2015.07.19 Sunday
「イジメ問題」の話
相変わらず「イジメ問題」が後を絶たないようです。
この話で私が一番気に入らないのは、学識や見識有る大人たちがこの事を「子どもたちの問題」と認識している点ですが、違います。これは100%大人たちの問題です。何故なら、子どもは何時の時代にも「大人を見習っている」に過ぎないからです。
ですから、良く取り沙汰されるような「対応のまずさ」「連係のまずさ」などに大人の責任が集約されること自体(無意味とは言いませんが)初めから論点がズレています。いや、故意にズラされています。それが証拠に一向に終息の兆しすら見られないではありませんか。このように若芽の様に美しく健全な子どもたちの命が(心無い大人によって)絶たれ、人生が絶望の淵へ追いやられるさまを見るに付け、本当に腹が立ちます。
子どもの世界で「イジメ」と称される対人関係は、大人の世界ではさまざまな呼称で存在しています。
最近では「○○ハラ」という「上から目線の差別意識」が有名ですが、資産や収入格差による優遇や冷遇は当り前、学歴や経歴による優遇、冷遇も当り前、家柄や出生による厚遇、偏見も当り前、多数派による少数派の嫌悪、排斥も当り前、人種、民族間の対立、差別意識も当り前、というように、今や社会のありとあらゆる部分に「差別思想」は蔓延しています。差別が具体性を持つと「支配行動」または「排斥行動」となります。これは子どもの世界でいえば、正に「イジメ行動」そのものです。
しかし、大人の世界では「建前」というものがあります。それは「人権とか自由とか平等とか公平」などのキレイ事として、ルールやマナー、または常識としての「縛り」を持っていますので、「差別意識による排他思想、支配欲などの本音」を思い切り発散したり満喫させる訳には行きません。社会に於いて顕在化しているのは「控えめに発露されたそれらのごく一部」であって、大半の部分は大変に窮屈な思いをしながら人々の内面に鬱屈、鬱積した形で閉じ込められているものと見て間違い有りません。但し、それらは常にスタンバイされた状態なので、思わぬ場面に思わぬ形で表面化することはまま有るでしょう。何せ「ガス抜き」が必要ですから。
大人たちの(自己中心的な)欲求が十分なハケ口が得られないまま鬱屈すると、次第に陰湿な性格を帯びて行きます。このような大人たちの日常的な何気ない所作や言動からは、(よほど演技を重ねない限りは)鬱屈した陰湿な欲求不満の感情が感じ取られるようになります。それは身近な子どもに必ず伝播します。実際の支配的行動の有無に関わらず、あたかも空気感染のように徐々に浸透して行くこととなります。陰湿さもそのままに。
子どもの「陰湿さ」は大人の「陰湿さ」がコピーされたものです。「陰湿さ」とは本来、醸成に時間を要するものなので、子どもが陰湿であることなど有り得ないのです。それだけ見ても、大人が100%関わっている事は一目瞭然だと思います。
ただ、そこには「それを認めたがらない大人たちがいる」というだけの話なのです。
本当にヒドイ話だと思います。
この話で私が一番気に入らないのは、学識や見識有る大人たちがこの事を「子どもたちの問題」と認識している点ですが、違います。これは100%大人たちの問題です。何故なら、子どもは何時の時代にも「大人を見習っている」に過ぎないからです。
ですから、良く取り沙汰されるような「対応のまずさ」「連係のまずさ」などに大人の責任が集約されること自体(無意味とは言いませんが)初めから論点がズレています。いや、故意にズラされています。それが証拠に一向に終息の兆しすら見られないではありませんか。このように若芽の様に美しく健全な子どもたちの命が(心無い大人によって)絶たれ、人生が絶望の淵へ追いやられるさまを見るに付け、本当に腹が立ちます。
子どもの世界で「イジメ」と称される対人関係は、大人の世界ではさまざまな呼称で存在しています。
最近では「○○ハラ」という「上から目線の差別意識」が有名ですが、資産や収入格差による優遇や冷遇は当り前、学歴や経歴による優遇、冷遇も当り前、家柄や出生による厚遇、偏見も当り前、多数派による少数派の嫌悪、排斥も当り前、人種、民族間の対立、差別意識も当り前、というように、今や社会のありとあらゆる部分に「差別思想」は蔓延しています。差別が具体性を持つと「支配行動」または「排斥行動」となります。これは子どもの世界でいえば、正に「イジメ行動」そのものです。
しかし、大人の世界では「建前」というものがあります。それは「人権とか自由とか平等とか公平」などのキレイ事として、ルールやマナー、または常識としての「縛り」を持っていますので、「差別意識による排他思想、支配欲などの本音」を思い切り発散したり満喫させる訳には行きません。社会に於いて顕在化しているのは「控えめに発露されたそれらのごく一部」であって、大半の部分は大変に窮屈な思いをしながら人々の内面に鬱屈、鬱積した形で閉じ込められているものと見て間違い有りません。但し、それらは常にスタンバイされた状態なので、思わぬ場面に思わぬ形で表面化することはまま有るでしょう。何せ「ガス抜き」が必要ですから。
大人たちの(自己中心的な)欲求が十分なハケ口が得られないまま鬱屈すると、次第に陰湿な性格を帯びて行きます。このような大人たちの日常的な何気ない所作や言動からは、(よほど演技を重ねない限りは)鬱屈した陰湿な欲求不満の感情が感じ取られるようになります。それは身近な子どもに必ず伝播します。実際の支配的行動の有無に関わらず、あたかも空気感染のように徐々に浸透して行くこととなります。陰湿さもそのままに。
子どもの「陰湿さ」は大人の「陰湿さ」がコピーされたものです。「陰湿さ」とは本来、醸成に時間を要するものなので、子どもが陰湿であることなど有り得ないのです。それだけ見ても、大人が100%関わっている事は一目瞭然だと思います。
ただ、そこには「それを認めたがらない大人たちがいる」というだけの話なのです。
本当にヒドイ話だと思います。