世間で名の通った人々の中にも「最近ずいぶん影が薄くなってきた」と感じられる人たちが見受けられる。(そういうことは不思議とテレビ越しにも判るものだ。)しかしそうした場合の「影」とは果たして何を指しているのだろうか?
「影」とは(幻ではない)実体の有るものに対して生ずるという意味で「存在の裏付け」と言えるだろう。つまりそれは「霊的な裏付け」に他ならないのだが、ここでの「裏付け」とは「存在意義」または「役割」という意味でしかない。何故なら人間とは霊界に籍を置く霊魂が、霊的に付与された「役割」を果たす事を目的として肉体と合体した状態を指すものだからだ。
この「役割」には当然、自覚が必要なものもあるが、一方で無自覚の状態で果たされる場合も考えられる。(例えば「子という存在自体が親としての自覚を促す」など。)その意味に於いて「役割」を持たない人間など一人として存在しない事になる。(「人の命の尊さ」は本来それが根拠となっているが、当然教科書には書けず意味不明の説明でお茶を濁している。)
つまり「影が薄くなる」ということは「生きる上で必要とされる絶対的な裏付けが失われつつある状態」ということになる。こうしたことはその人間の(見た目の)精神や肉体のコンディションとは関わりなく、あくまでも「(生きることに対する)霊的な意味付けの継続性」のみが関係するため、その人間が現在社会的重責を担う立場にあろうが、多忙の最中にあろうが無かろうが関係ない。その意味では誰もが必ずしもフェードアウトして行く訳では無いし、良く良く考えれば世の中は「そうでなければ困る」というような仕組みにもなっていないはずだ。
それよりもむしろ重要な事は(本人の自覚の有無はさておき)「あの人は最近影が薄くなった」と感じた側がどのように処すべきかであろう。例えば(形はどうあれ)「実質役目を終えた人間」に対し、今更ながらあれこれ注文を出し、文句の限りを尽くし、徹底的に追い詰める・・・気にはならない。と言うより、実体が希薄となりつつ有るのだからそうする意味が無い、というのが正直なところだ。(冷たいようだがこればかりは如何共し難い。)
だからこそ言える事だが「たとえどのような形であれ、人間はまともに取り合ってもらえる内が花」なのだ。(急に周辺が静かになったらまずは自分の身を案じた方が良いだろう。)