今日のタイトルは敢えて「こんな時代」と言い放つ事で、悲哀を込めた「残念」の意を表しています。また「本当に」という言葉の裏には「知っていたし覚悟もしていたけれど」といったある種の「無念」さが垣間見えます。(「歓迎」の意であればたぶん「このような時代」と表現します。)
では「こんな時代」とは一体どんな時代であって、何が「残念無念」ということなのでしょうか。
それは今後、私たちの社会に於いてどのような展開が予想されるのかという事に関わっています。
例えば私たちは「結果が未知数」であるからこそ、より良い結果を求めて「努力目標」を設定し、物事に本気で打ち込む気持ちになれる訳ですが、そこで(未来でありながらも)「結果は既に決まっている」ということにでもなれば、目標を持つ意味も行なう意味さえも立ちどころに失ってしまいます。
結果が如何に悪いものであったとしても「努力が至らなかったから」というのと「最初からその結果しか無かった」というのでは、全く意味が違います。そして従来私たち人間にとって「結果が未知数でなかった時代」など存在した試しは無く、少なくとも「やればやっただけの成果がある」と信じてこれまで励んで来れたという事だと思います。
ところが少し以前から社会の様相は一変しました。その理由は「霊界」主導のもとに世の中に地球規模の大きな変革が起こりつつある事に拠りますが、それは霊的価値基準による明確な「仕分け」をも含みます。
その事については当ブログでも以前から「手遅れにならないように」との思いで事有る毎に警鐘を鳴らし続けて来た訳ですが、永遠にその状態が続けられるはずも無く、やがてタイムアップとなるのは必定で「実際そうなってしまった」ものと考えて良いでしょう。(社会に於ける基本思想の「二分化」がそれを裏付けています。)
「二分化」が固定化されてしまうと、それはまるで人と人との間に物理的に設けられた深い溝のようなものとなるでしょう。
私たちは利他の精神のもとに、目の前で困っていたり苦しんでいたりする人がいれば手を差し伸べ、抱き起こし、肩を貸して共に歩むことがいつでも可能とする中で社会と自分との関わりを考え、問い続けて来ましたが、もし「二分化」が決定的なものとなれば溝の向こうで相手がどんなにもがき苦しんでいても、それを「手をこまねいて見ている」しかなくなるという事態に陥ります。しかしそうであっても私たちに「その場を離れる」という選択肢は有りません。多分1%にも満たない可能性に賭けてその場に居続ける事となるでしょう。
もし1%を2%に、2%を3%にしたいというのであれば、私たちに出来ることは「ひたすら自らの人間力(=人間性)をアップさせておくこと」でしか有りません。何故なら「二分化」によって生じた溝とは、物理的なものではないからです。
無論、それにも自ずと限界は有りますが、しかし今出来ることはそれが全てであれば「当然そうするべき」です。