自然環境(=地球環境)とどのように関われるか、またどのように関わりたいかには、その人の「人間性」が表れます。何故なら(昨日の記事にも書いたように)私たち人間を取り巻く自然環境そのものが「霊界の意向」の反映の一部だからです。そこには「誰のための何のための地球環境であるのか」という本質的な命題が隠されています。(それは故意に隠している訳ではなく、ただ自然が「言葉で語らない」というだけの事ですが。)
つまり人間が自然と何らかの関わりを持つ時に、その命題の答えを正しく踏まえているか否かで、関わり方が全く違ってくるということになります。しかも「どう関わるのかは人間の自由意思に委ねられている」と言うのです。それはいったい何を意味しているのでしょう?
昔から私たち人間はありのままの自然環境から様々な収穫物を得たり、また開墾や干拓、埋め立てなど土地そのものに直接手を加えて農地や宅地にするなどして、当たり前の様に自然と深い関わりを持ってきましたが、果たしてそうした関わり方が「霊界の意向」に沿うものであったかどうかと改めて問い直すのであれば、基本的にはそうした利用の在り方に問題は無いとされています。何故なら「自然環境(=資源)は人間が営みのために活用すべきもの」という理解自体は「霊的」にも正しいからです。ただしそこに「分別」が必要であることは言うまでも無く、資源の枯渇や環境の悪化、荒廃を招く様な「無分別な関わり方」で重大なリスクを負うのは人間自身に他なりません。
つまりそこには「自然との共存、共生の心」「自然環境の保全意識」などと共に、自らも「自然とのバランスを配慮した上での節度有る暮らし向きや営み方の感覚」が求められることとなるはずです。
このように「自然環境」との関わりに於いては「私たちは自然によって生かされている」という大前提こそが同時に「どのように関わるべきか」との答えを明示している言っても良いでしょう。つまりそれは「故に大切に思い、大事にして行かなければならない」ということです。
ところでこれとよく似た話は他にもあります。それは私たちと社会、或いは他者との関わりについてです。実は私たちは「自然環境」に限らず、自らを取り巻く「環境」によって支えられて生きているということです。謂わば「社会環境」「対人関係(=人間環境)」などもその一つであって、やはり「それらによって生かされている故に大切に思い、大事にして行かなければならない」ことに変わりは有りません。(もし「そうは思えない」という人は、正しくは「そうは思いたくない」ということではないでしょうか。)
人間性とは「あらゆる環境とどう向き合えるか」という意味合いを持つものと言えます。何故なら「環境」は本来自分で選ぶ事の出来ない部分を指すものだからです。(好き嫌いを言うのは自由ですが。)