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「極論は誤り」という当たり前の話
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    何故人間は「極論」に走りたがるのだろう?その答えは簡単至極で、「中庸」に向けた心の努力を怠るからだ。もっと簡単に言えば「バランスを取ることをめんどくさがる」からだ。つまりそうした「心の怠慢」の結果が「極論」と言うことになる。

     

    例えば「社長一人と社員5人」の職場にケーキや羊羹や細々としたお菓子の差し入れがあったとする。本来であれば、これらのものを6人で均等に分ければ良いだけのことだが、「分けにくい(=めんどくさい)」などの理由で、全員参加のジャンケンで勝った者から好きなものを選んで行くというのは、世間で有りがちな話だと思う。これは言ってみれば「自由競争を前提とした自由主義」ということになり、最初のジャンケンが「全員参加」であることを以って「平等、公平」な方法とされる。

    しかしそもそも人によって「ジャンケンに対する好き嫌い」があることは無視されている。また強気の人間の「俺に勝ったら承知せんぞ」というあからさまなオーラも無視されている。もっと言えば「ジャンケンの強い弱い」も無視されている、というように、建前はどうあれ厳密な意味での「平等、公平」とは言えない。

     

    もうひとつの方法は「社長の一存で分ける、また分けない」という「社員個々の意思に依らない(全体主義的な)」ものだ。これは職場の管理者である社長の裁量に一任する方法で、誰も文句の付けようもない代わりに、見た目の「平等、公平」が担保される保障もなく、単に社長の「価値観」がそれとなく示される結果となろう。であるなら、それは日頃から「社長の覚えめでたくしておく」という動きにつながっていくかも知れない。

     

    このように「自由主義(=競争)」も「全体主義(=独裁)」も、迅速な手段、方法とは言え、「平等、公平」というバランスを目指す上では「論理的に不適当な極論」であり、どちらが良いかと問われるならば「どちらも悪い」と答えざるを得ない程度の違いでしかない。にも関わらず人間はまるで「中庸」という選択肢が最初から無いものであるかの如く、常に「自由か独裁か」のように両極端にしか関心を示そうとしない。

    何故なら「極端な発想」に於いてはエゴの介在する余地があるが、「中庸」にあっては「エゴの介在する余地が無くなる」からに他ならない。

     

    人間とはこのように「どこまでも狡くさもしい存在」である。(少なくとも今までは。)

    | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 10:19 | comments(0) | - |









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