人間には元々個人的傾向として「好きなものと嫌いなもの」或いは「得意なことと苦手なこと」が有り、それぞれの傾向に対して自分自身がどう向き合うかが非常に重要となりますが、それは目的や目標の持ち方によって異なると言えるでしょう。
特に目的が「人格の形成」であった場合、「好きなものと得意なこと」は放っておいて良いでしょう。そして貴重な時間を費やすなら「嫌いなものや苦手なこと」により注目する必要が有ると思います。
ここで一つの反論があります。それはおそらく「好きなものや得意なこと」こそ伸びしろが期待できるから、そこに打ち込むべき」というものだと思います。もちろんそこにもそれなりの道理は有りますが、その考え方は基本的に信頼出来る「分業システム」の存在と稼働を前提としたものです。つまり「誰かの能力の偏りを別の誰かが補う関係性」を想定しなければ成り立ちません。
そもそも「人格」というものは「偏りを容認出来ない性質」のもので、しかも他人を当てにせず「自己完結を目指す性質」のものですから、必然的に「バランスと安定」をイメージしながら努力することになります。そうなるとどうしても精神的、実務的な双方の面で「アンバランス」の原因となる「苦手意識の克服」に力が注がれることとなり、それによってバランスの良い安定感のある人格、即ち「人格の向上」が実現可能となります。
但し荒業としては確かに「自分の短所を一切気に止めず長所だけをひたすら伸ばす」という方法も存在するのは事実です。しかしその場合も「一定の境地」に達した後は、やはり「短所(=苦手意識)」に戻って克服に着手することになります。
しかし今の時代、このような「人格の向上」を目的としたノウハウの話をいったいどれだけの人たちが必要としているのか、甚だ疑問と言わざるを得ません。
「人格の向上」は霊的に見れば「霊層の向上」ひいては「運命の向上」を意味し、人生に於いてこれほど重要な目的は無いのですが、それを抜きにしてどのように「無難息災」を望めば良いのか、私にはよく解りません。