青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「三つ子の魂百まで」の本当の意味
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    これは「3歳頃までにその人の生涯に通じる基本的な雛形が固まってしまうので、その時期までの躾(しつけ)や教育が非常に大切」という意味に理解されがちですが、だからと言って決して「画一的で理想的な人物像」をその子に押し付けて良いという訳では無く、むしろその逆です。

     

    というのも、実はこの言葉は「3歳頃にはその子の(生涯に通じる)生まれ持った個性や特徴がはっきりと顕れている」ことを言い表しているからです。無論そこには(本質的には)「他者によって否定されるべきもの」など何一つ有りません。そればかりか全ての要素が「その人独自の人生を歩む上に必要不可欠」と考えて差し支えないものです。(「そう見えない、思えない」は単なる親の無理解。)

     

     

    無論、3歳の時点では「全ての要素が荒削りで不完全」であるのは当然ですが、重要なのはあくまでもその子の「持っている要素を育て、磨き、仕上げ、活用させて行く」ことであって、そうすることが最も自然な形で人として成長させ、人として活性化させ、人として引き立たせるための唯一無二の方法と言えます。(例えば「乱暴」を否定せず「決断、実行」に昇華させれば乱暴は働かなくなります。)

     

    子どもに有るものを闇雲に否定したり、無いものを無理やり要求したりしてはいけません。基本は「今有るものを大切に」です。

    | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 09:24 | comments(0) | - |
    日本の教育問題の核心を突く記事
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      見出しに「本気で怒っている」という文言を含む、2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治(のよりりょうじ)博士の、日本の教育の危機を訴えるインタビュー記事が秀逸です。博士はこの中で「学校教育は、社会のためにある。個人が自由に生きる権利は大切だが、決して入学試験に合格するためだとか、あるいは金持ちや権力者になるためにあるのではない。」と言い切っています。こうした言葉は、ただそれだけ切り取れば良いということではなく、前後の脈絡や全体感から、その言葉の真意を読み解くことがより重要と思われます。

       

      外部リンク→ 《 ノーベル賞・野依博士「本気で怒っている」日本の教育に危機感 》

      | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 08:20 | comments(0) | - |
      中学校に於ける「道徳の公開授業」に驚愕!
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        実は先月、近隣の中学校で行われた「道徳の公開授業」なるものを(役目上)見聞し、その余りの見当外れぶりに思わず目と耳を疑った。テーマは「自主、自律の精神」だったと思うが、授業が進むにつれてだんだん怒りがこみ上げてきて、そのうちだんだん哀しくなった。何故なら「自主、自律」とは言うまでもなく(他人に言われる前に)「自ら出(いで)て自ら進む(律する)」ことを指すのには違いないとして、問題はその主旨であり目的だ。

        授業ではもっぱら「勉強や宿題を自分から進んで(時間を設けて)行う」ような話が中心となり、挙句は教師の方から「もっとお金が稼げるように」などといった言葉まで飛び出す始末だ。果たしてこのような授業内容を「道徳の授業」と認識出来る人がいるのだろうか?

         

        そんなこんなで公開授業後に行われた教職員を交えた参加者(関係者)の会合では、はっきりと「道徳の主旨は(国、社会、組織、個人を含めた)他者との関わり方を示唆するところにあるはずで、その部分(=他者との関わり)が欠落していては意味を為さない」旨を申し述べさせて頂いた。

        個人的には、こうした「道徳観念(或いは社会性)」の類は本来、家庭教育の範疇に置かれるものと思っているが、近年それで事足りていないということであれば学校教育の一環とされるもやむ無しという程度の認識だが、こうした状況を鑑みるにむしろ一層の危機感を覚えざるを得ないというのが正直なところだ。何故なら「学校側の無理解」が露呈してしまっているからだ。(今、直近の課題は大人の道徳教育だろう。)

         

        しかも学校が事前に行った生徒への「道徳に関するアンケート」では、多くの子どもたちが「人との関わり」が重要であることを正しく認識している結果が出ているのだから、逆に学校側がそれを活かしていないばかりか、明らかにミスリードしているというオマケ付きだ。(もちろんそのことも指摘させて頂いた。)

         

        ※ 参考:コトバンク「道徳」

        | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 10:16 | comments(0) | - |
        義務教育に於ける教育現場は既に崩壊している!
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          何故なら、教育に携わる教師の資質としての「人格」を問われることがないからだ。そのため逆に言えば殆どの教師の「人格」は、教育者としての基準を満たしていないと言える。これが学問や知識を教えるのみということであれば(良いとは言えないまでも)まだ弊害はさほどでもないかも知れないが、小、中学校の教師は(多くの学校の教育目標などにも掲げられている様に)自ずと子どもたちの人格形成や生活指導にも関わってくる。つまり教師が「そこそこの人物」であって(子どもたちの目線で)少なからず尊敬の対象となり得なければ、子どもたちがその言動に関心を寄せ、行動を注視するというような事は起きて来ないのは当然だ。故に百歩譲っても「教師が職務に相応しい一定の人格を備えていること」は教育の基本中の基本と言える。

           

          翻って今の教育現場は歪んだ教育理念、即ち多分に押し付け的な国家主義的愛国心及び郷土愛、更には社会に於ける即戦力を想定した詰め込み式てんこ盛り教育(という上からの命令)の遂行に汲々としており、中学校の五割超、小学校の三割超の教師が「過労死レベル」という調査報告があるにも関わらず、皮肉にもその命がけの勤務実態が殆ど功を奏することもなく、本来の教育目的であるところの「子どもたちの健全な育成」に対する貢献度は総じて「極めて低い」と言わざるを得ない。(たまたま健全に育つ子がいるとすれば、それは秀逸な家庭教育の賜物に相違ない。)

           

          勘違いしている輩が多いと思うが、学校は既成の国家や社会の矮小な下請けなどではなく、むしろより良い国家や社会を築いていくための、伸び伸びとした自由で斬新な発想の持てる個々人を育む場であるべきで、そうでなければ社会はたちまち活力を失い、やがて硬直化、形骸化、風化の一途をたどるしかない。(何故そう言えるのかと問われるなら、現状がまさにそうだからとしか答え様がない。)

          故に教師にあっては「公務員だからお上の言いなりになるしかない」という発想は明らかに間違いで、「それほど重要な役割を担っているからこそ、公務員として地位と生活を保証されている」という理解が正しい。

           

          もはや掃き溜めに埋もれている場合ではなく、心ある教育者の良心に基づく一念発起を期待してやまない。

          | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 09:13 | comments(0) | - |
          ランドセル(orスクールバッグ)は何故重い?
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            まず第一に、他人に明らかな苦痛や不快感を伴うことを強要すべきでないのは常識だ。教育現場では「子どもにとって重すぎるランドセル(orスクールバッグ)」が正にそうだということは、良識有る教育者であれば嫌が上にも感じているはずで、軍事教練でも有るまいに「鍛えろ」とか「慣れろ」などの声はもはや論外だ。それを言うなら先生方は率先して毎日20キロ超の荷物を背負って通勤せねばならない道理になる。

            何れにせよ、子どもに日々重い荷物を強要することと、山好きの登山者がたまに自ら大きなリュックを背負って出かけるのと一緒に考えるべきではない。

             

            この件について「東洋経済オンライン」で関連する記事を見つけた。こうしたことが専門家から問題提起され、ネット上で話題にされることは良いことだ。

            記事はこちら→ https://toyokeizai.net/articles/-/227156

             

            この記事の筆者は、子どもたちの荷物の重量が増した理由として、主に「教科書が厚く大きくなった」ことを掲げているが、それを「教科書を厚くして教える内容を増やせば学力が上がるだろう」「授業時間を増やせば学力が上がるだろう」という教育する側の勘違いが有る、と説明しているが、表向きは確かにそうかも知れないし、大きなカラーの図版を多用することで子どもたちの関心を引く効果を期待する向きがあるのかも知れない。

             

            だがそれを理由に教科書を大型にし、ページ数を増やし、カラー印刷に耐え得る良質の紙を使用するとなれば、当然教科書の製造コストは上がり、販売価格に反映されなければおかしい。(教科書会社は国営企業でもなければボランティア団体でもない。)まさか「販売単価を上げるため」にそれをやっているとは思いたくはないが、少なくとも記事の筆者の主張するように、子どもたちの学力の伸び悩みがあるとすればそれは「教科書の量や見栄えのせい」ではなく、単純に「教え方」の問題に尽きると思う。

             

            何人(なんぴと)も、学校を「子どもが行きたくない場所」にする権利など無く、むしろ「子どもが行きたい場所」にする義務が有ると考えるべきだ。

            そうすれば学力と言わず、子どもの「総合力」は間違いなく上がる。

            | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 08:36 | comments(0) | - |
            学校の「常識」は社会の「非常識」?
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              東洋経済ONLINEに秀逸な記事があったので紹介します。(このサイトは意外に趣きのある記事が多いです。)その記事のタイトルは〈不登校児をゼロにした元中学校長の「非常識」〉というセンセーショナルなもので、ぜひ一読されることをお薦めします。

              記事に拠れば「イエナプランの教育理念に基づいて丁寧に対応することで実現出来た」ということのようですが、問題はそうした論理的で当たり前の対応を「非常識」と言わざるを得ない現状の教育体制にあると思います。

              因みに「イエナプラン」とは下記の原則に基づく学校教育の一形態とされています。

               

              イエナプラン教育の20の原則 (K・ボットとK・フロイデンヒル 1992年)


              人間について


              1.
              どんな人も、世界にたった一人しかいない人です。つまり、どの子どももどの大人も一人一人がほかの人や物によっては取り換えることのできない、かけがいのない価値を持っています。

              2.
              どの人も自分らしく成長していく権利を持っています。自分らしく成長する、というのは、次のようなことを前提にしています。つまり、誰からも影響を受けずに独立していること、自分自身で自分の頭を使ってものごとについて判断する気持ちを持てること、創造的な態度、人と人との関係について正しいものを求めようとする姿勢です。自分らしく成長して行く権利は、人種や国籍、性別、(同性愛であるとか異性愛であるなどの)その人が持っている性的な傾向、生れついた社会的な背景、宗教や信条、または、何らかの障害を持っているかどうかなどによって絶対に左右されるものであってはなりません。

              3.
              どの人も自分らしく成長するためには、次のようなものと、その人だけにしかない特別の関係を持っています。つまり、ほかの人々との関係、自然や文化について実際に感じたり触れたりすることのできるものとの関係、また、感じたり触れたりすることはできないけれども現実であると認めるものとの関係です。

              4.
              どの人も、いつも、その人だけに独特のひとまとまりの人格を持った人間として受け入れられ、できる限りそれに応じて待遇され、話しかけられなければなりません。

              5.
              どの人も文化の担い手として、また、文化の改革者として受け入れられ、できる限りそれに応じて待遇され、話しかけられなければなりません。


              社会について


              6.
              わたしたちはみな、それぞれの人がもっている、かけがえのない価値を尊重しあう社会を作っていかなくてはなりません。

              7.
              わたしたちはみな、それぞれの人の固有の性質(アイデンティティ)を伸ばすための場や、そのための刺激が与えられるような社会をつくっていかなくてはなりません。

              8.
              わたしたちはみな、公正と平和と建設性を高めるという立場から、人と人との間の違いやそれぞれの人が成長したり変化していくことを、受け入れる社会をつくっていかなくてはなりません。

              9.
              わたしたちはみな、地球と世界とを大事にし、また、注意深く守っていく社会を作っていかなくてはなりません。

              10.
              わたしたちはみな、自然の恵みや文化の恵みとを、未来に生きる人たちのために、責任を持って使うような社会を作っていかなくてはなりません。


              学校について


              11.
              学びの場(学校)とは、そこにかかわっている人たちすべてにとって、独立した、しかも共同して作る組織です。学びの場(学校)は、社会からの影響も受けますが、それと同時に、社会に対しても影響を与えるものです。

              12.
              学びの場(学校)で働く大人たちは、1から10までの原則を子どもたちの学びの出発点として仕事をします。

              13.
              学びの場〈学校)で教えられる教育の内容は、子どもたちが実際に生きている暮らしの世界と、(知識や感情を通じて得られる)経験の世界とから、そしてまた、<人々>と<社会>の発展にとって大切な手段であると考えられる、私たちの社会が持っている大切な文化の恵みの中から引き出されます。

              14.
              学びの場(学校)では、教育活動は、教育学的によく考えられた道具を用いて、教育学的によく考えられた環境を用意したうえで行います。

              15.
              学びの場(学校)では、教育活動は、対話・遊び・仕事(学習)・催しという4つの基本的な活動が、交互にリズミカルにあらわれるという形で行います。

              16.
              学びの場(学校)では、子どもたちがお互いに学びあったり助け合ったりすることができるように、年齢や発達の程度の違いのある子どもたちを慎重に検討して組み合わせたグループを作ります。

              17.
              学びの場(学校)では、子どもが一人でやれる遊びや学習と、グループリーダー(担任教員)が指示したり指導したりする学習とがお互いに補いあうように交互に行われます。グループリーダー(担任教員)が指示したり指導したりする学習は、特に、レベルの向上を目的としています。一人でやる学習でも、グループリーダー(担任教員)から指示や指導を受けて行う学習でも、何よりも、子ども自身の学びへの意欲が重要な役割を果たします。

              18.
              学びの場(学校)では、学習の基本である、経験すること、発見すること、探究することなどとともに、ワールドオリエンテーションという活動が中心的な位置を占めます。

              19.
              学びの場(学校)では、子どもの行動や成績について評価をする時には、できるだけ、それぞれの子どもの成長の過程がどうであるかという観点から、また、それぞれの子ども自身と話し合いをするという形で行われます。

              20.
              学びの場(学校)では、何かを変えたりよりよいものにしたりする、というのは、常日頃からいつでも続けて行わなければならないことです。そのためには、実際にやってみるということと、それについてよく考えてみることとを、いつも交互に繰り返すという態度を持っていなくてはなりません。

               

              つまり、このような教育理念に基づき、それを実践すれば「非常識」とされるのが今の教育現場であり教育体制ということになりますが、逆にイジメや不登校、自殺などに真摯に向き合うとすれば(経済最優先社会を一旦棚上げする気にさえなれれば)こうした子どもの視野に立った教育の形が不幸を未然に防ぎ、多くの問題を解決に導くであろうことは想像に難く有りません。

               

              何れにしても当ブログでも再三申し上げている通り、社会の価値観は間もなく180度変わります。というか変わらざるを得ない局面にとっくに差し掛かっています。現場の人たちの勇断がまさしくそれを具現化するものであることは、前述の記事にある通りです。

              | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 11:10 | comments(0) | - |
              教科書 重すぎる
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                今日のタイトル「教科書 重すぎる」でネット検索すると、以下のサイトがヒットした。

                西日本新聞 > 連載 > 教育はいま > 学校のハテナ(2)かばん なぜこんなに重い

                 

                これに拠れば、近年の小・中学生の通学時のランドセルやかばんの重さは10キロにも達するらしい。(それがどれ程の重さかは10キロの米袋を持ってみれば容易に想像出来る。)

                通学エリア次第ではそれを背負って起伏のある道を20〜30分も歩く事になり、こうなると「これは何かの訓練のつもりか?」と疑いたくもなる。(例えば「軍事教練」のような。)

                言っておきたいのは、こうした状況は普通に考える範囲での「元気で健やかな体を育成する」という教育目標を逸脱しており、体力や体質の個人差を無視して強要されるべきでない事は明白であろうし、もし学校側にそういう認識が無いのであれば、それはそれで重大な問題であろうと思う。(実際に小学生が「腰痛」を発症するケースも有り、方や禁を犯して「置き勉」する子もいる。)

                こんな酷い話を放置しておいて「学校を好きになれ」「勉強を好きになれ」「大人を好きになれ」なんて無理だ。(「軍事教練」と明確に位置付けするなら話は別だが。)

                 

                このような事態になったのは(一説に拠れば)「脱ゆとり教育」転換後の学習指導要領変更に伴う「教科書のページ数増量(=平均30%程度)」のためとも言われているが、そんなに増やす必要が有るのかという専門的議論はこの際差し置いても、「だったら教科書の紙を薄くしたり、無駄に大きい(としか思えない)サイズを見直したりして(最初から)軽量化を図るべきだろう」と言いたい。(徒歩による運搬物の重量の上限を設ける事など、まともな神経を持った大人なら常識の範囲で対応出来ることだ。)

                要は悲しいかな「義務教育関係に携わる大人たちの大半がまともな神経を持ち合わせていない」というのが結論ということになろう。

                 

                いくらキレイ事を言おうが、教科書がデカくてカラーで紙が分厚いのは、そのように作ることで「単価を引き上げる」のが目的としか思えない。何故なら、たかが1年しか使わない想定の教科書を「永久保存版」の如く作る理由が皆無だからだ。(教育をカサにえげつない商売をするなと言いたい。)そのおかげで子どもたちがヒドイ目に遭っている。(これが虐待でないと言い切れる人は、その理由を教えてください。)

                 

                尚、学習指導要領の元となる「教育基本法の改悪」については、当ブログでも過去記事で度々指摘しているので、ここでは割愛します。

                それはさておき100歩譲って「教科書軽く作れ!」

                | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 08:29 | comments(0) | - |
                某小学校の卒業式について
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                  小学校の卒業式に於いては、6年間学んだ成果を再確認し、中学校という次のステップに進むための心構えを再確認するという主旨に尽きると思われ、そうした思いが「卒業証書授与」という改まったひとつの形に集約され得るものと考える。

                   

                  翻って近年の卒業式の傾向は、そうした「シンプル・イズ・ベスト」の発想に程遠く、やたらに尾ひれはひれをくっつけてイベント化、バラエティー化がエスカレートし、そのため明らかに主旨の輪郭がぼやけている。

                  何より卒業生の子どもたち自身がそうしたイベント的せわしなさに翻弄され、「間違えたら大変」といった本来無用な強迫観念すら起こりかねず、「卒業の実感を噛みしめる」どころではないはずだ。

                   

                  こうした傾向はズバリ(卒業式本来の主旨とは無関係の)「ウチは他所と違う」「ウチは見栄えがイイ」といった大人のエゴ以外の何ものでも無く、肝心の卒業生の子どもたちの心は明らかに「置いてけぼり」を喰っている。但し大方の子どもたちにはそうした自覚が無く、無意識に「何でもかんでもオモシロおかしくなければ気が済まない」という軽薄な感性を事有る事に醸成されて行く結果となる。

                   

                  百聞は一見に如かずだ。卒業証書授与の最中、BGMでディズニーソングを流される違和感は実際この上ないものが有る。(「違うだろー、違うだろー」と言ってやりたかった。)

                  このように(子どもじみた大人たちのせいで)すっかり箍(たが)の緩み切った子育て、教育行政はどこかの時点で一度リセットされなければならないだろう。

                  | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 10:07 | comments(0) | - |
                  2018年 二分の一成人式の実態
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                    ある小学校の当日の校長先生の言葉の中に「儀式とする事はバラバラの状態にある知識や経験や認識が一本化する良い機会」などとして、小学校のカリキュラムとしての二分の一成人式を正当化するくだりがあったが、果たしてそう上手く行くものだろうか。

                     

                    とにかく、歌有り、演奏有り、唱和有り、一人ずつのコーナー有りと、まるで学芸会並みの力の入れようだが、その中の4〜5人ずつのグループに分かれて順番に唱和していく「こんなに(色々)出来るようになりました」のコーナーで、非常に残念且つ心苦しく感じられたことがあった。

                     

                    というのも、例えば「おうちではお風呂掃除や洗濯や食事の準備など、色々なお手伝いが出来るようになりました!」「算数や国語のテストでは100点も取れるようになりました!」などという予め決められたセリフを4〜5人の子どもたちがすくっと立ち上がって一斉に言うくだりでは、如何にも「それは自分だ!」とばかり溌剌とした表情の子もいる反面、暗い表情・・・と言うより、腑の抜けたような面持ちで口だけ動かしているような、明らかに「身に覚えの無いこと」を無理やり言わされている感の子どもも少なからずいた事に心が痛んだ。

                     

                    それは別に「お手伝いが出来ていない」ことや「100点が取れない」ことが悪いとか残念とかいう意味では決してなく、まだ年端もいかない子どもたちが(しかも晴れの舞台で)「心にも無いことを無理やり言わされている(=嘘を付かされている)」ことに対する心苦しさ、気の毒さに尽きる。同時にそういう心なさ、配慮のなさが子どもたちの心の成長に如何に悪影響を及ぼすかを思えば当然のことだ。

                     

                    二分の一成人式の意味については以前のブログにも書いた通り、私自身はその価値をまったく認めていない。そもそも人間の心身の成長自体が「20÷2=10でちょうど半分だね」と安易に考えて良いものであろうはずもなく、強いて言うなら12歳を節目とすべきだろう。

                     

                    また余談ではあるが、小学校教育に於けるイベント関係は思い切って縮小すべきだと思う。理由は時間とエネルギーが膨大なイベントの体裁を取り繕うことばかりに費やされ、児童と教職員の消耗が激しいからだ。

                    基本的に子どもはイベントで育てるものではなく、地道な学習と日常的な学校生活によって育つもの故に、そこに十分な時間とエネルギーが注がれて然るべきと考える。要はゆとり云々の話ではなく、本当に必要なところに十分な時間とエネルギーを確保しろということだ。

                    | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 14:46 | comments(0) | - |
                    今や社会は「鉄火場」さながら・・・
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                      博打(ギャンブル)と通常の勝負事の違いは「勝敗に至る根拠の明瞭性」または「勝敗確率の差」でしかないだろう。博打は「賭け事」だと言うが、どちらも「勝てば多大な利益」を被る仕組みに変わりはない。そんな社会の「鉄火場」体質ゆえに「カジノ法案」などが国会で平然と真顔で論議される異常事態となる。(取ってつけたような「ギャンブル依存症対策」など無意味に等しい。)

                       

                      このところのテレビ報道は、もちろんオリンピックの勝者を称える事にのみ余念がなく、一方で将棋などの「勝負事」が兎角クローズアップされ、同じく勝者が「国民栄誉賞」を受賞するなど勝負事が当然の如く推奨される。その前は「大相撲」の話題で持ち切りだったので、それもやはり勝負事が絡んでいる。

                       

                      そもそもそれ以前に現在の社会はあらゆる面で実際に人々を競争という「鉄火場」に追い込む仕組みになっている。ただそこで「他人との勝負に臨む」方法が、学歴で有ったり身体能力で有ったり奇抜さで有ったり、はたまた「狡猾さ」で有ったりと、幾つかの選択肢に分かれているに過ぎず、その目的は何れも「他人との勝負に勝って格差社会の上位に位置する」ことに違いない。

                       

                      このようにして社会では「勝つことに価値が有る」という思想が形成され、常にひと握りの勝者と多くの「その他大勢(=敗者)」が生み出されて行く中で、自ずと勝者は優遇され敗者は「能力が低い者」または「努力が足りない者」と位置付けられ、そうした処遇は概ね「自己責任」とされる。

                      因みにテレビ出演者のほぼ全員がそうした意味に於ける「勝者」であることを踏まえれば、敗者の気持ちが理解できるはずもなく、本気で「競争社会」に意義を唱えられる由もない。

                       

                      こうした中で最も重要な問題は、小学校や中学校で(お題目のように)「ひとに親切にしよう」「ひとを思いやりいたわる気持ちを持とう」「優しい心を持とう」などと、相変わらず教育目標に掲げていることだろう。日々社会の空気を吸って生活している子どもたちにとって、これほど理不尽な話はない。何故なら、方や「熾烈な生存競争に勝ち残れ」と言われ続けて(或いは肌で感じながら)これまで成長してきた経緯があるからだ。

                      こういうことをすると子どもたちは逆に「親切、思いやり、優しさ」といった言葉自体に何ら深みを覚えない、軽薄なイメージしか持ち得なくなってしまうに違いない。

                       

                      ではどうすれば良いのか。「親切、思いやり、優しさ」を教育目標から外す?とんでもない。そんなことをすれば社会は「鉄火場」を通り越して「修羅場」と化してしまうだろう。

                      これは誰がどう考えても「子どもに対する教育目標」が通用せず有名無実化してしまう今の「社会構造」がおかしいのだから、速やかに社会構造を改めるしかない。

                      「親切、思いやり、優しさ」とは本来「みんなで手を取り合って、みんな一緒に良くなろう」という人間関係の基本、社会構造の理想形を表したものだから、教育目標としての価値があるのだ。

                       

                      冒頭に「鉄火場社会」と言ったが、そもそも賭博行為の何が悪いかと言えば、生産性がゼロと言うのもさることながら、一番悪いのは「テメエさえ良ければイイ」というその性根そのものにあると言っても過言ではないだろう。

                      | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 09:16 | comments(0) | - |
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