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電車に乗ると分かること
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    電車に乗るといったい何が分かるのでしょうか?ハイ、人々の精神的実態、ひいては社会の精神的実態が良く分かります。別にそういうことを見たくて知りたくて乗っている訳では有りませんが、結果的に「嫌でも見せつけられる」ことになってしまうのです。それは何故でしょうか?

     

    それは多くの人々は一歩家の外へ出ると、その間「真っ当な社会人」を演じ続けなければならない現実があるからに他なりません。謂わばその姿は「素(す)の自分ではなく、演技そのもの」と言って良いものです。

    つまり殆どの人たちのメンタルは「真っ当な社会人」と言える代物ではなく、ただ様々な理由から「それを演じる必要性」だけは認識している、ということになります。

     

    どうしてこんな事になってしまったのでしょう?それはそのような「裏表を使い分けるメンタリティ」を容認、或いは推奨する教育を施されて来た結果だと私は思っています。これは戦後日本の「自由主義経済を社会基盤とした弱肉強食的競争原理」に基づく教育の下では、むしろ当然の事と思われます。

     

    そうした社会環境にあって、例えば競争相手(=ライバル)に対して「自分を磨いてくれる良き友」と思うか、それとも「自分の存立を脅かす敵」と思うかは、まったく各人に一任されており、教育的に整合性を以ってコントロールする事は困難です。何故なら人々にとっては、そんなことよりも「競争による勝敗の結果」の方が遥かに深刻に違いないからです。(この状況下での表面的な道徳教育など、人々に余計に混乱をもたらすに違い有りません。)

     

    電車の話に戻しますが、そこは人々にとっては(基本的に)お互いが「何の社会的しがらみも感じなくて済む精神的に開放された空間」と感じられる場であるようです。その意味で多くの人たちは(おそらくは無意識でしょうが、無防備にも)「素顔をさらけ出している」ことが多いのです。そうした顔は少なくとも「職場や所属するグループ内」では有り得ない、どちらかと言えば「家の中での顔」に近いものと思われます。

     

    近年は乗り込むとすぐにスマホや読書に耽る姿を多く見かけますが、問題はその表情や風情がどの人も(良く見ると)「辛そうであったり、苦しげであったり、暗く陰鬱であったり、或いは必死に何かに没頭しようとしていたり」と、人によってニュアンスの違いは多少有っても共通して周囲に対する「無視、無関心、無頓着」という或る種の「排他性」が見て取れます。(その様子からは本来の社会性など微塵も期待出来ません。)

    しかし現実はこのように「裏表のある人々」によって、(かろうじて)社会が支えられているということです。

     

    このような社会を(心の奥底では)誰も望んでいないに違い有りません。それは「演じ続けなければならない」こと自体が道理に合わず苦しいことだからです。にも関わらず何故私たちは演じ続けなければならないのか。それは「社会システム(=経済システム)」自体が私たちに(有ろうことか)「反社会性(=自己中心主義)」を要求するという本質的な「矛盾」が原因です。

    私たちはこの「矛盾」を即刻正さなければなりません。

    | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 11:07 | comments(0) | - |
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