「物」というものは、それが仮に生活する上での必需品であっても、そのもの自体が「無尽蔵」であることが分かっているなら、ただ同然の値段で得ることが出来たとしても何の不思議も有りません。
しかし例えば「金(ゴールド)」のように元々産出量が少なく、供給量が頭打ちと考えられるものでは、その需要に応じた価格設定が為される事は、これまた何の不思議も有りません。また、このように需要と供給の関係に一定の「不変性」があるものでは、価格自体もある程度「固定的」であって然るべきでしょう。
一方で、諸条件により「生産量や産出量(=供給量)」に変動が見込まれるものに於いては、結果的に時々の「需要と供給のバランス」が変化するため、調整の追いつかない部分に於いて「価格変動」が生ずるのも、また自然なことと思われます。
と、ここまで「当たり前の感覚」を以って「当たり前のこと」を書いたつもりです。そして、これにもうひとつの「当たり前」を付け加えるなら、「物の売り買いとは元々等価交換の認識のもとでの物々交換の代用として、価値の固定化された通貨を利用することを前提としている」ということだと思います。
そう考えると、私たちの中では「(相対的に)お金の価値が短期間で上がったり下がったり」すること自体が、非常に違和感を覚えずにはいられません。何故ならそれは「需要と供給」に関係の無いところで「物の値段が上がったり下がったり」する事と等しいからです。しかもそれらは私たちと関わりの無いところで勝手に行われているのですから、私たちはある意味「それに振り回される」しか有りません。
例えば村落の中で行われる物の売り買いの形態や概念が、国や諸外国という規模では通用しないとでも言うのでしょうか。そんなことは有りません。売り買いは売り買い、取り引きは取り引き、同じ人間同士の営みに違い有りません。ただ、お互い顔の見える村落の中では悪い考えを持つ人が少なく、広域になるほど、その比率が上がっているだけの事ではないでしょうか。
ただ今になって一つ思うことが有ります。それは私たち人間が「何が当たり前なのか」を、心底骨の髄まで染み込ませるためには、それこそ(歴史的に)何千年も掛けて「異常極まりない世界」を、これでもかと言う程に体験する必要があったのかと言われれば、確かにそうなのかも知れません。
しかし幾ら何でも「もういい」でしょう。今や(一部の完全にイカれた人々を除けば)多くの人々が「当たり前の世界」を切望しています。
その世界では「子どもでも分かる」簡単な仕組みで、物が売り買いされることでしょう。