2015.11.19 Thursday
「悪」を制し得る「善」とは
皆さん、心根の優しい人の「悩み」が常に深く、お人好しな人がいつも「損をする」のは何故だと思いますか?それは「非力」だから。つまり「悪を制するだけの力が全く足りない」からです。これでは「悪」に翻弄されてしまうのは当然です。そしてそのことを意識すれば「苦しみ」が募り、意識しなければひたすら「損ばかりする」ことになります。
このような「気の毒な人たち」の精神はきれいで、紛れもなく「善」であると言えます。それなのに何故、いわば「不幸な境遇」というものを甘受しなければならないのでしょう?これでは神も仏もあったものでは有りません。いえ、そうではなく、これは「力を付けて悪を制するべし」というメッセージなのです。しかし自分なりに「悪いことを考えない」ように努力して、いつも「きれいな心」でいられることを目標にがんばっているはずなのに、それ以上何が足りないというのか俄(にわか)には思い付きません。
「心がきれい」というのは、確かに「周りがみんな善」であれば、何の問題もないでしょうが、それは言うなれば「無菌状態ならOK」という意味にしかならず、取り分け現代社会の特徴とも言える「競争原理に基づく自己本位(=悪)の容認」のもとでは「人との関わり」自体に難儀せざるを得ません。そこには基本的に「取り込まれるか弾き出されるかの二者択一」しか無いと思われるからです。
これは「八方塞(ふさ)がり」の感が有ります。何故なら「心をきれいに保とう」とすれば、他人に悪意を抱く訳には行きませんが、さりとて他人の自己本位を認め、協力や加担をすれば「きれいな心」は保てません。しかし、だからと言って「孤立」してしまえば社会の恩恵は受けられず、他人の反感さえも招き兼ねません。いったいどうすれば良いというのでしょう?(実際イジメに至る経緯の幾つかは、これに通じるものがあると思われます。)
ここで「心がきれい」という状態を分析して見ると、心の中で基本的に「悪を排除している」ことが解ります。方法としては道義的に「良いこと」「悪いこと」を仕分けて「良いことを選択」し、「悪いことはしないし考えない」ということでしょう。これは言葉を換えれば「良いものは解放し悪いものは抑圧する」という方法と言えますが、その前提として「人間の中には必ず善と悪とが存在する」ということが有り、肉体に「防衛本能」が備わっている限り、それは或る意味「正しい」と言えます。
しかし、自分の心の中がそうであれば、それはそのまま他人や社会に対しても「そうだ」ということです。何故なら「内と外で思想を持ち分けることは困難」だからです。そしてこの場合「悪を抑圧する」ということが問題となります。何故なら「忌み嫌われ、抑圧された悪とは敵対関係」と成りがちだからです。このことが他人に対する気持ちとして「嫌いだ。でも嫌う事は悪だ。出來ない。でも嫌いだ。」となって延々と続き、神経を苛ませます。
前述のことから「悪を抑圧する事は論理的な誤り」であることが解ります。ではどうすれば良いのでしょう。簡単なことです。「悪と敵対する」のが良くないのなら、「悪に協力してもらえば良い」のです。次にその方法を示します。
まず、「良いことを心掛けて徳を積みたい」と思うなら、「ひたすら懸命に良い(と信じる)ことを行う」べきです。そしてその際「悪い心や良くない思い」が頭をもたげて来たら、そこでは「懸命に自分の悪に詫び、そして良いことを続けさせてもらえるようお願いする」ことです。特に当初は頻繁にそういうことがあるので、その都度「悪に誠意を以ってお願いする」ことが重要です。そしてそのようにしつつも、決して「良いことを行う気持ちをブレさせない」ことです。
何故「悪に詫びる」「悪にお願いする」必要があるのでしょう?それは「そもそも悪は自分が作り、これまで育ててきたもの」だからです。それなのに自分の都合で一方的に「引導」を渡されて、いったい誰が承服出来るというのでしょう。
それに、「悪」は単なる「悪」でしか無い訳ではなく、本人の重要な「経験値」の一部であることを忘れてはなりません。「悪を排除する」という考え方は、この貴重な経験値をごっそりと失うことを意味し、一方「悪に協力を要請する」ことで、それをすぐさま活用することが出来、この差は実際取り返しが付かないほどに大きいと思われます。
このように「善と悪の正しい関係」とは、本来「悪よりもはるかに大きい善の心」を以って「悪に協力関係を要請」することで、「悪の持つ経験値をも善が活用することで善そのものを成長させる」というものです。因みにこのようにして「善化された悪」は非常に有能で良く働きます。もちろんこれは「心の中」での話ですが、皆さんは「現実の社会」に於いても「これとよく似た改心話」に心当たりをお持ちではないでしょうか。
このような「気の毒な人たち」の精神はきれいで、紛れもなく「善」であると言えます。それなのに何故、いわば「不幸な境遇」というものを甘受しなければならないのでしょう?これでは神も仏もあったものでは有りません。いえ、そうではなく、これは「力を付けて悪を制するべし」というメッセージなのです。しかし自分なりに「悪いことを考えない」ように努力して、いつも「きれいな心」でいられることを目標にがんばっているはずなのに、それ以上何が足りないというのか俄(にわか)には思い付きません。
「心がきれい」というのは、確かに「周りがみんな善」であれば、何の問題もないでしょうが、それは言うなれば「無菌状態ならOK」という意味にしかならず、取り分け現代社会の特徴とも言える「競争原理に基づく自己本位(=悪)の容認」のもとでは「人との関わり」自体に難儀せざるを得ません。そこには基本的に「取り込まれるか弾き出されるかの二者択一」しか無いと思われるからです。
これは「八方塞(ふさ)がり」の感が有ります。何故なら「心をきれいに保とう」とすれば、他人に悪意を抱く訳には行きませんが、さりとて他人の自己本位を認め、協力や加担をすれば「きれいな心」は保てません。しかし、だからと言って「孤立」してしまえば社会の恩恵は受けられず、他人の反感さえも招き兼ねません。いったいどうすれば良いというのでしょう?(実際イジメに至る経緯の幾つかは、これに通じるものがあると思われます。)
ここで「心がきれい」という状態を分析して見ると、心の中で基本的に「悪を排除している」ことが解ります。方法としては道義的に「良いこと」「悪いこと」を仕分けて「良いことを選択」し、「悪いことはしないし考えない」ということでしょう。これは言葉を換えれば「良いものは解放し悪いものは抑圧する」という方法と言えますが、その前提として「人間の中には必ず善と悪とが存在する」ということが有り、肉体に「防衛本能」が備わっている限り、それは或る意味「正しい」と言えます。
しかし、自分の心の中がそうであれば、それはそのまま他人や社会に対しても「そうだ」ということです。何故なら「内と外で思想を持ち分けることは困難」だからです。そしてこの場合「悪を抑圧する」ということが問題となります。何故なら「忌み嫌われ、抑圧された悪とは敵対関係」と成りがちだからです。このことが他人に対する気持ちとして「嫌いだ。でも嫌う事は悪だ。出來ない。でも嫌いだ。」となって延々と続き、神経を苛ませます。
前述のことから「悪を抑圧する事は論理的な誤り」であることが解ります。ではどうすれば良いのでしょう。簡単なことです。「悪と敵対する」のが良くないのなら、「悪に協力してもらえば良い」のです。次にその方法を示します。
まず、「良いことを心掛けて徳を積みたい」と思うなら、「ひたすら懸命に良い(と信じる)ことを行う」べきです。そしてその際「悪い心や良くない思い」が頭をもたげて来たら、そこでは「懸命に自分の悪に詫び、そして良いことを続けさせてもらえるようお願いする」ことです。特に当初は頻繁にそういうことがあるので、その都度「悪に誠意を以ってお願いする」ことが重要です。そしてそのようにしつつも、決して「良いことを行う気持ちをブレさせない」ことです。
何故「悪に詫びる」「悪にお願いする」必要があるのでしょう?それは「そもそも悪は自分が作り、これまで育ててきたもの」だからです。それなのに自分の都合で一方的に「引導」を渡されて、いったい誰が承服出来るというのでしょう。
それに、「悪」は単なる「悪」でしか無い訳ではなく、本人の重要な「経験値」の一部であることを忘れてはなりません。「悪を排除する」という考え方は、この貴重な経験値をごっそりと失うことを意味し、一方「悪に協力を要請する」ことで、それをすぐさま活用することが出来、この差は実際取り返しが付かないほどに大きいと思われます。
このように「善と悪の正しい関係」とは、本来「悪よりもはるかに大きい善の心」を以って「悪に協力関係を要請」することで、「悪の持つ経験値をも善が活用することで善そのものを成長させる」というものです。因みにこのようにして「善化された悪」は非常に有能で良く働きます。もちろんこれは「心の中」での話ですが、皆さんは「現実の社会」に於いても「これとよく似た改心話」に心当たりをお持ちではないでしょうか。