青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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もし「物にも心があるのか?」と問われたら
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    こればかりは「論理的」に証明することは出来ません。しかし「あるような気がしてならないのだが?」と思わせるような事は実際有ります。例えば、いい加減古くなって何となく調子の良くない機械を「買い換える事に決めた」その日から「やたらと調子が良くなる」とか・・・。長年乗った車を乗り換える時とか、良くあるような気がします。(今日そう思いました。)

    これは偶然のタイミングなのか、それともこちらの気の持ち様なのか、少なくとも他人に対して納得のいく説明には至らないでしょうが、実は自分の中ではそれなりの理解の仕方があって、自分自身にとってはその事が精神面でのプラスに作用しているのだと信じています。

    しかし、いつの日にかそのような事でさえ、きちんと誰もが納得のいくような説明が成される日が来るのかも知れません。それが「科学の進歩」というものだと思っています。他人に迷惑の及ばないようであれば、「頭は柔らかい方が良い」と思います。
    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 18:29 | comments(0) | - |
    考えても考えはまとまらない
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      「良い発想」というものは概ねすぐまとまるものです。それは発想そのものに「正しい論理」が既に含まれているからだと思われます。このような場合、発想とは閃(ひらめ)きに近い状態で突然訪れます。そのような時、私たちは大体に於いて体を起こして顔を上げ、息を大きくついて視線を斜め上方の彼方へと向け、考えを休めて、ただ何かに漠然たる思いを寄せています。
      これは私たちが自らに「冷静さ(=理性)」を呼び込むための典型的な所作であり、混乱やしがらみから脱却するための最も有効な方法であろうかと思われます。

      一方で机の前で前のめりになり、顔を下に向けて目を瞑(つむ)り、両手で頭を抱えて息を詰め、考えを凝らすという典型的なパターンが有りますが、往々にして「労多くして実り少ない」結果となります。これは拘(こだわ)りやしがらみに気持ちを奪われ、焦りや不安に押しひしがれて冷静さを取り戻せないまま考えあぐねるという、「考える」という行為が全く意味を成さない典型的な例です。何故なら問題の原因である「拘りやしがらみ」は温存されたままであり、それでは解決が到底望めないからです。

      このように「考える」という行為は、あくまでも「既に自分の範疇にあるものの並べ替え」程度の意味でしか無い場合も多く、問題解決の鍵となる「取捨選択」は前述の如く、「理性」に依る新規な発想の呼び込みに期待するところが遥かに大きい様に思えてなりません。その意味でも私は平素あまり「モノを考えない」様にしています。(人の話を聞く際も考え考えなど聞いていません。)
      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 16:21 | comments(0) | - |
      ダメな自分を「社会」のせいにするな
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        これは生きる上での非常に大きなポイントです。この場合の「社会」とは「日本社会全体」を指す事も有りますが、地域社会、会社、学校、友人、家庭など、自分を取り巻く環境全てが該当します。
        この「社会環境のせいにしない」という基本理念はその裏付けとして、「悪い影響を受けるのは自分自身に相応の悪さがあるからだ」ということが有ります。となれば当然「自分自身に悪さが無ければ社会から悪影響を受けない」事になります。
        現実に「自分はダメだ」と思ったとしてそれを「社会のせい」にしても、自分が立ち直るどころかますます希望を失い、自暴自棄に陥る以外に術(すべ)のない事が殆どです。もちろん真の意味で「社会を改革する」パワーなど持ち様も有りません。(まれに怒りや復習と称して破壊的凶行に及ぶ事さえ有ります。)これらは全て「勘違い」または「自己欺瞞(=ごまかし)」の成せる業です。

        ここで問題を整理して2つに分けます。

        1.自分はダメだ。
        2.社会環境が良くない。

        これを無造作に関連付けるのは止めましょう。この2つは別の事です。
        そして問題を1つずつ解決して行くのなら、まず「ダメな自分」をダメじゃなくする事からでしょう。
        それには「自分に足りない良いものをどんどん取り入れる」事が必要です。周囲に見習いたい人がいないというなら、動植物など身近な自然環境から幾らでも学べるものです。(ダメな人間よりは自然の方が遥かに優秀ですので)

        そうしてしばらく「自分の立て直し」に専念して、自分にある程度「自信が持てる」ようになったら改めて「社会環境」に目を向けて見渡してみましょう。(きっと以前と見え方が少し違っているはずです。)
        何れにせよ、社会環境を変えるとは「一朝一夕」に適うものでは有りません。しかし、より身近なところで、しかも自分にしか出来ないような事が必ず見つかるものです。何故なら「変える」というのは「味方を増やし敵を減らす」事に他なりません。それなら誰にでも出来る事ですので。
        | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:49 | comments(0) | - |
        「社会」という生育環境の持つ意味
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          「健全な社会」の中で生まれ育った子どもは「健全な大人」に成長する、ということが言えるとすれば、それは「健全な社会」という生育環境そのものが「不健全な要素」に対する是正、矯正機能を有しているからに他なりません。つまり「自然環境」自らが抱合される動植物を育(はぐく)むが如く、「社会環境」もまた抱合される人間個々を育むという事です。

          しかしこれは裏を返せば、いったん「不健全且つ劣悪な環境」に陥った社会は、「健全な人」を育む事が出来ないと言う事になります。果たしてこれは正しい認識でしょうか?また、このような悪循環に陥った社会を修復する手立てはないものでしょうか。

           

          実はここに2つの見落としが有ります。ひとつは「人間は他の動植物と比べて環境依存度が低い」というもの、もうひとつは「人間は他の動植物と異なり環境総体をイメージ出来る」という事です。

          つまり人間は単体として「ゼロから理想の環境を構築していく事が可能」であり、実は一人ひとりがその本領を発揮すれば「環境に左右されない健全な生育が可能」となっているのです。

          ここで最も重要なものは「ゴール(=あるべき姿)」のイメージです。それは今ある環境が劣悪であればあるほど、理想として明確にイメージ出来るはずのものです。

          次にゴールを目指す上での環境作り、またそのための取捨選択が必要となります。良いものを取り入れ、悪いものを減らす。また賛同者(=味方)を増やし、障害(=敵)を減らすなどです。取り分け「反面教師」という考え方は、自らのやる気や能力アップに大いに貢献してくれるので、とにかく取り巻く環境全てに「意味を見出す努力」が必要です。

           

          私たちにとって「取り巻く社会環境の良し悪し」は「自らのゴール」にたいする「スタート位置」の違いという意味になります。つまり環境が健全であれば「100m走」のところ、不健全であれば「400m走」ぐらいの違いにはなるかも知れませんが、だからといって「ゴールを諦めリタイヤする」ほどの事でしょうか?もしそうだとするなら、それは「環境のせい」と言うより、むしろ「本人の側」の問題かも知れません。

          | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:57 | comments(0) | - |
          すべてのものには意味がある?
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            人間を除く「手付かずの自然環境」というものは、多種多様な無機物と(生物を含む)有機物から成る構成物に、気候や気象条件が相まって絶妙なバランスを保ちながら、永続的な地球環境の保持に貢献しています。
            これは思えば不思議な事です。例えば非常に複雑なジグソーパズルの全てのピース(=かけら)が常にきちんと所定の場所に収まっている如くです。
            一体どうしたらそんな事が可能なのかとふと思いを寄せる時に、何万、何十万という数え切れないほどの構成要素のひとつひとつに意味が有り、それぞれが機能し合い関連し合っているからこそなのだというひとつの結論を暗示させてくれます。何故「明示でなくて暗示」なのかと言うと、それを証明するとなれば、限りない数のそのための研究調査を待たなければならないからです。例えば「深海魚の生態調査をし尽くす」など現状では不可能に等しいでしょう。

            しかし逆説的に言える事は、一端人間の手に掛かった自然は「短期間に激変してしまう」ということです。更にそれを元に戻すとなると結局「人間の力では無理」で、「人間が手を引く事によって自然環境自体が持つ修復力に委ねる」以外に無いことも判っています。 故にその意味では、平素如何に自然が「総体としてのデリケートでパーフェクトなバランス機能」を働かせ続けているかと言う事は、皮肉にも証明されていると言えなくも有りません。
            そのような自然観の元では「偶然の産物」という概念はむしろ「論理性」の感じにくいものとすら思えてきます。

            話は変わりますが、私たちは自分たちの「隣人」に対して果たして「意味がある」と思っているのでしょうか?そしてその「意味するところ」をちゃんと理解出来ているのでしょうか?もしかしたら身近にいても「自分にとっては意味の無い人」も混じっているものなのでしょうか?
            次回はそんなことにも思いを向けてみようと思います。
            | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:00 | comments(0) | - |
            「論理性」の行き着く先には
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              思えば人間の進歩は「論理性の追求」と共に有り、その逆の結果は「論理性の無視」に尽きると言えるでしょう。これは平たく言えば「筋を通すか通さないか」という事で、その結果が二分される事になります。

              もっと言うなら「賢い選択」は一様に「論理性」を有し、「愚かな選択」とは「非論理的」以外の何物でも無いという事になります。

              しかし、そこでひとつの疑問です。そんなにも結果が明らかなものなら、人は何故しばしば「愚かな選択」をするのでしょう?それはおそらく現在の局面をどれだけ「大局的」に見る事が出来るか否かの違いによるものと思われます。

              つまり、人は誰しも目の前の事を「それなり論理的に考えて行(おこな)っている」訳ですが、それは確かにその時点では「筋が通っている」のです。しかし問題は「その数年後、または数十年後にその事がどういう結果に結びついて行くのか、あるいは自分の周囲や環境にどのような結果をもたらすのか」等に関しての「論理的理解」が成されていないという事ではないでしょうか。

              「先のコトはどうでもいいよ」「そんなの何とかなるさ」と言ってしまえば確かにそうですが、これでは少なくとも「現在と将来の論理的結び付き」は、ほぼ無きに等しい事になります。そして人間が長い歴史を掛けて営々と積み重ねてきた「論理性の追求の甲斐が全くなかった」という、大変情けない話となってしまいます。

               

              「論理性」とは言い換えれば「先を予測出来る力」の事です。つまり嘗て「預言者または予言者」でしか務まらなかった「未来予測」を可能ならしめるものとして良いでしょう。何故ならミクロからマクロに及ぶ広範囲な物事に対する正しい理解こそが、ひとつの原因が及ぼす正しい結果のイメージをもたらす事を可能にするからです。

              ですから、もしその力が「正しく反映されていない」という事実があったとすれば、それは残念ながら「論理性を人間の未来のために活かそうという心が乏しい」としか考えようがありません。

              | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:08 | comments(0) | - |
              神様がいるかいないかの話
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                日本国民は日本国憲法で「信教の自由(=神様を信じる自由と信じない自由)」を保障されている事により、逆説的に公立学校では「神様について一切触れてはならない(=タブー)」とされています。その理由は「神様がいないから」と言う事ではなく「神様がいるかいないかは、家庭や本人が自由に決めてくれ」と言う主旨になります。
                なのでここでは「そんなのどっちでもいい」という方は別として「どっちなんだろう?」とふと思った時、その人の中で何がどうなるのか筋道を立てて考えて見たいと思います。(当サイトは公的機関でないので、そういう芸当も可能となります。)

                まず、人には「信じたい事を信じる」傾向があるとするなら「神様を信じる人は神様を信じたい人。神様を信じない人は神様を信じたくない人」となります。そして、それぞれの人にはそれなりの理由があります。
                人間には、それぞれ生きる上での目的や目標、あるいは希望や望みがあるとします。それらに対して自らの力が如何にも「非力」と感じると同時に「目に見えない力の存在」を期待したくなるものです。
                反対に自らの身体能力や精神力、思考力が充実していて「競争力全般に自信の持てる状態」である人は、他の何かに依存する必要性を取り分け感じる事がないので、「神様がいないと困る」事態を特に想定する事もないでしょう。
                つまり「神様を信じる、信じない」は、ある程度「自力」の充実度によって左右される意味合いのものと言う事が出来ます。

                「神様」という概念には前述の「力」という要素の他にもうひとつ、「制約」という要素が有ります。
                「制約」とは、子ども向けの童話や昔話によく出てくる「神様のバチが当たる」というやつです。人間はあらかじめ神様の設けた「制限」の中で生きていて、そこからはみ出すと「叱られたりヒドイ目に合ったりする」というものですが、見方を変えれば「それゆえ護(まも)られている」と言う事になります。
                つまり「制約」によって多少の不自由はあってもとにかく「護って欲しい」と思う人は「神様はいる」と思い、「制約による不自由さ」を殊更デメリットと感じる人は「神様はいない」と思っても不思議は無い事になります。

                このように「擬人化されて意思を持った神様」の存在の有無とは別に、ひとつの原因が共通の結果に結びつくような法則性、それは例えば数学や物理学、自然科学などによっても示されるところの「原因結果の法則」の存在を、私たちが無視する事は困難です。何故なら私たちは既にその「制約」の中で生かされており、そこから逸脱しない事が「身を護る術」のひとつである事を知っている訳ですので。
                | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:52 | comments(0) | - |
                「大人の読書」を推奨しない理由(わけ)
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                  今日は大人に向けたお話ですが、子どもが読んでも大丈夫です。
                  また、初めにお断りしておきますが、本日のタイトルは「子どもの読書」に対して疑義を挟むところのものでは決して有りません。何故なら子どもにとっての本とは「新しい世界」「知らない世界」そのものだからです。

                  子どものうちから読書の習慣を付けると、大人になってからも本が好きになって知識や教養を蓄えて「立派な人」になれる・・・というのが普通のイメージでしょう。しかし実は、私は「本を読むな」という教育を受けて現在に至っている人間なのです。「とんでもないハナシだ!」と言う声が間髪入れず聞こえてきそうですが、感情論はともかくも、本日は果たして「読むとどうなるのか」「読まないとどうなるのか」を視点に、この両者を比較して見たいと思います。

                  まず「読まないとどうなるのか」ということですが、単純に「情報源、情報量が少ない」という事が上げられます。しかし仕事上必要な資料や作業マニュアルなどの参照は適宜行いますので、日常的に事欠くとか、読解力が欠如するという事は特に起こりません。
                  因みにテレビやラジオも読書に準ずるものと考えると、「単方向的」情報源が極端に少ない分、「双方向的」に情報を取得する機会と密度が増える事になります。それはひとえに「対人関係」という事になります。つまり「生きたコミュニケーション」から得られる情報に対する価値観が、相対的に上がる事になります。
                  これによって「著名な方々の総論的な知識」ではなく「主に身近な人々の経験や体験」から実情に即した理解や知恵が、双方向的に磨きを掛けられながら蓄積されて行きます。
                  また、この時点で「他人とは生きる上でかけがえのないもの」という思いが醸成される可能性が高くなり、自らも何れ「他人に対してそのような振る舞いを持つ」ようになります。

                  次に「読むとどうなるのか」ということですが、仕事の資料や作業マニュアルの扱いは「本を読まない人」も同じなので、異なる点は主に「非日常的知識の部分」と言えなくもありません。また権威ある著者による「日常的な提言」に比べると、身近な人間の忠告やアドバイスが如何にも「取るに足らないもの」と感じてしまうかも知れません。
                  更に言えば本を選ぶ時に、既に「自分の好み」に合ったものしか選んでいないはずです。耳の痛い落ち込むような内容の本を、お金を出してわざわざ買い求める人はいません。しかも期待通りのものでなければ途中で読むのを止めてお蔵入りにしても良い訳ですが、もしこれが対人関係だとすればずいぶん失礼な話になってしまいます。

                  本は本来「自ら範疇を拡げ、理解を深める」ためのものだと思います。子どもの場合は確かにそうですが、これは子どもの向上心の働きによるもので、そこには内容を「無条件に受け入れる」という前提が有ります。
                  しかし大人は本に限らず「自らのフィルター」を通してしか物を見ようとしません。特に本の場合は都合の良い解釈や扱いがたやすく出来るため、著者の権威を後ろ盾とした錯覚もまた起き易いものと言わざるを得ません。それよりも強烈な個性を持った隣人から生(なま)でガツンと言ってもらった方が、遥かに自分の殻を打ち破れるチャンスが大きいように思うのです。

                  結論的には、情報の入手は出来れば「双方向」の方が錯覚が起き難くてグッドだと思います。



                   
                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:09 | comments(0) | - |
                  「便利さ」の向こうにあるもの
                  0
                    世の中、ずいぶん便利になったものだと思います。まず交通手段の進歩は人々の行動範囲を拡げ、時間が大いに短縮されました。また機器のコンピューター化によって、機械が人間の代わりに色々と面倒な事をやってくれます。中でもインターネットの普及は、居ながらにして世界中と関わりが持てると言う魔法を実現してくれるようになりました。確かにこれだけ聞くと「便利」とは「良い事尽くめ」のように思われます。

                    しかし物事には必ず二面性が有り、その意味に於いては「便利さ」も例外では有りません。例えば「手軽に旅行が出来る」からといって「不用意で良い」と言う意味では有りませんし、「機械が何でもやってくれる」からといって「怠惰になって良い」と言う意味にはなりません。また、インターネットは幾ら相手の姿や形が見えないからといっても、決して「バーチャルなもの」ではなく、向こうには「生身の人間」がいる訳ですので当然「礼を尽くすべき」と考えます。(電話だってそうですが。)

                    つまり「便利」である事で、人としての物の見方や考え方、振る舞いが「安易になって良い」と言う事では決して無く、むしろ生活の形態が広範囲、高密度となる分、一層のパワーアップ、ステップアップが求められているかも知れません。これは「便利さ」を提供する側と甘受する側の「共通の課題」と言って良いでしょう。
                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 16:08 | comments(0) | - |
                    良い判断・悪い判断
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                      人は絶えず「判断」を迫られています。例えば晩御飯の仕度(したく)のためスーパーへ買い物に行っても「今日は何にしようか?」の如くです。要は「宣戦布告の決断」から「昼寝をするとかしないとか」まで、とにかくあらゆる事が「判断」の対象であり、「判断の良し悪し」が先々の明暗を分ける事も実際少なくありません。それはつまり「判断は人の幸福に大いに関わっている」ということを意味します。
                      しかし、そもそも人は「何を基準に」物事を判断しているのでしょうか?また「より良い判断を行うため」には何が必要となるのでしょうか?

                      動植物の場合、自身が「環境の一部」であると同時に「環境を保全する役割」を担って存在していますので、自ずと本能に従って行動する事に重要な意味が有ります。即ち「動植物の判断基準は本能」となります。
                      翻って人間の場合、そう簡単には行きません。何故なら「環境の一部」という認識に乏しく、環境を保全すると言うより「環境を利用する」事を旨としているからです。それに「個々の人間」と「社会全体」とでは微妙に「利益の相反する部分」も有り、常に統一された判断基準で事足りる訳でも有りません。しかしどちらも概ね「利益の追求」が主眼である事に変わりはないでしょう。

                      ところで「利益」とは、元々「生きるために有益な物」という意味ですから、例えば食物で換算すると、「一日の基礎代謝量+活動量分」を下限とする事になります。
                      では上限はあるのか?という話ですが、昔は「食物の保存期間=上限」でしたが、食品保存の技術の進歩と相まって現在は「環境破壊一歩手前=上限」と自動的になります。その理由は「環境を破壊してしまったら生産出来なくなる」という当たり前の話です。そして現実に人間、取り分け社会として組織立っている場合は特に「一歩手前」まで突進してしまう習性があるようです。
                      それは出来るだけ「ストック(=たくわえ)」を確保したいという事なのでしょうが、(それは純粋に必要量の確保と言うよりも)ここでは基本的に競争原理が働く仕組みになっていて、「他に取られる前に取ってしまおう」という気持ちに駆り立てられるようになります。
                      つまりそれらは本当の意味での必要量を考慮した生産、確保とは言えず、単に競争原理に依ってピークに達してしまっているだけなのかも知れません。もしそうでなければ「殊更に消費を煽(あお)る」必要が生じたりしないはずです。

                      一方で「消費を煽る」ためには社会に属する個々人が「食欲・物欲」が旺盛でなければならず、また「より便利・快適」を追求したくなるほど「わがまま且つ怠惰」でなければならないという命題が有ります。また「遊び事」に熱中するためには、それなりヒマでなくてはなりません。
                      私たちが社会からそれを求められているのだとすると、釈然としないものが有ります。何故なら「自然界」に於いて、前述したような「消費社会に求められるような傾向」は皆無だからです。もしこのような社会を正しいとするなら、私たちは「自然界と完全に遊離」してしまい、「自然を利用すること」は出来ても「自然から学ぶべきもの」が一切無くなってしまいます。
                      故に今一度、そのような「判断の是非」について問い直してみたいと思う次第であります。
                       
                      因みに、私は判断の基準として「自然に対する感謝と理解」が絶対に必要だと思っています。対人関係の場合は「自然→人」と置き換えれば済みますので。
                      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:34 | comments(0) | - |
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