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「自由」の概念(自由とは何か)
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    「霊層を上げる」とは、平たく言えば「良い人になる」事であって、それが人間にとって悪い事であるはずもないのですが、しかし何故か人間は進んで「良い人」になろうとしません。それは何故でしょうか?

    それは「良い人になると失うものがある」と考えるからです。失うものとは、他ならぬ「自由」のことです。

    そのため率先して良い人になろうとはせず、多くの人たちは「普通の人」を目指します。

     

    では「普通の人」とはどういうことでしょうか。それは社会に於いて「それでいい」「悪くはない」など、(取り敢えず)「社会適合者としての評価を得ること」を意味します。但しそこには「普遍性」とおぼしきものは存在せず、例えば日本とアメリカと北朝鮮では、それぞれに当然の如く評価の基準自体が異なります。つまり社会の数だけ異なる評価の数が存在すると言うことになり、そこから「普通=迎合」という意味であることが判ります。

     

    「普通の人」のメリットは、目立たない、角が立たない、攻撃されない、排斥されないなど、多々あるとは思いますが、中でも最大の恩恵は「(社会が許容する中での)自由が獲得出来る」ことではないでしょうか。その傾向はおそらく、立場が社会の中枢に近づくほど強くなり、多くの人が競争社会の中で「上を目指す」のも、結局は「より多くの自由」を欲するがためと言えます。

     

    但し(霊的には)この「普通(=迎合)」を目指すことには、致命的なデメリットが有ります。それはその行為、行動があらゆる局面に於いて「自らの(社会的)信条、信念、意思に基づくものではない」というもので、その行動原理は突き詰めれば「個人的な自由の獲得」以外の何ものでもなく、従って「結果に対して無責任」であることは言うまでも有りません。何故なら、誰しも「自らの価値判断」が働かない状態で、自身の行動に責任を負うことなど到底出来ないからです。つまり何が起ころうとも「俺のせいじゃないよ」ということです。

    このような人たちは、最後まで「罪の意識」を持てないまま「組織や国家ぐるみの罪」に加担した挙句、恨み言を言うハメに陥るかも知れません。

     

    このように「普通の人」の目指す自由とは「勝手気まま、好き放題、ヤリたい放題」など、社会の諸々から遮断されたプライベート環境のことなのかも知れませんが、もしそうであるならそうした「自由の獲得」を目的とした「社会的迎合」自体が「反社会的(=利己的)」本質を持つものと言え、それを「普通」と称し、そうした人たちの集まりによって「より良い社会」を築こうということそのものが、論理的に不可能と思えてなりません。(それを如実に表しているのが、学校教育の現場と言えるでしょう。)

     

    翻って本来意味するところの「自由」とは、決して社会と遮断されたプライベート空間に於ける「利己的満足を得る機会」のことではなく、例えば「自由闊達な意見を交わす」「アイデアを自由自在に展開させる」など、少なくとも「利他に対する利己」或いは「統制を逸脱した放縦」を表わす言葉ではないと言うことです。にも関わらず「自由」という言葉が、あたかも前述の様な「(我欲に関わる)自己満足の追求」として用いられるのは、一重に「社会が不幸」であることの証しと思われます。

     

    つまり「自分もみんなも良くなる、良くする」という基本思想と(社会的)目標のもとに、自らの能力を(制約無しに)遺憾なく発揮し得ることが、(理性に統制された)本来の「自由」の意味であって、理性を逸脱して「箍が緩み、ハメを外す」ことは、あくまでも「放縦」に過ぎず、それを敢えて奨励することは「潜在的な反社会性(=人間嫌い)」を助長する結果と成り兼ねません。

    昨今の(一見普通の人たち)による犯罪の凶悪化、取り分けその凶暴性、冷酷性、残忍性などは、そうした傾向が象徴的に表れたものと言えるでしょう。

     

    歴史的にも、自由と放縦が混同されて考えられ、見過ごされるといった様な時代はそうそう無く、増して(消費経済のもと)社会がそれを奨励、鼓舞し喧伝するなど、やはり異常事態としか思えませんし、放縦が人を破壊し、社会を破壊する事は間違い有りません。

    よって自分自身を破壊しないためにも「良い人」を目指すことを強くお勧めします。

    そうでなくとも、何れ「良い人」が普通と見做される時代が来ますので。

    | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 05:41 | comments(0) | - |
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