○ 「神様」がこの世のありとあらゆる万物を創造され、運用管理されているという認識を持っておいた方が良いでしょう。
○ この世のありとあらゆる事物事象に対して「全て神様の御業と御心が込められている」という認識が必要でしょう。
○ 取り分け人間はその中でも「神様の最高傑作として神に準ずるものとの位置付けである」という認識が必要でしょう。
○ この世は凡そ「名実共に神に準ずる=神との差を取る=サトリ」のための修行の場であるという認識が必要でしょう。
○ 人間がサトル(=覚る)ために不可欠な要素として「向上と下向の自由」が与えられている真意を理解する必要があるでしょう。
○ 自らと同じく隣人も「神の創造物」と思えることで自ずと「良好な接し方、関わり方」のイメージが見えてくるでしょう。
○ 自らと同じく自然も「神の創造物」と思えることで自ずと「良好な共生の在り方」のイメージが見えてくるでしょう。
※ 基本的には「たったこれだけ」理解した上で日常を送ることが出来れば人間はみるみる霊層段階を駆け上り、少なくとも不満やストレスを抱え込んで生きることから開放されます。(クドいようですが宗教ではないので「神様」で必要充分です。)
※ 正しい信仰を持てる人、持てない人では「本気か半信半疑か」の違いが有るに過ぎませんが、その結果の差は甚大です。
※ 特に(多神教などにおける)神様の「御名(みな)」(固有名詞)などを安易に取り扱わない方が良いでしょう。(因みに当ブログにおいては当初より殊更そうした件に注意を払っております。)要はそうしたことが本当に「必要不可欠」であり、且つそれをする「霊的資格」を有するのか、場合によっては所謂「不敬罪」に問われないとも限りません。
※ その他「人格を向上させ霊層段階を上げるための具体的な方法」については、当ブログの「過去記事」を適宜検索して頂ければ幸いです。
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こうした状況に陥る当事者たちには或る共通点が有って、それは「自分はとてつもなく不幸であり、それは全て他者(ひと)のせいだ」という固定観念に終始苛まされ続けていることであり、これはとどのつまり「神の悪意に拠る我が身の不幸」であって「神に対する猛烈な怒り」を正当化する絶対的根拠となっている。(何故なら「他者」の大元は神だからだ。)
そして更に始末の悪いことには、この当事者たちがこうした鉄壁の固定観念をより強固にすることはあっても、誤りを認めることはほぼ無い。何故ならその瞬間に自らが単に「不誠実で怠惰なろくでなし」に過ぎないことを露呈させてしまうことになるからだ。
実はそういう人間性を打ち忘れた「不誠実で怠惰なろくでなし」の人々がこれまで何とか(曲がりなりにも人間として)生きてこれたのは無論本人の力では無く、協力因縁、反対因縁、妨害因縁、嫌がらせ因縁の各任を背負って内在する数多の「潜在霊」あっての賜物で、因みに思想を悪化させ霊層段階を大きく下げた状態では会話はおろか言葉さえ発することは困難で、到底「人間」としての対面を保つことは不可能であることすらも人々は知らない。(酩酊状態で記憶も無い人が自力でどうして家にたどり着けるのだ?)
これら潜在霊たちは、協力、反対、妨害、嫌がらせ等、各々任の違いは有っても、大局的にはその人間に気付きを与え、進歩向上を促すために設けられたシステムの一部として存在していることに変わりは無く、だとすればもしその役務(えきむ)の一つ一つに毎度の如く悪口雑言を投げかけられ、無視や曲解で何十年も押し通されたら何と思うか。(人間ならば普通は耐えられないだろう。)
無論、霊は人間ではない・・とは言え機械でもないので、その労苦に対しては当然「感謝と報恩の念」を以って応えるべきだろう。
では積年の恨みを晴らさんとして潜在霊たちが独自に反乱を起こすかと言えばそんなことは無いだろうが、或る種のタイムリミットに応じた霊的環境の変化は当然起こり得る。その中の一つとして「潜在霊の逆襲、総攻撃」として映るものがあったとしてもひとつも不思議では無く、ひとたびそういう事態となれば最早逃れる術は無いだろう。
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金融崩壊は忍び寄らず足音を立ててやって来て、既に視認出来る距離まで迫っている。(認めたくない人は見えも聞こえもしないだろう。)
社会は一見渾然一体としている様にも見えるが、その実完全に棲み分けられている。(取り分け人格、品格の部分は顕著だ。)
この世は「何でも有り」ではなく、むしろ「正しい心(と選択)という狭き門」以外は残れない。(良心の呵責に従うべし。)
故に昨今我々が目の当たりにするものは、単に「手遅れ」の実情であったりすることが自ずと多くなる。(個々の時間は有限だ。)
真に社会的な在り方とは「安易な社会への迎合」などではなく「真っ当な社会に必要とされる個の確立」であることを再確認すべし。
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これは「ひき逃げ」という行為自体が、昔と今とで人々の中の認識の仕方が大きく変わってしまったとしか思えず、喩えて言えば昔は「ひき逃げする人が百人に一人」いるかいないかだったのに対して、今は「人を轢いたら十人中八人は(可能ならば)まず逃げる」というぐらい、むしろ「当たり前」と思われているフシが有ります。
よくひき逃げ犯が捕まった時に「パニックになって」「人とは思わなかった(←たぶん嘘)」などといったコメントが報じられますが、そこには「自らの危機的状況」に対する回避行動すなわち「緊急避難、正当防衛」に類する或る種の「正当性」に基づく行動原理すら感じられます。そして困ったことには、それがいわゆる「世相」として広く受け入れられてしまっているようにも感じられます。そうした根底には一体何が在るのでしょうか。
それは社会に蔓延する「自己中心主義」のもたらす当然の結果のように思われます。誰しも自己を中心として行動する限りは、優先されるのは常に「自己の利益、自己防衛」であって、それは当人の中では「極めて正当な判断」に違いなく、だとすればそれが時として「他人に重大な不利益を及ぼす」ことがあったにしても、さほどの罪悪感を感じないのも頷けます。それは「自己中心主義」の恐ろしい側面でもあります。自己中心主義の根底には「他人は利用すべきものであり、利用価値が無くなれば捨て置く」という「反社会性」が内在しており、そこには寒々とした「破滅の論理」しか有りません。「ひき逃げ」は、わかりやすいその一例だということでしょう。
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こうした話を前にすると、人々の反応はおそらく大きく二つに別れると思います。一つは「そんな話聞いてないし、誰もそんな積りでで生きてないし、全体主義じゃあるまいしそもそも生きる目的は自分で決めて良いはずだ。」といった反応ですが、それはそれで或る意味もっともな反応と思われます。何故なら私たちは近年「自由」の旗印の下、謂わば「そのように教育」されてきたからです。
また「なんか宗教っぽくて怪しい・・・」といった懐疑的な反応もこちらに含まれます。
今一つは「確かに戦争や貧困、不正、差別など内外共に社会の安全安心は脅かされ続けており、これで良いとは言えないが、と言って我々が今すぐどうにか出来るとも思えない」などといった所謂「問題意識の共有」だけはある程度出来るが、といって自分の在るべき姿を明確にイメージ出来ている訳でもない、ちょっと「宙ぶらりん」な感覚の反応。
中には「そうだ、これだ!自分の求めている答はこれだったのか!」という反応も無きにしもあらずですが、多分ごく一部と思われます。
このように聞こえ方、受け止め方は人それぞれと思われますが、構わず話を進めます。もし前述の如くあらゆる人間にとっての生きる目的が一律に「理想世界の建設(=より良い世界を作る)」にあるとすれば、自ずと人間一人ひとりはそのために社会の適所に配置された「適材(=コマ)」で有り、社会という全体像から見れば単なる1パーツに過ぎません。
しかもそれは社会という極めて精巧に組まれたシステムを正常に円滑に動作させるために不可欠のパーツなので常に規格通りの安定した動作を求められており、もし暴走や動作不良を起こせばそれは即社会全体にダメージを及ぼす結果となります。
因みに今現在の社会が多くの問題を抱えて機能不全に陥っているとすれば、それは「パーツが悪い」からで、それも一つや二つではなく、余りにもメンテナンスを怠ったせいでいよいよ「パーツの総取っ換え」が必要となっただけのことです。(間もなく「管理者」によって為されるでしょう。)
人間が自らを「パーツ」であると認識することは、社会的な義務と責任を果たす上で極めて重要です。
もちろん「総理大臣」というパーツもあれば「庶民」というパーツもありますが、パーツである限りその価値はどちらも「同じ」です。
また「無能な総理大臣」であれば即刻置き換えられ「有能な庶民」ならば末永く重用されるのは当然です。
人間というパーツと機械のパーツの大きな違いは、人間というパーツが「自分自身で如何様にもレベルアップ可能」な点です。
むしろパーツとしての役割を確実に果たしつつ、同時にパーツそのもののレベルアップ(=進歩向上)を図ることは人間の義務と責任です。
霊界では「進歩向上」こそが価値の全てであり、理想の社会とはこうした価値基準がダイレクトに反映される社会を指します。(少なくともお金や肩書は価値とは見做されません。)
最後に、(言葉の制約の中で)皆様に少しでも霊的真意がお伝え出来れば幸いです。
]]>逆に言えばそれ以外のものを「信仰」と見做すべきでは無く、例えば「宗教」は社会的圧力団体としての側面が大きく、よってその多くが本来「信仰」とは無縁である。
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例えばトレンド(=流行、流行りもの)に群がる人々の姿・・・話題の飲食店に出来る行列や話題の観光地に向かう渋滞の列、「今年のトレンド!」「今や常識!」などの宣伝文句で我先に新製品を買い求める人々など、従来より一般大衆の主に経済活動に於いては個々人の純粋な必要性や好みの枠内で収められているとは言い難いのもまた事実と思われます。
それら一般庶民の購買行動の多くの部分で「稚拙な競争心」や「集団から取り残される恐怖心」など本来のニーズとは無関係の出費が或る種の「煽り」や「価値観の押し付け」により生じているとすれば、それは「不要なモノを買わされることで寄ってたかって経済力を吸い取られている状態」と言えないことも有りません。
しかも(たちの悪いことには)こうした場合、被害者の自覚が皆無どころか、むしろ嬉々としてそういう状況に身を投じているので改めようも有りません。昨今「ホストクラブでの売掛金」がそうした極端な例として問題になりましたが、「本来不要なモノにお金を払う」という構造自体はどこも変わりません。
こうした「吸い取り装置」の代表格と言えば何と言っても「エンタメ・スポーツ・各種興行」「旅行・観光・グルメ」などが思い浮かびますが、ジャンルを問わず「トレンド」に類するものの多くは無用な「強迫観念」を植え付けます。(例えばカラーリングや美容整形、サプリメントなど)いちいち列挙すれば切りが有りませんが、その中で純粋に必要なものとなるとそう多くは無いはずです。
つまり、わざわざ「陰謀論」を持ち出すまでもなく一般大衆に向けた「囲い込み」は昔から普通に行われてきた訳で、その意味に於いては我々庶民が(自己防衛のために)留意すべきことは、昔も今も余り変わりません。ただ「陰謀論」では「吸い取り装置の詳細」と「首謀者及びその目的の詳細」が述べられている様です。
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さて、前年11月2日の記事で申し上げた通り、世間では「反転・逆転」から「露見・露呈・暴露」へと至るクロスフェードの兆候が国内外問わずいよいよ顕著に現れて来た様に思われ、またそうした事象の変化自体が一段とスピードアップされている様にも感じられます。こうした目まぐるしく移り変わる社会情勢の変化の中に於いても自らをしっかりと保ち、より適切に対応して行くためには、(錯綜する情報に翻弄されること無く)物事の「本質」に対する理解を深め、必要なレベルの精神性を確立しておくことが何より重要と思われます。
そのためには様々なアプローチが考えられますが、その一つとして先日来書き綴って参りましたところの「宇宙の法則」に思いを致すことによる(その人なりの)「宇宙観」「世界観」の再構築も有効と思われ、その助力になればということで以下に「宇宙の法則」に関する過去記事のリンクを貼って置きます。(合わせて「サイト内検索」もご活用下さい。)
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一言で表せば「悪魔に付き従い悪行を旨としてきた人々」にとっては大きな変化を余儀無くされるでしょう。取り分け「支配欲、独占欲」など、一族を通じ数百年にわたってそうした夢を追い続けてきた所謂「巨悪」に類する人々も存在すると聞き及びますが、であればあるほど尚更顕著な結果を目の当たりにするのでは無いでしょうか。それは何故か?
何故ならそうした場合(神(=善)という概念には些かの変更も加えられない反面)悪魔(=悪)という概念に於いて「真逆の変更」が生じてしまう為です。つまり簡単に言えば「この人々は漏れなく神?悪魔?に騙されていた」ということになります。
「騙されていた」というと随分人聞きが悪いのですが、もっと正確に言えば「欲に目が眩んで自分の都合の良い様にしか真理が理解出来なかった」ということです。何故なら(「夜の時代に於いては真理が見え難い」ということが多少あったとしても)同じ時代に「そうならなかった人々」も存在するのですから、そこは完全な「自己責任」と言えます。
何れにせよ「人格の完成を目指しつつより良い社会を形成して行く」という人間の「義務と責任」は、昼の時代であろうと夜の時代であろうと何時に変わること無く存在している訳ですからトボケてはいけません。
そもそも霊的には「悪は善に磨きを掛けるためのツールである」とされていることからも、従来人間が如何に身勝手に真理を都合良く解釈してきたのかは明らかで、まもなくそれらの「勘違い」全てが白日の下に曝されることとなるでしょうが、それらは悉く「想定外」であり「想像を絶する結末」ということになります。(以前、ジグソーパズルの喩えを記事にしました。)
]]>何故なら他人と自分とではそもそも「前世が違い過去が違い現在が違い未来(=将来)も違う」からです。
これは仮に「親兄弟」であっても然り、ましてや「縁も由も無い他人」に於いては尚更です。
それ故人間は(社会性の有無とは別の次元で)本来「孤独」であり、その人生は本質的にその人独自の固有なものであるということです。
この各人固有の「前世、過去、現在、未来」(=過現未)は常に一つのサクセスストーリーが描かれ提示されており、少なくとも「霊的」には各人にとってそれが「最も相応しいストーリー(=至福の極致)」であることは疑う余地も有りません。
しかし驚くべきことには「これを不服として努力を怠り、道を踏み外す人々」が跡を絶ちません。何故でしょうか?
それは(まだ見ぬ)自分固有の人生に大いに疑念を抱く一方で、目の前に展開される他人の「華美で優雅な金満生活」或いは「苦労知らずで能天気な楽々人生」など、それら他人の人生の(全貌とは程遠い)ごく一部を切り取ったに過ぎない薄っぺらな情報に心を奪われてしまうからでしょう。
これは或る意味「罠」、と言って悪ければ「試練」だと思って下さい。「自分を信じる」とはそれほど難しい・・ということです。
人間もとより「他人と同じ人生」は有りません。それらはどれも個々人の有する「完全オリジナル人生」だということです。
そうであれば、或る意味「この世で唯一無二の自分だけの人生」にもっと誇りを持って然るべきと思います。
もっともそうした自分の人生を納得の行く形で完遂するためには、そこに多くの学びや助力が必要であることも事実ですし、それらの大部分が「他力」として他人の身を通じてもたらされるというのもまた事実でしょう。
そうして「自分だけのオリジナル人生」でありつつも「自力」の足らざるところを互いに補い合いつつ、相互に「おかげさまで」の精神を基本としながらそれぞれの人生を全うして行くというのが「人間社会の健全な在り方」と思われます。
]]>何故なら人が生涯を通じて体験する各年代にはそれぞれに異なる意味が有るからだ。
故にそれぞれの年代はどれも人生を完結させるために不可欠と言える。
故に本来そこには感謝しか無いはずだ。
だからもし人生を在るべき形で全(まっと)うしたいと願うなら
決して特定の年代に拘(こだわ)ったり
ましてやそれを忌み嫌ったりしてはならないのだ。
これは当たり前のことだが
人が或る年代に達して自らの老いと衰えを意識するならば
それは同時に「実感を以て死を意識する瞬間」でもある。
それ以降は実質余生を送ることとなり
死に向けた適切な心構えの構築と身辺整理に勤しむこととなる。
取り分け円滑な世代交代に向けて思いを致すことは重要で
受け継ぐ者たちに無用な労苦を強いてはならないだろう。
このように各年代に見合った常に誠実で懸命な生き方、向き合い方によってのみ
恐怖や不安、未練や執着、後悔の念など凡そ死に対する悲観的要素は悉く払拭され
一点の曇りも無い晴々とした心持ちを以て「死への旅路」の瞬間を待ち受けることが可能となる。
つまり老いと衰えには「人生を総括するためのヒント」が隠されているということだ。
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この内、我々人間の生き方そのものに最も影響を及ぼしているのが「苦楽一如((くらくいちにょ)」と「生死一如(しょうじいちにょ)」と思われる。何故なら圧倒的に多くの人々は「苦より楽が良い」と思うであろうし「ことさら死を恐れ悲しむ」に違いないからで、社会的にもそれが人間として自然の感覚であると認知されている。
つまり苦楽や生死に関する限り、人間は明らかにそれが「一体(=セット)」であることに「強い抵抗感」を示す傾向があると言わざるを得ないが、少なくとも地球上のあらゆる生物でそのような感覚で苦楽や生死を受け止めているのは人間だけだろう。他の動植物は皆こぞってそれらを甘受し、その結果として「種の保存」や生物界総体としての「地球環境の保全」に大きく貢献し続けている。
つまり宇宙の法則とは(当たり前のことだが)「総体として最高の結果」が生み出せる様にデザインされている訳だから「総体の中の一部である自分」にとっても最高の結果がもたらされることは当然なのだが、「自己中心思想」が介在するとそれが解らない。何故ならそこには「総体、全体、社会」などといった「自分(と身内)」以外を含める概念が存在しないからで、何でも「自分にとって損か得か」の話でしかなければ「苦労は損」「死は大損」となるのも頷ける。
「苦楽一如」である理由は簡単だ。それがなければ心身共に「成長も進歩も望めない」からだ。
「生死一如」である理由は簡単だ。精一杯、力一杯生きた者だけが「心置き無く死に臨める」からだ。
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因みに(自分以外の)他者に対する責任を大きく感じている人々や、確固たる善意の目的意識を持って生きる人々に於いては、上記の様な内容は言われるまでも無く既に準備万端怠り無きことかとも思われますが、一方で「今をできるだけ楽しみたい」「面白可笑しく生きたい」または「今まで何十年これでやってきたから」「たぶん大丈夫」など未だに緊急性の認識が不十分と思われる人々も(世情を見る限り)少なからず存在しているようで、何れにしても「自己責任」ということになるのでしょうか。
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まずは自分の現在位置を識ること。
]]>表題からして「町から病院がなくなったら死ぬ人が減った…医師・和田秀樹が指摘する「日本の高齢者医療」の深すぎる闇 医者いらずのほうが確実に長生きできる」というもので、現代医療との向き合い方に一石を投じるどころか「十石を投じる」ような非常にセンセーショナルな内容となっていると思われます。(関心のある方は以下のリンクをクリック)
https://president.jp/articles/-/76988
私自身は一念発起して以来ほぼ半世紀にわたって医療や薬とは無縁の生活ですが、正直それで困ったことは一度も有りません。ただ、そうしたことを軽々しく他人に吹聴したり勧めたりすることは「医師法、薬事法」などの違反と見做されるため、当ブログではそうしたテーマを殆ど扱って来なかっただけであって、個々の人々の覚醒がそうした理解にまで及んで欲しいという気持ちは昔も今も変わらず持ち続けています。ただ一つ言えることは、霊的には「薬」という概念が人間にもたらされた理由に「人間を弱体化する」という目的が含まれていたということです。しかしそうした目的が完遂され、もはや「必要悪」としての役割を終えた「薬学やそれに付随する形の現代医療」は「医療ビジネス」という誤った概念と共に今後は衰退の一途を辿ることとなるでしょう。
こうした(ブランド力を有する)医療の当事者たちから更なる提言、告発が相次いで為され、この日本に於いても大きな潮流となることを念じて止みません。(霊界では基本的に「外科と歯医者しか残らない」ことが既に決められています。)
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ところで(歴史に限らず)物事の正しい認識には「霊的素養」が不可欠であることは以前から述べてきた通りだが、その理由を一言で申せば「この世は霊と体とで構成されている」からで、事物、事象に関して「霊的要素」を除外、無視して正しく認識、理解するなど到底不可能と言える。何故ならそれらの「要因」の大部分が「霊的」に根ざしているからだ。(それはちょうど顕微鏡の発明以前に人々に微生物の存在を知らせようとする状況に似ている。)
このように本来人間にとって極々普通の「霊的素養」から非科学的という誤った啓蒙の下、長年顔を背けてきたことの代償は極めて大きく、それらは結果的に自らの現在地や方向性を見失わせ、矮小な我欲に翻弄させられた挙句、運命的に窮地に追い込まれる事例が多発する惨状となっている。如何に我々が「霊的」を無視しようとも、霊的によって規定されている「原因結果の法則(人間の場合は因縁因果、因果応報)」は100%作用している事実に一刻も早く気付くべきと思う。
新たな時代の幕明けに並行する形で、より多くの人々がこうした(昔ながらの)「普通の霊的素養、認識、理解」を心の内面に復活させることが望ましく、また不可欠であると信じて止みません。(そうでないと「まともな死に方」すら出来ないでしょう。)
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これらの持つ意味は他の霊的実相(=システム)と同様非常に奥深いもので、その全容をイメージすること自体困難と思われますが、重要なポイントとして「夜の時代」に於いては敢えて「闇や陰」が設けられていた、と同時に数十年のクロスオーバー期間を経て現在「昼の時代」に於いては「(そこに有ったはずの)闇や陰」がほぼ「消失」してしまった、という二点はしっかり押さえておいた方が良いでしょう。
「昼の時代」「夜の時代」は、それぞれその時代に生きる私たち全ての人間に共通した謂わば「(選択不能な)基本的環境」であって、それらは私たちがそこで「どう生きるか」を決定付ける根幹を為すと言えます。そしてその意味では「昼の時代」よりも「夜の時代」の方が、圧倒的に多くの選択肢が存在することは想像に難く有りません。何故なら「昼の時代」には無い「闇や陰」を無限に利用可能となるからです。(但しその大半は悪事、悪行、欺瞞の類ですが。)
そうした結果、私たちの多くはそれぞれが与えられた環境(=可能性の範疇)に於いて「自らの自由意志」によって「生き方」を決めることになりますが、それとて決して「霊的システム」から逸脱して(本当の意味で)「好き勝手」に生きられている訳では有りません。何故なら人間が生きる際に与えられる自由とは、予め「向上の自由と下向の自由」のみと定められているからです。つまり人間にとって重要なことは「自由意志により向上か下向か決める」ということとされています。
さて、本日のタイトル「今後の世界」ですが、こうした「霊的な仕組み」が解き明かされると共に、嘗て「闇や陰」に惑わされることなくこれまで一貫して自ら「向上」の実績を積み上げてきた人々が余すところなく活躍出来る社会となるでしょう。それは或る意味その役割を終えつつある「闇や陰」に報いることでもあります。
]]>しかしながら「誰かの命が失わなければ村に信号機がつかない」という歴史的背景があるのもまた事実です。
かくなる上は個々の現象に一喜一憂右往左往せずして時節の本流が適切に感じ取れたなら流れにその身を委ねることが最良でしょう。
何れにせよ自らの外的環境とは自らの内的環境が時間差を置いて反映したものに過ぎません。(時間差があるためそれと気付き難いだけです。)故に外的環境を整え物事を好転させるためには、それに先んじてまず内的環境を整えることこそが最も早道と言えます。
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何れにせよ、この流れはまだまだ続きます。(節分までが一区切りとされますので。)
]]>一方で最も強く根深い嫌悪や蔑視の形も同じく「無言(=無視)」である。
それを思うだけで「実体」は形ではなく「心」であると解かりそうなものだが。
「我が身に生ずる結果」とは形を取り繕った結果ではなく「心の結果」と解かりそうなものだが。
そもそも見た目に信頼と蔑視の区別も付かないのだから他人を評価することなど土台無理がある。
つまり他者のことは「良くわからない」が正解なのだ。
但し自分のことは「すべてわかっている」或いは「一応わかっている」でないと甚だまずいことになる。
何故なら己の「実体(=心)」を識り得るのは己だけでなおかつ責任を負えるのも己だけだからだ。
これは己に対して誠実(=とぼけない、ごまかさない、嘘をつかない)である限り必ず解る唯一のものと言える。
つまり人生とは「己の実体」を識り、修復、修正を加えながら心の価値を積み増しさらなる向上を目指す以外にやることなどない。
少なくともそれで周囲と自身に十分な幸福がもたらされるようになっている。
何故なら「システム」がそのように設計されているからだ。
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つまりこの人間個々の「内面の実感(=心柄)」は、そうした「(構造的に存在する)義務と責任」に対する認識度、理解度、受容度が「結果現象」として投影されたものと見て間違い有りません。
ですからいかなる後悔の念も、不満や憤りも、はたまた先行きに対する明確な、或いは漠然とした不安や焦燥も、この「生きる」という屋台骨を支える大黒柱とでも言うべき「義務と責任」を正しく認識し、理解を深め、全面的に受け入れて行く以外には、こうした「心の結果現象」からやがては「形の結果現象」へと至る、いわゆる「構造的な不幸」から脱する術は有りません。
(「義務と責任」のより霊的で具体的な話は過去記事参照のこと。)
ところで今日のタイトル「他人の悪意は他人の責任」ですが、これは文字通り「他人の悪意は自分の責任ではない」ので、その改善や解決は基本的に当人に任せるしかなく、自分に出来ることと言えば「人知れず相手の校正と幸せを願う」こと以外には「極力悪影響を受けない策を講じること」ぐらいしか有りません。ヘタに「やっつけてやる!」などと思うと今度はそれが「自分の悪意」として身に降り掛かって来ます。(=悪意の連鎖))
ちなみに時折「この世には善も悪も無い」的な論調を見かけたりしますが、少なくとも人間である自らの内的世界に於いては「善悪」はれっきとして存在します。それらは単なる漠然たるイメージでは無く、前述の「義務と責任に対する認識、理解、受容の是非」によって常に明確に示され、その結果は心柄や生き方にはっきりと表されることになります。即ち思想には善悪が有り、人間の自由とはそのどちらを選ぶかという「選択の自由」が有るに過ぎず、他の動植物には選択肢すら有りません。(全ては宇宙の保全、地球環境の保全、種族の保全に帰結します。)
2023年は「反転・逆転」が特徴付けられる年となるでしょうが、まずは年初より万人共通の「義務と責任」に思いを致し、その真の意味を理解することで、自分自身の運命の180度好転を目指すべきと思われます。
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○ 薄っぺらな心の人々・・・・・奥深い心の人々
○ 唯物論(主義)者・・・・・唯心論(主義)者
○ 頭で物を考える人々(=合理)・・・・・心で物を感じる人々(=論理)
○ 富と名声に執着する人々・・・・・富と名声を邪魔と感じる人々
○ お金と権力に惹かれる人々・・・・・心の豊かさを大切にする人々
○ 私利私欲を満たすことに奔走する人々・・・・・私利私欲の乏しい人々
○ 自分の都合だけで物事を考える人々・・・・・相手の身になって物事を考える人々
○ (社会的な)バランス感覚の乏しい人々・・・・・(社会的な)バランス感覚の良好な人々
○ 自分や身内と他人を区別する人々・・・・・自分や身内と他人を区別しない人々
○ 愛情と自己執着の区別もつかない人々・・・・・自己執着に乏しく愛情豊かな人々
○ 他者との勝敗に価値を見出す人々・・・・・自己の内面的勝敗のみに価値を見出す人々
○ 己の損益のみを価値判断の基準とする人々・・・・・自然と社会全体の損益を価値判断の基準とする人々
○ 平気で他者を恨み憎しみ嫌悪する人々・・・・・他者を恨み憎しみ嫌悪しないためのあらゆる努力を怠らない人々
・・・等々
無論、列挙した内の「左側」に属する人々とて、社会の中で平素は「戦略的、戦術的」に建前上「体裁」を取り繕ってはいるが、一皮剥けばこういう事だ。但し近年は「光」が強いので以前の様に隠し仰せず、正体を露呈させたまま開き直って往来を闊歩していることも多くなっている。だが残念な事に、こうした人々が例外無く「自己中心」という「自滅の論理」に従って生きていることは相違無く、ならば今年から来年に掛けて起きる「消失、消滅、消去」と「反転、逆転」のクロスフェードの波に呑まれないためにも、いち早く「右側の価値観」へと移行する以外の選択肢は無いと思われる。今現在「右側」の人々は、今暫く「忍従」有るのみ。
]]>そうした謂わば「抗い切れない変化」に際して私たちの為せる事は、唯一「事前に想定して事に備える」ことしか有りません。
どうか「反転・逆転の兆し」を感じ取って物心両面で来たる変化に備えて下さい。
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今年になってから国内、国外共に社会が一層慌ただしさを増しているようですが、これも霊界では既に完了している「人々の二分化」に伴う結果現象が(若干の時間差を以て)現界に反映しているものと受け止めて良いでしょう。それらは当人たちには正に「思いもよらないコト」かも知れませんが間違えてはならないのは、「霊界の決定に対して現界の理屈や合理性は一切通用しない」ということです。(霊界の決定を見透せるのは「心の目(=良心)」でしか有りません。)ですから不幸にもこの「心の目」を曇らせてしまった人々にとっては文字通り(思考力や才能の有無に関わらず)「この世の一寸先は闇!」でしか有りません。現時点では残念ながらそういった人々が圧倒的多数の75%に達していて、(そこから更に「無垢な子ども」の除外や「民族性、地域性」等を考慮すれば)「大人の日本人」ではこの数字が更に多くなるかも知れません。
何れにせよこの数字を見ても判る通り「メジャーなものにはほぼ期待出来ない」ばかりか、むしろ「極力避けた方が無難」ということです。
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「備え有れば憂い無し」「転ばぬ先の杖」
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当ブログでは以前より社会に於いて「価値観の180度転換が起こる」ことを予見し、それに備えるべく心の立て直しを喚起してきた積りでは有ります。(ブログ内検索で「180度」と入力すればこれらの過去記事が抽出されます。)
それは無論「悪いものが良くなる」という意味ですが、元はと言えば「曲がりなりにも良いものが普通に良いとされてきた従来の文化が破壊し尽くされ、悪の論理が堂々と表通りをまかり通る社会の現況」が単に元に戻るという意味合いのもので、それらの変化はおそらく「自然で心地よい不可逆的な心情」として確実に浸透して行くものと思われます。
それは言い換えれば、それほど「悪の論理」は人々の心にとって如何にも居心地が悪く、無理筋で継続不可能な代物であったということです。当たり前です。そんなものは他に地球上はおろか宇宙のどこにも存在するはずの無いものですから。(よって人間は経験値として、これを機に二度と再び「悪の論理」に魅力を覚えることは無くなるでしょう。)
つまり「消失、消滅、消去」は、この地殻変動にも似た「価値観の180度転換」にまつわる周辺で現在起きており、今後もその傾向は増々以って顕著であろうかと思われます。尚、そうした時勢の煽りを受けないためには、自らの思想を高めて霊層段階を少しでも上げておく必要が有るでしょう。(当然ですが「霊的変化」に対して物理的防御はほぼ役に立ちません。)
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ところで今日のテーマは「ここ数年で明らか(=白日の下に晒された)になった世の中の非常識」ですが、その内訳は
○ 政治(司法、立法、行政)の非常識
○ 経済(経済学、経済団体)の非常識
○ 社会(社会学、社会論)の非常識
○ 宗教(宗教概念、宗教団体)の非常識
○ マスメディア(報道、啓発)の非常識
○ 医療、医薬(全般)の非常識
○ 教育(教育学、教育機関)の非常識
○ 科学(全般)の非常識
○ グローバリスト(国際論 ,国際感覚)の非常識
○ スポーツ界の非常識
○ 芸能界の非常識
etc......
などと、あげつらえば際限無く増えていき、いっそのこと「全部非常識」と言ってしまいたいぐらいです。但しこれは世の中を「塊(かたまり)」として見た場合にそうだということで、それぞれの界隈で個人レベルでは数は少ないながらも「常識的な人々」が存在することは認められます。ただ未だ「大勢が非常識」なために、少数の「常識」が日の目を見る(主導権を得る)のはもう少し先の様ですが。
更にここで「霊的考察」を加えるならば、本来「常識」とは世間一般で信じられているような「社会の人々の一定の合意の下の社会通念」のことでは有りません。それは言い換えれば「浅薄な合理主義、ご都合主義」であって、その時々の社会の風潮や人々の質的レベルによって如何様にも変化してしまう、とても「金科玉条」として振りかざして良いものでは有りません。(ヘタをするとそれ自体が争いの種になります。)
霊的には「常識→上識」と認識されます。この「上」とは「宇宙(の法則)」を指しており、信仰の上では当然「神」を意味します。(因みに「信仰」とは「宇宙に対して意思や意図を感じるイメージ」のことで、「宗教」の有無には何ら関係有りませんし無論お金も要りません。)
つまり「常(上)識」とは、(私たちが識り得る範囲での)「宇宙(神)に照らして当たり前と思えること」という意味ですので、そのように見た結果、ここ数年の世の中はまさしくあらゆるシーンで誰も彼もが「今だけカネだけ自分だけ」に代表されるような「如何にも浅ましく見苦しい姿」を奥面も無く平然と晒す様になったということです。いよいよ頭がおかしくなったのでしょうか?それとも既に勝ち誇ったつもりでいるのでしょうか?
何れにせよ、それぞれの「結果」が表れるのはこれからなのですが。
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今回のテーマにおけるこれまでの経過をまとめると、以下の様になります。
(その1)
○ 人間の「幸、不幸」は「徳、不徳」の差引(さっぴき)計算によって決まる。
○ 「幸福」とは主に「心の平穏、清廉」な状態を指し、一般的には「内的要因」と「外的要因」が相まってもたらされる。
○ 「不幸」とは主に「心の不穏、荒廃」を指し、一般的には「内的要因」と「外的要因」が相まってもたらされる。
○ 徳、不徳は自動的に「霊層段階の上下」をもたらす。
○ 「霊層の上向」は「内因、外因」共に「幸福に至る要素」を増大させる。(霊層段階の要所々々に「+要素発動」のチェックポイント有り。)
○ 「霊層の下向」は「内因、外因」共に「不幸に至る要素」を増大させる。(霊層段階の要所々々に「−要素発動」のチェックポイント有り。)
(その2)
○ 私たち人間の本質、本体は霊魂である。
○ 物質界は「霊主体従を以って世界(=宇宙)の完成型とする」ために存在する。
○ 「世界の完成型」は「真、善、美、全(まった)き世界」である。
・ 真(神界)=秩序
・ 善(霊界)=順序
・ 美(現界)=段階
○ 秩序、順序、段階は何れも縦構造である。
(その3)
○ 「秩序」とは、凡そ万物及び万象に「意味」をもたらすところの基本理念であり、信仰の世界では「大御心(おおみこころ)」に相当する。
○ 「順序」とは「秩序を秩序たらしめる為の合力を形成する過程(=予定、計画)」のことである。
○ あらゆる意味に於いて「合力=関係性=因縁」である。
○ 「段階」とは現界に於いて「合力の運用(=霊界の意思、指示)に応えること」である。
(その4)
○ 「秩序」に基づいた「霊界の実行計画」はそもそも「現界(=物理的世界)」で具現化するためのものですある。
○ 人間は生まれながらに(計画完遂に必要な)あらゆる便宜が図られている。(因縁、能力、気質等)
○ 日々の営みから大志、大望の実現まで、人間の行為、行動の全てが「段階」そのものである。
○ 「天与のものに甘んずる」を良しとせず、「自我の求めのままに生きる」を良しとすることは「秩序、順序、段階」を阻害する誤りである。
(その5)
○ 「徳」とは(要約すれば)「万物を抱合する宇宙の発展に寄与(貢献)する」という意味である。(秩序、順序、段階を重んずる心)
○ 「不徳」とは(要約すれば)「万物を抱合する宇宙の発展にいささかも寄与(貢献)しない」という意味である。(秩序、順序、段階を軽んずる心)
○ 「慢心(=反旗を翻す)」も「怠慢(=時間を浪費する)」も共に「不徳」である。
○ 「徳」を大きくするには日常的に「利他の精神」をより豊かにし、「利己的考え」をいっそう自重することである。
例えば「自然科学(=自然の事物、事象を精査し仕組みや意味を理解する)」の観点から見ても、(細胞レベルを含む)あらゆる生物の営み(=本能)は「宇宙の秩序、順序」に合致した「完全な段階」として成り立っていることが解るはずです。彼らは「与えられた運命」に無条件に従っています。何故そんな(人間で言えば)「聖人君子」に匹敵するようなことが出来るのか・・・答は簡単で「自我が存在しない」からです。つまり逆らおうにも「逆らうための回路、機能」が存在しないということです。(そのおかげで私たち人間は何時に変わらない豊かな自然の恩恵に浴することが出来るのですが。)
一方で人間の凄い?ところは、そうした「逆らう機能」が「自我(=個を意識する機能)」として存在していることです。しかしだからと言って「宇宙の秩序、順序、段階」に則した生き方を求められることに関しては、他の生物と何ら変わりは有りません。だとすればこれはハッキリ言って「辛いだけ」ではないでしょうか?「逆らう機能(=自我)」などというものが始めから無ければ「もっとスンナリ生きられる」のではないでしょうか?
人間が他の生物と明らかに異なるのは、「(霊魂が)限りなく向上出来る」という一点に尽きます。つまり以前から何度も申してきたように「向上の自由と下向の自由」が約束されていることで、これは本能に支配されている他の生物では一切有りません。それこそ文字通り「神にもなれる(=霊魂の価値が神界レベルに達する)」とされているのが唯一人間なのです。(その反面、下向すれば動物以下になりますが。)
つまり「自我が有るから神にもなれ、自我が有るから動物以下にもなる」といった、「自我」とは正に「関わり方次第の諸刃の剣」といったところでしょうか。一説に「悟り(覚り)は朝飯前」という言葉も有りますが、ポイントは(宇宙の真意でもある)「霊主体(=自我)従」です。よく「煩悩(=自我)を滅する」などと言いますが、本来「自我」は滅するものでは無く「従える」ものであって、そうすることで(信じられないでしょうが)「自我が霊魂を強力にバックアップサポート」してくれるようになります。(我が敵を愛せよ=自我を愛せよ=但し甘やかすな・・・ということです。) 終わります。
秩序(=宇宙の構成、神の立法)に則した順序(=天与の役割、実行計画)を正しく理解し、順序に則した段階(=具現化、行為、行動)を丹念に丁寧に積み上げていく在り方を「徳」または「善徳行」などと言います。つまり「徳」とは「万物を抱合する宇宙の発展に寄与(貢献)する」という意味ですので、特定の人間社会、人間関係の中で受ける「いい人、親切な人、よく働く人」などといった評価が必ずしも「徳の高さを示す指針」になるとは限りません。むしろ人間社会では「個人的な利害損得」によって他人を見ることが多いので、そうした中では他人(の本当の価値)を見誤るばかりか、自分自身をも見誤ることがしばしば起こります。
一方で「(宇宙でなく)自己を中心とした世界観」に則した「(自己満足を目的とする)思い、思惑、計画、行為、行動」などの在り方の全てを「不徳」と言います。つまり「不徳」とは「万物を抱合する宇宙の発展にいささかも寄与(貢献)しない」という意味に他ならず、何も意識的に「反旗を翻す」ことだけが「不徳」とは限りません。(サボタージュ(=時間の浪費)はれっきとした「不徳」です。)また「不徳」の判りにくい例として、間違った組織や団体に対して(それと気付かず)献身的に尽くしてしまうことなどがあります。(「善行、徳行」を売りにする宗教団体、慈善団体などで顕著ですが、ほとんどは「我欲を克服」していれば見抜けるレベルです。)
これらの話からも解るように、「徳」も「不徳」も同様に本来「何かそのための特別なことをする」という意味合いのものでは無く、その人の基本思想(=無意識)が多分に宇宙的(=利他)か否(=利己)かによって、何をしても「徳」になる人と何をしようと「不徳」にしかならない人に自ずと分かれるということです。無論プラス方向の基本思想であっても(霊層段階相応の)様々なレベルが存在し、ハイレベルであればあるほど「徳」が大きく強い影響力を示す様になりますが、それはマイナス方向の「不徳」についても同様です。(但し基本思想の悪化がある程度進むと修復が大変困難となりますので、修正、修復は極力傷の浅い内に行う方が良いでしょう。)
この先は今回の話の総括となります。続きは次回に。
さて、いよいよ「段階とは何か」ということですが、前回の話で「合力の運用(=設計図の提示)」として示したように、「霊界」における「順序」とは、「神界」という「秩序」に則した「実行計画」のことですから、その意味でも「神界と霊界は一体」と見て良いでしょう。無論その「実行計画」は「現界(=物理的世界)」で具現化するためのものですから、そもそも私たち人間一人々々がこの世に生まれくる際に携えているものであり、また「霊線」という霊界との通信線を通じて随時更新可能な状態が保たれています。但し(霊的世界とは異なり)常に「物理的制約」の中で生きる私たち人間が計画を完遂するためには、当然ながら「物理的諸条件の充実」に加えて自らの「能力の向上」を待たなければなりません。つまり目的や目標の達成とは、いつ如何なる場合に於いてもそれ自体が「段階を経る」ことに他ならず、気が付けば日々の営みから大志、大望の実現まで、人間の行為、行動の全てが「段階」そのものであることが解ります。
無論、ここまでの話は「何ら障害が無ければこうなる」ということであって、実際には「幾多の障害に阻まれて段階を踏めない」ケースも多々有ります。(というよりそちらの方が遥かに多い。)何故なら「天与のものに甘んずる」を良しとせず、「自我の求めのままに生きる」を良しとする人々が世の中に溢れてしまったからです。そうした人々は総じて「秩序と順序を無視」するため、当然ながら「段階」も存在せず、結果デタラメでメチャクチャな生き方しか出来ません。(当人は無自覚であっても。)
そろそろ「徳、不徳」の輪郭が見えてきたと思います。次回に続きます。
宇宙(=神)的概念における「秩序」とは、凡そ万物及び万象に「意味」をもたらすところの基本理念であり、信仰の世界では「大御心(おおみこころ)」に相当するものとして良いでしょう。これは逆に言えば、「秩序」の無いところには「良い、悪い」はおろか、何があろうと起ころうと「何の意味も無い」ことになります。つまり物事の意味とは元々「人間考えで斟酌出来る」手合のものでは無く、全てが宇宙的秩序(=価値観)に呼応した意味合いのものだということです。(少なくともそう思えなければ決して謎は解けません。)
次に「順序(=霊界)」とは何のことでしょう。因みに「霊界」は単なる「御霊(みたま)の収容場所」では有りません。そればかりか「霊界」は「秩序に基づいたあらゆる合力の創造、形成、構成、構築、及び修復、再生場所」とされています。まずこの「合力」という概念が非常に重要です。何故ならもし「合力」を必要としないのなら「秩序」そのものも必要無くなってしまうからです。(例えばこの世にたった一人しか人間がいなければ「社会秩序」の概念は無用となります。)つまり「順序」とは「秩序を秩序たらしめる為の合力を形成する過程」を言い表しています。
「霊界」には既に膨大な量の蓄積された「関係性(=合力)」が存在し、それらは新規の取り込みや修復の結果を以って日々更新されています。一般的に「因縁」と呼ばれるこれらの関係性は、縦を主軸として横の拡がりを持っています。そしてそれら「合力の運用」の在り方は、私たち「現界で生きる人間」の生き方そのものに深く関わっています。何故なら「合力の運用(=設計図の提示)に応えること」こそが「段階」だからです。
次回に続きます。
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まず始めに「私たち人間の本質、本体は霊魂である」という大前提が有ります。となればこの世界はまず「霊的世界」から始まり、追って(故あって)物質界が出現するに至ったということです。そもそも霊的存在である人間に対して何故物質界が付与されるに至ったのかと言えば、それは「霊主体従を以って世界の完成型とされた」としか言い様が有りませんが、その真意を深く理解し、甚(いた)く感じることが私たち人間の「生きている意味」の重要な部分を為していることは間違い有りません。
更にこの「世界の完成型」については「真、善、美、全(まった)き世界」とされ、「真、善、美」はそれぞれ「神界、霊界、現界」を表し、その意味するところはそれぞれ「秩序、順序、段階」であるとされています。これらを図式にすると以下の様になります。
○ 真(神界)=秩序
○ 善(霊界)=順序
○ 美(現界)=段階
賢明な読者に於いては早々お気付きの様に、「秩序、順序」はこの瞬間も完全無欠で厳然と存在しています。(何故ならもし神界、霊界が荒れに荒れて混沌としていたら、現界の惨状はこんなもので済むはずも無く、とっくに崩壊、消滅していなければならないからです。)ですから私たちにとって今必要なことは、まず「秩序、順序」に関する認識と理解を深め、その上で「段階」の意味するところを熟知し、自らの生き方に反映させて行くことと言って良いでしょう。(秩序、順序、段階は何れも縦構造ですが、この先縦構造を受け入れることが極めて重要になります。)
続きは次回に。
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まず始めに『人間の「幸、不幸」は「徳、不徳」の差引(さっぴき)計算によって決まる』という大前提が有ります。
○ 「幸福」とは主に「心の平穏、清廉」な状態を指し、一般的には「内的要因」と「外的要因」が相まってもたらされます。
○ 「不幸」とは主に「心の不穏、荒廃」を指し、「幸福」と同じく一般的に「内的要因」と「外的要因」が相まってもたらされます。
このように「幸、不幸」と「徳、不徳」の相関関係が如実に示される理由は、「徳、不徳」が自動的にもたらす「霊層段階の上下」に起因します。
○ 「霊層の上向」は「内因、外因」共に「幸福に至る要素」を増大させます。(霊層段階の要所々々に「+要素発動」のチェックポイント有り。)
○ 「霊層の下向」は「内因、外因」共に「不幸に至る要素」を増大させます。(霊層段階の要所々々に「−要素発動」のチェックポイント有り。)
ここまでの話は(信じる、信じないは別として)さほど理解に苦しむ内容ではないと思いますが、問題はここからです。
それはズバリ「徳とは何か!」または「不徳とは何か!」という命題に対する答であって、それを理解するためにはまず、「宇宙とは何か」と合わせて「自分とは何か」という二つの大命題をクリアしなければなりません。何故なら「徳、不徳の概念」を予め宇宙のシステムの一部と捉えない限り、その挙動や作用は到底理解し難いものだからです。
長くなるので続きは次回に。(因みに人間とは「小宇宙」のことです。)
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このことがしっかりと理解出来ていれば、少なくとも人間は必要以上に悩みや苦しみに苛まされることも無いのが道理である。何故なら例えばこれが「自然環境」であれば、敢えて自ら生存に不適切な「不毛の地」を選んでそこに居を構えようとする人は殆どいないからだ。つまり自然との関わりに於いては当然ながら「環境を変える」ことよりも、まずは最適な環境を選ぶ、或いは適当な環境に自らが順応するといったアプローチが普通と思われる。
一方で「社会環境」に対する人々の関わり方となると、必ずしも道理をわきまえているとは言い難く、そのため現状多くの不便や不都合が生じているにも関わらず、総じて「近視眼的な視野」でしか物事が見えていないため、それを目の当たりにするまで「自らの生存環境が脅かされている」ことすら気付かないことが多いようだ。何故そうなってしまうのかと言えば、それは一重に「環境物の一つ一つを自分の目できちんと見ていない」からで、自然環境に有毒、有害物が存在する如く、社会環境とて他人に丸投げ、丸呑み出来るものばかりとは限らない。
更にはそうした「社会環境」の延長線上には個別の「対人環境」があるが、自分が対する相手を「環境」と位置付ける人はそう多くないだろう。何故なら「環境」の持つ「容易に変え難い物」というイメージに反し、むしろ「人一人ぐらいどうにでもなる」と思っている人たちも一定数いるだろうからだ。だが現実にはその「人一人」に対する関わり方如何で不幸のどん底まで突き落とされる人間が後を絶たないことからもそれが錯覚や誤認であって「人間関係=対人環境」という認識、理解が(霊的に)正しい。
「人」と思えばこそ腹を立てたり悔しがったりするが、「環境」と思わば「腹を立ててどうなるものでもない」ことぐらいは解る。
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こうした際に利他的(=善)な人々にとって最も重要なことは言うまでもなく、利己的(=悪)な人々からの「悪への誘いに決して乗らない」ことに尽きます。それはいわゆる「金儲け、モノ儲け」の絡んだ不正行為への誘いなど判りやすいものばかりとは限らず、むしろその多くは社会における本人たちの身勝手な考え方や言動などが周囲に与える影響や印象などによってもたらされます。
人は得てして「相手から明らかな被害や損害を与えられた」と感じる場合は元より、不快な思いをさせられた程度のことでも腹立たしく思い、憤りを覚え、その上(相手の出方次第で)相手を忌み嫌い、恨み、憎しみ、挙げ句は「目の前からいなくなって欲しい」と心底思うようにさえなりますが、それこそが「悪魔の仕掛けた究極の罠」であることを良く識るべきです。何故ならその時点で既に「心の中では相手との立場争いが生じている」からで、それは「自身が忌み嫌う相手と同次元まで引き下ろされた証拠」でもあります。(霊的には相手と同様の「単なる立場争いの好きな人」という評価と処遇を受けます。)
因みに真に利他的(=善)な人々においては「自身の立場を踏み付けにされた」程度では痛くも痒くも有りません。何故なら元々「立場意識が希薄」だからです。またこうして利他的(=善)な人々が利己的(=悪)な人々との「同質の関わり(=売られた喧嘩を買うなど)」を断つことが、利己的(=悪)な人々の界隈で「自滅」のスピードを早めていることは間違い有りません。何故なら「悪意の拡散」という目的を封じられれば自ずとその「存在意義」を失うからです。
このような流れを一言で表せば「他者に翻弄されること無くひたむきに自分自身の確立を目指すべし」となります。そしてそれが当ブログのテーマでもある「みんなで良くなる、みんなで良くする」の実質的な答でもあります。
]]>取り分け冒頭の前書き部分の5行は、よく噛みしめて理解する必要が有ります。
「2022年〜インフレ・食料危機から経済ホロコーストへ?」(注:外部リンクです。)
また、以下の「lilac(ライラック)」という方のサイトには「本来あるべき人の心」を示唆する多くの記事が柔らかく優しい独特のアプローチで掲載されており、日々更新されているようです。
https://note.com/e_brand/ (注:外部リンクです。)
私自身としては、「消失、消滅、消去」の実態が(社会現象として)顕在化してくる様を日々実感するに当たり、(私だけに課せられた)為すべきことを為していく一念以外の何物も有りませんが、おそらくはこういった状態のことを「幸福」と呼んでも差し支えなかろうと思います。何故なら人には誰しも「与えられた目的」が有って、それを正しく認識し「自覚」に至るか否かが人生の「真の勝敗」の分かれ目に違いないからです。
]]>昨今ものの見事に社会から一掃されたモノを一言で表すなら、それは「羊の皮」あるいは「化けの皮」ということになります。
その結果、悪意を持った人々の悍(おぞ)ましい本性、本音が(足下からバレる嘘という半透明の薄皮一枚残して)悉(ことごと)く丸出しになっています。
そういう事情ですから今現在社会に蔓延している嘘(=フェイク)も、本来の目的である「真実を包み隠す」ためのものでは全くなく、あたかも機関銃の如く立て続けに発することで社会を嘘で埋め尽くし、その混乱に乗じて「悪事を強引に押し進める」ツールとして使われています。
これだけ悪事が謂わば「堂々と大々的に」行われているわけですから誰しもがそれと気付き、事の重大性に恐れを抱くかと思いきや、豈図(あにはか)らんや多くのの人々は気付くどころか、むしろこの状況を違和感なく喜んで受け入れているかのようです。
ところで世の中では「二極化」という表現、論調を良く目にしますが、私の場合はあくまでも「二分化」です。何故なら「二極」では正否や優劣の概念が表せないと思うからで、白と黒とに明確に分離される状態をイメージしてもらいたいので、敢えて「二分化」と申し上げており、そこには厳然と(霊的な)正否や優劣が存在するということです。
このように「消失、消滅、消去」は今後も二分化されたどちらか一方に集中的に起きることが十分予想され、それは(言うまでもなく)「原因結果の法則」に基づいたものであるということです。
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今我々に必要なのは「正確な情報による正しい状況判断のみが可能とする未来への適切な備え」であるはずだが、残念ながら大手のテレビ、ラジオ、新聞、(それに大手の運営するネット上の情報ツール)はそれに応えないばかりか、状況はむしろ「百害有って一利なし」に近い。(辛うじて天気予報と(原発事故を除く)災害情報だけは何とか・・・。)つまり我々はそれ以外の方法で、自ら積極的に真に有益な情報を収集していく必要があるということだ。そうしないと(メディアお任せでは)近い将来「生きることさえままならない状況」にまで追い込まれることになり兼ねない。
万一(検索サイトの検閲等により)情報収集がうまく行かない場合、些か乱暴ではあるが「主流メディアの殊更喧伝するすることは一応疑って掛かる」のも有りだろう。(下心のある者ほど大声で口数が多く、アピールが激しいのは世の常だ。)
繰り返すが、大手メディアはよく巷で言われる様に「劣化」した訳ではなく、単に「本性を曝け出した」に過ぎない。(だとすれば逆に分かりやすくて良いとも言える。)
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要は争いたくなければ「荒の添わない人間(存在)」になれば良いし、そうしない人は「争いたい人」と見做されても仕方がなく、そのメンタリティはある種の「悪」と分類されるに違いない。
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このように私たち人間は「極めて良好な結果」「無難な結果」「大難、中難、小難など難儀な結果」の何れの結果に対しても、事前にその理由となる原因を自らの心行(しんぎょう)によって作っている訳で、多くの場合、それは「二者択一」という極めてシンプルな形で眼前に提示されることとなります。つまり私たち人間の日常生活、更に言えば人生そのものは「二者択一」の連続によって構成されていると言っても過言では有りません。
この「二者択一」に多大な影響を及ぼすのが「人間性」の是非であり、それは(子どもでも解る)「利己と利他のバランス」としても感覚することが出来るようになっています。例えば自分と他人の比率が5:5であれば真っ当な感覚と言え、3:7であれば人格者、2:8を超えれば聖人に匹敵すると思われます。(注:「家族、一族」など身内は他人と見做されない。また0:10という選択肢は基本的に存在しない。)
繰り返しますが「人生の実体は単純明快な二者択一の連続」に過ぎず、本来複雑難解な要素は皆無ということで、もしそう感じるとすれば、それは「利己主義」という非論理性、反社会性の正当化という無理難題に固執する結果と言わざるを得ません。
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こうした理解の方向性は、当ブログで幾度となく訴え続けてきた「とにかく霊層段階を上げろ」という主張と、主旨や目標の掲げ方として合い通じるものが有るように思えます。(霊層段階の上下向と因果の発生発動の関係性は、実際に体験すれば直ぐに解ります。)
また、これは「対立や対峙」が全くの無意味ということではなく、ただ単に(啓蒙のためにある期間必要とされたとしても)物事を前に進めるための方法論として不可欠というわけではなく、増して執着すべきことでもないということです。
さて、2022年のキーワードは昨年に引き続き「消失、消滅、消去」ですが、やはり「いったい何が消えるのか?」が気になるところです。期待を込めて言って良ければ「自分(たち)の存在や生活を脅かす存在」が真っ先に消えてくれればいい訳ですが、それが何であるのかはその人の「立ち位置」によって人それぞれ異なります。(余談ですが以前、勉強嫌いの子どもが「学校が消えればいい」と悪気なく言っていました。)
話は変わりますが、自然環境に生息するあらゆる動植物は全て「自然環境の保全」という(あらかじめプログラムされた)立ち位置に統一されている様に見受けられます。(つまり立ち位置を選択する権利も資格も能力も与えられていないということです。)
その一方で「自然環境」そのものは地球創世以来、大規模な火山活動や地殻変動、気候変動などのいわゆる「天変地異」によって度々更新、改変などが繰り返され、時には地域の自然環境を生態系諸共破壊し尽くしてしまう様な事態さえ起こり得る訳です。
しかしそうした「天変地異」さえも、広い意味での「自然環境の保全プログラムの一環」という見方も出来ます。何故なら地球は依然として荒廃すること無く、豊かな自然環境が保たれたままだからです。
こうした認識のもとに、改めて私たち人間の立ち位置を考えて見ると、人として「何が相応しく、何が好ましくないのか」が浮かび上がってくる様な気がします。つまり「自然環境の保全」がより具体的なキーワードです。何故ならそれが「かけがえのないもの」であることがわかりきっているからです。
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何はともあれ世の中の多くの人々のマインドは「安定(=今有るものが有り続けること)」を求めているはずで、それに対して「消失、消滅、消去」が真逆の負のイメージをもたらすことは明らかですが、そもそも安定には「その場凌ぎの仮の安定(=もって数年?)」と「理に照らした真の安定(=未来永劫)」が有って、現状は「その場凌ぎの脆弱な足場がすでに崩れ始めている」というイメージですから、一刻も早く「真の安定」への乗り換えが必要ということです。(さもなくば奈落の底へ落ちます。)
つまり「理に適わない事物、事象の淘汰」がすでに始まっているということです。
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果たして何が「消失、消滅、消去」の憂き目に晒されたかと言えば、様々有った中でもやはり「人心(=人間性)の消失、消滅」と、そうした人々の「輝かしい未来の消去」という意味合いが大きいと思われ、これは別の言い方をするなら、心の中の善悪の指針を示す針が大きく振り切れてしまい、もはや「良心の欠片や痕跡すらも見出すことが困難」になってしまったということです。
これにはもちろん「あの手この手でそれを仕掛けた側と仕掛けられた側」があることも判っていますが、人心を捨て去ることに同意、同調した時点で、それぞれを区別する必要は有りません。何故なら「悪の連鎖」に連なるメリットを感じる時点でその人が相応の「悪の種」を有しているのは明白で、なおかつ「同意=本人の意思決定が働いている」からです。(つまり「仕掛け=きっかけ」に過ぎないということです。)
ところでこの「政界、官界、財界、学界、医療界、芸能界、メディア界」の大勢が今や一丸となって邁進する「人心消失」の流れから身を守るには、以前から申し上げている如く「洞窟に籠もって氷河期を耐え凌ぐ原始人」のイメージが最も近いでしょう。即ち「風雪に身を晒すリスク」を極力避けながら、やがて氷が溶け生存に適した環境が訪れるまで何とか生き延びることに主眼を置くべきです。何故なら現在の世界的な「(建前を排し)悪が悪として堂々と表通りを闊歩する」ような流れは歴史上嘗て無く、故に「善悪の二分化」を伴いながら悪が最終段階に至ったと見て取ることが出来ます。(悪の末路が論理的に自滅でしか無いことは以前申し上げた通りです。)
]]>もっとも近年はpm2.5等による環境汚染から始まって、発がん物質やアレルギー物質、果ては放射性物質の問題など、所謂「有害な空気」なるものに注意を払わなければならなくなってきていることも事実ですが、それが更に進行すれば極めて生き難い世の中となり、それだけは何としても避けなければなりません。
前置きが長くなりましたが、世の中には「自分は政治と関係無い→政治に興味が無い→選挙(=投票)に行かない」といった人たちも(投票率の低さから推察するに)結構多いのではないかと思われます。それもそのはずで、選挙のたびに「自分の生活や仕事環境が激変するわけでは無い」からです。逆に言えば(良きにつけ悪しきにつけ)「激変」しない限り、政治と自分の関わりを認識し辛いということで、せめて「社長が悪い、部長が悪い、店長が悪い」ぐらい身近な感覚でないと、政治と自分を結び付け難いということだと思います。
ところで何故冒頭で「空気」の話をしたかと言うと、政治とは社会に劇的変化をもたらす以前に「社会の空気を作り、社会の空気を変える」という側面が大きいと思われるからです。これは当然(政治の良し悪しによって)良い方向にも悪い方向にも作用します。
例えば先の安倍政権下に於いて「隠蔽、捏造、忖度」といったキーワードが日常的に用いられる様になり、(肯定、否定は別として)そのことで「社会の空気が一変した」と言っても過言では無いでしょう。また経済政策によってもたらされた「経済格差」や、政治的圧力と受け取られ兼ねない「テレビを始めとするメディアへのクレーム」なども記憶に新しいところで、日々政治によって作り出される様々な(目に見えない)空気の影響を絶えず受け続けているのが私たち「一般国民」という訳です。
ですからもしあなたが日々の社会生活を送る中で「息苦しい(=生き辛い)」と感じるとしたら、それは「政治によって醸し出された有毒な空気」のせいかも知れません。そんな自分にとって有害な空気を今後も吸い続けたいと思うのなら話は別ですが、もし今より少しでも生き易い社会、生き易い生活環境を望むなら、まずは「政治的空気を一新する」ことが非常に重要で、また極めて合理的な方法と言え、選挙(=投票)に行かない手は有りません。(そもそも投票率が飛躍的に上がるだけでも社会の澱んだ空気を一新することが出来ます!)
少なくとも今現在苦しい、キツい、先が見えない、死にたい…と思っているなら、尚更
「這ってでも投票に行って乾坤一擲起死回生の一票を投じるべき」と思っています。
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この問いの答は簡単至極、一言で言えば「否」だ。
何故なら「悪魔(=悪)」とは元々「善を善たらしめる為に(神によって用意された)ツール」に過ぎないからだ。(研磨剤やヤスリ掛けをイメージして欲しい。)
無論世の中では、それを利己的な願望成就や自己満足を得る為に誤った使い方をする人間が跡を絶たず、甚だしきは「悪魔教(=反キリスト)によって世界征服」なるトンデモ思想の輩が徒党を組んで半ば公然とやりたい放題を繰り返し跋扈する始末である。
こうした人々の特徴は総じて「非論理的」で、例えば「人殺しをしても捕まらないのでそれは正しい」「悪魔を崇拝していい思いをしたのでそれは正しい」など、恐ろしいほど「短絡的且つ表面的(=薄っぺら)な経験値盲信主義者」だ。せめて「もしかして自分は泳がされているのかも?」「エサに使われているのかも?」ぐらいの深読みと慎重さが欲しかった。(それが真実だ。)
当たり前の話だが「霊的」とは物理的要素の絡まない精神性のみの概念で、故に前回の霊層段階の話でも触れたように完全な「縦構造」を有している。一方で所謂「この世(=物質界)」は、人の肉体も含めたあらゆる物が物理的要素を有しており、その部分は互いに並列関係故の「横構造」と見做され、従って物質界における人ひとの人種、性別は元より地位や立場、役職、果ては身体能力や仕事効率に至るまで、凡そ物質的裏付けを根拠とした一切の上下、優劣、ランク付けなどは本来存在し得ないし、そう理解するのが正しい。(そこには並列的な「役割分担」のみ存在する。)
一方で人間は霊(=精神)と体(=物質)の二つの要素で成り立っており、そのうちの精神部分に於いては縦構造としての「上下、優劣」が厳然と存在する。即ち「善→上」であり「悪→下」であるからこそ、天国と地獄が上下関係となっていることは言うまでもなく、「利他→上」「利己→下」であり「信頼→上」「疑心→下」なども今更議論の余地は無いだろう。(但し屁理屈の余地はあるだろうが。)
人間の精神的ランク(=霊層段階)はこうした「純粋さ、美しさ」といった要素に加えて「大きさや深み」を増す過程で更に高めることが可能となっている。(ポイントは「心」&「行」だ。)
このようにして獲得された「高い精神性」は、断じて物理的な地位や立場を主張するためのものではなく、あくまでも自分が「本来の自分らしく生きる」ことに大いに役立つものという理解が最も正しく、それは言い換えれば「至福の人生は高い精神性を以って導かれる先にしか無い」ことを意味している。
最後にもう一度言いますが、「悪」は(人が心の内部で使うために)神がわざわざ用意したツールであるので、神と悪魔が並列関係など有り得ず、むしろそう思わされていることに「最大限の警戒」を計るべきと思います。
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「驕り」とは自らの価値、能力を過信し、自らをより優越的存在と信じ、他人を見下す心や行いを持つこと・・・などでは無く、それらは謂わば「驕り」の結果に過ぎないということだ。
「驕り」とはそうでは無く「霊界を軽んじ、霊界を侮(あなど)ること」に尽きる。(無論「目に見えないモノは信じない、認めない」という主張もそこに含まれる。)
(これまで再三書いてきたように)霊界に於いては(今現在生きている人間も含めて)全ての人間の魂が「霊層段階」によって区分、管理されているというイメージは全く正しく、しかも「霊層段階」の差異は「この世」における物理的な距離感になぞらえてイメージするならば、例えば20段階の差は20km遠方(或いは20000m上空)の相手方とは通常(特別な通信手段や交通手段を持たずしては)関わりを持てないどころか、そもそも相手の存在すらも認識出来ないのが道理であって、まさに現世では隣り合った者同士が霊的に関わり合えない(因縁が発動、発生しない、心が通じない)などのことがしばしば生じている。
何れにせよ霊的には「より高度な霊層段階よりの恩恵にあやかる」というのが(概ね殆どの人間にとっての)ベストで、そのためには自らの霊層段階を「相手と辛うじてコミュニケーションが可能な距離まで詰める(=高める)努力」が不可欠であるのは言うまでも無い。(詳細は割愛するが「上から下へのアクセス」はある程度可能となっている。)
尚、次回は「神と悪魔は果たして並列関係か否か」の問いに応える予定。
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このように方や1200人、方や10万人などと情報元による乖離が著しい場合、個人的には「では中を採って1万人?」という考え方も選択肢の一つでしょう。その上でその「1万人」を多いと思うか少ないと思うか各自判断すれば良いのでは?
因みに私個人の感覚では「1万人は予防を目的とする限り論外」の数字です。
]]>世界中から集められた数万枚にも及ぶピース(=事実や結果)の一つひとつには、それなりもっともらしい名称と取って付けた様な説明が為されているが、当然それ単体では全くと言っていいほど意味を為さず、あくまでも絵を完成させる為の一欠片でしか無いことは嵌めて見ると解る。
現在(多少焦り気味に)進められているのは、(その様に自負し、或いは臆面もなく標榜して憚らない)世界の支配層が公式に発表し、公然とコメントを繰り返してきた(=事実としての)「新世界秩序(ニューワールドオーダー)」への各種の行程であり、その具体的なイメージの描かれた絵を、一足先にほぼ完成した巨大なジグソーパズルによって(見る気があれば)誰にでも見ることが出来る状態だ。
但しこの絵には驚くべき仕掛けが施されていて、何と裏面にも別の絵が描かれており、もし何らかのタイミングで「どんでん返し」が起これば、我々は世界の支配層が提唱する「新世界秩序(ニューワールドオーダー)」とは全く趣の異なる別の未来に直面する事となるに違いない。
問題はこの絵が誰によっていつの間に描かれたのか、そして「どんでん返し」がどの様な方法とタイミングで起こるのかに尽きる。
少なくとも世界の支配層による作品では無く、彼らはそんな仕掛けの存在すらも知らないはずだ。
また、これは彼らが得意とする「乗っ取り」の逆バージョンとも言え、これではお株を奪われるも同然だ。
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というのも少し身を引いて、改めて今起きている事の全体像を俯瞰して見れば解るのだが、傍からは如何にもドジや失敗の様に見える事象も、実は始めから計画通り、タイムスケジュールに従って着実に事を運んでいるとしか思えないフシが随所に見られ、それはあたかも巨大なジグソーパズルを完成させる作業に似ている。(だからこそ俯瞰しなければ解らないし、逆に俯瞰しさえすれば一目瞭然だ。)
だから政治家も官僚も専門家もマスコミも決して(一般的な意味における)無能でも無責任でも、ましてや愚鈍などではなく、むしろ自らが信じる範疇に於いて有能さを発揮しながら、その役割をしっかりと果たしていると思われる。それが証拠には、世の中の流れは(多少強引さが目立つものの)今の所彼らの目指す方向に進んでいる。(そこに属する人々はそれぞれ役割分担しながら見事な連携により、虚偽と真実の巧みなすり替えを可能にしている。)
因みに彼らが「陰謀論」とレッテルを貼る「告発によってもたらされた情報」のざっくり言って7割が真実で、残りの3割は「陰謀論の信憑性を貶める裏工作の産物」と思って良いだろう。(仕分けはあくまでも個々人の責任に於いて為すこと。)
また現時点での「政府広報」や「大手マスコミ報道」を無条件に受け入れるか、それとも必要に応じてフィルターに掛けるかも個々人の判断で有り自己責任とされる。(そこは良し悪しの問題でなく、愛国心ゆえの「?」はむしろ普通のこと。)
以上、「もし私が彼ら(=支配層)だったら当然そうする、そうなるだろう」という前提で話をまとめました。ついでに申せば、彼らが「自分たちの目的及び計画」について絶対的な自信を以って鋭意取り組んでいる気持ちは解らないでは有りませんが、残念ながら彼ら支配層には数千年来続く決定的な「見落とし」が有って、それ故この「目的」が(最終的に)達成されることは有りません。(その可能性は0%です。)
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人間の致命的な誤り・・・それは個々の人間の運命がそれぞれの「霊層段階」に基づいて厳格に管理されているという(霊的)実相を知らないことに尽きます。これはどういうことかというと、例えば或る同じ社会、地域、区画が災害や惨事に見舞われた場合、そこに属する全ての人々が一律に、同等の被害や精神的苦痛を被る訳では無く、そこには個人差が存在するということです。つまりそれらの影響は、とある「面」に対して一律にもたらされるものでは無く、(仮に現象的にそのように見えたとしても)実際には面では無く「点」という個々の人間一人ひとりに対する「個別の事象」として起きています。これは言い換えれば、人間は何時なんどきどこにあっても「霊層段階相応の処遇」を受けており、あらゆる結果はそれに基づいたものであるということです。(霊層段階については過去記事を参照のこと)
要は「社会が悪い!」「アイツラが悪い!」などと他者に対する不満を鬱積させ爆発させたからといって、自らの運命を好転させることなど決して出来ないということです。そればかりか下手をすれば「憎悪や嫉妬の感情」によって余計に霊層段階を下げる結果となり、事態は増々悪化の一途をたどるでしょう。
そうではなく、同様の環境に於いてもし本気で「大難を小難に、小難を無難に」過ごしたいというのであれば、更には本気で「より良い社会環境」を望むというのであれば、一にも二にも自らの「霊層段階」を本気で向上させることに勤しむべきで、それが功を奏すればそれこそが自他共に「最良の結果」であることは言うまでも有りません。
尚、霊層を上げる方法ですが、初期に於いては自らの「良心」に照らして判断し、(仮に損と感じてもそれに)従うことで十分と言え、更なる向上のためには(霊的実相に基づく)揺るぎない死生観、正しい利他の精神など、安定した人間性(=人格)の獲得が求められます。
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「人は誰彼問わず何モノかの操り人形に過ぎない。」「どうせ操られるのなら良いモノに操られたらどうなんだ。」
とある今は無き偉大な霊能者によって嘗て放たれたこれらの言葉は、見事に「人間というモノの本質」を言い表しています。
ここでのポイントは無論「何モノか」と「操り人形」の2つ。そして「良いモノ(悪いモノ)」がキーワードとなっています。
「何モノ」とは当然「正」と「邪」のこと(西洋では「神と悪魔」)で、人間である限りは(たとえ無意識、無感覚であっても)誰彼問わず、常に正邪何れかの影響下に有るという意味になります。
これではまるで人間は単に操られるまま「自らの意思」を働かせる余地さえ無いように聞こえますが、そんなことは全く無く、むしろ人間の「意思」は非常に重要です。何故ならそもそも「正と邪」の何れを選択するかに於いては100%その人の意思に他ならないからです。(つまりその後の思想、行動は「操りにより半ば自動化」しますが、責任の所在はあくまでも本人に有ります。)
最後に「正邪選択の意思決定」がどのように行われるかご説明します。
これは「人間のその時々の思想」が決定します。
人本来の「良心」に基づいた「利他の精神」に満ちていれば、自ずと「正」を選択します。
一方で「自己執着」に基づいた「我欲」に突き動かされれば、当然とばかり「邪」を選択するでしょう。
何れにせよ「操られる」ということは、多かれ少なかれ「人本来+α」の力が働いているということで、近年「とても人とは思えない」冷酷、残忍な事件が頻発するのもそのためですが、どうせ操られるなら「とても人とは思えない」ぐらい良い人、立派な人として操られたら如何でしょう。
]]>先頃、政府は人流抑制策として経済界に対し会社、職場における7割のテレワークを要請したとのことだが、人流の二本柱の一方の通勤を抑制しながら、方や「通学を止めるな!」では片手落ちどころか、家庭内感染の抑え込みは不可能だろう。
そもそも「学業=立身出世の必須アイテム」という位置付け故の「学びを止めない」発言なのだろうが、もしこの状況で子供達にそれを強要するなら、逆に「他人の命はどうでもまずは自分の立身出世」という末恐ろしい思想教育を暗に施していることにならないか?それでいてパラリンピック学校観戦が「多様性への理解を深める教育」とはちゃんちゃら可笑しいし、こうした理由が単なる「こじつけ」であることは明白だ。
その昔、以下の様な映画のキャッチコピーを見た記憶が有る。
「人は強くなければ生きて行けない。優しくなければ生きる資格がない。」
映画自体はともかく、これはその通りだと思う。
日本国、日本社会、日本国民がそうなることを願って止まない。
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この際重要な認識は二つ有り、一つはこれが「選挙結果」そのものであり、少なくとも次の国政選挙まではこの流れを変えられないという事。
そして二つ目は(既に当ブログでも再三申し上げているように)誤った同調圧力に安易に身を委ねること無く「自分の身は自分で守る」気概を持って実際に行動する事。
まずは「何かおかしい!?」と思ったら一旦立ち止まる事!同時にあらゆる選択肢を模索する事!
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これは「(結果的に)そうなっちゃったネ」なんて話では済まされない。何故ならこれは明らかに政策の不備がもたらした「人災」だからだ。(それが証拠に、オリンピック開催前から多くの人が警鐘を鳴らしていた。忘れたとは言わさない。)無論「(コロナと)オリンピックとの関連性は無い」といった関係者の発言も寝言、妄言の類に過ぎない。(説得力の有るエビデンスが示されていない!)
こうなると残念ながら、政府、都知事共に最初からこうした流れになる事を想定した、いわゆる「確信犯」と言わざるを得ない。
それもこれも「選挙でこういう人たちを選んだ結果」と言ってしまえば身も蓋もないが、ならば次の選挙で「全員正式にお辞め頂く」のが最良と思われる。何故ならこの人たちには「責任を感じて自ら身を引く」なんて芸当は到底出来そうも無いからだ。
]]>因みに首都圏に「感染爆発」を招いた要因は、思い起こせば萩生田文科相の「学びを止めない」発言が大きいと思われる。
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