青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
現政権のもたらしたもの
0

    日本には現政権と同様の「汚いやり方」が浸透してしまったようで言葉もない。

    | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 11:37 | comments(0) | - |
    近況報告
    0

      ここ一ヶ月余りは現在各自治体によって実施されている「小・中学校に於ける学校選択制」の下での論理的不整合と決定的な矛盾点がなおざりにされ、それによって一部の子どもたちの登下校の安全が不当に脅かされている実態の早急な是正、改善を促すための「対峙と提案」に終始しておりました。

      それらの詳細はまた別の機会にするとしても、「おれはおかしい!」と思って実際に動いて見ると、実に色々なことが判ってきます。故にやはり「おかしいものはおかしい」として(面倒がらずに)事に対峙し行動することは非常に意味が有り、重要であると再認識致しました。

      (ヒント:学校側は強迫観念の下、時として保護者側の想像を絶する様な考えに固執することが有ります。)

       

      一方で国際情勢は日々大きく変動し、日本社会もそれにつれて様々な対応を余儀なくされています。

      現政権に関してはもはや論ずる段階はとうに過ぎ、膿を出し切ると言うよりむしろ「悪性腫瘍をどうするか」に近い話と考えるべきでしょう。(無論放っておけば早晩日本全体が機能不全に陥ります。)

       

      道徳教育などは物の役にも立たないばかりか、逆に日本中に「虚無」を蔓延させることに成り兼ねません。何故なら「競争原理」を基本とした社会システムの下では「矛盾や葛藤の元」にしか成り得ないからです。即ち人間性を破壊したのは「競争原理」であって、それは人の道(=道徳)と100%競合するもの故に、私たちが真っ先に為すべきは「道徳云々」ではなく、まず「競争原理の全否定」からです。

       

      道徳教育とは本来「競争原理」を社会から根絶させる目的を持つものであって、間違っても「競争原理」のお茶を濁すためのものでは有りません。

      | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:12 | comments(0) | - |
      「政治の話をするな」???
      0

        日刊ゲンダイDIGITAL〈若者の間でも…「政治の話をするな」日本を覆う陰鬱な空気〉という記事を見つけた。要は「政治の話は重いからイヤだ」ということらしい。ではそういう人は何の話ならOKと言うのだろう?

         

        人には誰彼問わず人生があり将来があるはずだが、一体誰が自分が生きて行く上で敢えて「劣悪な環境」を望むというのか。それどころか大方の人は今より少しでも「生きやすく快適な環境」を望んでいるはずと思う。その意味で「政治(環境)の話」というのは自分にとってより身近な生活環境の話、即ち家庭環境、知人友人環境、学校職場環境、地域環境などの明らかに延長線上にあるに過ぎず、人間が生存権を主張し生きやすさを求める時に「政治の話は別」的な論理は存在しない。(具体的な関わり方には一定のルールがあるにせよ、少なくとも評価や問題意識を持つことは自由なはずだ。)

         

        逆に「政治の話は重い」と言う人に訊きたいのだが、では「家庭内や知人友人同士、或いは学校や職場や近隣住民」とはお互いの生活環境を整えるための話し合いが良く出来ているとでもいうのだろうか?たぶん無理だと思う。そういう人はおそらく「現状で自分が入り込めそうな隙間を見つけてそこに身を置くことで細やかな満足を得ようとする人」かも知れない。(そこで「しめしめ」と思うのも確かに一つの生き方かも知れない。)

        だが私が危惧するのは「もし入り込める隙間が無くなり、居場所が無くなってしまったらどうするのだ」ということで、それが既に現実化していることは様々な陰惨な事件や社会に蔓延する閉塞状況が証明している。

         

        どう生きようと自由かも知れないが、成り行き任せの無責任な生き方には相応の結果しかついて来ないものだ。そういうのを「自滅」という。

         

         

        | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 11:09 | comments(0) | - |
        「勝利至上主義」からの離脱
        0

          以前に「あらゆる事件は全て繋がっている?」というタイトルの記事で「競争社会が如何に人と社会を破壊しているか」について申し述べたが、改めてその事を強調しておきたい。というのも昨今次々に露見する政界、財界に於ける数々の(隠蔽、改ざん、捏造等の)不祥事から大学のアメリカンフットボール部に於ける「有り得ない反則行為」までに至る全てが、競争社会に於ける「(身勝手極まりない)勝利至上主義」に基づいている事は異論の余地が無いからだ。

           

          その根底には最早「勝つためには何でもやる(=何をしても良い)」「勝ちたいならそっちもやれば良い」という無味乾燥なお定まりの話しかない。いわゆる「弱肉強食」と言いたいのだろうが、何度も言うように自然界には「全体のバランスを無視」するような弱肉強食は存在し得ない。何故ならそれをすれば自然界自体が崩壊をきたし、自身も生存出来なくなることは自明の理だからだ。

          つまりそんな愚かな事を望んだり行なったりするのは人間だけであり、案の定それ故「人間性の失墜=社会の崩壊という破滅の危機」に瀕している。

           

          話は変わるが、最近小学5年生70人を対象に「この格言を知っているか」というアンケート調査する機会を得た。結果は以下の通りだ。

           

          「出る杭は打たれる」=全員知らない

          「能ある鷹は爪を隠す」=七割以上が知っている

          「実るほど頭を垂れる稲穂かな」=ほとんどが知らない

           

          つまり多くの子どもたちが競争社会の中で「出る杭(=突出)」することを望んでおり、戦略的には「爪(=手の内)を隠す」必要性も理解しているが、本質的に自らの能力や功績を社会に還元していく思いは乏しい(=独り占め)という事とも読み取れる。

           

          こうした教育上の弊害をも含めて「勝利至上主義」から即刻離脱すべきだ。

          | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:44 | comments(0) | - |
          もはや「実力組織」が国民の障壁
          0

            原発行政、格差社会、愛国教育、憲法改悪、バラマキ外交・・・等々、どれ一つとして国民のためにならないばかりか、まるで国民を窮地に追い込もうとするかの如く悪政に対し、「退陣」を求めて立ち上がる良識有る国民の前に立ちはだかるものと言えば、公的な実力組織である警察、検察、裁判所、それに政権の息のかかったNHKや民間のメディアも含まれよう。

            これら国民にとっての「障壁」の共通点は、官民問わず何れも「実力組織(=暴力装置)」であるということだ。(「暴力」とは一方的に物理的、精神的ダメージを与え得る状況を指す。)無論政権側としてもそんなことは百も承知故に、この期に及んでもそれら「障壁」をフルに活用してくることは想像に難くない。(具体的にはデモの過剰警備、政治家や官僚の不起訴、政府に有利な判決、報道の忖度などに表れている。)

             

            百歩譲って公務員の場合、公務員法によって「国に逆らえない」のはわかるが、だからと言って国民に対する排除や妨害を「嬉々として行う」メンタリティがもし存在するとすれば、国民主権下の公務員としては大いに問題が有るとしか言いようがなく、本来公務員としての資格がない。せめて前川氏のように「面従腹背」で取り敢えず悪政にも当面従わざるを得ないというのが妥当なところだろう。

            しかしメディア連中に至ってはその限りではなく、国民の声に呼応した良識有る行動を取らない時点で「アウト」であることは言うまでもない。

             

            その意味では公立学校の教職員も同様で、ある意味「実力組織の一員」であることは間違いない。何故なら教育基本法と、それを骨子とした地域ごとの教育振興基本計画に定められた教育を子ども(と親)たちに「強要」する以外の選択肢が基本的に与えられておらず、もしそういった「教育の主旨」自体に誤りがあっても逆らうことは許されていないからだ。(無論「辞職する」ことは可能だが。)

            これは子どもたちの未来を左右する重大な局面であることを思えば、非常に罪深いことだと思う。(事実、戦前戦中は軍国教育が強要された。)

            良きにつけ悪しきにつけ小中学校で行われる教育活動の実態を甘く見てはいけない。(文字通りここで「国の質」が決定されてしまう。)

             

            まもなくすべての価値観が逆転するだろうが、そうなれば公務員もメディアも実力組織へったくれもなくなるはずだ。そうなってから慌てても遅い。(過去は消えない。)

            | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 11:41 | comments(0) | - |
            問題は「警察、検察、裁判所」の恣意的運用?
            0

              この度、自衛隊三佐による小西洋之民進党参議院議員への暴言を通じて、我が国の実力組織(=暴力装置)内部の人間たちが何を使命、役割とわきまえて仕事に服しているのか(の一端が)が明らかにされた。即ち政府(時の政権)を批判、追求する姿勢そのものを「国賊」呼ばわりすることから、彼らの任務の主眼が主権者である国民を守ることではなく、時の政治権力を守ることに置かれているということだ。しかもその詳述を耳にする限り、一時の個人的感情というより、組織の内部でそのように教育され、そうした気風が醸成されている可能性が高い。これは単純に政府に抗う国民を敵と見做し、銃口が向けられる可能性を示唆するものだ。

               

              一方で自衛隊以上に我々国民の日常に深い関わりを有する実力組織(=暴力装置)と言えば、警察、検察、裁判所だが、果たしてここでは「国民主権」が徹底されているかと言えば、おそらくそんなことはなく、むしろ自衛隊以上に(憲法の主旨に反して)政権におもねる姿勢が浮き彫りにされているように感じられる。(政権絡みの疑惑追求に対して腰砕けの印象は否めない。)これは国民の目線で見れば、場合によっては「職務怠慢」と映ることさえある。

               

              昨今は内部告発によって様々な不祥事や不備が明らかにされているが、この肝心の「暴力装置群」からは未だそういう「改革の狼煙(のろし)」が上がってこない。いわば日本で最も意識改革の立ち遅れた部分と言える。やはり「暴力」が横行するコワい体質が災いしてなかなか横槍が入れられないのかと訝しんでしまうが、だとすると余計に始末が悪い。

              だとしても何れは外圧によるトップダウン方式で、こうした実力組織も180度の変革を余儀なくされるに違いない。

              | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:28 | comments(0) | - |
              突き付けられた真実
              0

                今回の公文書改ざん問題、自衛隊PKO日報隠蔽問題などによる国会紛糾によって広く国民の知ることとなった事と言えば、社会を健全且つ円滑に運営していくための社会システムが肝心なところに限って「形骸化」しており、全く機能していないという紛れもない事実であろう。

                 

                それは何も国政レベルに限った話ではなく、国政がそうであるなら県政、市政、町政共にそうと考えざるを得ない。取り分け社会システムの健全性を保つ役割を担うべき司法や検察、警察の偏向や劣化が如実であるとすれば、それは憲法の精神すらも踏みにじられ、社会システムが実質崩壊している事を意味する。(法の番人が機能不全に陥れば当然そうなる。)

                 

                そうなれば世の中では(建前上の)強弁やどうしようもない屁理屈が堂々とまかり通るようになり、実際「何が正しいか」が問題にされるのではなく「(当面)何に(誰に)従属するのが損か得か」という低次元の発想が最大の関心事となることは、火を見るよりも明らかだ。(既に八割方そうなっている。)

                 

                但し「当面」の損得は決して(未来永劫はおろか)一寸先をも保証しない。何故ならその選択は「論理的に間違っている」からだ。論理的に練り考えられた社会システムを「形骸化」させるということは「論理に背く」ことに他ならず、それは滅びの道でしか有り得ない。だから「低次元の発想」と言わざるを得ない。

                 

                故に今更「社会システムをどうこうしましょう」という論議も教育も不毛で意味が無いと断言出来る。何故なら問題は「システムの不備」から発しているのではなく、明らかに「人間性や社会性の欠如」そのものだからだ。(但し愛国心云々には関係ない。)

                強いて言うなら価値観の最上位に「人間性」を持ってくれば良いだけの話だ。そうすれば「人間性の乏しい人間に立派な肩書を与えるような愚」を犯すような事は根絶出来るはずだ。

                 

                そして更に言うなら、今後世の中は必ずそうした方向へ向かう。それは当ブログでも以前より「価値観が180度変わる」と言い続けてきた通りだ。何故なら私たちが「突き付けられた真実」に対する答えはそれしかないからだ。

                | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 08:55 | comments(0) | - |
                常に最大の問題は「自分がどうあるべきか」
                0

                  過去記事でも再三指摘したように、現在の政治体制は内部告発による蟻の百穴によって既にボロボロの状態で崩壊寸前、もはや立て直しは不可能に思われる。今更ながらこうなる事は少なくとも一年以上前から決まっていたと言って良い。(人間はおかしいことをおかしいときちんと感じることで、それが判るようになっている。)

                   

                  しかも今回の政権崩壊は今までのそれとは意味が異なり、一言で表わすなら「日本国システムの崩壊」と言えるほど社会の仕組み全体に大規模な影響を及ぼしかねないものとなるかも知れない。何故なら政権が「しらを切り通し、座にしがみついてしまった」せいで、長きにわたり土中に広く深く根を張っていた「社会の暗部」が掘り起こされ、白日の下に晒されてしまったからだ。

                   

                  こうなってはもう、誰も「元の鞘」には収まれないし、崩壊して消失した後の更地の上に新たに「日本国にふさわしいシステム」を構築していく以外に選択肢はないと思われる。

                  こうした際に重要な事は、私たち一人ひとりにとって従来のような「身の隠し場所」はなく、誰もがありのままの自分の姿を人前に晒すことになろうということだ。

                   

                  つまり今後の社会に於いては「善意と悪意が明瞭に区別される」こととなろうが、実はその兆候は既に始まっている。実際、内部告発出来る立場にある人々は、常にそれをするかしないかの葛藤に責め苛まれ、それ自体が既に「身の置きどころ」を失っている証拠と言える。同様に、あらゆる人が「自分がどうあるべきか」或いは「自分に何が出来るか」といった「身の処し方」を明確に自覚すべき時期に来ていると思う。

                  | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:41 | comments(0) | - |
                  「反社会的」とはどういうことか?
                  0

                    「反社会的」とは文字通り「社会に反する様相」或いは「社会にとって害悪や悪影響をもたらす様相」を呈するという事となり、(人殺しや盗っ人の例を引き合いにするなら)一見解りやすい話と思われます。しかし、事はそう簡単には行かない様です。何故なら、ある事象や考え方に対してそれを「反社会的と見るか否か」は、物事に対する視野の広さや思想レベルの深度によって異なってくるものだからです。

                     

                    例えば「視野」の問題で言えば「家族を守るために他人とぶつかる」などは有りがちなケースと思われますが、これを「反社会的」と非難すべきかどうかは(大方の人にとって見れば)迷うところでしょう。何故なら曲がりなりにもそこに「家族愛」の存在が窺えるからです。「そんなものは無視しろ」と言えば逆に「冷たい」とされるに違い有りません。しかし元々「社会的」とは、可能な限りの大所高所から自身を「客観的に見る」という意味を含んでいますので、そうした意味でやはり「他人とぶつかる事」には問題が有ります。

                     

                    また、社会全体で「何を主要な価値観とするか」という「思想レベル」によっても「反社会的」の意味は異なってきます。例えば「経済第一」と考えるなら、経済発展に水を差す様な意見や言動は「反社会的にして慎むべき」となるでしょうし、仮に「政権の安定が第一」という考え方が為された場合、政権批判そのものが「反社会的」と見做されてもひとつも不思議では有りません。

                    しかしこうした単純化された価値観の掲げ方が危険で有ることは言うまでも有りません。何故なら「経済発展」或いは「安定政権」という見た目の形だけに価値が置かれ、逆に質や中身を正す機会を失する事に成り兼ねないからです。

                     

                    私に言わせれば、今の日本社会は(誰が何と言おうと)「思想の紊乱、道義の廃頽」の極みにあると思われます。その非常に解り易い見本として、まさに現政権と、与党の自民、公明各議員、更に政権の息の掛かった官僚諸氏による常軌を逸した奇想天外な発言や振舞いがあるのだと思っています。

                    聞いているとそうした人々にもそれぞれに言い分が有り、それなりの理屈が有るのは分かりますが、何を言おうとも結局「反社会的」とは「偏狭な視野と思想レベルの低さ」に尽き、それは当ブログにて従来より指摘しているが如く「自己中心主義」の賜物でしかないと言うことです。

                     

                    即ち地域社会に於ける「偏向した家族愛」は自己中心主義であり、「偏向した経済至上主義」もやはり自己中心主義であり、無論「偏向した愛国主義」も自己中心主義に他ならないということです。何故なら、私から見ればそれらは総じて「余りにも他者に冷淡」だからです。

                    つまり「思想の紊乱、道義の廃頽」とは、徹底した「自己中心主義(=非人間性、反社会性)」を指します。よしんば「みんながそうだから」と言って自分もそうなってしまったなら、いったい社会はどこで歯止めが掛かるのでしょうか?(その先にあるものは人間社会の崩壊、壊滅でしかありません。)

                     

                    人間にとって「自己中心主義」は論理的な誤りであることを良く理解すべきです。それに際して「自分だけならいいだろう」といったズルさは禁物です。そのような思想は(本来の目鼻立ちに関係なく)まず醜悪な顔の相となって外見に如実に表れます。(鏡を見て気付かなければ、もう手遅れです。)

                     

                     

                    | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:05 | comments(0) | - |
                    「森友公文書改ざん問題」を受けて
                    0

                      「森友公文書改ざん問題」を受けて、官邸前では連日の様にデモが繰り広げられており、各メディアもそれを無視出来ないという状況が続いています。つまり事態は「一部メディア対政権」「野党対政権」に留まらず、目に見える形を以って「一般市民対政権」の様相を呈してきた訳です。無論そうした動きの根底には「民主主義の崩壊(=国家主義の台頭)」に対する国民の強い危機感、恐怖感、嫌悪感が存在する事は言うまでも有りません。

                       

                      はっきり言って「デモに参加すること」自体は面倒な事とも言えます。何故なら個々の国民はそれを仕事にしている訳でもなく、それぞれに日々の暮らし向きがあるからで、出来ることなら国家の運営や諸問題の解決は、(自分たちよりも優秀なはずの)政治家や役人の仕事と割りきって考えたいところでしょう。(特に同一民族の国家という認識の強い日本では、従来よりその傾向が強い様に思われます。)

                       

                      しかしこれは政権という(警察力をも含む)圧倒的な強権との「対峙」そのものであって、そもそも「対峙」という概念自体が同時に「リスクや面倒を抱え込む」という意味を持っている訳です。にも関わらず(それを百も承知で)「対峙」に踏み切らざるを得ない理由は、ひとえに「物事の優先順位」に有ります。

                      前述の様な「国民の強い危機感、恐怖感、嫌悪感」の先には、これまでにない「非常に大きなリスクや面倒が待ち受けている」という認識がなされているはずです。であるとすればこの際「対峙」という一定のリスク(=小難)を負ってでも「大きなリスク(=大難)」を躱(かわ)したいと思うのは極めて正常で冷静な考え方と言えます。

                       

                      このように「対峙」とは、自らの(側の予想される)リスクを軽減し、物事を少しでも良い方向に向けて行くために必要不可欠な対処の在り方であり、感情的で利己的なケンカとは意図も方法も異なります。つまり以前から申している様に「おかしいものはおかしい」としてそれを安易に見過ごさず、論拠を明確に示し、根気よく是正を求め正常化して行くことこそが「対峙の本質」であり、それはあくまでも「話し合いの延長線上のもの」でなければなりません。(但し、元々は排斥を目的とするものではないにしても、相手の出方次第ではそうした結果に結び付く場合もある事は否めません。)

                      | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:22 | comments(0) | - |
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      262728293031 
                      << August 2018 >>