よく「宗教と科学」などとして、両者を対比させたりしますが、おそらく大半の科学者は「神」を信じています。何故ならこの世のあらゆる物事を(真面目に)探究していくと、すぐに「或る壁」にぶち当たり、同時に「或る思い」が心をよぎるからです。そしてそれがこの世の偽らざる実相であり、この世の真実だということです。(逆に人間が時間を弄して頭でこねくり回す理屈に真実は有りません。)
(科学者を含む)真面目で有能な探究者たちは率直に思います。それは「物事が自然の成り行きだけでこんなに上手く構成され、形作られるハズがない」というものです。取り分け過去に比べれば探究能力が飛躍的に向上した現代では、多くの人たちが正に「科学と神秘の境界線」が崩れ去る感覚を体験することとなるハズです。
これは物理学や自然科学に留まらず、(始めから人為的なものを除く)あらゆる分野の探究に共通することと言えます。(例えば、音の性質に由来する音楽や、色や形状を扱うデザインなど。)
このように人間が直感に従おうとすれば、それは「神」を認める方向性となるに違い有りません。そして元来、人間には「それを拒む理由が無い」というのが正しい理解だと思います。では果たして人間の中で(直感に反し)「神を認めたくない」方向性をもたらす要因があるとすれば、それはいったい何なのでしょうか。
それは一重に「宗教」と呼ばれる組織的社会運動の功罪に他なりません。以前にも記事にしましたが、宗教の意図するところは「社会的影響力を手中に収めるためのマンパワーの結集」にあり、その意味では他の社会的、反社会的なあらゆる「団体、結社」の概念と変わるものではないということです。そうなると当然「認める、認めない」という選択の対象となることも頷けます。
ここで改めて言っておきますが、人間が心の中に「神を認めイメージする」事と「宗教を受け入れる」事とは何の関係も有りません。
神を信じるとは「信仰心」の事であって「謙虚で素直な生き方の裏付けとなる心」の事であり、世に言う「宗教」とは本来、異質で無縁のものです。