例えばビットコインなどの仮想通貨はそもそも「使いやすく安全安心なお金」としての役割がその「本質」であったわけですが、いつの間にか「安く買って高く売るという投機目的」の代物に変質してしまった経緯が有ります。もっともそれを言うなら株式投資自体がそうで、元々は「将来性のある会社を資金面で支援し利益の中から配当金を受け取る」という仕組みのはずが、今やそれとは全く無関係の単なる「株価の上下を利用した投機目的」という変質した認識が一般的でしょう。しかも当たり前の事ですが、建前に示されたような元々の本質こそが「健全な発想」と言え、変質したものは言うまでもなく「不健全」な方向性しか持ち得ません。例えば株式市場ならば「株価操作」、仮想通貨市場であれば「価格操作」は(実際に出来る人出来ない人を別とすれば)誰しもがそうした思いに至ることは事実でしょう。
このように一旦「物事の変質」を許容してしまえば、それらは本質とは全く無関係の限りなく不健全でおぞましいものへと姿を変えてしまうのです。(強いて言えば名称だけが以前のままです。)因みにビットコインを始めとする仮想通貨は現在暴落の最中にあり、株価も常に暴落の不安が付きまとっています。何故でしょうか。それは「不健全さ」故であり、健全であれば有り得ないことに起因しているからです。
社会に於いて変質してしまったものを挙げ連ねれば、実際切りが有りません。まず民主主義や三権分立からしてそう言えるでしょう。選挙に勝ちさえすれば数の暴力や人事権の乱用など何でも有りの様相は実際目に余るものがあります。
メディアにあっては、NHKは政府に都合の悪い事は一切報じない「国家の洗脳装置」と化し、民放全局はもはや企業広告が主体の「ショップチャンネル」でしか有りません。(まるで膨大な量のコマーシャルの合間を縫って僅かな時間に申し訳程度の番組が流れているようにしか思えません。)
こうした本質から逸脱して「名称しか残っていないもの」は、その不健全さ故に消滅する運命にあると言っても良いでしょう。もしそれらが盤石であるというなら「仮想通貨市場」も「株式市場」も共に盤石であって然るべきです。
これからの時代、残れるものは「変質しなかったもの」だけです。