○ 「神様」がこの世のありとあらゆる万物を創造され、運用管理されているという認識を持っておいた方が良いでしょう。
○ この世のありとあらゆる事物事象に対して「全て神様の御業と御心が込められている」という認識が必要でしょう。
○ 取り分け人間はその中でも「神様の最高傑作として神に準ずるものとの位置付けである」という認識が必要でしょう。
○ この世は凡そ「名実共に神に準ずる=神との差を取る=サトリ」のための修行の場であるという認識が必要でしょう。
○ 人間がサトル(=覚る)ために不可欠な要素として「向上と下向の自由」が与えられている真意を理解する必要があるでしょう。
○ 自らと同じく隣人も「神の創造物」と思えることで自ずと「良好な接し方、関わり方」のイメージが見えてくるでしょう。
○ 自らと同じく自然も「神の創造物」と思えることで自ずと「良好な共生の在り方」のイメージが見えてくるでしょう。
※ 基本的には「たったこれだけ」理解した上で日常を送ることが出来れば人間はみるみる霊層段階を駆け上り、少なくとも不満やストレスを抱え込んで生きることから開放されます。(クドいようですが宗教ではないので「神様」で必要充分です。)
※ 正しい信仰を持てる人、持てない人では「本気か半信半疑か」の違いが有るに過ぎませんが、その結果の差は甚大です。
※ 特に(多神教などにおける)神様の「御名(みな)」(固有名詞)などを安易に取り扱わない方が良いでしょう。(因みに当ブログにおいては当初より殊更そうした件に注意を払っております。)要はそうしたことが本当に「必要不可欠」であり、且つそれをする「霊的資格」を有するのか、場合によっては所謂「不敬罪」に問われないとも限りません。
※ その他「人格を向上させ霊層段階を上げるための具体的な方法」については、当ブログの「過去記事」を適宜検索して頂ければ幸いです。
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こうした状況に陥る当事者たちには或る共通点が有って、それは「自分はとてつもなく不幸であり、それは全て他者(ひと)のせいだ」という固定観念に終始苛まされ続けていることであり、これはとどのつまり「神の悪意に拠る我が身の不幸」であって「神に対する猛烈な怒り」を正当化する絶対的根拠となっている。(何故なら「他者」の大元は神だからだ。)
そして更に始末の悪いことには、この当事者たちがこうした鉄壁の固定観念をより強固にすることはあっても、誤りを認めることはほぼ無い。何故ならその瞬間に自らが単に「不誠実で怠惰なろくでなし」に過ぎないことを露呈させてしまうことになるからだ。
実はそういう人間性を打ち忘れた「不誠実で怠惰なろくでなし」の人々がこれまで何とか(曲がりなりにも人間として)生きてこれたのは無論本人の力では無く、協力因縁、反対因縁、妨害因縁、嫌がらせ因縁の各任を背負って内在する数多の「潜在霊」あっての賜物で、因みに思想を悪化させ霊層段階を大きく下げた状態では会話はおろか言葉さえ発することは困難で、到底「人間」としての対面を保つことは不可能であることすらも人々は知らない。(酩酊状態で記憶も無い人が自力でどうして家にたどり着けるのだ?)
これら潜在霊たちは、協力、反対、妨害、嫌がらせ等、各々任の違いは有っても、大局的にはその人間に気付きを与え、進歩向上を促すために設けられたシステムの一部として存在していることに変わりは無く、だとすればもしその役務(えきむ)の一つ一つに毎度の如く悪口雑言を投げかけられ、無視や曲解で何十年も押し通されたら何と思うか。(人間ならば普通は耐えられないだろう。)
無論、霊は人間ではない・・とは言え機械でもないので、その労苦に対しては当然「感謝と報恩の念」を以って応えるべきだろう。
では積年の恨みを晴らさんとして潜在霊たちが独自に反乱を起こすかと言えばそんなことは無いだろうが、或る種のタイムリミットに応じた霊的環境の変化は当然起こり得る。その中の一つとして「潜在霊の逆襲、総攻撃」として映るものがあったとしてもひとつも不思議では無く、ひとたびそういう事態となれば最早逃れる術は無いだろう。
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金融崩壊は忍び寄らず足音を立ててやって来て、既に視認出来る距離まで迫っている。(認めたくない人は見えも聞こえもしないだろう。)
社会は一見渾然一体としている様にも見えるが、その実完全に棲み分けられている。(取り分け人格、品格の部分は顕著だ。)
この世は「何でも有り」ではなく、むしろ「正しい心(と選択)という狭き門」以外は残れない。(良心の呵責に従うべし。)
故に昨今我々が目の当たりにするものは、単に「手遅れ」の実情であったりすることが自ずと多くなる。(個々の時間は有限だ。)
真に社会的な在り方とは「安易な社会への迎合」などではなく「真っ当な社会に必要とされる個の確立」であることを再確認すべし。
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これは「ひき逃げ」という行為自体が、昔と今とで人々の中の認識の仕方が大きく変わってしまったとしか思えず、喩えて言えば昔は「ひき逃げする人が百人に一人」いるかいないかだったのに対して、今は「人を轢いたら十人中八人は(可能ならば)まず逃げる」というぐらい、むしろ「当たり前」と思われているフシが有ります。
よくひき逃げ犯が捕まった時に「パニックになって」「人とは思わなかった(←たぶん嘘)」などといったコメントが報じられますが、そこには「自らの危機的状況」に対する回避行動すなわち「緊急避難、正当防衛」に類する或る種の「正当性」に基づく行動原理すら感じられます。そして困ったことには、それがいわゆる「世相」として広く受け入れられてしまっているようにも感じられます。そうした根底には一体何が在るのでしょうか。
それは社会に蔓延する「自己中心主義」のもたらす当然の結果のように思われます。誰しも自己を中心として行動する限りは、優先されるのは常に「自己の利益、自己防衛」であって、それは当人の中では「極めて正当な判断」に違いなく、だとすればそれが時として「他人に重大な不利益を及ぼす」ことがあったにしても、さほどの罪悪感を感じないのも頷けます。それは「自己中心主義」の恐ろしい側面でもあります。自己中心主義の根底には「他人は利用すべきものであり、利用価値が無くなれば捨て置く」という「反社会性」が内在しており、そこには寒々とした「破滅の論理」しか有りません。「ひき逃げ」は、わかりやすいその一例だということでしょう。
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こうした話を前にすると、人々の反応はおそらく大きく二つに別れると思います。一つは「そんな話聞いてないし、誰もそんな積りでで生きてないし、全体主義じゃあるまいしそもそも生きる目的は自分で決めて良いはずだ。」といった反応ですが、それはそれで或る意味もっともな反応と思われます。何故なら私たちは近年「自由」の旗印の下、謂わば「そのように教育」されてきたからです。
また「なんか宗教っぽくて怪しい・・・」といった懐疑的な反応もこちらに含まれます。
今一つは「確かに戦争や貧困、不正、差別など内外共に社会の安全安心は脅かされ続けており、これで良いとは言えないが、と言って我々が今すぐどうにか出来るとも思えない」などといった所謂「問題意識の共有」だけはある程度出来るが、といって自分の在るべき姿を明確にイメージ出来ている訳でもない、ちょっと「宙ぶらりん」な感覚の反応。
中には「そうだ、これだ!自分の求めている答はこれだったのか!」という反応も無きにしもあらずですが、多分ごく一部と思われます。
このように聞こえ方、受け止め方は人それぞれと思われますが、構わず話を進めます。もし前述の如くあらゆる人間にとっての生きる目的が一律に「理想世界の建設(=より良い世界を作る)」にあるとすれば、自ずと人間一人ひとりはそのために社会の適所に配置された「適材(=コマ)」で有り、社会という全体像から見れば単なる1パーツに過ぎません。
しかもそれは社会という極めて精巧に組まれたシステムを正常に円滑に動作させるために不可欠のパーツなので常に規格通りの安定した動作を求められており、もし暴走や動作不良を起こせばそれは即社会全体にダメージを及ぼす結果となります。
因みに今現在の社会が多くの問題を抱えて機能不全に陥っているとすれば、それは「パーツが悪い」からで、それも一つや二つではなく、余りにもメンテナンスを怠ったせいでいよいよ「パーツの総取っ換え」が必要となっただけのことです。(間もなく「管理者」によって為されるでしょう。)
人間が自らを「パーツ」であると認識することは、社会的な義務と責任を果たす上で極めて重要です。
もちろん「総理大臣」というパーツもあれば「庶民」というパーツもありますが、パーツである限りその価値はどちらも「同じ」です。
また「無能な総理大臣」であれば即刻置き換えられ「有能な庶民」ならば末永く重用されるのは当然です。
人間というパーツと機械のパーツの大きな違いは、人間というパーツが「自分自身で如何様にもレベルアップ可能」な点です。
むしろパーツとしての役割を確実に果たしつつ、同時にパーツそのもののレベルアップ(=進歩向上)を図ることは人間の義務と責任です。
霊界では「進歩向上」こそが価値の全てであり、理想の社会とはこうした価値基準がダイレクトに反映される社会を指します。(少なくともお金や肩書は価値とは見做されません。)
最後に、(言葉の制約の中で)皆様に少しでも霊的真意がお伝え出来れば幸いです。
]]>逆に言えばそれ以外のものを「信仰」と見做すべきでは無く、例えば「宗教」は社会的圧力団体としての側面が大きく、よってその多くが本来「信仰」とは無縁である。
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例えばトレンド(=流行、流行りもの)に群がる人々の姿・・・話題の飲食店に出来る行列や話題の観光地に向かう渋滞の列、「今年のトレンド!」「今や常識!」などの宣伝文句で我先に新製品を買い求める人々など、従来より一般大衆の主に経済活動に於いては個々人の純粋な必要性や好みの枠内で収められているとは言い難いのもまた事実と思われます。
それら一般庶民の購買行動の多くの部分で「稚拙な競争心」や「集団から取り残される恐怖心」など本来のニーズとは無関係の出費が或る種の「煽り」や「価値観の押し付け」により生じているとすれば、それは「不要なモノを買わされることで寄ってたかって経済力を吸い取られている状態」と言えないことも有りません。
しかも(たちの悪いことには)こうした場合、被害者の自覚が皆無どころか、むしろ嬉々としてそういう状況に身を投じているので改めようも有りません。昨今「ホストクラブでの売掛金」がそうした極端な例として問題になりましたが、「本来不要なモノにお金を払う」という構造自体はどこも変わりません。
こうした「吸い取り装置」の代表格と言えば何と言っても「エンタメ・スポーツ・各種興行」「旅行・観光・グルメ」などが思い浮かびますが、ジャンルを問わず「トレンド」に類するものの多くは無用な「強迫観念」を植え付けます。(例えばカラーリングや美容整形、サプリメントなど)いちいち列挙すれば切りが有りませんが、その中で純粋に必要なものとなるとそう多くは無いはずです。
つまり、わざわざ「陰謀論」を持ち出すまでもなく一般大衆に向けた「囲い込み」は昔から普通に行われてきた訳で、その意味に於いては我々庶民が(自己防衛のために)留意すべきことは、昔も今も余り変わりません。ただ「陰謀論」では「吸い取り装置の詳細」と「首謀者及びその目的の詳細」が述べられている様です。
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さて、前年11月2日の記事で申し上げた通り、世間では「反転・逆転」から「露見・露呈・暴露」へと至るクロスフェードの兆候が国内外問わずいよいよ顕著に現れて来た様に思われ、またそうした事象の変化自体が一段とスピードアップされている様にも感じられます。こうした目まぐるしく移り変わる社会情勢の変化の中に於いても自らをしっかりと保ち、より適切に対応して行くためには、(錯綜する情報に翻弄されること無く)物事の「本質」に対する理解を深め、必要なレベルの精神性を確立しておくことが何より重要と思われます。
そのためには様々なアプローチが考えられますが、その一つとして先日来書き綴って参りましたところの「宇宙の法則」に思いを致すことによる(その人なりの)「宇宙観」「世界観」の再構築も有効と思われ、その助力になればということで以下に「宇宙の法則」に関する過去記事のリンクを貼って置きます。(合わせて「サイト内検索」もご活用下さい。)
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一言で表せば「悪魔に付き従い悪行を旨としてきた人々」にとっては大きな変化を余儀無くされるでしょう。取り分け「支配欲、独占欲」など、一族を通じ数百年にわたってそうした夢を追い続けてきた所謂「巨悪」に類する人々も存在すると聞き及びますが、であればあるほど尚更顕著な結果を目の当たりにするのでは無いでしょうか。それは何故か?
何故ならそうした場合(神(=善)という概念には些かの変更も加えられない反面)悪魔(=悪)という概念に於いて「真逆の変更」が生じてしまう為です。つまり簡単に言えば「この人々は漏れなく神?悪魔?に騙されていた」ということになります。
「騙されていた」というと随分人聞きが悪いのですが、もっと正確に言えば「欲に目が眩んで自分の都合の良い様にしか真理が理解出来なかった」ということです。何故なら(「夜の時代に於いては真理が見え難い」ということが多少あったとしても)同じ時代に「そうならなかった人々」も存在するのですから、そこは完全な「自己責任」と言えます。
何れにせよ「人格の完成を目指しつつより良い社会を形成して行く」という人間の「義務と責任」は、昼の時代であろうと夜の時代であろうと何時に変わること無く存在している訳ですからトボケてはいけません。
そもそも霊的には「悪は善に磨きを掛けるためのツールである」とされていることからも、従来人間が如何に身勝手に真理を都合良く解釈してきたのかは明らかで、まもなくそれらの「勘違い」全てが白日の下に曝されることとなるでしょうが、それらは悉く「想定外」であり「想像を絶する結末」ということになります。(以前、ジグソーパズルの喩えを記事にしました。)
]]>何故なら他人と自分とではそもそも「前世が違い過去が違い現在が違い未来(=将来)も違う」からです。
これは仮に「親兄弟」であっても然り、ましてや「縁も由も無い他人」に於いては尚更です。
それ故人間は(社会性の有無とは別の次元で)本来「孤独」であり、その人生は本質的にその人独自の固有なものであるということです。
この各人固有の「前世、過去、現在、未来」(=過現未)は常に一つのサクセスストーリーが描かれ提示されており、少なくとも「霊的」には各人にとってそれが「最も相応しいストーリー(=至福の極致)」であることは疑う余地も有りません。
しかし驚くべきことには「これを不服として努力を怠り、道を踏み外す人々」が跡を絶ちません。何故でしょうか?
それは(まだ見ぬ)自分固有の人生に大いに疑念を抱く一方で、目の前に展開される他人の「華美で優雅な金満生活」或いは「苦労知らずで能天気な楽々人生」など、それら他人の人生の(全貌とは程遠い)ごく一部を切り取ったに過ぎない薄っぺらな情報に心を奪われてしまうからでしょう。
これは或る意味「罠」、と言って悪ければ「試練」だと思って下さい。「自分を信じる」とはそれほど難しい・・ということです。
人間もとより「他人と同じ人生」は有りません。それらはどれも個々人の有する「完全オリジナル人生」だということです。
そうであれば、或る意味「この世で唯一無二の自分だけの人生」にもっと誇りを持って然るべきと思います。
もっともそうした自分の人生を納得の行く形で完遂するためには、そこに多くの学びや助力が必要であることも事実ですし、それらの大部分が「他力」として他人の身を通じてもたらされるというのもまた事実でしょう。
そうして「自分だけのオリジナル人生」でありつつも「自力」の足らざるところを互いに補い合いつつ、相互に「おかげさまで」の精神を基本としながらそれぞれの人生を全うして行くというのが「人間社会の健全な在り方」と思われます。
]]>何故なら人が生涯を通じて体験する各年代にはそれぞれに異なる意味が有るからだ。
故にそれぞれの年代はどれも人生を完結させるために不可欠と言える。
故に本来そこには感謝しか無いはずだ。
だからもし人生を在るべき形で全(まっと)うしたいと願うなら
決して特定の年代に拘(こだわ)ったり
ましてやそれを忌み嫌ったりしてはならないのだ。
これは当たり前のことだが
人が或る年代に達して自らの老いと衰えを意識するならば
それは同時に「実感を以て死を意識する瞬間」でもある。
それ以降は実質余生を送ることとなり
死に向けた適切な心構えの構築と身辺整理に勤しむこととなる。
取り分け円滑な世代交代に向けて思いを致すことは重要で
受け継ぐ者たちに無用な労苦を強いてはならないだろう。
このように各年代に見合った常に誠実で懸命な生き方、向き合い方によってのみ
恐怖や不安、未練や執着、後悔の念など凡そ死に対する悲観的要素は悉く払拭され
一点の曇りも無い晴々とした心持ちを以て「死への旅路」の瞬間を待ち受けることが可能となる。
つまり老いと衰えには「人生を総括するためのヒント」が隠されているということだ。
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この内、我々人間の生き方そのものに最も影響を及ぼしているのが「苦楽一如((くらくいちにょ)」と「生死一如(しょうじいちにょ)」と思われる。何故なら圧倒的に多くの人々は「苦より楽が良い」と思うであろうし「ことさら死を恐れ悲しむ」に違いないからで、社会的にもそれが人間として自然の感覚であると認知されている。
つまり苦楽や生死に関する限り、人間は明らかにそれが「一体(=セット)」であることに「強い抵抗感」を示す傾向があると言わざるを得ないが、少なくとも地球上のあらゆる生物でそのような感覚で苦楽や生死を受け止めているのは人間だけだろう。他の動植物は皆こぞってそれらを甘受し、その結果として「種の保存」や生物界総体としての「地球環境の保全」に大きく貢献し続けている。
つまり宇宙の法則とは(当たり前のことだが)「総体として最高の結果」が生み出せる様にデザインされている訳だから「総体の中の一部である自分」にとっても最高の結果がもたらされることは当然なのだが、「自己中心思想」が介在するとそれが解らない。何故ならそこには「総体、全体、社会」などといった「自分(と身内)」以外を含める概念が存在しないからで、何でも「自分にとって損か得か」の話でしかなければ「苦労は損」「死は大損」となるのも頷ける。
「苦楽一如」である理由は簡単だ。それがなければ心身共に「成長も進歩も望めない」からだ。
「生死一如」である理由は簡単だ。精一杯、力一杯生きた者だけが「心置き無く死に臨める」からだ。
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因みに(自分以外の)他者に対する責任を大きく感じている人々や、確固たる善意の目的意識を持って生きる人々に於いては、上記の様な内容は言われるまでも無く既に準備万端怠り無きことかとも思われますが、一方で「今をできるだけ楽しみたい」「面白可笑しく生きたい」または「今まで何十年これでやってきたから」「たぶん大丈夫」など未だに緊急性の認識が不十分と思われる人々も(世情を見る限り)少なからず存在しているようで、何れにしても「自己責任」ということになるのでしょうか。
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まずは自分の現在位置を識ること。
]]>表題からして「町から病院がなくなったら死ぬ人が減った…医師・和田秀樹が指摘する「日本の高齢者医療」の深すぎる闇 医者いらずのほうが確実に長生きできる」というもので、現代医療との向き合い方に一石を投じるどころか「十石を投じる」ような非常にセンセーショナルな内容となっていると思われます。(関心のある方は以下のリンクをクリック)
https://president.jp/articles/-/76988
私自身は一念発起して以来ほぼ半世紀にわたって医療や薬とは無縁の生活ですが、正直それで困ったことは一度も有りません。ただ、そうしたことを軽々しく他人に吹聴したり勧めたりすることは「医師法、薬事法」などの違反と見做されるため、当ブログではそうしたテーマを殆ど扱って来なかっただけであって、個々の人々の覚醒がそうした理解にまで及んで欲しいという気持ちは昔も今も変わらず持ち続けています。ただ一つ言えることは、霊的には「薬」という概念が人間にもたらされた理由に「人間を弱体化する」という目的が含まれていたということです。しかしそうした目的が完遂され、もはや「必要悪」としての役割を終えた「薬学やそれに付随する形の現代医療」は「医療ビジネス」という誤った概念と共に今後は衰退の一途を辿ることとなるでしょう。
こうした(ブランド力を有する)医療の当事者たちから更なる提言、告発が相次いで為され、この日本に於いても大きな潮流となることを念じて止みません。(霊界では基本的に「外科と歯医者しか残らない」ことが既に決められています。)
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