私たちは日頃「見かけ(だけ)で人を判断してはならない」などと自分自身に言い聞かせることによって、相手方や他人に対する誤った見方に陥らないよう、或いは他者をより深く理解するため自らを戒めて来ましたが、これは「人間の内面と外面は必ずしも一致しない」という認識に基づいたものと言え、それはそれで間違いとは言えません。
しかし本当のところ、人間というものは(当人の“隠したい”という意思に反して)程度の差こそあれ、概ね「内面と外面が一致」していると見て間違い有りません。但しそれは詐欺師などの例を取るなら、あくまでも(それと)「判る人には判るが、判らない人には判らない」といったレベルの話であって、「見る目、聞く耳」を持たない限りは判り難い、というのが実情かも知れません。
本来人間は「完全な自己暗示(=別人格の形成)」に成功でもしない限り、如何に小細工を施そうとも内面の重要な要素は(雰囲気や色合いとして)外面に反映するものですし、他力による暗示(=マインドコントロール)の影響下にある場合であっても、これまた「自分のものではない、操られている」というカラーの反映は免れず、やはりそれと識られる事となります。
因みにこれらの話は「読心術」や「テレパシー」など、所謂オカルティックな話には何ら関係なく、ただ「人間とは本来如何なるものか」を識り得る上での延長線上にあるものという認識が正しいと言え、その意味では本来「誰でも出来ること」「誰でも解ること」と言えるのですが、但しそれには一定の条件が必要となります。
それは「人は何故(外見で)人を見誤るのか」ということに関係があります。
「他人を見誤る」その正体は私たち自身が持つ「我欲」或いは「執着」に他なりません。
例えば(詐欺師に限らず)人には「声色(こわいろ)」というものがあり、声色は(単に先天的、生理的な要素だけではなく)その人が日々培ってきた様々なメンタリティが複雑にからみ合って構成される様々な要素によって(波形、周波数、抑揚、速度などが)決定、固定化されたもので、その人格固有のものと言って良いでしょう。であれば当然(猫なで声など)演出上の「自然、不自然」の差異なども含め、声色一つ取ってみても、それを「意識的に完全にコントロールする」など、並大抵のことでは有りません。
それが可能なのは唯一「役者が役になり切る時(=短期集中の完全な自己暗示)」ぐらいと言えますが、もしそれを四六時中行おうとしても、今度はそのために生じるストレスの影響を受けざるを得なくなり、結局は破綻して何れにせよ継続は不可能でしょう。(強いストレス下では、必ずボロが出ます。)
話が長くなりましたが、とどのつまり私たちが(自身の我欲や執着という制約によって)他人を見誤らない(または騙されない)ためには、何より「豊かな人間性」を育むことに尽きると言えます。「豊かな人間性」は「みんなで良くなろう、みんなで良くしよう」という気持ちを持つことで確実に育まれます。