「森友公文書改ざん問題」を受けて、官邸前では連日の様にデモが繰り広げられており、各メディアもそれを無視出来ないという状況が続いています。つまり事態は「一部メディア対政権」「野党対政権」に留まらず、目に見える形を以って「一般市民対政権」の様相を呈してきた訳です。無論そうした動きの根底には「民主主義の崩壊(=国家主義の台頭)」に対する国民の強い危機感、恐怖感、嫌悪感が存在する事は言うまでも有りません。
はっきり言って「デモに参加すること」自体は面倒な事とも言えます。何故なら個々の国民はそれを仕事にしている訳でもなく、それぞれに日々の暮らし向きがあるからで、出来ることなら国家の運営や諸問題の解決は、(自分たちよりも優秀なはずの)政治家や役人の仕事と割りきって考えたいところでしょう。(特に同一民族の国家という認識の強い日本では、従来よりその傾向が強い様に思われます。)
しかしこれは政権という(警察力をも含む)圧倒的な強権との「対峙」そのものであって、そもそも「対峙」という概念自体が同時に「リスクや面倒を抱え込む」という意味を持っている訳です。にも関わらず(それを百も承知で)「対峙」に踏み切らざるを得ない理由は、ひとえに「物事の優先順位」に有ります。
前述の様な「国民の強い危機感、恐怖感、嫌悪感」の先には、これまでにない「非常に大きなリスクや面倒が待ち受けている」という認識がなされているはずです。であるとすればこの際「対峙」という一定のリスク(=小難)を負ってでも「大きなリスク(=大難)」を躱(かわ)したいと思うのは極めて正常で冷静な考え方と言えます。
このように「対峙」とは、自らの(側の予想される)リスクを軽減し、物事を少しでも良い方向に向けて行くために必要不可欠な対処の在り方であり、感情的で利己的なケンカとは意図も方法も異なります。つまり以前から申している様に「おかしいものはおかしい」としてそれを安易に見過ごさず、論拠を明確に示し、根気よく是正を求め正常化して行くことこそが「対峙の本質」であり、それはあくまでも「話し合いの延長線上のもの」でなければなりません。(但し、元々は排斥を目的とするものではないにしても、相手の出方次第ではそうした結果に結び付く場合もある事は否めません。)