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物事に「白黒付ける」のは誤りだ。
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    そうは言ってもパトカーは「白黒」に塗り分けられ、裁判では「有罪、無罪(=白黒)」の判断が下される。それを思うと、社会に於いて物事に「白黒付ける」のは当たり前ではないかと考える事も出来る。

     

    例えば「我田引水」という言葉があるが、自分の田んぼに川から水を引きたいと思う事は当たり前で、それ自体は何ら悪い事ではない。(むしろ正しい考え方と言えるだろう。)ただ(自分だけではなく)他人も田んぼを持っている場合に限り、そちらの水が足りなくなるという危惧が生じることとなり、そこで初めて「我田引水」という行為が問題視される。しかし、その段階でも別の田んぼの人からの訴えがなかったり、その人が自発的に米作りから撤退してしまったとすれば、(結果的に)この「我田引水」は問題化されない事になる。

    つまり「我田引水」という言葉のイメージとは裏腹に、この行為は白でも黒でもないという事だ。

     

    このように物事に於ける「白黒」とは、あくまでも相手方との間の利害得失に基づく(訴えや非難などの)相手方の具体的な反応、或いは予測される反応によって判断される性格のもので、何れも行為そのものに付帯する価値判断とは言えない。

    それは「法的な規定、基準」に於いても同様で、単に一般的、或いは平均的な「相手方の反応(=困窮、混迷、怒り、悲しみなどのダメージ)」に基づいたものと考えられ、そのうち大多数の同意が得られる様な性格のものが「反社会的行為」として定着するのだと思われる。

    しかしこの「大多数の同意」というものは、文化や生活様式、教育は元より、国家的な「マインドコントロール」によっても変化するものでもあるので、安易に物事に白黒付けようとの動きには、自他共に一層の注意が必要だろう。

     

    故に「裁判」に於いてもそこで「白黒付ける」という考え方で良いはずはなく、あくまでも個々のケースに於ける「(基本的人権に基づく平等公平である)両者の相対的関係」を十分吟味した上での「加算減算方式」の結果で判断されるべきものだと思う。何故なら主体は(行為ではなく)関係性の問題だからだ。

     

    繰り返すが「白黒付けたがる心」こそが「黒」という皮肉な結果もあるのだ。

    | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 11:17 | comments(0) | - |









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