する訳ではなく、あくまでも「霊界に対する臆面もない慢心と怠慢=傲慢」と言い表している。

        そもそも「目に見えないものは存在しない」というのならば、心の有り様と結果の相関関係も存在しないこととなり、その事がとっくに証明出来ていなければならないはずだが、そんなことは不可能だ。何故なら人に纏わるほとんどの現象は(ただ「目に見えない」ということを除けば)相関関係の存在をことごとく示唆しているはずだからだ。

         

        私たちは霊界(=心)の結果現象と現界の(物理的)結果現象の間に時間差(タイムラグ)が存在することを以って「相関関係」を否定するような愚を犯してはならない。それは救済措置の一環であって「思い直し、考え直す」ための貴重な時間に他ならないからである。(もしそれが無ければ、この世は今より遥かに凄惨な光景が展開するに違いない。)

        故に私たちが事あるごとに「思い直し、考え直す」ことが出来るか否かは、まさしく「霊魂の選択肢」にその都度直面しているのと同じ意味を持っており、文字通りの死活問題であって、本当は「結果を見て慌てふためく」様では手遅れなのだ。

         

         

        ※誤解の無い様に言っておくが、霊的理解を深めるために宗教に入信、入会する理由も必要も無く、増して「霊的知識」を詰め込む事でもない。それは生きる上で「より人間的(=霊的)と思われる選択」を繰り返すことのみによって得ることの出来るものである。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:21 | comments(0) | - |
        「霊層」のまとめ
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          結局のところ社会の様相とは、そこに集う人々の「霊層」そのものと言って良いでしょう。そこではいくらシステムやテクノロジーが進化しようとも、それらは常に「霊層相応」にしか役立てられません。即ち元々どんなに良いものであっても全く役に立たないか、ヘタをすれば(それがために)悍(おぞ)ましい害悪を社会にもたらす結果とも成り兼ねないということです。何故なら「霊層が低い」ということが、現界に於いては社会性の欠如、と言うよりむしろ「反社会性(=自己中心)」を意味することになるからです。

           

          一方「霊界」ではこの「霊層が低い」という意味が「霊魂が何も出来ない(不活性の)状態」として認識されます。それは喩えて言えば「萎み切った風船」の様なもので、完全な「約立たず」と見做されますが、その状態を自ら招いたという意味に於いて同時に「(霊的)怠慢」或いは「(霊的)反逆」の罪に問われることになります。

          何故それが「罪」とされるのかと言うと、それは「霊界」の仕組みの根幹が「因縁」という相互扶助的な構造で成り立っているからと言って良いでしょう。そこでは個々の霊魂がそれぞれ「固有の役割」を果たす事が、常に全体に波及する仕組みとなっており、そのため良ければ良いなり、悪ければ悪いなりに全体に対して大きく影響を及ぼします。

          因みに霊魂自体には「(動物的)自我」が存在しないため、単体であれば本来「罪」を犯す状態には有りませんが、肉体を有した「人間」という状態に限り自ら「霊層」を下げ、結果として「怠慢や反逆」に類する事態が発生するということです。

           

          現社会は「霊層の低い人」には全く事欠きません。以前から繰り返し言ってきた「思想の紊乱、道義の廃頽」とは、そういうことなのです。むしろ「少しばかり霊層が高めの人」を見つける事すら至難の業と言えるかも知れません。

          しかしだからこそ、今この時点で「霊層を上げる」ことが際立つのだとも言えるでしょう。それは社会にとって「暗夜の荒海を照らす灯台の光」以上の意味を持つはずです。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:17 | comments(0) | - |
          「霊層=人格」と思って下さい。
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            このところ何回かに分けて「霊層」について記事にしました。その結果明らかとなったのは「世の中には様々な霊層の人が混在している」という当たり前のことでしか有りませんが、そこでの理解のポイントは、これは「世の中には様々な考え方の人がいる」と(いう一般的理解と)同義ではないということです。

            と言うのも、一般的には「色々なものの見方、考え方、感じ方」は並列的に存在すると考えられ、信じられている節があるからです。もっと言えばそれらは「優劣の差」ではなく、どちらかと言えば経験、体験や立場の違いを反映しているものと受け止められることが多いと思います。

            確かに「考え方の違い」には、そういった側面があるのも事実ですが、果たしてそれが「白と黒、右と左」の如く決裂や断絶を伴う様な「決定的な差異」を生じさせる程のものか否かと言えば、甚だ疑問と言わざるを得ません。(はっきり言って、そんなハズは有りません。)何故なら人々の根底に「(最終的な)目的の共通性」が見られる限り、解決不能な差異を生ずるはずが無いからです。

            つまり人々の考え方の「決定的な差異」とは、言い換えれば「決定的な基本思想(=目的)の違い」であり、それは一重に「霊層の違い」に他ならないということです。であるとすれば、そういった考え方の違い自体を(前述の)「並列関係」として捉えても、決して解決の糸口は見えて来ません。何故ならそれは「上下の階層構造に基づく優劣の関係」であるからです。

             

            「霊層」とは縦(=上下)の階層構造ですから霊的には自ずと「階級、等級」の意味を持つものです。故にそれはそのまま「個々の霊魂の基本思想や能力」を表わすことになります。そして更には(その霊魂を有する)人間個々の(潜在的)価値、能力をも表わすことになります。(つまり人間には事実上、霊的な階級や等級が存在することになります。)

            しかし現実の人間社会に於いては、そういった「霊的実相に基づく真実」は全て不問に付され、あたかも存在しないかの如く理解の外に置かれて来ました。何故ならそれは「ある意味正しい」からです。と言うのも、霊界では確かに「上位の力のあるものが指揮、指導する」という体制が整えられていますが、それは「肩書」によって保たれるものではなく、実質的な「包容力、責任能力」によって成り立っているということです。ただ現界(=物質界)と違い、全てが見透せる100%クリアな世界ゆえに、能力と肩書に些かのズレも生じないため、結果的に肩書(=階級)が作用している様に見えるに過ぎません。

            ですからもちろん、霊界では(慢心などによって)下落すれば、一瞬にしてその立場と肩書を同時に失うハメに陥ることは言うまでも有りません。

             

            一方で現界は物質的な制約により、元々100%クリアな環境ではなく、それを前提として構成されている世界ですが、逆に見えにくいことで「奥ゆかしさ」や「そこはかとなく」などの捨てがたい美的感覚が生まれ、そもそも「神様が目に見えない」ということ自体がそれらと同根とも思えるほどです。むしろそのように(何でもあからさまにせず)「表によって裏を感じる」ことこそが、この世がこの世である由縁であり、醍醐味と言って良いでしょう。

            ですから現界に於いて「霊層があからさまに語られない」のもそれはそれで正しいのですが、その代わりに人間社会には昔から「人格や品格」という基準が有ります。これらは生存競争や取り引きごとなどの生々しい用途に利用されることのない、その意味で極めて「霊的」な側面を持った人間的特質と言えます。

            では「霊的向上=人格の向上」または「霊層=人格」という図式が100%成り立つかというと、ほとんど重なり合う部分が多いことは間違い有りませんが、敢えて言うなら「霊的な固有の使命を果たす」ことを優先させることで霊的向上が果たしやすくなり、それが人格に反映するという順序がより望ましいと思います。(何故なら、人格の追求が必ず霊的向上に結び付くとは限らないからです。)

            つまり「霊的向上→人格の向上」という図式であれば100%成り立つということです。

             

            最後に思想的な一例を挙げて見たいと思います。

            日本の安全保障を考える際に「戦力を高める事で抑止力を持つ」或いは「戦う意思を示さない事で相手に理解を求める」という大別すると二通りの選択肢があると考えられているようですが、この二つが互いに相容れず平行線をたどるのには理由が有ります。それはそもそも「目的」が異なっているからです。

            前者は「言うことを聞かせよう」であり、後者は「仲良くなろう」となり、それぞれに目的に沿った立案であることは間違い有りません。

            では、どちらの選択肢の「霊層」がより高いかと言えば、当然(目的からして)後者の「戦う意思を示さない事で相手に理解を求める」ということになります。(それを主張する人の邪念等はまた別問題です。)

            よく「理想論」などの批判が有りますが、少なくとも目的が「仲良くなろう」ということであれば、それはそれで十分現実的な選択だと、私には思えます。

             

            目的を明確化すれば、議論は自ずと整理されます。逆に言えばそれをやりたがらないのが今の社会の風潮です。何かやましいところでもあるのでしょうか?

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:28 | comments(0) | - |
            堕ちた霊層を如何にして上げるか
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              一旦下げてしまった霊層段階は(下向のベクトルが作用するため)更に下げることは簡単ですが、再度上げるとなると(一時的にせよ)そのために「現段階の思想から上位の思想への置き換え」が必要となるため、決して生やさしいことでは有りません。何故ならこの場合の思想とは「無意識の行動を司る本音の部分」を指しているからで、上位の思想と隔絶された(霊層段階という思想的)閉鎖環境に於いて「自発的な思想の置き換え」が為されるためには、その前提として「完全な自己否定」が(動機として)必要となるからです。

               

              当たり前のことですが、人間が自分の考え方、思い方を変え、言葉や行いを改めるということは、「それ以前の自分(の思想)を否定する」という意味を持ちます。その一方で「現在の霊層段階に甘んじている」こと自体が既に「現在の自分(の思想)を肯定している」意味でしか有りませんので、その矛盾が解決されない限り、自力での向上は困難ということです。

               

              ここで一旦話は変わりますが、そもそも社会とは何のためにあるのでしょうか。それはおそらく自給自足の生活を基本と考えた場合、人が集まることで共有、共同部分を設けたり、協力や分担を行なうことで、より効率的で安定的且つ安全、安心な暮らしを求めるがゆえではないかと思われますが、それはあくまでも人が生きることを「物理的な次元」で捉えた場合の話で、実は社会には次元の異なるもう一つの重要な役割が有ります。それは「社会の持つ霊的な役割」であり、これは私たちの知らないところで緻密に構成され、私たちの「霊的向上」に欠かせない重要な役割を果たしています。(それを活用する、しないは人間の自由ですが。)

              何れにせよ、社会には(私たちの良く知る)物理的役割と(私たちのあまり知らない)霊的役割があるということです。

               

              このことを前提として話を戻しますが、人間は一人で閉じ籠っている限り、幾らネットやテレビ、書物などから情報を得て見ても、それらを受け止めるのは自己肯定の元凶とも言える現在の「固定化された基本思想」でしかなく、情報はそこでふるいに掛けられた末、残るものと言えば「自己肯定に必要なもの」でしか有り得ず、「やっぱりそうか!」的に自己肯定をより強める結果にしかなりません。

              つまり「単独で霊層を上げることは、ほぼ不可能に近い」と言え、ここは非常に重要なポイントです。

               

              では閉じ籠りをやめて、日常的に(普通に)社会参加して見ると、どういうことが起きるのでしょうか。

              この段階で感性が鈍化していると、社会に出て人と関わって見ても、余り心境に変化が感じられないということがあるかも知れませんが、それでも世の中はそうそう甘くは有りません。ヘタをすると、いきなりどこからか「ウスノロ」とか「マヌケ」呼ばわりされるハメに合うかも知れませんし、そうかと思えば見るに見かねた人が「大丈夫ですか?」「お手伝いしましょうか?」と向こうから声を掛けてくれるかも知れません。

              そのように社会というものは、私たちにとって(心理的に何らかの)「外的刺激を与えられる場」となっています。

               

              それは「たまたま」「偶然」或いは「確率的」な話のように映るかも知れませんが、実はそうではなく、社会の(霊的)仕組みとして、そうなっているというのが正しい認識と言えます。例えば人間が霊的に受ける外的刺激の要素には「協力」「反対」「妨害」「嫌がらせ」などといった主旨やレベルの異なる「因縁」の存在が有り、その実体は人であったり霊であったり事象であったりと様々ですが、それぞれが霊的に「明確な目的」のもとに存在しています。それらは何れも人間に対して「自力のみでは持ち得ない霊的向上のための動機と意欲をもたらすため」の仕組みとして作用し、個々の人間を対象に個別に配置されたものもあれば、(自然物のように)汎用的な目的に沿ってまんべんなく散りばめられたものもあって、種類も活用法も様々ですが、それらがみな霊的に意図されたものであることは、間違い有りません。

               

              よく「痛い目に合わなければ分からない」などという言い回しが使われますが、逆に言えば「痛い思いをすれば分かる可能性が高い」ということになります。この場合の「痛い目」とは、まさに「外的な刺激、ショック、インパクト」を指し、ある霊層段階に於ける「鉄壁の自己肯定思想に亀裂を生じさせる外的要因」の必要性を言い表した言葉とも受け取れます。

              また「仏の顔も三度」という格言は、一度や二度は「与えられた外的刺激」の意味を履き違えて対応を誤り「(それなり)痛い思い」をしたならば、せめて三度目には(その教訓を生かして)霊的向上を果たせよ。(さもなくば手遅れになるぞ。)という実相を言い当てたものに相違ありません。

               

              私事で恐縮ですが、私自身人生を通してこれまで散々「痛い目」にも合ってきましたので、取り分けこの手の話には(オチも含めて)自信が有ります。余りにも痛い思いをし過ぎて、終いには自分から「痛い思い」をしにわざわざ出向いて行くようになったぐらいです。

               

              結果、解った事は「一度堕ちて這い上がることで、堕ちる前より力が付く」という当たり前のことです。

              ですから堕ちるのも結構。但し絶対に這い上がって下さい!!

               

               

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:28 | comments(0) | - |
              霊層段階の壁
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                ※一部加筆修正しました。(2017/11/15)

                 

                ここ数日「霊層」の話が集中していますが、私自身は正直あまりそういう方向に話を進めることを望んではいません。何故ならそういった「日常的な感覚を逸脱した話」をいきなり受け入れろと言う方が、むしろ酷だと思うからです。それは本来であれば、元々関心のある方々の「求めに応じる形で」為されるのが望ましいと思う次第です。

                では何故、今敢えて「霊層の話」なのか、それはいよいよ万策尽きた際の「最後の一手(奥の手)」と成り得るからに他なりません。言い換えれば「人間はとうとう霊層の話を持ち出さなければならないほど堕ちたのか」ということです。それが証拠には、幼稚園で子どもたちに霊層の話なんか持ち出さなくとも「何でも半分こしようネ」と言えば、みんなその意味を理解出来ます。ということで話を先に進めます。

                 

                霊層とはその人その人の「基本思想」のレベルに基づいた実質的な「霊的ランク」のことで、縦一列の階層構造を成しており、下から上に向かって180段階存在し、大別して下位60段を地獄界、中位60段を中有界、上位60段を天国界と称しています。更に各界を20段ごとに区分し、上から順に天国界は第一、第二、第三、中有界は上段、中段、下段、地獄界であれば第一、第二、第三と称されます。例えば霊層段階が中有界の48段であれば、区分は「中有界上段」であり、霊層界全体としては下から108段目ということです。

                霊界ではこうした「霊的ランク(=評価)」に基づいて全てのシステムが構成され、日々微細な調整が行われながら、適確に稼働しています。(すでに霊的奥義に属するため、更なる詳細は割愛します。)

                 

                つまり私たち人間は生まれながらに(その霊魂が)何れかの霊層段階に属している訳であって、この状態を逸脱する事は誰にも出来ません。(文字通り「死んでも」出来ません。)しかも「霊層段階とそれに応じた霊的処遇」は、予めセットになっているものなので、そこから逸脱することも出来ません。それは例えば、霊的に向上すれば「恩恵」の意味合いが、同じく霊的に下向すれば「戒め」の意味合いが、それぞれ実感としてもたらされる様なことで、何れの場合も「向上を促す作用」であることに変わりは有りません。

                このことからも、霊魂が肉体を有し人間として生まれ来た「当面の目的」が霊的向上を図る(=霊層を上げる)ためであることは間違い有りません。(何故なら物事の結果が全てそこに集約される様になっているからです。)

                 

                しかし一旦落ちてしまった霊層段階を再度引き上げるのは、意外なほど難しいもので、それには訳が有ります。それは各霊層段階が「特定の思想に裏打ちされた閉鎖的環境」と言え、たとえ他人の話や文献に接する機会が有ったとしても、その殆どに対して自分(の思想)に合う、合わないといったレベルの価値判断や受け入れ方しか出来ないためです。これは「見る目」を失い「聞く耳」を失ったのと同じような状態で、(実際の社会環境はどうあれ)内面的には「外部(=上位)と遮断された閉鎖空間」に閉じ込められたに等しいと言って良いでしょう。但しその場合でも(上位互換的に)「下位」に対する扉だけは常に開かれているため、そのままでは更に堕ちやすい状況に晒される事となるでしょう。

                 

                無論こうしたことは当初から分かり切っているので、出来る限りそうした状況を避けるために、生まれたての赤ちゃんは例外なく「天国霊層」を有しています。こうした「恩恵」を無下(むげ)にしないためにも、私たちは霊層を如何に保ち、更なる霊的向上を如何に果たしていくべきかを、それこそ「人生の目的」と位置付け、自身の正しい方向性を見出して行く必要があるということです。

                 

                次回は続編「堕ちた霊層を如何にして上げるか」について書く予定です。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 13:40 | comments(0) | - |
                生きることの真の目的
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                  昨日の記事を「問い」とするなら、本日の記事がその「答え」と言えるでしょう。但しこれを理解するためには「ある前提を受け入れること」が絶対的に必要となり、それ以外の方法では(答えを導き出すこと自体が)困難と思われます。何故なら「人間の尊厳」とか「命は尊い」などといった(社会を取り持つ)基本的な概念すらも、同じく「ある前提」のもとでなければ殆ど意味を為さないからです。(クリックで関連記事へジャンプ)

                   

                  その前提とは、即ち「生きている人間」という実在が、実際には「霊魂と肉体」によって構成されており、更には「主体は霊魂」であって、肉体がそのサポートの役割を担っているという、いわゆる「霊主体従(れいしゅたいじゅう)の法則」によって定義付けられた存在であるというものです。

                  つまりは「霊魂」の存在を認めない限り、私たちは自分が人間であるにも関わらず、その自分自身のことすらも正しく認識し、理解することが適わないということですから、増して他人のことなど皆目見当の付くはずも有りません。

                   

                  ところで「主体は霊魂」とはどういうことでしょうか。それは「霊魂の取得したものがその人間の実体と見做され、なおかつ評価の対象とされる」ことを意味します。繰り返しますが、そのためのサポートを担っているのが肉体ということですから、肉体はあくまでもその都度「霊魂が何を求めているか」に沿って(人間として)実際の物理的なアクションを起こすことになります。何故なら「霊魂自体は物理的アクションが持てない」からです。

                  更にこの「霊魂が何を求めているか」ということは、霊魂と肉体が前述の「霊主体従」の良好な関係性を保つ上に於いては、私たち「人間が何を求めるべきか」と殆ど同じ意味を持つことになると考えて良いでしょう。

                   

                  「霊魂の求めるもの」は自ずと決まっています。それは「霊魂の向上」に他なりません。それは「人間という形態」にあっては「智慧、勇気、愛、情(なさけ)」に基づくところの「より多くの、より大きな、より深い経験智、体験智」を地道に、丹念に積み重ねて行くことで実現可能なものです。もっと簡単に言うなら「みんなで良くなる、みんなで良くする」という気持ちを大事にして、しっかりと前向きに生きていれば自ずと適うことです。

                   

                  このように「霊魂の目的」というものは、自らが永遠不滅の存在であることを前提に定められているものですから、当然「死」という節目に対する配慮や制約は有りません。しかしそれは肉体を持った人間であっても「霊主体従」である限り、基本的には変わりません。何故なら「霊魂の目的=人間の目的」という等号関係が成り立つからです。

                   

                  但し「体主霊従」の如く(不幸にも)肉体が主役となってしまった場合には、その限りでは有りません。肉体の目的と言えば(動物的特徴である)「自己保存(自己満足)」及び「種の保存(一族の繁栄)」となり、極めて「利己的」「自己中心的」な傾向を持つため、霊魂の目的に対しては当然の如く相反関係となります。

                  しかし、このことは人間の構造上、当初から想定済みの話とも言え、判っていることは「霊魂には肉体が必要」「肉体を制御するには努力が必要」という二点です。

                   

                  つまり私たちの人生の最初のハードルが「霊魂に対する肉体の造反」ということであれば、そこでコケてしまってはそれこそ「お話にならない」ということでしょうか。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:27 | comments(0) | - |
                  「霊層を上げる話」が再優先となる理由
                  0

                    ※本日の内容は極めて霊的に付き、信じるか否かは皆さんの自由であって、押し付けは致しません。

                     

                    私たちの社会は現在多くの問題を抱えており、課題が山積しています。もちろんそうした「問題意識」の持ち方には(その人の視点、視野、立場などに応じて)個人差が有りますが、それが国際問題であれ、国内問題、地域社会、はたまた職場、学校、家庭内の問題であれ、(問題解決のために)私たち一個人がまず取り組むべきは「自らの霊魂を向上させること」であることに変わりは有りません。

                     

                    その理由の一つとしては、霊魂の価値が低い(=霊層段階が低い)と、霊界由来の「智慧、勇気、愛、情(なさけ)」から構成されるところの人間力が不十分な状態のため、本来在るべき力を発揮し得ないという事態が発生します。前向きなアイデアや考え方が持てず、物事に行き詰まりを感じるのはそのためで、この状態が続くとやがて悪循環が発生し、更には自滅スパイラルに陥ることになるでしょう。

                    となれば、この状態で事の次第に右往左往しても余り意味はなく、それよりもまず霊層を上げて「本来の力を取り戻すことに専念する」のが理に適っていると言えます。

                     

                    「霊魂の向上」を再優先とするもう一つの理由は、そうすることが現存する多くの霊魂に霊界経由で反映し、影響を及ぼすことで、結果的に自らの意思や志に対して多くの「霊的協力」を得られる様になるからです。無論その中には「人」も含まれます。何故なら「人」は元々霊魂と肉体が合体したものだからです。

                    このように「一人の人間が霊的に向上する(=霊層が上がる)」ということは、霊的に非常に意味を持ち、非常に大きな出来事であるということです。

                    もちろん「向上の度合い」が上がれば上がるほど、その霊的反映の効果も飛躍的に高くなります。(それらは宗教的には「徳」として解釈されるものですが、メカニズムの詳細はここでは割愛します。)

                     

                    霊魂には先天的資質の部分や因縁上の細かい差異も有って、そのため霊的向上の際の影響力や影響範囲はそれぞれに異なりますが、一人の人間の霊的向上によって、少なくとも(因縁を有する)数百体もの霊魂が影響を受けるのは間違いなく、それは私たちの持つ「先祖、祖先、先代」などのイメージを遥かに凌駕する数となります。(影響力の多大な霊魂に於いては、その数は(因縁上)数百万体に及ぶでしょう。)

                     

                    但し、霊魂が下向(げこう)すれば、当然「同じだけの負の影響」が発生することを忘れてはなりません。(運命上の)負の連鎖の殆どが、こうした本来の霊的協力関係を自ら破壊し、消失させてしまうことによるというのも、また動かし難い事実なのです。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:06 | comments(0) | - |
                    「自由」の概念(自由とは何か)
                    0

                      「霊層を上げる」とは、平たく言えば「良い人になる」事であって、それが人間にとって悪い事であるはずもないのですが、しかし何故か人間は進んで「良い人」になろうとしません。それは何故でしょうか?

                      それは「良い人になると失うものがある」と考えるからです。失うものとは、他ならぬ「自由」のことです。

                      そのため率先して良い人になろうとはせず、多くの人たちは「普通の人」を目指します。

                       

                      では「普通の人」とはどういうことでしょうか。それは社会に於いて「それでいい」「悪くはない」など、(取り敢えず)「社会適合者としての評価を得ること」を意味します。但しそこには「普遍性」とおぼしきものは存在せず、例えば日本とアメリカと北朝鮮では、それぞれに当然の如く評価の基準自体が異なります。つまり社会の数だけ異なる評価の数が存在すると言うことになり、そこから「普通=迎合」という意味であることが判ります。

                       

                      「普通の人」のメリットは、目立たない、角が立たない、攻撃されない、排斥されないなど、多々あるとは思いますが、中でも最大の恩恵は「(社会が許容する中での)自由が獲得出来る」ことではないでしょうか。その傾向はおそらく、立場が社会の中枢に近づくほど強くなり、多くの人が競争社会の中で「上を目指す」のも、結局は「より多くの自由」を欲するがためと言えます。

                       

                      但し(霊的には)この「普通(=迎合)」を目指すことには、致命的なデメリットが有ります。それはその行為、行動があらゆる局面に於いて「自らの(社会的)信条、信念、意思に基づくものではない」というもので、その行動原理は突き詰めれば「個人的な自由の獲得」以外の何ものでもなく、従って「結果に対して無責任」であることは言うまでも有りません。何故なら、誰しも「自らの価値判断」が働かない状態で、自身の行動に責任を負うことなど到底出来ないからです。つまり何が起ころうとも「俺のせいじゃないよ」ということです。

                      このような人たちは、最後まで「罪の意識」を持てないまま「組織や国家ぐるみの罪」に加担した挙句、恨み言を言うハメに陥るかも知れません。

                       

                      このように「普通の人」の目指す自由とは「勝手気まま、好き放題、ヤリたい放題」など、社会の諸々から遮断されたプライベート環境のことなのかも知れませんが、もしそうであるならそうした「自由の獲得」を目的とした「社会的迎合」自体が「反社会的(=利己的)」本質を持つものと言え、それを「普通」と称し、そうした人たちの集まりによって「より良い社会」を築こうということそのものが、論理的に不可能と思えてなりません。(それを如実に表しているのが、学校教育の現場と言えるでしょう。)

                       

                      翻って本来意味するところの「自由」とは、決して社会と遮断されたプライベート空間に於ける「利己的満足を得る機会」のことではなく、例えば「自由闊達な意見を交わす」「アイデアを自由自在に展開させる」など、少なくとも「利他に対する利己」或いは「統制を逸脱した放縦」を表わす言葉ではないと言うことです。にも関わらず「自由」という言葉が、あたかも前述の様な「(我欲に関わる)自己満足の追求」として用いられるのは、一重に「社会が不幸」であることの証しと思われます。

                       

                      つまり「自分もみんなも良くなる、良くする」という基本思想と(社会的)目標のもとに、自らの能力を(制約無しに)遺憾なく発揮し得ることが、(理性に統制された)本来の「自由」の意味であって、理性を逸脱して「箍が緩み、ハメを外す」ことは、あくまでも「放縦」に過ぎず、それを敢えて奨励することは「潜在的な反社会性(=人間嫌い)」を助長する結果と成り兼ねません。

                      昨今の(一見普通の人たち)による犯罪の凶悪化、取り分けその凶暴性、冷酷性、残忍性などは、そうした傾向が象徴的に表れたものと言えるでしょう。

                       

                      歴史的にも、自由と放縦が混同されて考えられ、見過ごされるといった様な時代はそうそう無く、増して(消費経済のもと)社会がそれを奨励、鼓舞し喧伝するなど、やはり異常事態としか思えませんし、放縦が人を破壊し、社会を破壊する事は間違い有りません。

                      よって自分自身を破壊しないためにも「良い人」を目指すことを強くお勧めします。

                      そうでなくとも、何れ「良い人」が普通と見做される時代が来ますので。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 05:41 | comments(0) | - |
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