よく宗教的に「悟り(覚り)」を開くとして、座禅や瞑想、断食や山中での荒行などが挙げられますが、これらは基本的に「独りの環境」が前提となっています。それらの良し悪しについては、この場では敢えて申しませんが、こと「人格形成」に至ってはそのような「単独の場」よりもむしろ、社会に於ける「人との関わり」の中で実践する方が遥かに効率的且つ合理的と考えられます。何故なら、そうした環境の下では自動的に「責任や負担」が目に見える形であらゆる行動に付与されるからです。それらは「人格形成」にとって非常に有効に活用されることになります。
例えば社会生活に於ける「共同作業」や「分担作業」の場を想定して見ると、そこに参加する人々が最初に行なう事は「役割分担の振り分け」に違い有りません。(それが無ければ社会は単なる「烏合の衆」に過ぎないからです。)その際気付くことは、役割にはそれとなく「人気の高いもの、低いもの」「人が好むもの、嫌がるもの」などの評価の違いが有るということです。
その差がどこから来るものかと言えば、一般的には「楽なもの、簡単なもの」が好まれ、反対に「キツいもの、難しいもの」が敬遠されるという図式となっているはずです。つまり普通の人が普通に考えればそうなる、ということです。
実はそこに「人格形成」のツボが隠されています。それは一言で言えば「ことごとく人の嫌がることを選択せよ」となります。つまり自分のベクトル(方向性)を決して「楽で簡単」な方向に向けないということです。
これは(あれこれ捻出され考案された)単なる「難行苦行」とは異質のものです。何故なら、それは必ず「誰かがやらなければならないこと」であり、ただそれを「率先してやっている」に過ぎないからです。
このように「社会性」と一体となって形成されて行くべきものが、本来の「人格」であり「人間性」であるということです。これによる「人間的成長」が著しいことは言うまでも有りません。何故なら「苦はやがて楽と感じられ、困難もやがて簡単に思える」ようになるからです。