青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
教科書 重すぎる
0

    今日のタイトル「教科書 重すぎる」でネット検索すると、以下のサイトがヒットした。

    西日本新聞 > 連載 > 教育はいま > 学校のハテナ(2)かばん なぜこんなに重い

     

    これに拠れば、近年の小・中学生の通学時のランドセルやかばんの重さは10キロにも達するらしい。(それがどれ程の重さかは10キロの米袋を持ってみれば容易に想像出来る。)

    通学エリア次第ではそれを背負って起伏のある道を20〜30分も歩く事になり、こうなると「これは何かの訓練のつもりか?」と疑いたくもなる。(例えば「軍事教練」のような。)

    言っておきたいのは、こうした状況は普通に考える範囲での「元気で健やかな体を育成する」という教育目標を逸脱しており、体力や体質の個人差を無視して強要されるべきでない事は明白であろうし、もし学校側にそういう認識が無いのであれば、それはそれで重大な問題であろうと思う。(実際に小学生が「腰痛」を発症するケースも有り、方や禁を犯して「置き勉」する子もいる。)

    こんな酷い話を放置しておいて「学校を好きになれ」「勉強を好きになれ」「大人を好きになれ」なんて無理だ。(「軍事教練」と明確に位置付けするなら話は別だが。)

     

    このような事態になったのは(一説に拠れば)「脱ゆとり教育」転換後の学習指導要領変更に伴う「教科書のページ数増量(=平均30%程度)」のためとも言われているが、そんなに増やす必要が有るのかという専門的議論はこの際差し置いても、「だったら教科書の紙を薄くしたり、無駄に大きい(としか思えない)サイズを見直したりして(最初から)軽量化を図るべきだろう」と言いたい。(徒歩による運搬物の重量の上限を設ける事など、まともな神経を持った大人なら常識の範囲で対応出来ることだ。)

    要は悲しいかな「義務教育関係に携わる大人たちの大半がまともな神経を持ち合わせていない」というのが結論ということになろう。

     

    いくらキレイ事を言おうが、教科書がデカくてカラーで紙が分厚いのは、そのように作ることで「単価を引き上げる」のが目的としか思えない。何故なら、たかが1年しか使わない想定の教科書を「永久保存版」の如く作る理由が皆無だからだ。(教育をカサにえげつない商売をするなと言いたい。)そのおかげで子どもたちがヒドイ目に遭っている。(これが虐待でないと言い切れる人は、その理由を教えてください。)

     

    尚、学習指導要領の元となる「教育基本法の改悪」については、当ブログでも過去記事で度々指摘しているので、ここでは割愛します。

    それはさておき100歩譲って「教科書軽く作れ!」

    | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 08:29 | comments(0) | - |
    某小学校の卒業式について
    0

      小学校の卒業式に於いては、6年間学んだ成果を再確認し、中学校という次のステップに進むための心構えを再確認するという主旨に尽きると思われ、そうした思いが「卒業証書授与」という改まったひとつの形に集約され得るものと考える。

       

      翻って近年の卒業式の傾向は、そうした「シンプル・イズ・ベスト」の発想に程遠く、やたらに尾ひれはひれをくっつけてイベント化、バラエティー化がエスカレートし、そのため明らかに主旨の輪郭がぼやけている。

      何より卒業生の子どもたち自身がそうしたイベント的せわしなさに翻弄され、「間違えたら大変」といった本来無用な強迫観念すら起こりかねず、「卒業の実感を噛みしめる」どころではないはずだ。

       

      こうした傾向はズバリ(卒業式本来の主旨とは無関係の)「ウチは他所と違う」「ウチは見栄えがイイ」といった大人のエゴ以外の何ものでも無く、肝心の卒業生の子どもたちの心は明らかに「置いてけぼり」を喰っている。但し大方の子どもたちにはそうした自覚が無く、無意識に「何でもかんでもオモシロおかしくなければ気が済まない」という軽薄な感性を事有る事に醸成されて行く結果となる。

       

      百聞は一見に如かずだ。卒業証書授与の最中、BGMでディズニーソングを流される違和感は実際この上ないものが有る。(「違うだろー、違うだろー」と言ってやりたかった。)

      このように(子どもじみた大人たちのせいで)すっかり箍(たが)の緩み切った子育て、教育行政はどこかの時点で一度リセットされなければならないだろう。

      | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 10:07 | comments(0) | - |
      2018年 二分の一成人式の実態
      0

        ある小学校の当日の校長先生の言葉の中に「儀式とする事はバラバラの状態にある知識や経験や認識が一本化する良い機会」などとして、小学校のカリキュラムとしての二分の一成人式を正当化するくだりがあったが、果たしてそう上手く行くものだろうか。

         

        とにかく、歌有り、演奏有り、唱和有り、一人ずつのコーナー有りと、まるで学芸会並みの力の入れようだが、その中の4〜5人ずつのグループに分かれて順番に唱和していく「こんなに(色々)出来るようになりました」のコーナーで、非常に残念且つ心苦しく感じられたことがあった。

         

        というのも、例えば「おうちではお風呂掃除や洗濯や食事の準備など、色々なお手伝いが出来るようになりました!」「算数や国語のテストでは100点も取れるようになりました!」などという予め決められたセリフを4〜5人の子どもたちがすくっと立ち上がって一斉に言うくだりでは、如何にも「それは自分だ!」とばかり溌剌とした表情の子もいる反面、暗い表情・・・と言うより、腑の抜けたような面持ちで口だけ動かしているような、明らかに「身に覚えの無いこと」を無理やり言わされている感の子どもも少なからずいた事に心が痛んだ。

         

        それは別に「お手伝いが出来ていない」ことや「100点が取れない」ことが悪いとか残念とかいう意味では決してなく、まだ年端もいかない子どもたちが(しかも晴れの舞台で)「心にも無いことを無理やり言わされている(=嘘を付かされている)」ことに対する心苦しさ、気の毒さに尽きる。同時にそういう心なさ、配慮のなさが子どもたちの心の成長に如何に悪影響を及ぼすかを思えば当然のことだ。

         

        二分の一成人式の意味については以前のブログにも書いた通り、私自身はその価値をまったく認めていない。そもそも人間の心身の成長自体が「20÷2=10でちょうど半分だね」と安易に考えて良いものであろうはずもなく、強いて言うなら12歳を節目とすべきだろう。

         

        また余談ではあるが、小学校教育に於けるイベント関係は思い切って縮小すべきだと思う。理由は時間とエネルギーが膨大なイベントの体裁を取り繕うことばかりに費やされ、児童と教職員の消耗が激しいからだ。

        基本的に子どもはイベントで育てるものではなく、地道な学習と日常的な学校生活によって育つもの故に、そこに十分な時間とエネルギーが注がれて然るべきと考える。要はゆとり云々の話ではなく、本当に必要なところに十分な時間とエネルギーを確保しろということだ。

        | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 14:46 | comments(0) | - |
        今や社会は「鉄火場」さながら・・・
        0

          博打(ギャンブル)と通常の勝負事の違いは「勝敗に至る根拠の明瞭性」または「勝敗確率の差」でしかないだろう。博打は「賭け事」だと言うが、どちらも「勝てば多大な利益」を被る仕組みに変わりはない。そんな社会の「鉄火場」体質ゆえに「カジノ法案」などが国会で平然と真顔で論議される異常事態となる。(取ってつけたような「ギャンブル依存症対策」など無意味に等しい。)

           

          このところのテレビ報道は、もちろんオリンピックの勝者を称える事にのみ余念がなく、一方で将棋などの「勝負事」が兎角クローズアップされ、同じく勝者が「国民栄誉賞」を受賞するなど勝負事が当然の如く推奨される。その前は「大相撲」の話題で持ち切りだったので、それもやはり勝負事が絡んでいる。

           

          そもそもそれ以前に現在の社会はあらゆる面で実際に人々を競争という「鉄火場」に追い込む仕組みになっている。ただそこで「他人との勝負に臨む」方法が、学歴で有ったり身体能力で有ったり奇抜さで有ったり、はたまた「狡猾さ」で有ったりと、幾つかの選択肢に分かれているに過ぎず、その目的は何れも「他人との勝負に勝って格差社会の上位に位置する」ことに違いない。

           

          このようにして社会では「勝つことに価値が有る」という思想が形成され、常にひと握りの勝者と多くの「その他大勢(=敗者)」が生み出されて行く中で、自ずと勝者は優遇され敗者は「能力が低い者」または「努力が足りない者」と位置付けられ、そうした処遇は概ね「自己責任」とされる。

          因みにテレビ出演者のほぼ全員がそうした意味に於ける「勝者」であることを踏まえれば、敗者の気持ちが理解できるはずもなく、本気で「競争社会」に意義を唱えられる由もない。

           

          こうした中で最も重要な問題は、小学校や中学校で(お題目のように)「ひとに親切にしよう」「ひとを思いやりいたわる気持ちを持とう」「優しい心を持とう」などと、相変わらず教育目標に掲げていることだろう。日々社会の空気を吸って生活している子どもたちにとって、これほど理不尽な話はない。何故なら、方や「熾烈な生存競争に勝ち残れ」と言われ続けて(或いは肌で感じながら)これまで成長してきた経緯があるからだ。

          こういうことをすると子どもたちは逆に「親切、思いやり、優しさ」といった言葉自体に何ら深みを覚えない、軽薄なイメージしか持ち得なくなってしまうに違いない。

           

          ではどうすれば良いのか。「親切、思いやり、優しさ」を教育目標から外す?とんでもない。そんなことをすれば社会は「鉄火場」を通り越して「修羅場」と化してしまうだろう。

          これは誰がどう考えても「子どもに対する教育目標」が通用せず有名無実化してしまう今の「社会構造」がおかしいのだから、速やかに社会構造を改めるしかない。

          「親切、思いやり、優しさ」とは本来「みんなで手を取り合って、みんな一緒に良くなろう」という人間関係の基本、社会構造の理想形を表したものだから、教育目標としての価値があるのだ。

           

          冒頭に「鉄火場社会」と言ったが、そもそも賭博行為の何が悪いかと言えば、生産性がゼロと言うのもさることながら、一番悪いのは「テメエさえ良ければイイ」というその性根そのものにあると言っても過言ではないだろう。

          | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 09:16 | comments(0) | - |
          義務教育をてんこ盛りにするな。
          0

            学校は何をするところかと言えば、基本的には「読み書き、そろばん」を教えるところであり、近代ではそれが「国語、算数、理科、社会」と理解されていました。義務教育が導入されているのは(民主主義のもとでは)「それ位は分かっていないと世の中で困る事になるだろう」と思われるからに他なりませんが、しかしそれでさえも、人によっては「理科や社会」に関しては「国語と算数(=読み書き、そろばん)」ほど差し迫ったものとは考えていないかも知れません。またそれぞれの教科に対しても「自分はどのレベルまで必要」といった具合に、子どもによって思い描くニーズに違いが有るかも知れません。そのように「学び」に対するスタンスは決して一律なものではなく、内面的な優先順位は人によって異なるのがむしろ自然だと思われます。

            但し「全体主義国家」であれば事情は一変し、教育に対するニーズは「国家の側」が持つ事となり、国民の側に選ぶ権利は有りません。

             

            ところがこのところ日本は、先の「教育基本法改悪」に踏み切って以来、まさにこの「全体主義国家ばりの国家主導の教育体制」への移行が進められてきました。つまり国民(=子どもたち)に対して「ああなれ、こうなれ、ああしろ、こうしろ」といった「国家のニーズ」を前面に打ち出してきたのです。それが国のと自治体それぞれの「教育振興基本計画」には、ほぼ同じ内容でしたためられていて、そこには「世界情勢や社会のニーズに対応するため」として(一昔前なら考えられない程の)「てんこ盛り」の内容が書き連ねられています。

            資料はこちら→ http://www.mext.go.jp/a_menu/keikaku/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/06/20/1336379_01_1.pdf

             

            第一期、第二期と続いたこの「教育振興基本計画」のせいで、教育現場がどうなったか。

             

            ○ 教科そのものが増えた。

            ○ 校内での教科以外の作業やイベントなどが増えた。

            ○ 校外におけるボランティア、体験学習、イベント参加などが増えた。

            ○ 学校そのものが全国や地域との優劣の比較対象とされる。(競争環境に晒される)

            ○ 教員研修が義務付けられたことで教員の負担が増した。

             

            これらに伴う明らかな「量的負担の増加」がまず教職員と子どもたちを直撃、圧迫し、実質的に「教育の質と精度」を低下させているのは明らかで、現実に教員の時間外労働はすでに限界に近づいており、方や連絡ミスや失念などが多発し、教員の信頼性が危ぶまれる事態に直面しています。(私は現在それを直接知り得る立場に有ります。)また、そうした教職員の抱えるストレスが子どもたちに与える影響も少なからず有ることは容易に想像出来ます。

            以上のことから、こうした「現場と乖離した机上の空論」が今まさに「教育現場の疲弊、劣化」に拍車を掛けてしまっている事は明らかで、早急な教育政策の一大転換が必要とされています。

             

            そもそも小学校教育の早い段階から「国際社会のニーズに照らした人材育成」などと、到底正気の沙汰とは思えません。(そのようなお題目でマインドコントロールしたいなら別ですが)その時期であれば取り敢えず「読み書き、そろばん」に集中した方が結果は良好なはずです。

            | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 11:14 | comments(0) | - |
            政府の「高校無償化案」に驚愕!
            0

              今朝のNHKニュースで、政府の「高校の無償化に関する新制度導入」という話が耳に入ってきました。(NHKは挙動チェックのため時折り確認しています。)

              リンクはこちら→ http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171124/k10011233581000.html

               

              内容は掻い摘んで言えば「非課税(=低所得)世帯以外は無償化せず全て将来の借金となる」という話で、非常に違和感を感じます。これでは「目先の支払いが無い」と言うだけで思わず手を出してしまう「カード地獄」と構造的に変わりません。しかも「良識ある国民を育成する目的を持つ教育を盾に取っての借金の強要」という発想が実にやるせない気持ちにさせ、本気でそんな事を考える人たちの正気を疑いたくなります。

               

              また、そこには「将来の所得に応じて(=出世払い?)」などという文言も有りますがが、もし仮に高校のみならず大学も含めた7年分の借金が生じている場合、いくら働いても(借金返済のため)それを暮らし向きに反映させられない(手応えの感じられない)期間が相当な年月に及ぶ事になり、それは将来に備えた蓄財、投資のための節約とは全く意味合いの違う「人生への負荷」としか言い様が無く、(経済的は言うに及ばず)心理的な重荷としかなり得ないでしょう。(借金が若者の足を引っ張り続けます!)

               

              借金とは(人の心の弱みにつけ込むという意味に於いて)極めて悪魔的と断言します。よって経済学者が何と言おうと、私たちは「借金しなくて良い社会や暮らし」を望むべきだと思います。

              それにそもそも「教育の無償化」に対して、政府(=安倍政権)から余りにもお粗末な方針しか出てこない事自体が国としての「優先度の低さ」を物語っています。しかし一方でそれは私たち庶民、取り分け子どもや若者を直撃する問題であることは間違いなく、現政権が如何に国民を軽んじているかを暗に示す結果と言えます。(言葉は嘘。現にやっていることが本当。)

               

              だから「財源が無い」というのも嘘。ただアメリカからの防衛装備品(=兵器)の購入を最優先し、借金に喘ぐ庶民の生活や教育なんかどうでもいいと思っている、と(言わず語らず)態度に表しているに過ぎません。

              皆さん、それでよく平気ですね?

               

              | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 09:37 | comments(0) | - |
              何故、「教育の立て直し」が最重要課題なのか
              0

                この問いの答えが今ほど解りやすい瞬間は無いだろう。何故なら「教育を誤るとこういう人間になってしまう」という、まるで「失敗作の見本」みたいな人たちが入れ替わり立ち替わり現れては、(懇切丁寧に)それを教えてくれているからだ。

                それは「ナチスに学べ!」どころの話ではなく、まさしく「俺達に学べ!」と言わんばかりの「わかりやすさ全開」の人たちだ。その「アッパレ過ぎる言動」からは、「立派な反面教師として生を全うしよう」という高い志すら感じざるを得ない。(多分それは無いだろうが。)

                 

                取り分け「安倍晋三、麻生太郎、菅義偉」の各氏に加え、最近では「小池百合子、前原誠司」らの活躍により、広く国民の間に「教育の誤りは国を滅ぼす」との認識がもたらされるに至った事は喜ばしい限りである。国民は「わずか一握りの間違った教育を施された人たちによって国家が崩壊し得る」という事実を知り得た訳だから、この功績は大きい。

                また、類は類を呼ぶ訳だから、この人たちの周辺や後ろ盾となっている人々も、やはり「誤った教育を受けた人々」ということになるから、これも解りやすい。

                 

                結論から言うと「今、世の中は非常に解りやすい状況にある」ということであって、これで解らないとなればそれは解らない人自身に問題が有ると言えよう。

                それはともかくも「教育の誤り」は何も国政の場に限らず、そうした人々の立場に応じて社会のあらゆる単位のあらゆる部分でその健全な維持、発展を阻害し、それらが全体として「社会の衰退(=人々の分断)」という方向性をもたらしているのは明らかである。

                 

                人々は肝心な事を忘れている。それは「本来、人と人は放っておいても結びつくもの」という認識のことだ。誰しも生まれ持った人間性が働けば必ずそうなる。(「まさか!」と思ったアナタ。それは絶望的なマインドコントロールによるものです。)

                そもそも「社会の発展の礎(いしずえ)は人と人との結びつき」に他ならない訳だから、それを否定する教育など有り得ないことになるが、しかし現実には「社会に於ける人と人の結びつきの希薄化」が進行しているとなれば、日本では実質そのような(本来有るまじき)教育が行われてきたということだ。でもどうやって?

                 

                その方法は簡単だ。ただ「勉強は自分のため、だから自分のために勉強しろ」と吹き込むだけで良い。この魔法のおまじないだけで、人は「競争社会」を受け入れると同時に自ら「人間性」を排除し、代わりに打算や狡猾さを取り入れることになる。

                つまり能力の高い人は「力ずく」で打ち勝ち、能力の低い人は「他人を陥れて」自分が生き残るという寸法だが、もちろん「合わせ技」も有りだろう。

                 

                そんなことだから「権力の座」に群がってくる輩にろくな人間がいないのは当然で、彼らは言い換えれば「人間性を捨てた人たち」であり、それ故「社会を破壊し、国を滅ぼす」ような発想しか持ち得ないと言える。

                そうならないためには、それこそ教育現場で「人間性を失うことは人間(=社会的存在)として名乗る資格を失うことであって、学や知識は決してそれに代わるものではない」ぐらいのことが言えないとまずいだろうが、今の先生たちでは恥ずかしくて言えないかも知れない。

                | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 10:29 | comments(0) | - |
                日野氏に対するリテラの正論出ました。
                0

                  以下に今回の一件に関する「リテラ」の記事のリンクを貼って置きますので、ご一読をお勧めします。

                  記事はこちら→ http://lite-ra.com/2017/09/post-3434.html

                   

                  この場合の「正論」とは、主観に捕らわれず、目的に対する論理性によって物事の是非を判断しようとする在り方と言って良いと思います。

                  そうした観点で言えば、ここでの目的は「ジャズ演奏の指導(=音楽教育)を通じて子どもたちの健全な育成を目指す」ということになるはずです。となれば論点は当然、今回の日野氏の指導が先ずは「子どもたちの健全な育成」という観点からどうなのか、ということが最大の焦点となり、百歩譲っても「演奏の出来栄え」がそのことよりも優先されるという事態があってはならないと思います。

                   

                  それに加えてリテラの文中で引用されている八幡氏の説明にもあるように、ジャズ(の基本的な精神性と重要な構成要素)は<逸脱>と<回復>であって、これは平たく言えば「現場主義」ということとなり、具体的には「現場で何があろうとモアベターな対応で切り抜ける」として、そのために多くのスキルとエネルギーが投入される事で「ジャズをジャズたらしめている」訳ですから、そもそもがクラシカルな「予定調和」の世界と同様に語れるものでは有りません。(但し出来栄えを気にする余り、近年は一見現場主義風な予定調和も数多く見受けられますが、そのような構成物を純粋に「ジャズ」として評価して良いのかどうか、甚だ疑問の残るところではあります。)

                   

                  ただ、前回の記事でも書いた通り、私自身当日行われた演奏の流れを把握していないので、演奏に関する具体的なコメントが出来ないという立場に変わりは有りませんが、「ジャズ的にモアベターな着地点」を見つけることで「ジャズの指導と健全な育成」を両立させることは少なからず可能だったように思います。

                  | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 09:50 | comments(0) | - |
                  「日野皓正氏中学生に往復ビンタ報道」について
                  0

                    この件の詳細についてはテレビなどでも繰り返し報道され、既に多様な記事がネット上にも溢れていると思われますので、ここでは特に説明したりリンクを貼ったりは致しません。(私心を含まない客観的な記事が少ないためもあります。)

                     

                    プロフィールにもある通り、私も音楽、それも演奏(アンサンブル)を生業としてきた者の一人として、この件に無関心ではいられませんし、そもそも「青少年の健全な育成」を目的とした当サイトでスルーして良い問題とは思えませんので、自分なりの見解を明らかにする必要が有ると思っています。

                     

                    ところが困ったことに、この件の一報を見て最初に感じたことが(第三者が判断するには)「情報が(余りにも)足りない!」だったのです。

                    例えば事件の発端とされる「ドラムの子のソロが長すぎて」という状況説明にしても、具体的に「何分何秒」と示してもらわなければ客観的な判断の指針には成り得ませんし、本質的にはコンサート全体、それが無理なら少なくとも問題の「アンコール曲の全体像」を見てみなければ「該当部分の客観的判断は不可能」というのが偽らざる気持ちです。

                    ※ 週刊文春デジタルが有料会員限定で「動画の完全版」を公開しているようですが、そうした報道姿勢は少し残念です。

                     

                    但し上記は「これは音楽的に(或いはジャズ的に)どうなの?」と問われた場合の話です。そうではなく、単純に「中学生に対する教育的見地、指導的見地としてどうなの?」ということであれば、それは「イジメや万引きをした生徒に鉄拳制裁、体罰はアリか?」という話と同様で、現時点では「社会通念上それはアウト」とされているものと私は認識しています。

                    つまり要約すれば(客観的に見て)「音楽的是非の判断は出来ない」「教育法、指導法としてはアウト」ということです。

                     

                    ところで今回の報道を受けて、巷では「中学生が悪い」を基調とした「日野氏擁護論」が多数派となりつつある様ですが、その根拠として(音楽的には)「世界の日野vs金髪中学生」という(凡そ勝負に成り得ないという)対立的構図が有り、そこには「世界の日野を怒らせたんだから、中学生が(音楽的に)よっぽど悪いコトをしたに違いない」という納得の仕方もあろうかと思われます。

                     

                    しかしそうなると(意識の有無に関わらず)「教育法、指導法」よりも「音楽的見栄え、出来栄え」の方が優先順位として「上位」ということになってしまいますが、それでは常々問題にされる「一般的な成果主義に基づく教師の体罰、暴言」とどこが違うのか判りません。

                    もしかすると「世界の○○」と付くと許されるといった「権威主義」ということなのでしょうか。

                    余談では有りますが、この件についてはミュージシャンなど「業界に近い人々」ほど同情的で、また「忖度」も働き、「擁護論」に傾くことが多いと思われます。

                     

                    しかしそのような中、知り合いの優秀なトランペッターで日野皓正氏と古くから面識を持つ或る人物が語ってくれました。

                    「ボクは日野さん大好きだけど、(動画を見て)アレ〜って思いました。だって日野さんああいう(コトする)人じゃないもの。」

                    「すっごく優しい人だから、(ああいうコトは)しない、しない。絶対おかしい。あれ変ですよ。」

                    この方曰く、「日野さんは昔からとても分別のある人」とのことです。

                     

                    この話を聞いて「それが今更何故?」というところにこの問題の本質と奥深さがあるように思いました。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 13:10 | comments(0) | - |
                    小、中学校教員の「勤務実態」について
                    0

                      安倍政権のテコ入れによって断行された「教育基本法の改悪」に端を発する「学習指導要領の改訂」などの影響が、思わぬ結果・・・と言うよりむしろ「予想通りの結果」を招いている。

                      文部科学省が28日に2016年度の教員勤務実態調査結果(速報値)を公表し、国が示す「過労死ライン」に達する週20時間以上の「残業」をした教諭は中学校で57.7%、小学校で33.5%に上ることが明らかになった。部活動や授業の増加が主な要因。1週間の平均勤務時間は、06年度の前回調査に比べ、中学校教諭で5時間12分、小学校教諭で4時間9分増えた。現場からは「ひどいのは電通だけじゃない」と悲鳴が上がっている。(毎日新聞 4/28(金) 23:58配信

                      当ブログに於いては以前より「教育基本法の改悪」に対して「子どもたちや社会全般に与える悪影響」を不可避のものとして警告を発し、その撤回、無効化を訴え続けているところであるが、こちらも懸念されていた通り(当然の事として)今回、それらの影響が小、中学校の現場の教員たちを更に多忙化させ、その勤務実態をを著しく悪化させていることが判明した。(私は彼らと直接関わっているので、尚更よく判ります。)

                       

                      前述の記事では「現場からは悲鳴が上がっている」とされているが、私から見れば何故(個人的な問題ではなく)労働環境の明らかな構造的問題という認識のもとに、しかも健康や命に関わりかねない問題でもあるのに声を上げないのか理解出来ない。そのために幾つもの「教職員組合」が存在しているはずなのだが。

                      「子どもたちのためだから(我慢して)」と言いたいのであれば、それこそトンデモナイ勘違いと云わざるを得ない。いったいそういう人たちは子どもたちに何を教えようとしているのか?今自分たちが仕事でギュウギュウの目に合わされているとしたなら、それがそのまま今の子どもたちの将来となることぐらい分からないとは言わせない。何故ならそれが国民に対する「国からのお達し」であるからで、そこには方や「雇用」、方や「教育」という形態の違いしかない。

                       

                      百歩譲って「子どもたちのため」を思うのなら、悪いことは言わないので、まず「誤った教育基本法並びに学習指導要領に基づく(国策に押し付けられた人を人とも思わない)過酷な労働条件」に対して、(日教組でも全教組でも全教連でも何でもいいから)みんなして声を上げたらどうなのだ。そういう根性すら無いものに子どもの教育は向かない。

                      それにそもそも「教育によって人格の完成を目指す」のではなかったのか?

                       

                      | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 12:04 | comments(0) | - |
                        12345
                      6789101112
                      13141516171819
                      20212223242526
                      2728293031  
                      << May 2018 >>