例えばここに人間が二人いて、双方共が「良い人」であったとすれば、その二人が力を合わせて生きていく上に於いて、事前に何か「決めごと」を行なう必要があるでしょうか。(そうは思えません。)これは仮にその場に十人いても同じであって、(瞬時に意思の疎通が可能な範囲であれば)そのパーフェクトな善意の集団(=社会)に於いては、何ら決めごとを設けること無く「公平、平等で幸福な社会」が実現出来るに違いありません。
その際、仮に「リーダー」を設けたり「役割分担」を行なうことがあったとしても、それはどうしてもそのような「社会システム」が不可欠のものだからではなく、単に「より合理的で効率の良いアイデア」を取り入れるという意味に過ぎないでしょう。言うなれば「システム」などと言うものは(社会にとって)二次的、三次的なものであって、そんなことよりも百倍も重要なのが「みんな良い人」であることは疑う余地もありません。
故に本気で「公平、平等で幸福な社会」を目指したいのであれば、いたずらに(政治的、経済的な)主義を並べ立て、社会システムをいじくり回す以前に、「(度重なる思想の紊乱、道義の廃頽の末)失われた人間性の回復」のために全エネルギーを注いだとしても決して間違いではないはずです。
何故なら、現状のままでは「如何なる高尚な主義、主張も悪行のためのツールと化している」状況は変わらないからです。
例えば現状では「民主主義=多数決の乱用、悪用」と化し、「社会主義、共産主義=権力の独占、横暴」と化し、「国家主義、全体主義=国家の私物化」が行われ、「新自由主義、グローバリズム=弱肉強食による富の収奪」でしかなく、結果は何れも「権力者の優遇、庶民の冷遇」でしかありませんが、もし「社会のみんなが良い人」であったなら、仮に「独裁的なシステム」を用いた政治が行われたとしても、むしろ効率的に「公平、平等で幸福な社会」が実現するであろうことは疑う余地もありません。何故なら「独裁者自体もその取り巻きもみんな良い人」なのですから。
「そんなの今更無理だ、不可能だ!」と思う前に、良く考えてみて下さい。今からわずか百年ほど前までは、「金のためなら何でもする」などという人は、日本社会ではごく一部の「はみ出し者」でしかなかったのです。そのような日本古来の「恥の文化」が短期間に急速に失われてしまったとすれば、それは「それを望む何者かによって故意に、そして執拗にマインドコントロールが繰り返し行なわれてきた結果」としか考えられませんし、そもそも人間は(悪に手を染めるよりも)「良い人間」で在り続けることの方が「心地よく感じられる」もので、しかも「好循環」によって楽に生きられるものなのです。(嘘だと思うなら近所の「良い人」に訊いてみて下さい.)
何れにせよ、この世界には「社会に良い人が増えると困る(というとんでもない)人たち」が一部いるようですが、だとしても私の知ったことでは有りません。(そういう人たちは、やがて居場所を失うでしょう。)