2016.03.08 Tuesday
「正義の戦い」について
「正義の戦い」とは、悪人や悪徳集団と勇ましく刃を交え、これを殲滅、粉砕する事では有りません。そうではなく、「悪に加担しようとする人」の数を減らし、悪を「孤立無縁の用済み状態」にするための策を講じ、実践する事です。
例えばシロアリは「健全な状態の木材」に巣食う事は無く、風通しが悪く「湿気で傷みかけた木材」しかエサに出来ません。悪も全く同じで、「そこにエサが無ければ消滅する」ということです。
つまり「正義の戦い」とは上の例で言えば、「いつも風通しを良くしておく努力」ということになります。
よく正義を標榜する側の人たちの「(悪に対して)強い憤りを覚える」という言葉を耳にしますが、この「憤り」という感情の中身は「怒りと憎しみ」です。そしてそれは「悪人の恰好のエサ」であることを、私たちは片時も忘れてはなりません。一瞬「憤り」を持ったからといって「即座に悪に染まる」とは申しませんが、それが常態化すると「大変危険な状況」に身を晒す事になります。何故ならそれは容易に「殺意」に変わり、「利害に関わる排他思想」へと変貌する時点で最早「立派な悪」としか言い様が無くなるからです。
即ち「悪人に対する憤り(=怒り、憎しみ)」は禁物ということです。何故なら、それは「悪」にエサを提供する事に他ならず、「悪人はそれを待っている」からです。そしてその結果、果てしない「悪の連鎖」を生む事となります。
では、悪人に対して(エサとなる)「憤りを持たない」ためにはどうすれば良いのでしょうか。
それは「自分自身が被害者意識を持たない」事に尽きます。具体的には(相手の悪行に対して)「オレは別に構わないけど・・・」というぐらいの気持ちの余裕が必要ということです。何故かと言うと、人間は物事に於いて「自らの切羽詰まった利害」を意識すると、自己防衛本能に依って必ず「感情的」にならざるを得なくなるからです。そして追い込まれれば追い込まれるほど「なりふり構わなくなる」でしょうが、その時点で「自己中心思想」が働いてしまいます。これはどうしても避けなければなりません。
容易に「他者の横暴や悪行に対する被害者」とならないためには、「自分の中のマージン(=ゆとり)」が決め手となります。例えば仮に「経済的圧迫」を被ったとしても、元々「節約」を旨とした経済感覚であれば、標準的なそれよりも(相対的に)「マージンが有る」事になります。こうしたマージンの持ち方、作り方は経済に限らずあらゆる事に適用可能ですので、総じてアクシデントに対する「冷静な対応」が取りやすくなります。
では、そういう(辛抱や忍従を旨とするような)人は、何があっても涼しい顔をしていられるので、「正義の戦い」に参画する動機も気概も持てないかと言うと、決してそんな事は有りません。
動機と気概は「責任」という二文字に集約されます。または「愛」という一文字に動かされるかも知れません。
つまり、そのような人は常に「自分の利害のため」に動いているのでは無く、「みんなのため」または「相手のため」に動くという事です。それ故(感情に振り回される事無く)「沈着冷静」に「最良の結果」に向かって計画を立て行動出来るという事です。
そのような人たちは、多分(悪人に向かって挑むのでは無く)これから悪人となるかも知れない人たちに向かってこう叫ぶでしょう。
「どうか、大きな悪に心を奪われる事無く、自分の中の小さな悪心と戦ってください!」と。
もし、その思いが通じるならば、この世から「悪」は消滅します。
例えばシロアリは「健全な状態の木材」に巣食う事は無く、風通しが悪く「湿気で傷みかけた木材」しかエサに出来ません。悪も全く同じで、「そこにエサが無ければ消滅する」ということです。
つまり「正義の戦い」とは上の例で言えば、「いつも風通しを良くしておく努力」ということになります。
よく正義を標榜する側の人たちの「(悪に対して)強い憤りを覚える」という言葉を耳にしますが、この「憤り」という感情の中身は「怒りと憎しみ」です。そしてそれは「悪人の恰好のエサ」であることを、私たちは片時も忘れてはなりません。一瞬「憤り」を持ったからといって「即座に悪に染まる」とは申しませんが、それが常態化すると「大変危険な状況」に身を晒す事になります。何故ならそれは容易に「殺意」に変わり、「利害に関わる排他思想」へと変貌する時点で最早「立派な悪」としか言い様が無くなるからです。
即ち「悪人に対する憤り(=怒り、憎しみ)」は禁物ということです。何故なら、それは「悪」にエサを提供する事に他ならず、「悪人はそれを待っている」からです。そしてその結果、果てしない「悪の連鎖」を生む事となります。
では、悪人に対して(エサとなる)「憤りを持たない」ためにはどうすれば良いのでしょうか。
それは「自分自身が被害者意識を持たない」事に尽きます。具体的には(相手の悪行に対して)「オレは別に構わないけど・・・」というぐらいの気持ちの余裕が必要ということです。何故かと言うと、人間は物事に於いて「自らの切羽詰まった利害」を意識すると、自己防衛本能に依って必ず「感情的」にならざるを得なくなるからです。そして追い込まれれば追い込まれるほど「なりふり構わなくなる」でしょうが、その時点で「自己中心思想」が働いてしまいます。これはどうしても避けなければなりません。
容易に「他者の横暴や悪行に対する被害者」とならないためには、「自分の中のマージン(=ゆとり)」が決め手となります。例えば仮に「経済的圧迫」を被ったとしても、元々「節約」を旨とした経済感覚であれば、標準的なそれよりも(相対的に)「マージンが有る」事になります。こうしたマージンの持ち方、作り方は経済に限らずあらゆる事に適用可能ですので、総じてアクシデントに対する「冷静な対応」が取りやすくなります。
では、そういう(辛抱や忍従を旨とするような)人は、何があっても涼しい顔をしていられるので、「正義の戦い」に参画する動機も気概も持てないかと言うと、決してそんな事は有りません。
動機と気概は「責任」という二文字に集約されます。または「愛」という一文字に動かされるかも知れません。
つまり、そのような人は常に「自分の利害のため」に動いているのでは無く、「みんなのため」または「相手のため」に動くという事です。それ故(感情に振り回される事無く)「沈着冷静」に「最良の結果」に向かって計画を立て行動出来るという事です。
そのような人たちは、多分(悪人に向かって挑むのでは無く)これから悪人となるかも知れない人たちに向かってこう叫ぶでしょう。
「どうか、大きな悪に心を奪われる事無く、自分の中の小さな悪心と戦ってください!」と。
もし、その思いが通じるならば、この世から「悪」は消滅します。