日本人は昔から「言い訳」が嫌いな様です。「見苦しい=美的でない」ということでしょうか。しかし欧米的合理主義から見れば、結果に対して原因や経過を知る上での「何がどうしてどうなった」という関係者からの説明は必要とされるはずです。日本人の場合、それが必要とされないというのも解せない話なので、おそらく「問答無用」という意味ではないのだと思います。それではどのように理解すれば良いのでしょうか。
これは単純に「自己弁護をするな」という意味だと思います。つまり自分の担当、関係する事柄に於いて好ましくない結果が生じた場合、何はともあれまず「済みません」「申し訳有りません」だろうという事です。もしその後に他者から経緯について説明を求められた場合にはそれに応じる必要が有りますが、そうした際にも「自らの責任」を認めた上での内容となりますのでいわゆる「見苦しさ、聞き苦しさ」を回避する事が出来ます。またその場合であっても重点が「今後どのように責任を全うするべきか」に置かれる事によって「言い訳」というニュアンスを避けるものとなります。
こうして見ると、日本的な「精神的美学」はフェアと言うよりむしろ、ずいぶんと自分の側に負担が大きい様に思われますが、それは「ずるさ」という、社会にあって人間が非常に陥りやすい「自己中心主義」を戒めるための古人の智慧であろうと思われます。
しかし近年は周囲の人々からしてそのような美学を理解出来ず、責任を痛感し詫びた人間に全てを押し付けようという(逆に)見苦しい風潮さえ見受けられる事も多くなかなか難しいところですが、本来は「潔く責任を認め一身で受けようとする人」に対してその精神を高く評価し、皆でサポートして行こうと考え行うのが人間性であり、社会人の基本であることは間違い有りません。