青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
<< 霊層段階の壁 | main | 「霊層=人格」と思って下さい。 >>
堕ちた霊層を如何にして上げるか
0

    一旦下げてしまった霊層段階は(下向のベクトルが作用するため)更に下げることは簡単ですが、再度上げるとなると(一時的にせよ)そのために「現段階の思想から上位の思想への置き換え」が必要となるため、決して生やさしいことでは有りません。何故ならこの場合の思想とは「無意識の行動を司る本音の部分」を指しているからで、上位の思想と隔絶された(霊層段階という思想的)閉鎖環境に於いて「自発的な思想の置き換え」が為されるためには、その前提として「完全な自己否定」が(動機として)必要となるからです。

     

    当たり前のことですが、人間が自分の考え方、思い方を変え、言葉や行いを改めるということは、「それ以前の自分(の思想)を否定する」という意味を持ちます。その一方で「現在の霊層段階に甘んじている」こと自体が既に「現在の自分(の思想)を肯定している」意味でしか有りませんので、その矛盾が解決されない限り、自力での向上は困難ということです。

     

    ここで一旦話は変わりますが、そもそも社会とは何のためにあるのでしょうか。それはおそらく自給自足の生活を基本と考えた場合、人が集まることで共有、共同部分を設けたり、協力や分担を行なうことで、より効率的で安定的且つ安全、安心な暮らしを求めるがゆえではないかと思われますが、それはあくまでも人が生きることを「物理的な次元」で捉えた場合の話で、実は社会には次元の異なるもう一つの重要な役割が有ります。それは「社会の持つ霊的な役割」であり、これは私たちの知らないところで緻密に構成され、私たちの「霊的向上」に欠かせない重要な役割を果たしています。(それを活用する、しないは人間の自由ですが。)

    何れにせよ、社会には(私たちの良く知る)物理的役割と(私たちのあまり知らない)霊的役割があるということです。

     

    このことを前提として話を戻しますが、人間は一人で閉じ籠っている限り、幾らネットやテレビ、書物などから情報を得て見ても、それらを受け止めるのは自己肯定の元凶とも言える現在の「固定化された基本思想」でしかなく、情報はそこでふるいに掛けられた末、残るものと言えば「自己肯定に必要なもの」でしか有り得ず、「やっぱりそうか!」的に自己肯定をより強める結果にしかなりません。

    つまり「単独で霊層を上げることは、ほぼ不可能に近い」と言え、ここは非常に重要なポイントです。

     

    では閉じ籠りをやめて、日常的に(普通に)社会参加して見ると、どういうことが起きるのでしょうか。

    この段階で感性が鈍化していると、社会に出て人と関わって見ても、余り心境に変化が感じられないということがあるかも知れませんが、それでも世の中はそうそう甘くは有りません。ヘタをすると、いきなりどこからか「ウスノロ」とか「マヌケ」呼ばわりされるハメに合うかも知れませんし、そうかと思えば見るに見かねた人が「大丈夫ですか?」「お手伝いしましょうか?」と向こうから声を掛けてくれるかも知れません。

    そのように社会というものは、私たちにとって(心理的に何らかの)「外的刺激を与えられる場」となっています。

     

    それは「たまたま」「偶然」或いは「確率的」な話のように映るかも知れませんが、実はそうではなく、社会の(霊的)仕組みとして、そうなっているというのが正しい認識と言えます。例えば人間が霊的に受ける外的刺激の要素には「協力」「反対」「妨害」「嫌がらせ」などといった主旨やレベルの異なる「因縁」の存在が有り、その実体は人であったり霊であったり事象であったりと様々ですが、それぞれが霊的に「明確な目的」のもとに存在しています。それらは何れも人間に対して「自力のみでは持ち得ない霊的向上のための動機と意欲をもたらすため」の仕組みとして作用し、個々の人間を対象に個別に配置されたものもあれば、(自然物のように)汎用的な目的に沿ってまんべんなく散りばめられたものもあって、種類も活用法も様々ですが、それらがみな霊的に意図されたものであることは、間違い有りません。

     

    よく「痛い目に合わなければ分からない」などという言い回しが使われますが、逆に言えば「痛い思いをすれば分かる可能性が高い」ということになります。この場合の「痛い目」とは、まさに「外的な刺激、ショック、インパクト」を指し、ある霊層段階に於ける「鉄壁の自己肯定思想に亀裂を生じさせる外的要因」の必要性を言い表した言葉とも受け取れます。

    また「仏の顔も三度」という格言は、一度や二度は「与えられた外的刺激」の意味を履き違えて対応を誤り「(それなり)痛い思い」をしたならば、せめて三度目には(その教訓を生かして)霊的向上を果たせよ。(さもなくば手遅れになるぞ。)という実相を言い当てたものに相違ありません。

     

    私事で恐縮ですが、私自身人生を通してこれまで散々「痛い目」にも合ってきましたので、取り分けこの手の話には(オチも含めて)自信が有ります。余りにも痛い思いをし過ぎて、終いには自分から「痛い思い」をしにわざわざ出向いて行くようになったぐらいです。

     

    結果、解った事は「一度堕ちて這い上がることで、堕ちる前より力が付く」という当たり前のことです。

    ですから堕ちるのも結構。但し絶対に這い上がって下さい!!

     

     

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:28 | comments(0) | - |









         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    31      
    << December 2017 >>