以下に今回の一件に関する「リテラ」の記事のリンクを貼って置きますので、ご一読をお勧めします。
記事はこちら→ http://lite-ra.com/2017/09/post-3434.html
この場合の「正論」とは、主観に捕らわれず、目的に対する論理性によって物事の是非を判断しようとする在り方と言って良いと思います。
そうした観点で言えば、ここでの目的は「ジャズ演奏の指導(=音楽教育)を通じて子どもたちの健全な育成を目指す」ということになるはずです。となれば論点は当然、今回の日野氏の指導が先ずは「子どもたちの健全な育成」という観点からどうなのか、ということが最大の焦点となり、百歩譲っても「演奏の出来栄え」がそのことよりも優先されるという事態があってはならないと思います。
それに加えてリテラの文中で引用されている八幡氏の説明にもあるように、ジャズ(の基本的な精神性と重要な構成要素)は<逸脱>と<回復>であって、これは平たく言えば「現場主義」ということとなり、具体的には「現場で何があろうとモアベターな対応で切り抜ける」として、そのために多くのスキルとエネルギーが投入される事で「ジャズをジャズたらしめている」訳ですから、そもそもがクラシカルな「予定調和」の世界と同様に語れるものでは有りません。(但し出来栄えを気にする余り、近年は一見現場主義風な予定調和も数多く見受けられますが、そのような構成物を純粋に「ジャズ」として評価して良いのかどうか、甚だ疑問の残るところではあります。)
ただ、前回の記事でも書いた通り、私自身当日行われた演奏の流れを把握していないので、演奏に関する具体的なコメントが出来ないという立場に変わりは有りませんが、「ジャズ的にモアベターな着地点」を見つけることで「ジャズの指導と健全な育成」を両立させることは少なからず可能だったように思います。