青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
不幸の根源は「自己執着」です。 その2
0
    人間が「自己」に執着するとどういう事になるかと言うと、「自分を中心とした世界観」を持つことになります。これは「世界の中心に自分がいて周囲を見渡している」という感覚です。
    自分の周囲にはもちろん「別の人」がいる訳ですから、その人たちの事がどのように見えるかというと、「自分が必要な時に使える人たち」か、または「いる必要もないのにいる人たち」となります。つまり「他人」とは、この2つのうちのどちらかでしかありません。
    これは一見合理的に思われるかも知れませんが、完全に欠落しているものが1つ有ります。「愛」が全く有りません。なので当然「思いやる」気持ちも「いたわる」気持ちも有りませんし、「絆(きずな)」など作り様も有りません。大変恐ろしい話ではありますが、それが「真実」です。

    しかし、そのような人であっても「愛が在るように見せかける」事は出来ます。それはどんな場合かというと、そうする事で何らかの「得をする」と考えた時です。
    これは「損得勘定(そんとくかんじょう)」の末の完全な「取引行為」であって、心に「愛」が微塵も無くても可能です。つまり「ビジネス」の形態さえ取れれば「何でも有り」ということです。
    因みに世の中の人間同士の関わり合いの大半は、実際の商取引であろうと無かろうと、この「ビジネス形態」に準じたものとなっており、その事に違和感を感じる人の方が、むしろ稀であろかと思われます。

    ところで「自己を中心とした人」同士の関わり合いでは、その成り立ちからして取引のための「一時的な関係」という事でもあり、至って脆(もろ)く壊(こわ)れ易いモノと考えて良いでしょう。また「関係修復機能」なども無く、関係を維持するために不本意なリスクを負わなければならない事も多々あります。「常に悩みが尽きない」などというのは、そういう事かも知れません。

    一方で、少なくともどちらか片方でも「自己執着を強く持たない人」がいる場合、その場に「思いやり」や「いたわり」や「絆」の介在があるため、関係性に何かトラブルが起こってもすぐに「修復機能」が働き、その後の関係をより確かなものへと改善してくれるはずです。「愛」があるために関係が悪くなったなどという話は、60年間生きていて実際聞いた事が有りません。

    最後に(念のため)申しますが「自己執着」に、親だから、子だから、先生だから、博士だから、公職だから、何だからかんだからの区別は有りません。「愛」が平等なら、「自己執着」もまた平等に存在します。
    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:32 | comments(0) | - |
    不幸の根源は「自己執着」です。
    0
      世の中では毎日のように「悲しい事件」や「不幸な出来事」が起きていることは承知していますが、当サイトはそれらの具体例を個別に取り上げて考えたりする場では有りません。それよりも「不幸とは何か」を理解することが、より一層重要だと思うからです。

      ところで、今回はタイトルでいきなり「自己執着」をブチ上げてしまいましたが、そもそも「自己執着って何だ?」ということがあります。それにはまず、「自己執着の無い状態」とはどんなものかをイメージした方が早いかも知れません。
      例えば自然界の中でも取り分け解りやすいのが、アリやハチなど、巣(=女王)を中心とした社会形成をする昆虫たちでしょう。働きバチ自身も生きる上ではエサを必要とするでしょうが、それは「働くために食べる」のであって「食べるために働いている」訳ではありません。
      それでは「何のために働いているか」という事になりますが、ひとえに「巣と女王の保全」であり、それは何のためかと言えば、「種を安定的な形で継承させるため」に尽きると思います。(それによって「地域の自然環境が安定的に保全される」という結果まではハチの知る由もない事でしょうが・・・)

      皆さんお気付きの如く、これは「全体主義」の典型です。そしてひと時代前(戦前、戦中)には、「滅私奉公」という言葉に集約されるように、当たり前のようにまかり通っていた考え方、生き方でした。
      しかし「全体主義を良しとする」ためには、1つの大前提が不可欠です。それは本当の意味で「リーダーが絶対に正しい」というものですが、昔はいざ知らず、現代社会に於いては「そのような事を期待すべきではない」という風潮が一般的だと思います。
      「人間だもの」という著名な作家の言葉にもあるように、多くの人は「不完全な危ういもの」という側面を持つのが「人間として普通」という認識であろうと思います。しかしこの「危うさ(=弱さ)」は、一体何によってもたらされるものなのでしょうか?

      それは「自己執着」です。これは言い換えると「自己の保全のみに終止しようとする生き方、考え方」となります。
      タイトルにある如く、世の中の不幸は必ず「誰かの自己執着」に端を発していて、それに他の人々の「自己執着」が加わり、複雑に絡み合って、何とも得体の知れない空気を醸成し続けているのが、現代社会の実態であろうと思っています。
      次回に続きます。
      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:22 | comments(0) | - |
      あなたは「理系」ですか?「文系」ですか?
      0

        NHKのEテレに「スーパープレゼンテーション」という番組があります。コチラ→http://www.nhk.or.jp/superpresentation/
        これは各界の最先端、最精鋭の人たちの話が聞けて、その思考や感性の一端を垣間見ることの出来るという、大変贅沢な番組だと思います。
        そこで私がしばしば感じる事は、「ああ、皆さん、同じモノを見て、似たようなイメージを持っている」ということです。これは私にとっても大変貴重な発見です。(日頃そのような方々のお話しを伺える機会が有りませんので)しかし、そうした事実自体は当然の結果だと思っています。

        つまり、こういう事です。
        この世の全ての現象は「理」で構成されているということ。ここで「理」というのは「特定の原因は特定の結果に至る」という道筋を言い表しています。
        例えば「物質にまつわる理」の解明を目指すのが、「物理学や化学」という按配(あんばい)です。それに諸条件を付加しながら、人間に必要とされる「具体的な物作りの理」として体系化されたものが「各種の工学」、また人間が自然と共存するために必要な「事象と理の収拾」を行うのが「生物学や地学、天文学など」であり、それらが農学、医学、工学などに生かされて行く訳です。
        そして、これらは「自然科学」という人間の意図に無関係な「理」によって成り立っています。
        一方で、「自然と関わりが無い」とされる学問の総称を「人文学(人文科学)」とし、更に人間個々と社会とを別個に考える事で、「社会学(社会科学)」を独立させることもあるようです。(音楽や美術なども学問的に探求すれば当然含まれます。)

        このように事象別にジャンルを細分する事は、探求したり研究する分には都合が良いかも知れませんが、私たちが人間として日々感じたり思ったり考えたりする時点で、それらがジャンル分けされている訳ではありません。むしろ潜在的な部分も含めて、あらゆる分野の知識や認識が渾然一体となって、ひとつの思いに達するのが普通ではないでしょうか。
        人の思いは「その人なりの論理」で構成されていて、「その人なりの道筋」に従って想起されるものだと思います。つまり、視野の広い人ほど「多くの論理的根拠をクリア」した結果として「思い」に到達している可能性が有ります。

        私たちは誰しも(意識の有無はともかく)「自然=自然科学」を土台にして生きています。という事は「人文科学」は「自然科学という土台」の上でしか意味を成さないという事です。これは人間的な如何なる課題の答えも、正確には「自然科学を経過」して来なければ得られないという事です。
        また、「自然科学」といえども「人間を対象とした明確なビジョン」が必須となります。何故なら、その対象の中には活用の仕方によっては「明らかに人間に仇(あだ)を為すもの」も、当然含まれているからです。(実際そのような凡例は枚挙に暇が有りません。)

        つまり人間が「自然」を良く理解し、「人間」を良く理解し、「社会」を良く理解するなら、その思いにさほどの違いはなく、さほど悪いものにはならないはずのように思います。(無知の知、という有名な言葉があります)
        また、全く分からないならまだしも、「中途半端がいちばん始末に終えない」とも言います。

        | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:16 | comments(0) | - |
        「本音」と「本心」は違う
        0
          この2つは、よく混同されたりしますが、意味がそれぞれ違います。ですから「本音と建前」とは言っても「本心と建前」などとは言いません。また、「本音でモノを言う」ことはあっても「本心でモノ」を言うというのは、ちょっと違うような気がします。それをこれからご説明致しますが、その前に「心」という字の前に何故わざわざ「本」の字が付いているのか、ご注目頂けると幸いです。

          人間は「自分の心」をダイレクトに意識することは出来ません。あくまでも「心」によってもたらされた「思いや考え」を意識しています。
          「思いや考え=思考」には「良い、悪い、賢い、愚かしい」などの違いが生じたりしますが、「心」にはそのような違いは無く、ただ「強い、弱い」があるのみです。即ち「強い心」は人間(=動物でない)としてのプラス面を生じ易く、「弱い心」は同様にマイナス面が生じ易くなる、と考えて良いでしょう。(心の強弱が全体か個体かの意識比率に影響を及ぼすからです)
          このように「心」は不変のものでは無く、個々人ごとに「現状」に「強弱の差異」が生じています。

          一方、人のメンタリティの中で唯一「不変」のものも有り、それを「変化する心」と区別するために「本心」と呼んでいます。(辞書的な意味は一旦忘れて下さいね)
          「本」とは「本来の、元々の」などの意味で、動的に「変化する心」に対して静的な「設計図、行程表」などの意味を持ち、「心の回復、現状復帰」などの指針と成り得るものと考えて良いと思います。また「本心」の存在をイメージすることは、人間の謎のひとつでもある「良心」の存在や働きに対する理解にも役立つように思います。
          このような事をあまり細かく書き立てるのもどうかと思われますので、一応「そんなものかな」程度に思って頂いて結構です。

          人間は自分の心をダイレクトに見ることは出来ませんが、自らの思考や感性、行為、行動から逆上(さかのぼ)って推測する事は可能です。まずは自分の心(の強弱)を知ることから始まります。
          また、確かに意識や言動は「心の結果」ですが、「意識や言動を変えようとする努力」がフィードバックして「心に変化をもたらす」というのは、実に素晴らしい仕組みであると思えてなりません。せっかくなので大いに活用したいものです。
          | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:52 | comments(0) | - |
          本音(ほんね)と建前(たてまえ)の話
          0
            本音=自分の本当の気持ち、建前=他人向けの取繕(とりつくろ)った話、のような感じで良いかと思いますが、取り分け「建前」は自分の本心を隠すための「うそ」めいた意味として、あまり良いことと思われていないかも知れません。しかしそれは、「お互い本音をぶつけ合ったらケンカになる」的な、「本音」側の「質的問題」であることがほとんどだと思います。

            ところが、「本音」が仮に、他人に恥じる事のない「正しく立派なもの」だったとしても、やはり「建前」は必要となります。それはいったい何故でしょうか?
            ひとつは「相手に気後(きおく)れさせない」ためです。「相手に寄り添う形」での関係を保とうとすれば、相手に自分との「距離を余り感じさせない方が良い」という場合が有ります。

            もうひとつは、自分のことを相手に受け入れてもらうためには、相手があらかじめ用意している器(うつわ=容器)の分、言い換えれば「相手が望む分」または「相手が必要としている分」だけ自分の事を伝えて行くのが良いと思います。
            例えば、相手が差し出した小さなコップに、バケツの水をドッと流し込んだらどういうことになるでしょうか?そんなイメージです。

            つまり私たちは、他者とのより良い関係作りに於いて、「自分の本音がどのようであろうと建前を持つ必要がある」ということです。
            ですから「それは建前だから良いとか悪いとか」、そんな事は実際どうでも良く、より大切なのは「本音の質を向上させることに尽きる」と思います。(他人に恥ずかしい本音、後ろめたい本音ではうまくありません)

            最後になりました。当サイトをご来訪下さる賢明な読者の方々はすでにお気付きの事と思いますが、このブログに於いても不特定多数の方々を対象に「本音そのまま」は、いささか困難です。しかし仮に「建前」であっても、幾多をかき集めることによって、本音が見えてくることも多々有ります。(ジグソーパズルのように)いえ、それこそまさに人生の秘訣であり、基本だと思っております。
            | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:57 | comments(0) | - |
            今と未来にとって必要なモノとは? その2
            0
              答えは「過去を遍(あまね)く受け入れ、その全てが生かされている最新のモノ」だと思います。これはただ当たり前の事を言っているに過ぎません。だから「簡単なこと」とも言えるはずです。

              しかし現実的には歴史的な事象にせよ、個々人レベルの実情にせよ、何事に拠らず「日々の更新」というものが如何に難しいかを思い知らされる事になります。
              そのため長らく人間社会の形成に於いては「先手必勝」は到底望むべくも無く、「幾多の災いと不幸な結末の果て」に、「いつもぎりぎりのところでかろうじて踏み止(とど)まってきた」というのが、より妥当な認識であろうと思います。
              この「社会の形成に犠牲は付き物」見たいな話は、何故「避け難いもの」のようにイメージされてしまうのでしょうか?

              それは(大変申し上げ難い事ですが)例えて言えば、マイホームを「安らぎとゆとりの極上の空間」のようにイメージすることと似ています。
              住まいに限らず、言葉は悪いですが「人間は自らの実績や功績の上にあぐらをかきたい」ものなのかも知れません。もしそうだとすると、当然「自分の功績があっという間に覆(くつがえ)される」「別の人に取って替わられる」などということは、俄かには受け入れがたいことでしょう。
              この事は「人間の持つ自己執着が現状維持という保守傾向に作用している」と言い換えることが出来ます。

              以前、ある警察官に「交番に誰もいない時があっていいんですか?」と訊ねたことがあります。答えは「交番は守るところではありませんから。」というものでした。なるほど、と思いました。これは私の「マイホーム」のイメージに似ています。これ以上書くと「反感を買いそう」なので、この話はこのくらいで・・・。

              結局のところ当サイトは、「青少年を初めとする全ての皆さんに、それぞれの日々のバージョンアップをお勧めさせて頂く」事を目的としていると言えます。
              そのために、私自身が毎朝思いを新たにして、その日の「最新バージョン」で記事をお届けしている事は申すまでもありません。
               
              | 青少年の味方の人 | サイトの主旨・説明など | 13:25 | comments(0) | - |
              今と未来にとって必要なモノとは?
              0
                当ブログは、記事の種類、内容によって4つのカテゴリー分けをしていますが、先ほど「カテゴリー名」に若干の修正を加えたところです。(大筋は変わっていません。)もちろんその方が「より良い」と思ったからです。
                些細な事ですが、このようにブログの開始当初から現在に至る経過を振り返って見て、何がしかの修正、変更を加えるというのは当然の事です。言ってみれば「バージョンアップ」ということになります。

                ところで、人間個々について考察して見ると、厳密な意味での「昨日と今日は違う」し、「今日と明日ではまた違うもの」と言えます。となれば「昨日と明日は全然違うもの」と言って良い訳です。(「そんな違いは無視出来るレベルだ。」と思う方は、「昨日・今日・明日」を「過去・現在・未来」に置き換えて見て下さい。)
                そうすると、今を生きる人間が「生きるための拠所(よりどころ)」が必要となった時、「本当に役に立つもの」があるとすれば、それが仮に「歴史的な重みを持つ権威ある何か」であったとしても、同時に「常に更新され続けられて来た最新バージョン」である必要があると思います。

                上記が何を意味しているのかについては次回に。(コトがデリケートなので、慎重を期したいと思います)
                | 青少年の味方の人 | サイトの主旨・説明など | 12:04 | comments(0) | - |
                「言葉と行いの平面構造と立体構造」について
                0
                  いきなり難しい言葉になってしまいました。(済みません)

                  私たちは他の人たちとの間で、普通に物や情報のやり取りを行いながら生活しています。
                  「お金を払って必要な品物を買う」という事も、「生活のために物を作って売る」という事も、また、「情報や知識を売り買いする」という事も有り、それはつまり「私たちの生活がやり取りで成り立っている」ということです。(労働や作業など「行為、行動」も形となって表れるため、「物のやり取り」に準じます。)
                  しかし、それと「平面とか立体とか」と、果たして何の関係があるのでしょうか?

                  ところで「お金や物や知識や情報」のやり取りは解りますが、「心のやり取り」は「生活面に関する限り」、あまり聞いた事がありません。また普段から「心のやり取りをしよう」などと、意識する事も有りません。どうしてでしょう?
                  それは心が物や情報と比べて、私たちの生活にとって「どうでもいいモノ」だからでは無く、「心という単体ではやり取りが困難」と思われているからです。(遠くの人に思いが通じるなどの特殊なケースはあるかも知れませんが)

                  「心」は存在していても目に見えるものでは無いので、「心のやり取り」は通常「物や行為、行動」といった「目に見える形」に添えて相手に渡します。「心より感謝致します。」と言葉し、「感謝の印(しるし)の品物」を相手に贈る・・などします。
                  ですから「豊潤な心」でやり取りすれば、「心の豊かさと潤い」が物と共に相手に伝わり、「貧弱な心」でやり取りすれば、いくら豪華な品物でも「相手に何も伝わらない」事だってあるのです。

                  さて、前置きが長くなってしまいました。
                  例えば誰かのために「物作り」をしたとします。相手のために精魂込めて作ったのですから、「心がこもっている」のが当然です。しかし相手にそれを渡そうとすると、相手はちょっと困った様子で「こんな豪華なものはとても頂けない。これは私には立派過ぎる。」と言ったとします。いったい何が起きたのでしょう?

                  自分の心は「物に込める」というよりも、「相手に向ける」ものだと思います。
                  相手のために作った物には、確かに「自分の心がこもっている」かも知れませんが、その時点ですでに「相手に向かっていない」可能性があります。つまりこういうことです。

                  自分の心 → 物 → 相手 = ×

                  自分の心 → 相手 → 物 = ○

                  上の図の場合は、自分から物を介した相手までの一連の流れが、単層(平面)構造になっている可能性が有ります。
                  下の図の場合は、物を作る段階で相手と物が常に重なり合った、複層(立体)構造のイメージと言えます。
                  もし、物を作って贈った人が「相手の反応に不快感を覚えた」とすれば、それは「自分の心に物を添えて相手に渡した」事になっていない可能性があります。
                  | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:40 | comments(0) | - |
                  謝らない人は責任を取りたくない人
                  0
                    「謝(あやま)る」という事は、同時に「自分の失敗、落ち度を認めた」事になります。と同時に、大人である限りは「購(あがな)い」や「償(つぐな)い」の「義務」が生じます。(ビジネス的に考えれば「損益」が生じます。)
                    子どもの場合は、必ずしも「失敗に見合う賠償(ばいしょう)能力」があるとも限らないので、一般的に「保護者」が義務としてそれを負うことになります。ですから、それを負担と考えれば子どもに対して、「軽々しく謝るんじゃないよ」などと教えたりも有り得る訳です。

                    とかく人間は「責任を負いたがらない」という傾向がありますが、それは「余計な労力」という事と共に、「自らの立場を貶(おとしめ)める」ものと考えるからでしょう。例えば「謝る=かっこ悪い」また「謝る=能力が低い」と他人から見られる、などと思っていませんか?
                    これは大きな思い違いで、「かっこ悪くて能力が低い」のは「失敗を隠そう」としたり「とぼけて謝らない」態度そのものです。
                    自らの失敗を潔(いさぎよ)く認めて「きちんと謝り」、「購い、償い」を精一杯行う「責任ある態度」は、多くの人々をも感動させ得る立派な生き方です。(もちろん同じ失敗は繰り返しません。)それに対してなおも「嘲(あざけ)り罵(ののし)る」人は、逆に他人から信頼されなくなるでしょう。

                    何故、人間は「責任に身を投じる姿」を「美しい」と感じるのでしょうか?
                    それは、この世の「生きとし生けるもの」全てが、やがてその生命(いのち)が尽きるまで、それぞれの責任を粛々と果たしつつ生きていることを「本能的に知っている」からだと思われます。ですから「それに反した生き方」を見て、「見苦しい」と感じたとしても少しも不思議では有りません。
                    私たちはその事を、野辺の小さな虫たちや、路傍に咲く名も無い一輪の花からだって、幾らでも学ぶことが出来ます。
                    ともかく、みっともないことは、そろそろみんなでやめましょう。
                     
                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:06 | comments(0) | - |
                    いつも閲覧して頂きありがとうございます。
                    0
                      当ブログは、開始当初よりずっと15〜17人くらいの方々(あるいは端末?)のアクセスを頂いており、アクセス状況を示すグラフは、ほぼきれいな横並びの形となっております。
                      近年は「足跡を残さずに閲覧」などという事も出来るそうで、本当のところは解りませんが、出来れば当方の意欲増進のためにも、是非「足跡を付けて行って頂きたいものだなあ」などと思っています。

                      また、「毎日ほぼ同数の訪問数がある」という事は、普通に考えれば「毎日同じ人が見て下さっている」可能性が高いように思えます。(IPアドレスなどの個別情報は確認出来ない仕組みですのでご安心下さい)
                      入れ替わり立ち代わりしながら「毎日同数になる」というのも考えにくいので、まあ「固定客の方々」かな、と思っています。
                      でも「その方々のほぼ全員が当ブログの更新とほぼ同時に一斉にアクセス」して下さっているというのは、「本当に不思議」です。何故なら、私が立ち上げている他のブログではそのような事は無く、大体皆さん思い思いの時間帯でアクセスして下さっているようです。どなたかこの「謎?」を解いて下さる方はいらっしゃらないものでしょうか。(もしかして何かの調査機関からのアクセスとか・・・?)

                      ところでブログというものは基本的に「個人が不特定多数に対して情報発信」するものであります。これはネット全般や書籍やテレビ、ラジオにも言える事ですが、例え「双方向」の建て前があったとしても、それはあくまで「取り敢えず」的なものに過ぎず、純粋な「マンツーマン方式」の関わり方には到底及ぶべくもありません。つまり何事であれ「マンツーマン」がこの世で「最も贅沢な環境」である事に変わりはありません。
                      また別の言い方をすれば、相手に対して「マンツーマンでは最大100%の責任を請け負える」が、「それ以外の方法では最大50%の責任しか負えない」という事でもあります。

                      世の中で「マンツーマン方式の最も充実した環境」といえば「家庭」です。考え方によっては、家庭とは人間の成長にとって他に類を見ない「オールマイティ」な卓越した環境なのです。
                      ですからもし、まだその事に気付いていない親御さんがいるなら、それこそ「マンツーマン方式」で理解を促して参りたいというのが、青少年に関わる諸問題に取り組むための私の基本理念です。つまり、家庭を見直して「変なとこオカシイとこ直しましょうよ」という事です。「親が直せば子は直る」・・・当たり前の事です。

                      最後になりますが、当サイトは「マンツーマン方式」でないゆえに、制約上「物事を伝え切れている」ところのものではありません。
                      但し「行間に込められた思い」のいくつかは、皆さんに拾って頂ける可能性があるかも、などと考えています。(当方の意に反し、形の上では50%しか責任を負えていない事を何卒ご容赦願います。)それではまた。
                      | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 10:38 | comments(0) | - |