例えば「宇宙の創生」や「生命体の誕生」を「偶然のいたずら」として捉える事は(それでもかなり無理は有りますが)不可能とまでは言えないかも知れません。また、そこまでのゴリゴリの唯物論者でなくとも「神や悪魔」を勝手な都合の良いイメージで認識するなどして、実相から大きくかけ離れた世界観を持つことであれば、更に容易(たやす)く出来るはずです。
そしてこれらの話に共通する事と言えば、何れも「霊界」という概念が存在しないか、もし有っても希薄で漠然としたものでしかない、ということです。つまり図らずも「霊界という概念」を忌避するところに人間的自由?(=好き勝手)が許されている感があります。
しかし自由を謳歌することはともかくも、真に私たち(の幸福な人生)にとって必要な事は、本当のこと(=真実、実相)を知ることであり、それに基づく幸福な生き方の正しいイメージを持つことではないでしょうか。そしてその鍵を握るのが「霊界の存在」ときちんと向き合う事に他ならないと思われます。何故なら「霊界と現界」或いは「霊と体」といった異質な要素による「複合構造」は、そこに「明確な意図」が存在しなければ決して存在し得ないものであり、また安定的に維持管理されるはずもないものだからです。
それは私たちが「霊界の存在」を認めた瞬間に、同時に自分たちが「明確な意図に基づく絶対的な管理下」に置かれている存在であることを(嫌が上にも)知るという意味を持ちます。
このことを逆説的に表すなら、もし人間が「好き勝手な振る舞い」をしたいのであれば「決して霊界の存在を認めてはならない」ということになります。ですからそのような人々は必ずと言って良いほど「唯物論者」であるか、或いはその教義が霊界に即しているとは到底言い難い、ほとんど社会運動化した「宗教団体」を標榜しているはずです。
また一見「霊的」であるかのように見えても、その実構造的理解に程遠く「神がかり、霊がかり、透視眼、念力、予言」など、パフォーマンスを売りにするだけの場合もそこに含まれます。何故なら「構造的理解に裏付けされた上質の基本思想」無くしてパフォーマンスのみが突出する事自体が通常起こり得ないことだからです。
「霊界」を受け入れようとする際、中には「自由がない=面白くない」などとすぐに考えてしまう人も少なからずいるかも知れませんが、それは私たちの社会生活とて同じで、憲法や法律、また周囲との決めごとの範囲を逸脱して良い事にはなっていないはずです。また、社会では「それ故護られている」という面も大きく、そこも社会も霊界も変わりません。
せっかくなので私たちはこれを機に「自由とは何か」について、もう一段見識を深めて見ては如何でしょうか。