この件の詳細についてはテレビなどでも繰り返し報道され、既に多様な記事がネット上にも溢れていると思われますので、ここでは特に説明したりリンクを貼ったりは致しません。(私心を含まない客観的な記事が少ないためもあります。)
プロフィールにもある通り、私も音楽、それも演奏(アンサンブル)を生業としてきた者の一人として、この件に無関心ではいられませんし、そもそも「青少年の健全な育成」を目的とした当サイトでスルーして良い問題とは思えませんので、自分なりの見解を明らかにする必要が有ると思っています。
ところが困ったことに、この件の一報を見て最初に感じたことが(第三者が判断するには)「情報が(余りにも)足りない!」だったのです。
例えば事件の発端とされる「ドラムの子のソロが長すぎて」という状況説明にしても、具体的に「何分何秒」と示してもらわなければ客観的な判断の指針には成り得ませんし、本質的にはコンサート全体、それが無理なら少なくとも問題の「アンコール曲の全体像」を見てみなければ「該当部分の客観的判断は不可能」というのが偽らざる気持ちです。
※ 週刊文春デジタルが有料会員限定で「動画の完全版」を公開しているようですが、そうした報道姿勢は少し残念です。
但し上記は「これは音楽的に(或いはジャズ的に)どうなの?」と問われた場合の話です。そうではなく、単純に「中学生に対する教育的見地、指導的見地としてどうなの?」ということであれば、それは「イジメや万引きをした生徒に鉄拳制裁、体罰はアリか?」という話と同様で、現時点では「社会通念上それはアウト」とされているものと私は認識しています。
つまり要約すれば(客観的に見て)「音楽的是非の判断は出来ない」「教育法、指導法としてはアウト」ということです。
ところで今回の報道を受けて、巷では「中学生が悪い」を基調とした「日野氏擁護論」が多数派となりつつある様ですが、その根拠として(音楽的には)「世界の日野vs金髪中学生」という(凡そ勝負に成り得ないという)対立的構図が有り、そこには「世界の日野を怒らせたんだから、中学生が(音楽的に)よっぽど悪いコトをしたに違いない」という納得の仕方もあろうかと思われます。
しかしそうなると(意識の有無に関わらず)「教育法、指導法」よりも「音楽的見栄え、出来栄え」の方が優先順位として「上位」ということになってしまいますが、それでは常々問題にされる「一般的な成果主義に基づく教師の体罰、暴言」とどこが違うのか判りません。
もしかすると「世界の○○」と付くと許されるといった「権威主義」ということなのでしょうか。
余談では有りますが、この件についてはミュージシャンなど「業界に近い人々」ほど同情的で、また「忖度」も働き、「擁護論」に傾くことが多いと思われます。
しかしそのような中、知り合いの優秀なトランペッターで日野皓正氏と古くから面識を持つ或る人物が語ってくれました。
「ボクは日野さん大好きだけど、(動画を見て)アレ〜って思いました。だって日野さんああいう(コトする)人じゃないもの。」
「すっごく優しい人だから、(ああいうコトは)しない、しない。絶対おかしい。あれ変ですよ。」
この方曰く、「日野さんは昔からとても分別のある人」とのことです。
この話を聞いて「それが今更何故?」というところにこの問題の本質と奥深さがあるように思いました。