青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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苦手意識の克服とは
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    人間には元々個人的傾向として「好きなものと嫌いなもの」或いは「得意なことと苦手なこと」が有り、それぞれの傾向に対して自分自身がどう向き合うかが非常に重要となりますが、それは目的や目標の持ち方によって異なると言えるでしょう。

    特に目的が「人格の形成」であった場合、「好きなものと得意なこと」は放っておいて良いでしょう。そして貴重な時間を費やすなら「嫌いなものや苦手なこと」により注目する必要が有ると思います。

     

    ここで一つの反論があります。それはおそらく「好きなものや得意なこと」こそ伸びしろが期待できるから、そこに打ち込むべき」というものだと思います。もちろんそこにもそれなりの道理は有りますが、その考え方は基本的に信頼出来る「分業システム」の存在と稼働を前提としたものです。つまり「誰かの能力の偏りを別の誰かが補う関係性」を想定しなければ成り立ちません。

     

    そもそも「人格」というものは「偏りを容認出来ない性質」のもので、しかも他人を当てにせず「自己完結を目指す性質」のものですから、必然的に「バランスと安定」をイメージしながら努力することになります。そうなるとどうしても精神的、実務的な双方の面で「アンバランス」の原因となる「苦手意識の克服」に力が注がれることとなり、それによってバランスの良い安定感のある人格、即ち「人格の向上」が実現可能となります。

     

    但し荒業としては確かに「自分の短所を一切気に止めず長所だけをひたすら伸ばす」という方法も存在するのは事実です。しかしその場合も「一定の境地」に達した後は、やはり「短所(=苦手意識)」に戻って克服に着手することになります。

     

    しかし今の時代、このような「人格の向上」を目的としたノウハウの話をいったいどれだけの人たちが必要としているのか、甚だ疑問と言わざるを得ません。

    「人格の向上」は霊的に見れば「霊層の向上」ひいては「運命の向上」を意味し、人生に於いてこれほど重要な目的は無いのですが、それを抜きにしてどのように「無難息災」を望めば良いのか、私にはよく解りません。

     

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:57 | comments(0) | - |
    人間を頂点とするイメージの限界
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      よく「宗教と科学」などとして、両者を対比させたりしますが、おそらく大半の科学者は「神」を信じています。何故ならこの世のあらゆる物事を(真面目に)探究していくと、すぐに「或る壁」にぶち当たり、同時に「或る思い」が心をよぎるからです。そしてそれがこの世の偽らざる実相であり、この世の真実だということです。(逆に人間が時間を弄して頭でこねくり回す理屈に真実は有りません。)

       

      (科学者を含む)真面目で有能な探究者たちは率直に思います。それは「物事が自然の成り行きだけでこんなに上手く構成され、形作られるハズがない」というものです。取り分け過去に比べれば探究能力が飛躍的に向上した現代では、多くの人たちが正に「科学と神秘の境界線」が崩れ去る感覚を体験することとなるハズです。

      これは物理学や自然科学に留まらず、(始めから人為的なものを除く)あらゆる分野の探究に共通することと言えます。(例えば、音の性質に由来する音楽や、色や形状を扱うデザインなど。)

       

      このように人間が直感に従おうとすれば、それは「神」を認める方向性となるに違い有りません。そして元来、人間には「それを拒む理由が無い」というのが正しい理解だと思います。では果たして人間の中で(直感に反し)「神を認めたくない」方向性をもたらす要因があるとすれば、それはいったい何なのでしょうか。

       

      それは一重に「宗教」と呼ばれる組織的社会運動の功罪に他なりません。以前にも記事にしましたが、宗教の意図するところは「社会的影響力を手中に収めるためのマンパワーの結集」にあり、その意味では他の社会的、反社会的なあらゆる「団体、結社」の概念と変わるものではないということです。そうなると当然「認める、認めない」という選択の対象となることも頷けます。

       

      ここで改めて言っておきますが、人間が心の中に「神を認めイメージする」事と「宗教を受け入れる」事とは何の関係も有りません。

      神を信じるとは「信仰心」の事であって「謙虚で素直な生き方の裏付けとなる心」の事であり、世に言う「宗教」とは本来、異質で無縁のものです。

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:39 | comments(0) | - |
      私たちは当たり前の世界に戻ります。
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        「物」というものは、それが仮に生活する上での必需品であっても、そのもの自体が「無尽蔵」であることが分かっているなら、ただ同然の値段で得ることが出来たとしても何の不思議も有りません。

         

        しかし例えば「金(ゴールド)」のように元々産出量が少なく、供給量が頭打ちと考えられるものでは、その需要に応じた価格設定が為される事は、これまた何の不思議も有りません。また、このように需要と供給の関係に一定の「不変性」があるものでは、価格自体もある程度「固定的」であって然るべきでしょう。

         

        一方で、諸条件により「生産量や産出量(=供給量)」に変動が見込まれるものに於いては、結果的に時々の「需要と供給のバランス」が変化するため、調整の追いつかない部分に於いて「価格変動」が生ずるのも、また自然なことと思われます。

         

        と、ここまで「当たり前の感覚」を以って「当たり前のこと」を書いたつもりです。そして、これにもうひとつの「当たり前」を付け加えるなら、「物の売り買いとは元々等価交換の認識のもとでの物々交換の代用として、価値の固定化された通貨を利用することを前提としている」ということだと思います。

         

        そう考えると、私たちの中では「(相対的に)お金の価値が短期間で上がったり下がったり」すること自体が、非常に違和感を覚えずにはいられません。何故ならそれは「需要と供給」に関係の無いところで「物の値段が上がったり下がったり」する事と等しいからです。しかもそれらは私たちと関わりの無いところで勝手に行われているのですから、私たちはある意味「それに振り回される」しか有りません。

         

        例えば村落の中で行われる物の売り買いの形態や概念が、国や諸外国という規模では通用しないとでも言うのでしょうか。そんなことは有りません。売り買いは売り買い、取り引きは取り引き、同じ人間同士の営みに違い有りません。ただ、お互い顔の見える村落の中では悪い考えを持つ人が少なく、広域になるほど、その比率が上がっているだけの事ではないでしょうか。

         

        ただ今になって一つ思うことが有ります。それは私たち人間が「何が当たり前なのか」を、心底骨の髄まで染み込ませるためには、それこそ(歴史的に)何千年も掛けて「異常極まりない世界」を、これでもかと言う程に体験する必要があったのかと言われれば、確かにそうなのかも知れません。

        しかし幾ら何でも「もういい」でしょう。今や(一部の完全にイカれた人々を除けば)多くの人々が「当たり前の世界」を切望しています。

         

        その世界では「子どもでも分かる」簡単な仕組みで、物が売り買いされることでしょう。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:16 | comments(0) | - |
        冷静でいられる時間は1日3%だけ?
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          ※本日の記事は極めて霊的性格の強い内容に付き、霊的に疑念をお持ちの方、影響を受けたくない方々にはお薦め出来ません。その旨あらかじめお断り申し上げます。

           

           

          この数字は平均的な人間のそれを示したものではなく、霊界の見立てに拠れば、人間が1日の内で冷静(=理性が先行、主導する在り方)と言える時間が3%も有れば「上出来の部類に入る」と言っているのです。つまり大方の人間は1日の内、冷静さが保たれている時間など「無きに等しい」という意味になります。

           

          私は今を遡ること40年前にこの話を聞いた、というか知った時、愕然としショックを受けたのを覚えています。1日24時間の3%と言えばたかだか43分12秒、並の人間にとって「人間らしい振る舞い」をすることは、その僅かな時間さえも難しいということですから当然です。

          私はこの話を瞬時に「真実」と認識し、そこから私の(自分自身に対する)挑戦が始まりました。

           

          この衝撃的な話には、更に衝撃的な続きが有ります。それは「人間はある程度の霊層に到達しなければ、自分の言葉(=自力)で話せない」というものです。これはどういうことかと言うと、世の中のいわゆる平均的な人間が日常的に話している言葉のほとんど全ては「自力で発している言葉ではない」という意味です。果たしてどれだけの人がそれを「事実」と受け止める事が出来るでしょうか。また、自分の言葉を自分が発していないとすると、いったい誰が発しているのでしょうか。

           

          それらは人間自身がこれまで自我(=自己中心)思想を発動させるたび、無意識無感覚のまま内部に作り続けてきた無数の「自我霊、想像霊と呼ばれる潜在自縛霊」によるものとされています。その特徴は一つひとつの思想、一件ごとの状況に対してそれぞれ「一体の霊」が作られ、以後同様の状況が訪れるたびに「人間に代わって言葉や行動を制御する」というもので、普段は腹部付近に位置し、要請が有ると延髄付近まで上昇して言語中枢を操ります。

           

          つまり、その状況を客観的に見れば、人間が「過去の自分に操られている」という意味を持つことになり、ただ過去と同じことを繰り返すばかりで、少なくとも目の前の現状には何ら対応出来ていない事になります。即ちそれが内部霊による「霊憑(がか)り」の特徴ということです。

           

          ですから、そういう状態にある人の話を聞いていると、その特徴がよく表れているものです。そういう人は過去と似たような状況になると、毎回判で押したように同じ言い回しで同じことを言います。その主張は前回と(気持ち悪いぐらい)同じもので、まったく何の進歩も進展も見られません。そして必ず同じ失敗をします。

          それは人間が「過去の自分(の過ち)に支配された姿」に他ならず、ただ霊層が低いため言葉が使えない本人に成り代わって「自我霊や想像霊」にそれを代行してもらっているに過ぎません。(逆に「彼ら」の働きが無ければ、この時点で人間は「人間らしい体裁」さえも保てていないはずですので、むしろ感謝すべきです。)

           

          この状況は一見すると「無限サイクル」のように思えますが、唯一ここから脱出して霊層を上げ、自らの言葉を取り戻す方法が有ります。それは「無駄口を慎むべし」と心に誓い、それを(文字通り)黙々と実行することです。それは言い換えれば「不言実行」を自らの信条(ライフスタイル)とすることです。それは「必要な期間」継続する必要が有ります。それはもちろん「安全圏まで霊層を上げる期間」という意味です。

          何故そうする事が必要か?それは実際に行なって見れば「すぐに解る」ことです。

           

          因みに幼少期に於ける「ナンで?どうして?」などの言葉は概ね本人の発するものです。ですから「言葉を取り戻す」という表現となります。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 07:57 | comments(0) | - |
          売られたケンカは買わない
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            シリアで「アサド政権によって化学兵器が使用された」とされ、それに対する報復措置として「アメリカ軍によるミサイル攻撃が行われた」とされる件では、罪のない赤ん坊までが無惨にも犠牲になった事が許せないという論調が(その映像と共に)人々の想像力を刺激し、情緒的反応に訴え掛けているようです。

             

            しかし、こと想像力に関して言えば、大昔の様に「戦争は限定された合戦の場にて軍隊同士が決するもの」であるならまだしも、(内戦であれ国家間であれ)近代の戦争に於いては、子どもを含む一般市民を巻き込まない事自体考え難い状況で、ただそこにはそれらの被害の実態が「映像化され公表されるかされないか」の違いしか有りません。

             

            要は一旦戦争となれば、砲爆撃であれ地雷であれ飢餓や感染症であれ、「赤ん坊が死ぬ」事は間違い有りませんし、それが「真っ当な想像力」だと思います。(この期に及んでまさか「いや、死に方が問題なのだ」という人はいないと思います。)

             

            しかし不思議なことに今回の件では、問題の「赤ん坊の死」が新たな攻撃の火種になっています。もしまともな感覚であれば、これは「一刻も早い停戦合意」に向けた動きとなって当然と思われますが、いったいどういう思考回路の下にそれが戦争拡大の方向に向かうのでしょうか。

             

            世の中には「やられたらやり返す」事で、相手を牽制したり抑制出来るという考え方の人が多い様です。しかしそれでは「力の均衡を保つ」ことにはなっても、接点に圧力(=ストレス)が掛かり続けた状態であり、そもそもエネルギーの無駄ばかりが生じる上、何の解決にも至りません。(軍産ビジネスには好都合ですが。)

             

            本当に平和な世界、穏やかな社会を望む気持ちがあるのなら、決して「売られたケンカを買わない」ことです。そう心に決める時、人は今の自分に「何が必要で何が足りないのか」が、初めて判るものです。

            人々が本気でそれを行わない限り、「赤ん坊の死」は止まらないでしょう。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 17:59 | comments(0) | - |
            「人間性」とは何か
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              日本には現在「日本国憲法」という基本理念が存在し、それに基づいて「国の体裁」を整え「国の運用」を行なう事が正しいとされています。

              更には「日本国憲法を遵守する個々の日本国民の人物像」としては、それらが「相応の人格や品位を備えた人々」である事が前提とされています。(その証しとして憲法と連動する位置付けの「教育基本法」には「人格の完成を目指す」と明確に謳われています。)

              そしてこの「人格の完成」とは言い換えれば「一定の人間性を確立し維持する」事に他なりません。つまり、そうでなければ「良い国、まともな国、ひいては平和で安定的な世界」は実現出来ないとされているという事です。

               

              このように憲法という「国家の基本理念」と不可分であり、不可欠のものとして「人間性」を捉える事によって、現社会の問題の本質が改めて浮き彫りにされてくる様に思います。それは当ブログでも何度も指摘してきたように、私たち国民の間に蔓延する「思想の紊乱、道義の廃頽」であり、それを言い換えれば「人間性の著しい欠如」となり、それが全ての問題の本質であり、核心部分と断言して良いと思います。

               

              例えば憲法では、仮に「人間性が著しく欠如」しているからと言って、その事で「人権が損なわれたり差別を受けたりする事は無い」旨明記されています。また「人間性の著しい欠如」を以ってしても「思想や信条、表現の自由」などは保障されています。

              しかし第十三条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 」と有るように、自由や権利と同時に他人や社会に対して実質的な損害や迷惑の及ばない事が求められています。

               

              「人間性の欠如」とは言い換えれば「自己中心思想」の事ですから、憲法上は(人権擁護の観点から)「それを持つなとは言えないが、周囲に実害が及ばない様配慮されたし」といったところでしょうか、何れにしてもそれを推奨したり、特に容認している訳でないのは確かです。

              にも関わらず「思想は個人の自由、憲法で認められているから」とばかりに、「憲法の本来の主旨」にそぐわない思想と行ないを全快にしている人たちが多数を占めるようになった為に、あらゆる分野での社会システム自体がその論理的矛盾から「機能不全」を起こしているというのが、現状と思われます。

               

              従って今後、「社会の改革」を目指す人々の論調は(言葉は違えど)主旨として「人間性の回復、復権」に集約されて行くでしょう。何故なら「そこにエネルギーを投入しなければ、社会に蔓延する病巣の根本治癒は不可能」だからです。(憲法を読み解く上でもそれが正論なのです。)

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:22 | comments(0) | - |
              霊界と「近未来予測」について
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                ※今日は久々に「霊的」な話題を取り上げます。当然「証明出来ない内容」なので、内容的に疑義をお持ちの方にはお薦め出来ません。

                 

                当ブログでは今までも幾度となく「霊界とは何か」について、様々なアプローチを以って説明を尽くしてきたつもりです。(興味の有る方は「サイト内検索」をご利用下さい。)その中でも特に私たちの日常や社会の在り方と大きく関わりを持つのは「霊界で起きた事が一定のタイムラグを経て現界で起きる」という部分ではないかと思います。何故ならこれは「近未来予測」の可能性を示唆したものだからです。

                 

                因みに私たちのような「生身の人間」であっても、(一定の条件の下では)「正しい理解と方法」を用いる事によって「霊界を対象とした送信と受信」は可能と言えます。但し条件が整わない限り絶対に出来ませんし、その条件とは単に儀式や形式、呪文や念仏、難行苦行荒行の類を行ずる事では無く、もっとずっと「本質的なもの」ということだけは断言して置きます。(誤解曲解を防ぐため、敢えて詳細は明かしません。)というのも世の中では、その手の98%は信用に値しないと言って良いからです。

                 

                例えば私のもとに霊界より「近未来の具体的な経済関連情報」がもたらされたとしても、私はその事を誰にも言えないし、言わないでしょう。当たり前です。(霊界がそうだという以外に)現実にそれを証明する根拠が無いからです。そしてそれが私たち生身の人間のルールやマナーであり、知っておくべきリミットだと思っています。更にはもし、唯一その事を人に伝える方法があるとすれば、それは(ざっくりと言うなら)「自分の生き方」そのもので表現することだと思っています。何故なら「見えないものには見えないなりの理由」があって、それを「私には見える」などと言葉で吹聴し、他人に押し付ける事が自然な在り方とは到底思えないからです。

                 

                それでは結局「霊界より受信した情報」は、どのように役立てるのが正しいのかと言うと、それは「改めて霊界に向けて送信(発信)する際に有用な情報」ということで、つまり「送受信でワンセット」になります。

                このように極めて地味な理解の出来る事も、それらを可能とする条件の一つと言えるでしょう。

                 

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:54 | comments(0) | - |
                頭が良くても心が「馬鹿」
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                  という人間なら、世の中に掃いて捨てるほどいますが、こういう人々は(私の知り得る限り)何の役にも立たないばかりか、ただ世の中を引っ掻き回して終わります。所謂「しょうもない人々」ですが、無論当人たちにそんな自覚は露ほども有りません。何故なら「馬鹿」とは「まじか(間近)」と読む如く、自分の足元がチンプンカンプン皆目見えていない状態を指す言葉だからです。ですから様々な理由による「知的発達障害」の方々の場合は断じて「馬鹿」では有りません。少なくとも「自分の足元だけはしっかりと認識出来ている」からです。(それ故、偽らざる感謝の気持ちが持てるのです。)

                  このように多くの人々の(頭ではなく)心が「馬鹿(=自分の足元が見えない)」のため、「思想の紊乱、道義の敗退」が進み、社会に蔓延し、人々が(互いに周囲を巻き込みながら)自滅寸前の状態に陥っているというのが現状です。

                   

                  こうした状況の中で今、最も求められているのは少数派であるところの(頭はそこそこであっても)「心の賢い人々」のしっかりとした役割認識と地道で着実な行動、及び可能な限りの合力を形成する事です。その基本は「臨機応変」な対応ですが、そのために何を為し得るかは「自分の足元」を見れば解りますし、何を為すべきかは「眼前の今」を直視することで解ります。

                  無論、行動の結果が常に最善のイメージとして返ってくるとは限りませんが、重要な事は「結果によって霊界との距離感が測れる」ということです。そのことさえ理解して弛(たゆ)まぬ精神で課題の解決に勤しむ事で、必ずや求める結果が得られるものと確信して良いでしょう。

                   

                  何のために? 自分も含めて「みんなで良くなる」ためです。本気でそう思えることが「心が馬鹿でない証し」ですので。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:10 | comments(0) | - |
                  「相対」と「絶対」の意味
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                    ※本日の記事は、昨日の話の捕捉になります。従って「物証による理解」をお求めの方々にはお薦め出来ません。

                     

                    私たちの(現在日常的に)有する「相対的価値観」とは、自らの生存権、自らの正当性、そして自らの現状を前提とした上で、様々な価値観の中から取捨選択が行われた結果のものと思われます。これは言い換えれば(無意識に)「自分を世界の中心」に置くことで実現されたものです。

                     

                    例えば「この世は弱肉強食だ!」という価値観も、前述の理由によって選択されたものであって、そういう「宇宙の法則」が存在する訳では有りません。

                    また、身近なところでは「医療や健康」に対する価値観も然りで、(良くも悪くも)前述の「自己中心的なスタンス」が反映された相対的な意味合いの強いものと言えます。

                    例えば一般的に「長寿は良いことだ」とされていますが、「長寿でなければならない理由」となると、定かでは有りません。

                     

                    一方で「絶対的価値観」となると、すぐに思い浮かぶのが日本では戦前、戦中の或る時期に於ける「天皇崇拝」に基づく価値観の集約だと思います。海外では国王であったり法王、教皇などですが、これらは何れも「神に任ぜられた存在」または「神そのもの」であるので、言い換えれば「絶対的価値観とは神を世界の中心と見做すことにより実現される」という事になります。

                     

                    確かに、そうであれば私たちは自らを「世界の中心に据える」必要が無くなるかも知れません。しかしこれには重大な問題が有ります。それは単純化すれば「現実に姿かたちが人間であるものを如何にして絶対と認めるか」という話になります。そして結果的には、これらの試みは(真実がどうであるかはさておき)弊害が多く、上手く行かなかったというのが偽らざるところだと思います。そればかりか「絶対的価値観は危険だ」という概念さえもたらしました。そうなると当然(消去法的に)選択肢は「相対的価値観」しかなくなってしまうのも頷けます。

                     

                    ここで一つ面白い提案をして見たいと思います。それは「縦社会に於いては上に行けば上に行くほど損をする仕組み」を作るということです。(正確には、精神的には得をするが物理的には損をするという話です。)少なくとも「霊界」ではそうなっているのですから、「現界」に於いてそれに異を唱える理由は見当たりません。

                    無論、これは現況誰もが受け入れられる話ではないかも知れませんが、しかし「人間性の豊かな人」であれば喜んで受け入れるに違い有りません。(今後はそういう世の中になるでしょう。)

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:36 | comments(0) | - |
                    価値観の逆転が何故起こるのか
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                      ※本日の記事は完全に「証明不可」に付き、理詰めで事の真偽を見極めようとのスタンスをお持ちの方には閲覧お薦め出来ません。

                       

                      少し前に『物事の価値観が180度変わる』という記事を書きました。しかしそこでは「何故それが起こるのか」という疑問には答えていませんでした。そこで今回は少しその点に触れてみようと思います。

                       

                      振り返れば、私たちの有する「価値観」の大半は「相対的な関係性」に基づいている様に思えます。例えば親子は相対的な関係性と言えます。課長と部下もそうですし、店員と顧客もそうです。また環境と人間も「有益、無益、有害」などの概念に代表されるような相対的関係にあると言えます。それからよく「あいにくの雨」などと表現しますが、これも気象と人間の相対的関係の最たるものでしょう。

                       

                      こうして一つ一つ例に照らして考えてみると、あらゆるものと自分との「相対的関係性」が判ります。つまり私たちは日々その中に埋もれるような形で生きているのですが、その一つ一つの関係性そのものは決して固定的なものではなく、むしろ「日々変化する」と考える方が自然なものです。そう考えると、私たちは気の休まる暇も無くなるというのも解ります。何故ならそれは「有るものが突然無くなったり、無害なものが急に有害になったり」するかも知れないことを意味するからです。相対的な関係とは「相手の状態に依存する」部分が大きいので、その影響を避けられないのが真実です。

                       

                      そこで、では私たちにとって「絶対的な関係性」とは何なのか、また、例えば「相対的な関係性」から逸脱して「絶対的な関係性」を主軸とした価値観を構成した上、それを以って生きる事が可能か否かという問いが生じます。

                      その答えを得るためには、正に「霊界の在り方」が参考になります。結論から言えば、「霊界には相対的な関係性に基づく価値観は無く、従ってそこには揺るぎない絶対的な価値観しか存在しない」という事になります。

                       

                      答えのヒントは「物的特徴にばかり心を奪われていると、(人を含む)事物の本質を見誤る」ということだと思います。例えば「子どもを子どもとしか思えない限りは、その子との相対的な関係性しか見えて来ない」ということであって、(霊的には)「子どもは子どもでは無い(少なくともその事に余り意味は無い)」ということです。

                      人間性の豊かな人は、総じて相手の姿形には余り重きを置きません。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:22 | comments(0) | - |
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