富岡八幡宮の女性宮司が日本刀で斬り殺されたなどという、ショッキングなニュースが世間を騒がせているが、その予兆はすでに5ヶ月も前の以下の記事にて窺い知る事が出来る。
外部リンク(週刊ダイヤモンド)→ http://diamond.jp/articles/-/134148
何とそこには大きく『瓦解する神社』の文字と『神社本庁「恐怖政治」の実態、地方の大神社で全面戦争も』という見出しが付けられている。(清廉を好む神様がそのような界隈に関われない位の事は理解しましょう。)
また群馬ではパトロール中の警察官が立ち寄り先のコンビニのトイレに実弾入りの拳銃を置き忘れる事件が起き、熊本では県道を走る自衛隊のトラックが道路脇から転落して実弾42万発が散乱したとの事で、こちらは隊員に死者も出ており気の毒とは思うが、こうした事案の一つひとつを何気なく見過ごす訳には行かない。と言うのも、同様の状況で拳銃が自動小銃やライフルに、積荷の小銃弾がミサイルやロケット弾である可能性も有り得るからだ。その意味では沖縄の保育園に落ちたヘリコプターからの落下物の件は、更に深刻と言える。
これらの事件は一見互いに何の関わりも無いように思えるが、実は根っこの部分で繋がっていて、それさえ無ければ「起き得ないこと」と言って良いだろう。
これについては、いみじくもノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロ氏も述べている様に「国家の分断、人々の分断」こそが要因と見て間違いない。
何故なら「分断」とは言い換えれば「エゴイズムに逸(はや)る心」そのものであり、それは「競争社会」によって容易にもたらされるものだからだ。
「神社本庁がエゴイズム?」と違和感をお持ちの方は、ご自分で得心の行くよう調べられたら良いし、私自身は警察官や自衛官、米軍兵士の個々人を決して「エゴイズムの塊」と見ている訳ではない。
ただ今も世界のどこかで(強い圧力を以って)発信され続けている「競争社会への誘(いざな)い」がまたたく間に世界中を覆い尽くし、(政府の繰り出す様々な政策を以って)日本の個々人にまで浸透した結果何が起きるかと言えば、人々がみな「何かに追われる感覚に苛まされる様になる」ということは事実で、そうした精神状態の下では「実際何が起きても不思議ではない」ということだ。そうなれば最早、公務員も民間人も関係なく本来の職責を全うする事など不可能に近いだろう。(総理大臣然り、国税庁長官然り、刑事局長然りだ。)
そのような認識を持てるか否かが誰彼問わず、今後自らの将来を決定付ける事となるでしょう。