青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
<< 子どもは生まれつきロジカル(論理)志向だ。 | main | 「イジメ問題」の話 >>
良い人になる自由、悪い人になる自由
0
    今日のタイトル、おかしな事を言っていると思われるかも知れませんが、とても大切なことなのでお話しして置こうと思います。

    一般に「悪い人がいると困る」という考え方は、「ほとんどの人が良い人」なので、それを前提として作られている社会環境を脅かされると困る、という意味だと思います。しかし論理的には「その逆」だって有り得るのです。即ち「ほとんどの人が悪い人」の社会がそれなりにバランスを保たれている中では「良い人は、はなはだ目障りで迷惑な存在」かも知れないのです。

    それ以前に「悪い人ばかりの社会が存続可能か」という問題は確かに在ります。というのは、「悪い=自己中心的」という意味に於いて、社会の中で(利害の対立による)お互いの潰し合いが必ず生じ、共倒れの方向にしか向かえないだろうとしか思えないからです。しかしそれとて「実証」された訳ではないので、本当のところは判りません。もしかすると「みんなが欲望のままに生きる社会」という選択肢が存在するかも知れないのです。

    この問題に対して、私たちは長い間「宗教的倫理観」によって「正否の判定」を下してきたように思います。つまり、それは有無を言わせぬ絶対的な「善悪の定義」として「人格や社会」の定義に対して影響を与え続けているように思います。にも関わらず、社会には常に「一定の割合」で「悪い人」が存在し、近年は増加の一途を辿っている様にも思われます。社会には「絶対的な善悪の定義」が在るのに何故、そんな事が可能なのでしょうか?

    それは私たちの社会が「悪を遮断、制限する機能」を持っていないからです。これはとても重要な事で、しかも甘んじて受け入れなければならない事実です。
    それはちょうど、台風や火山活動、地殻変動などの自然がもたらす災厄を私たちが受け入れ、少しでも災害を減らす研究や努力を重ねて行く事に似ています。しかし、これらの自然現象に対して畏れ慄(おのの)くことはあったとしても、だからといって「天を恨み、憎み、復讐を誓う人」は滅多にいないと思います。(たまにいるようですが。)

    かつて宗教が政治的な力を誇示していた時代に「宗教裁判」「魔女裁判」などに見られる組織的な「弾圧」や「粛清」が行われた時代が有りましたが、それとて建前上は「教義に基づく悪の根絶」で「神の意思」とされていたに違い有りません。つまり社会的に「悪を遮断、制限する機能」を発揮しようとしていた訳ですが、そのような経緯が現在の「政教分離」という考え方を一般的なものとしたきっかけになったのは、想像に難く有りません。つまり、「悪を排除しよう」という考え方は、「もっと恐ろしい悪を招き兼ねない」ということに人々が気付いたのです。

    「悪」というものは「人知れず心に持つもの」ですから、それだけで人が人を罰する訳には行きません。つまりその人が「悪行」を働かなければ社会的に「悪人」とは認められないので、少なくとも論理的にそれを防ぐ手段が無いという意味に於いて、その人には「悪い人になる自由」が認められているということになるのです。
    みなさん、誰でも堂々と「悪い人」になれるのです。安心しましたか?

    最後に、人間には「良い人、悪い人を選ぶ自由がある」という事実の先には何があるかというお話です。

    まず、「悪い人」になれば、いきなり自分の周囲すべてが「敵」になります。「悪仲間が味方」という考えは甘過ぎます。何時裏切られるかは単に時間の問題で、疑心暗鬼に怯える日々でしか有りません。そういう緊張感が好きで、尚且つ「孤立無援」が大好きという人にしか合わない生き方ですが、それとしても幸福には程遠い生き方です。何故なら幸福に必要な「安心や安堵」とは無縁だからです。それでもよければ、さもない物欲のためにその道を選ぶ「自由」はあるということです。お勧めしませんが。

    次に「良い人」になるためには、多くの義務と向き合い、責任を果たさなければなりません。それはすべて、他者と自分を同時に「良くして行くため」のもので、結果は自分の中に「人間的価値、社会的価値」として蓄積されて行きます。また、他者を信頼し尊重するが故、他者からも信頼され尊重されることは必至で、そのため「安心立命」のもと「確信に満ちた人生」を送ることが可能となり、「幸福」に最も近い生き方と言えます。
    また「悪い人」に対する「敵愾心」や「排他思想」を持たないため、結果的に悪影響を最小限に留めることとなります。

    因みに「悪い生き方」が安易に思え、「良い生き方」が難儀と感じるとすれば、それは現状の数的バランスと一定のマインドコントロールによるものと思われます。つまり片付いている部屋と散らかっている部屋のどちらが快適かを考えるのと似たようなことだと思います。それでも片付けるのは嫌ですか?
    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:30 | comments(0) | - |









          1
    2345678
    9101112131415
    16171819202122
    23242526272829
    3031     
    << December 2018 >>