社会構造はすべてシステム化されており、その社会に身を置くすべての人は老若男女を問わず、個々のシステムの何れかの部分(パーツ)と職業的かまたはそれに準じた何らかの利害関係で繋がっているものと考えられます。これは極めて当たり前の構図です。何故なら仮に(社会と繋がる事に)「利得」が一切無く、逆に「損害」しかなかったとしたら、その社会に身を置く意味すらないからです。
ですから社会が成立、存続するためには(その社会を)構成する人々に対する明確な「利得」の提供が不可欠であるのは言うまでも有りません。
ところで健全な社会のシステムは、その中枢から枝葉の如く伸びた末節に至るまで、どの部分での関わりに於いてもすべて「社会全体に対する貢献の一役を担う」という意味を持ち得るものであり、そこに正当な評価が為されると共に正当な対価がもたらされなければなりません。何故なら社会ではその部分での正当性が失われる事により、たちまち不公平や不平等といった深刻な問題が生ずるからです。
この社会に於ける不公平、不平等は多くの場合(権力の乱用等によって)「意図的」に作られます。何故なら、自然発生的な場合にはすぐに是正の方向に向かい、常態化しないはずだからです。
しかし気が付けば私たちの社会は、いつのまにかこの「不公平、不平等」を容認する方向へと向かわされています。その一番の要因は、「それは自由競争による勝敗の結果であり正当なものである」という理屈であって、それを人々に刷り込むために(実生活とは関係の無い)「スポーツなどでの勝負、勝敗」をやたらと喧伝し、勝者を称賛する方法が用いられています。(「オリンピックは参加することに意義がある」はもはや死語です。)
政界や財界に於ける「権力闘争」も、こうした「勝ったもん勝ち?」の如何わしい空気の中で正当化される事は当然ですが、更にはこの(スポーツになぞらえた)勝ち負け自体が始めから(まともな勝負とも言えない)「出来レース」に過ぎないということです。(政財界の二世、三世など何の勝負もしていません。)
つまり「自由競争」と言いながら「出来レース」で勝った事を理由に「勝者、敗者」の差別化を(勝者自らが)容認し、社会の「不公平、不平等をも正当化」してしまうという危機的状況にも関わらず、(スポーツファンであるが故に)この際権力に擦り寄るか(それとも潔く)負けを認めて惨めったらしく生きるかの選択肢しか持てない、というのが「今世の中で起きている事」です。
このようなインチキな社会はまもなく崩壊します。何故なら「中身の無いがらんどう」だからです。その後にみんなでしっかりと身の詰まった社会を再興するとしましょう。